「Wikipedia:井戸端/history20140727」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Chokorin (会話 | 投稿記録)
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*'''重複記事である''' [[Wikipedia:コメント依頼/Chokorin 二回目20120315利用者名]]にコメントしたことがあるくらいです。導入部を見る限り将来的にも差異を出すことができるとも思えないです。改名議論に参加していない読者と将来的な編集者のことを第一に考えて対処してほしいです。今の状態は読者と将来的な編集者にとって非常によろしくないです。新しいほうの記事をいったんリダイレクトページに戻して、放置することをお勧めします。読者にとってはそれが一番便利です。[[南京大虐殺]]の改名議論は今そのような状態になっています。あと、当事者の方はここでは付いたコメントにいちいち反論しないほうが有意義な結果が得られると思います。--[[利用者:Bugandhoney|Bugandhoney]]([[利用者‐会話:Bugandhoney|会話]]) 2012年4月25日 (水) 17:38 (UTC)
*'''重複記事である''' [[Wikipedia:コメント依頼/Chokorin 二回目20120315利用者名]]にコメントしたことがあるくらいです。導入部を見る限り将来的にも差異を出すことができるとも思えないです。改名議論に参加していない読者と将来的な編集者のことを第一に考えて対処してほしいです。今の状態は読者と将来的な編集者にとって非常によろしくないです。新しいほうの記事をいったんリダイレクトページに戻して、放置することをお勧めします。読者にとってはそれが一番便利です。[[南京大虐殺]]の改名議論は今そのような状態になっています。あと、当事者の方はここでは付いたコメントにいちいち反論しないほうが有意義な結果が得られると思います。--[[利用者:Bugandhoney|Bugandhoney]]([[利用者‐会話:Bugandhoney|会話]]) 2012年4月25日 (水) 17:38 (UTC)

:{{コメント}}「重複記事である」とするならば、私は新しい記事ではなく既存の「九州の役」の方をリダイレクトページにするのが、読者にとって一番便利だと思います。これは当事者というよりは、「将来的な編集者のひとり」として申し上げます。この記事は、大半が小和田哲男の『戦争の日本史15 秀吉の天下統一戦争』や『名城と合戦の日本史』など「九州攻め」の語を用いた出典を参照して加筆されたものですが、その一方で、「[[九州の役#参照]]」を御覧いただければわかるように、参謀本部編集の『九州役』を参照して書かれた箇所は一切ありません。したがって、このコメント([http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E4%B9%9D%E5%B7%9E%E3%81%AE%E5%BD%B9&diff=prev&oldid=35350404])のなかの「''私としては、この記事のテーマ・構成・内容で質量共に最も詳しい出典が『九州の役』であり、記事本文も「九州の役」の呼称で扱っている出典群に比重を置いて記事が生み出されている以上、この記事と最も適合する呼称は「九州の役」であるという結論は動かせません''」の部分はまさにデタラメもいいところです。そして、仮に、このロジックを記事内容・記事名にあてはめるならば、
:*記事の中身はこのままにして、記事名を「九州攻め」にする
:か、あるいは、
:*記事名は「九州の役」のままにして、「九州攻め」を出典に加筆された箇所は除去する
:かのどちらかでしょう。個人的にはどちらでもいいです。しかし、「改名議論に参加していない読者と将来的な編集者のことを第一に考える」というのなら、答えはおのずから定まっていると思います。一番よいのは、「九州の役」を推す人たちが「九州役」だけを出典にして「九州の役」を立項してみることです。それでどれだけ記事が発展させることができるのか、まずは御自分が体験・検証してみてはどうなのかと思います。--[[利用者:Chokorin|Chokorin]]([[利用者‐会話:Chokorin|会話]]) 2012年4月26日 (木) 10:48 (UTC)


== 日本語版Wikipediaの永久ブロック設置案 ==
== 日本語版Wikipediaの永久ブロック設置案 ==

2012年4月26日 (木) 10:48時点における版

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コモンズ画像と屋外美術

私はコモンズで活動していないのでよく分からないのですが、コモンズでは屋外美術の画像の受け入れが可能になったのでしょうか。例えば、ファイル:Benkei statue.jpgファイル:Franciscus de Xabier statue.jpgがウィキペディア日本語版からコモンズに移動されており、ウィキペディア日本語版のファイルは即時削除されています。

