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'''ニネヴェ'''は、古代[[メソポタミア]]北部にあった[[アッシリア]]の都市。アッシリア帝国の後期には首都が置かれた。なお、ニネヴェと言う名は[[旧約聖書]]([[ヨナ書]]など)の表記によるものであり、[[アッカド語]]では'''ニヌア'''と呼ばれる。[[新改訳聖書]]では、ニネベと表記される。 |
'''ニネヴェ'''は、古代[[メソポタミア]]北部にあった[[アッシリア]]の都市。アッシリア帝国の後期には首都が置かれた。なお、ニネヴェと言う名は[[旧約聖書]]([[ヨナ書]]など)の表記によるものであり、[[アッカド語]]では'''ニヌア'''と呼ばれる。[[新改訳聖書]]では、ニネベと表記される。 |
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[[チグリス川]]沿いの現代の都市[[モスル]]の対岸(東岸)に存在する。クユンジクとネビ・ユヌスという二つの丘からなるが、ネビ・ユヌスは現在[[イスラム教]]の聖地となっているため調査はほぼ行われておらず、ニネヴェに関する現代の知識はクユンジクの調査に依存している。[[19世紀]]半ばから繰り返し調査が行われているが、なお十分とはいえない。 |
[[チグリス川]]沿いの現代の都市[[モスル]]の対岸(東岸)に存在する。クユンジクとネビ・ユヌスという二つの丘からなるが、ネビ・ユヌスは現在[[イスラム教]]の聖地となっているため調査はほぼ行われておらず、ニネヴェに関する現代の知識はクユンジクの調査に依存している。[[19世紀]]半ばから繰り返し調査が行われているが、なお十分とはいえない。 |
2012年5月29日 (火) 07:04時点における版
ニネヴェは、古代メソポタミア北部にあったアッシリアの都市。アッシリア帝国の後期には首都が置かれた。なお、ニネヴェと言う名は旧約聖書(ヨナ書など)の表記によるものであり、アッカド語ではニヌアと呼ばれる。新改訳聖書では、ニネベと表記される。
遺跡
チグリス川沿いの現代の都市モスルの対岸(東岸)に存在する。クユンジクとネビ・ユヌスという二つの丘からなるが、ネビ・ユヌスは現在イスラム教の聖地となっているため調査はほぼ行われておらず、ニネヴェに関する現代の知識はクユンジクの調査に依存している。19世紀半ばから繰り返し調査が行われているが、なお十分とはいえない。
歴史
ニネヴェはアッシリアの首都であった時代が有名であるが、紀元前7千年紀から人が居住を始めた非常に古い街である。初期の歴史については不明点が多い。既に古アッシリア時代(アッシリアの時代区分についてはアッシリアの項目を参照)にはアッシリアの重要都市の1つであった。
新アッシリア王国時代に、センナケリブがニネヴェに遷都して以降、帝国の首都として大規模な建築事業や都市の拡張が行われた。この時期に街は二重の城壁で囲まれ、クユンジクの丘には宮殿が相次いで建設された。アッシュールバニパル王の図書館があったのはこの都市であり、バビロンにあったとされる空中庭園は実際にはニネヴェにあったとする説もある。
紀元前632年、メディアとバビロニアとスキタイの攻撃を受けてニネヴェは陥落し破壊された。その後も小規模の都市として存続したが、かつての重要性は失われ、一帯の中心は対岸のモスルに移った。なおモスルは現在も、クルド人からニネヴェ、ネストリウス派のアッシリア人からはニネワとよばれており、モスルを県都とするイラクの県、ニーナワー県もニネヴェの名に由来する。
旧約聖書
旧約聖書では以下の四つで言及されている。[1]
- ニムロデがニネベとケラフを建てた[2]
- ニネベを都としたセリナケブがこの都で殺された[3]
- ニネベ陥落に関する預言[4]
- ニネベに使わされた預言者ヨナの物語。ヨナの宣教によってニネベの王と住民は悔い改めて、神の審判が回避された。[5]
脚注
- ^ 新約聖書では言及がなく、マタイの福音書12章41節、ルカの福音書11章30節、11章32節で「ニネベ人」「ニネベ市民」という意味の「ニニューイテース」というギリシア語が使われている。
- ^ 創世記10書12節
- ^ 第二列王記19章36節、イザヤ書37章37節
- ^ ナホム書1章1節、ナホム2章8節、ナホム3章7節、ゼパニヤ書2章13節
- ^ ヨナ書1章2節、ヨナ書3章2節-7節、ヨナ書4章11節