「ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団」の版間の差分
m →概略 |
|||
25行目: | 25行目: | ||
戦前は、[[アントン・ブルックナー|ブルックナー]]の弟子で、その交響曲の「改訂版」に名を残す[[フェルディナント・レーヴェ]]や、その交響曲の「原典版」の演奏の普及に努めた[[ジークムント・フォン・ハウゼッガー]]や[[オズヴァルト・カバスタ]]らが首席指揮者を務めた。また[[1906年]]には、[[ヴィルヘルム・フルトヴェングラー]]がこの楽団を指揮して楽壇デビューを果たした。[[グスタフ・マーラー]]とも深い縁があり、マーラー自身の指揮で[[1901年]]に[[交響曲第4番 (マーラー)|交響曲第4番]]を、また[[1910年]]には[[交響曲第8番 (マーラー)|交響曲第8番]]を初演している。[[1911年]]には[[ブルーノ・ワルター]]の指揮のもとで、[[大地の歌]]の初演も行った。他の完成された交響曲はすべて別々の団体が初演しているので、これは特別に深い縁といってよい。 |
戦前は、[[アントン・ブルックナー|ブルックナー]]の弟子で、その交響曲の「改訂版」に名を残す[[フェルディナント・レーヴェ]]や、その交響曲の「原典版」の演奏の普及に努めた[[ジークムント・フォン・ハウゼッガー]]や[[オズヴァルト・カバスタ]]らが首席指揮者を務めた。また[[1906年]]には、[[ヴィルヘルム・フルトヴェングラー]]がこの楽団を指揮して楽壇デビューを果たした。[[グスタフ・マーラー]]とも深い縁があり、マーラー自身の指揮で[[1901年]]に[[交響曲第4番 (マーラー)|交響曲第4番]]を、また[[1910年]]には[[交響曲第8番 (マーラー)|交響曲第8番]]を初演している。[[1911年]]には[[ブルーノ・ワルター]]の指揮のもとで、[[大地の歌]]の初演も行った。他の完成された交響曲はすべて別々の団体が初演しているので、これは特別に深い縁といってよい。 |
||
戦後、[[1967年]]には[[ルドルフ・ケンペ]]が首席指揮者に就任。堅実な指揮ぶりと長身で紳士的な振る舞いを見せ続けた彼の人気もあいまって、最初の全盛期と呼べる時期を迎えた。彼が[[1976年]]に死去した後、[[1979年]]に[[セルジュ・チェリビダッケ]]が首席指揮者となり、楽団の名声をさらに高めた。ただ、録音嫌いのチェリビダッケの方針のため、当時はほとんどレコードを世に出さず、[[オイゲン・ヨッフム]]や[[ラファエル・クーベリック]]のもと多くの |
戦後、[[1967年]]には[[ルドルフ・ケンペ]]が首席指揮者に就任。堅実な指揮ぶりと長身で紳士的な振る舞いを見せ続けた彼の人気もあいまって、最初の全盛期と呼べる時期を迎えた。彼が[[1976年]]に死去した後、[[1979年]]に[[セルジュ・チェリビダッケ]]が首席指揮者となり、楽団の名声をさらに高めた。ただ、録音嫌いのチェリビダッケの方針のため、当時はほとんどレコードを世に出さず、[[オイゲン・ヨッフム]]や[[ラファエル・クーベリック]]のもと多くの演奏を録音してきたミュンヘンのもう一方の雄・[[バイエルン放送交響楽団]]とは対照的に、メディア受けとは一線を画した活動を貫き続けた。 |
||
[[2001年]]には[[ジェームズ・レヴァイン]]が首席指揮者に迎えられたが、わずか3年でその職を退いた。後任の首席指揮者には[[クリスティアン・ティーレマン]]が指名された。彼の就任記念コンサート([[2004年]]11月)で演奏された[[アントン・ブルックナー]]の[[交響曲第5番 (ブルックナー)|交響曲第5番]]は、現在[[ドイツ・グラモフォン]]の[[コンパクトディスク|CD]]で聴くことができる。次世代を担うドイツ人指揮者と目されているティーレマンがミュンヘン・フィル首席指揮者に就任した際には、ドイツ語圏内クラシック音楽界は大きな期待をかけていたが、2011年にミュンヘンを去ることがすでに決まっている。 |
[[2001年]]には[[ジェームズ・レヴァイン]]が首席指揮者に迎えられたが、わずか3年でその職を退いた。後任の首席指揮者には[[クリスティアン・ティーレマン]]が指名された。彼の就任記念コンサート([[2004年]]11月)で演奏された[[アントン・ブルックナー]]の[[交響曲第5番 (ブルックナー)|交響曲第5番]]は、現在[[ドイツ・グラモフォン]]の[[コンパクトディスク|CD]]で聴くことができる。次世代を担うドイツ人指揮者と目されているティーレマンがミュンヘン・フィル首席指揮者に就任した際には、ドイツ語圏内クラシック音楽界は大きな期待をかけていたが、2011年にミュンヘンを去ることがすでに決まっている。 |