あと、ウィキペディア日本語版において屋外美術に該当すると思われる画像で{{屋外美術}}が貼付されていないものがありますが(例えばファイル:Statue of Obuchi Keizo Nakanojo.jpg)、これは意図的に貼付されていないのでしょうか。--まさふゆ会話2012年4月4日 (水) 11:15 (UTC)[返信]

コメントOKになってないと思う。たぶん、ならない。意図的かどうかは、投稿者に聞いてみればわかると思う。屋外美術による権利制限で使用可能となるようなものは、意図に関係なく、タグを貼ればいいです。
コモンズに置けるかどうかは、美術の著作物の減作品が、合衆国で保護期間切れになっているかどうかで決まります。その情報がファイルにないので、コモンズで削除依頼すべきかどうかは、個々に判断することになるでしょう(実際にどう判断されるかは、また別の問題として残りますが)。
対応としては、削除されても大丈夫なように、まずは日本語版に移しておく、美術の著作物の著者を確認する、ということになるのだと思います。あとはアップロード者へのガイドラインとか、コモンズへの移動についての即時削除をどうするかとか、そういう問題になるのかな。--Ks aka 98会話2012年4月4日 (水) 11:39 (UTC)[返信]
(コメント)[1]OKになっている国(地域)とそうでない国(地域)があります。(日本は不可に属する)。--hyolee2/H.L.LEE 2012年4月4日 (水) 12:31 (UTC)[返信]
ええと合衆国では建築のみOKです。コモンズでは合衆国法を守る必要があります。建築物に関しては、コモンズにアップできる。ところが、屋外美術は、合衆国でNGであるため、日本では権利制限の対象となる屋外美術もコモンズにアップロードすることはできない、と理解しています。コモンズのFOPみてるとよくわかりませんけれど、アップロードしてもいいかどうかが書かれているのではないと思う(日本の説明にある only for non-commercial purposes てのは間違いじゃ?)。--Ks aka 98会話2012年4月5日 (木) 11:15 (UTC)[返信]

コメント コメントありがとうございます。ファイル:Statue of Obuchi Keizo Nakanojo.jpgについては、投稿者に質問しました。jpwpの屋外美術のファイルで既にコモンズにコピーされてしまっているものもあり、その場合だと「jpwpのファイルはWP:CSD#ファイル1-5で即時削除、コモンズのファイルも削除」なんてことにならないか懸念しています。jpwpのファイルのページに注意書きしておけば即時削除されずに済むかなと考えています。--まさふゆ会話2012年4月7日 (土) 08:16 (UTC)[返信]

屋外美術のテンプレにはコモンズに上げるなと書かれていたはずです。まさふゆさんの懸念は同じことを思ってます。関連する議論がWikipedia‐ノート:即時削除の方針#ファイル1-5(コモンズへ移動されたファイル)再考にあります。--Ks aka 98会話2012年4月7日 (土) 09:13 (UTC)[返信]
Wikipedia:屋外美術を被写体とする写真の利用方針ですよね。コモンズに上げてはいけない画像が存在する認識です。しかし、画像によっては対応を変えても良いのではと思います。キャラクターなどを扱うときには縮小画像である必要はあると思うのですが、銅像まで縮小画像にする必要があるのか疑問です。屋外芸術だけではなく、「コモンズ受け入れ不可画像」を新たに設ける必要が有るのではないかと思います。テンプレートなど。米国法と日本法の違いによる問題だと思います。--Taisyo会話2012年4月7日 (土) 12:00 (UTC)[返信]
その様な意味で言えば太陽の塔平和祈念像などは問題が起こりやすい記事だと思います。--Taisyo会話2012年4月7日 (土) 12:03 (UTC)[返信]
WP:CSD#ファイル1の柱書において「ウィキメディア・コモンズの方針として受け入れられるファイル」という限定をつけているのは、まさに今回のような事例でjawp側ファイルを即時削除対象外とすることを目的としています。即時削除が明らかな過誤であれば、ファイルの復帰依頼ができると思います。--ZCU会話2012年4月12日 (木) 14:15 (UTC)[返信]

削除依頼に気付かずページを移動した場合の善後策は?

具体的には「みると (Milt)」→「みると」なのですが、記事名のつけ方が不適切であることに気付き、リダイレクトを設けない形でページの移動を行ったところ、直前に削除依頼が提出されていることに、移動後気付きました。このため、Wikipedia:削除依頼/みると (Milt)のページでは、削除依頼対象のページが既に赤リンクになっています。

善後策として、いくつか方策を考えましたが、どれが望ましいか、また、過去の類例があったのかといったことが分かりません。過去の例をご存知の方、そうではなくても、下記の選択肢のいずれが望ましいかご意見をお持ちの方のアドバイスをお願いします。とりあえず、考えてみた善後策は以下の通りです。

  1. Wikipedia:削除依頼/みると (Milt)を、そのままWikipedia:削除依頼/みるとに移動する。
  2. Wikipedia:削除依頼/みると (Milt)を、早期終了し、改めてWikipedia:削除依頼/みるとを提起する。
  3. みるとみると (Milt)に移動する(リダイレクトをつくる)

不手際をお詫びし、皆様のアドバイスをお待ちします。よろしくお願いいたします。--山田晴通会話2012年4月5日 (木) 16:48 (UTC)[返信]

ちょっと難しく考えすぎじゃないでしょうか? 削除依頼サブページ名と削除依頼対象の記事名を合わせなくてはいけないというルールはどこにもありません。 単に断りを入れた上で削除依頼サブページの見出しのリンク先を修正すればいいだけのことではないかと思います。というか、そういう修正をこれからします。--ひとむら会話2012年4月5日 (木) 16:56 (UTC)[返信]
過去の類例は知りませんが、Wikipedia:削除依頼/みると (Milt)の削除依頼サブページは移動や終了せずに、リダイレクトも作成せずに、サブページの見出しだけ修正して審議を続行するのでも特に問題はないように思います。--むじんくん会話2012年4月5日 (木) 16:58 (UTC)[返信]
4. そのまま、でいいような。見出しの赤リンクだけ修正しておきました。不適切な削除依頼の見出しを他の編集者に修正していただいたことは私もあります。--Bugandhoney会話2012年4月5日 (木) 17:06 (UTC)[返信]
私なら気付いた瞬間に自らの移動を差し戻して全てを無かった事にしていたのでしょうが、現在の状況でそれを行ってはかえって混乱しそうです。色々考え色々タイプはしてみたのですが、どうもこのままで良さそうな気がします。ただし移動前の記事名がみると (Milt)であったことは明記しておくに越したことは無いのではないかと。削除依頼のサブページの移動は審議が進んだ今の時点で行うのは躊躇うところで、また早期終了からの再立ち上げはコミュニティの負担が大きいそうです。--Hman会話2012年4月5日 (木) 18:58 (UTC)[返信]
コメント 移動する際(特にリダイレクト非作成のような特定の権限を使用する場合)は記事内容やリンク元をよく確認するのを徹底するというのは大前提として。もし仮に移動(しなければならない|してしまった|されているのに気づいた)場合は、削除依頼でその旨を説明して誘導しておく、あるいは冒頭のリンクぐらい修正しておく、ぐらいで良いと思います。とりあえず、他の利用者が分かるようになってればそう問題ではないでしょう。--青子守歌会話/履歴 2012年4月6日 (金) 04:32 (UTC)[返信]
コメントありがとうございました。
既に、ひとむらさんが削除依頼対象の記事名を「みると」に改めてくださいましたし、コメントで記事名が「みると (Milt)」であったことは明記しておりますので、青子守歌さんはじめ皆さんが妥当と考えられている形にはなっているかと思います。したがいました、結論としては現状のままで(ただし、こちらへの議論へのリンクを設けますが)審議を続けるのが適切と判断しました。
コメントをいただいた皆さんに、改めて感謝を申し上げます。引き続き、どうぞ宜しくお願いいたします。--山田晴通会話2012年4月6日 (金) 05:53 (UTC)[返信]

特定版削除すべき版を指定する際に

おはようございます。特定版削除を依頼する際、削除すべき版を指定するには、その版へのリンクもしくはその版のoldidではなく、必ずその版の日時を明示しなければならなかったと思います。どうやら、特定版削除をすると、oldidが失われてしまうため、特定版削除の確認ができなくなってしまうからとか。Wikipedia:削除依頼には2006-09-25T14:01:54Zの版から書いてあるようですが、詳しいところが書いてあるものや、Wikipedia:削除依頼に書くに至る議論等はみつけることができませんでした。