2012年5月25日 (金) 06:13時点における版
ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団 Münchner Philharmoniker | |
---|---|
基本情報 | |
出身地 | ドイツ バイエルン州ミュンヘン |
ジャンル | クラシック音楽 |
活動期間 | 1893年 - |
共同作業者 | 首席指揮者:クリスティアン・ティーレマン |
公式サイト | http://www.mphil.de/ |
ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団(ドイツ語: Münchner Philharmoniker)はドイツ・ミュンヘンに本拠を置くオーケストラである。略称はMPhil。 本拠地はミュンヘン市内の複合文化施設内にあるフィルハーモニー・ガスタイク。1893年に創立されたカイム管弦楽団がその前身であり、1928年にミュンヘン市のオーケストラとなったことに伴い現在の名称に変更された。
概略
戦前は、ブルックナーの弟子で、その交響曲の「改訂版」に名を残すフェルディナント・レーヴェや、その交響曲の「原典版」の演奏の普及に努めたジークムント・フォン・ハウゼッガーやオズヴァルト・カバスタらが首席指揮者を務めた。また1906年には、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーがこの楽団を指揮して楽壇デビューを果たした。グスタフ・マーラーとも深い縁があり、マーラー自身の指揮で1901年に交響曲第4番を、また1910年には交響曲第8番を初演している。1911年にはブルーノ・ワルターの指揮のもとで、大地の歌の初演も行った。他の完成された交響曲はすべて別々の団体が初演しているので、これは特別に深い縁といってよい。
戦後、1967年にはルドルフ・ケンペが首席指揮者に就任。堅実な指揮ぶりと長身で紳士的な振る舞いを見せ続けた彼の人気もあいまって、最初の全盛期と呼べる時期を迎えた。彼が1976年に死去した後、1979年にセルジュ・チェリビダッケが首席指揮者となり、楽団の名声をさらに高めた。ただ、録音嫌いのチェリビダッケの方針のため、当時はほとんどレコードを世に出さず、オイゲン・ヨッフムやラファエル・クーベリックのもと多くの演奏を録音してきたミュンヘンのもう一方の雄・バイエルン放送交響楽団とは対照的に、メディア受けとは一線を画した活動を貫き続けた。
2001年にはジェームズ・レヴァインが首席指揮者に迎えられたが、わずか3年でその職を退いた。後任の首席指揮者にはクリスティアン・ティーレマンが指名された。彼の就任記念コンサート(2004年11月)で演奏されたアントン・ブルックナーの交響曲第5番は、現在ドイツ・グラモフォンのCDで聴くことができる。次世代を担うドイツ人指揮者と目されているティーレマンがミュンヘン・フィル首席指揮者に就任した際には、ドイツ語圏内クラシック音楽界は大きな期待をかけていたが、2011年にミュンヘンを去ることがすでに決まっている。
2012年からはロリン・マゼールが首席指揮者に就任する予定であるが、現時点では2015年以降の首席指揮者が決定するまでの任期とされている。
尚、このオーケストラは、マリス・ヤンソンス率いるバイエルン放送交響楽団とハイレベルな競合関係にあり、そのことはミュンヘン市民の大きな誇りとなっている。初演曲や歴代首席指揮者の得意曲、さらには地元が生んだ作曲家ということもあり、マーラーやブルックナー、リヒャルト・ワーグナー、そしてリヒャルト・シュトラウスを得意としている。中でもブルックナーは、ハンス・クナッパーツブッシュをはじめ歴代首席指揮者それぞれが、高い評価を得ているレコード・CDなどを残している。
歴代指揮者
- 1893–1895 ハンス・ヴィンデルシュテイン
- 1895–1897 ヘルマン・ツンペ
- 1897–1898 フェルディナント・レーヴェ
- 1898–1905 フェリックス・ワインガルトナー
- 1905–1908 イェオリ・シュネーヴォイクト
- 1908–1914 フェルディナント・レーヴェ
- 1919–1920 ハンス・プフィッツナー
- 1920–1938 ジークムント・フォン・ハウゼッガー
- 1938–1944 オズヴァルト・カバスタ
- 1945–1948 ハンス・ロスバウト
- 1949–1966 フリッツ・リーガー
- 1967–1976 ルドルフ・ケンペ
- 1979–1996 セルジュ・チェリビダッケ
- 1999–2004 ジェイムズ・レヴァイン
- 2004–2011 クリスティアン・ティーレマン
- 2012-予定 ロリン・マゼール