最近は版指定削除で対処される案件がほとんどになってきました。版指定削除では、削除してもoldidは失われないようです。なので、その版へのリンクもしくはその版のoldidだけで、削除すべき版を指定しても問題がなくなったのではないかと思いますが、このあたり、現状どうなっているのでしょうか。--Ohgi 2012年4月5日 (木) 21:13 (UTC)追記。--Ohgi 2012年4月6日 (金) 10:18 (UTC)[返信]

コメント 一番わかり易いのは[{{fullurl:Wikipedia:削除依頼/フッタ|diff=prev&oldid=7893087}} 2006-09-25T14:01:54Zの版]つまり「2006-09-25T14:01:54Zの版」という形で「どのページの」「いつ」の版かを書いておいて後から容易に参照できるようにすることですが、例えば記事名自体を隠す必要がある場合には[//ja.wikipedia.org/w/index.php?oldid=7893087]つまり「[[2]]」としなければならないこともあります。私なんかはよくテンプレートを使って{{oldid|7893087}}つまり「版番7893087」と書くことがよくあります。一方で、述べられているよう、現状では特定版削除ではなく版指定削除が使用されている場合も増えてきました。しかし例えば「ある版以降すべて削除」という場合などには依然として特定版削除が使われてもいます。このように特定版削除は基本的に「なかったことにする」ので削除依頼からのoldidによるリンクも切れて仕方ないというか、そうすべきかとも思います。どうしても後から検証したい場合は、対処した利用者の対処したと思われる時間付近の移動・削除記録から探せば見つかるでしょう。結局のところ「削除依頼の内容によって臨機応変に」というところでしょうか。--青子守歌会話/履歴 2012年4月6日 (金) 04:48 (UTC)[返信]
コメント 基本的に特定版削除にしても、版指定削除にしても誰が見ても対象版がわかるように日時の指定は必要です。特に特定版削除の場合では日時の指定が無いと指定された版であるかの確認ができません(中抜きとかだととくに)。どちらかというと名前を隠す目的以外は、同一時間の編集がない限り(通常の設定では秒までは出ませんから)oldidはなくても問題はありません。ただ対処する側からすると、oldidがあったほうが(diffのほうがもっと)処理しやすいのである方がありがたいです。--Vigorous actionTalk/History2012年4月6日 (金) 07:30 (UTC)[返信]
質問 「特定版削除にしても、版指定削除にしても誰が見ても対象版がわかるように日時の指定は必要」について、「版指定削除でoldidのみの指定では対象版がわからない人」は、「MediaWikiに詳しくないためにoldidが何のことか理解していない人」のことを想定しているということでよろしいでしょうか。--Ohgi 2012年4月6日 (金) 10:18 (UTC)[返信]
コメント たとえば、oldid=41965949以降oldid=41969961までの版と指定された場合と、2012年4月6日 (金) 04:48 (UTC) の第 41965949 版から2012年4月6日 (金) 10:18 (UTC) の第 41969961 版までの版と指定されている場合を考えてください。版指定削除や特定版削除を対処する場合にはもちろん対象の各版の内容を確認しますがこの例の場合、版指定削除するには最終的には履歴表示を用いて版を指定して対処することになります(特定版削除でも同様な画面構成のページで版を指定する操作が出てきます)。こういった場合に、時間等を指定していただけないのは対処ミスの原因になったり、確認ミスの原因にもなります。また依頼にタイムスタンプが残っていると、対処者が間違えた対処していた場合権限を持つもの以外でも間違いがわかります。こういった観点から、「誰が見ても対象版がわかるように日時の指定は必要」だと考えています。--Vigorous actionTalk/History2012年4月6日 (金) 12:38 (UTC)[返信]

削除審議中のリダイレクトを編集する行為について

Wikipedia:リダイレクトの削除依頼」にて審議中となっているリダイレクトについて、改善を目的とした編集(曖昧さ回避化あるいは新規主題の記事として記事作成)を行うことについてご意見をいただきたく思います。

リダイレクトでない通常の削除依頼、とくにケースEを理由とした削除依頼が提出され、削除審議中となっている記事に対して、存続を主張する人によって、独自研究でないことや特筆性を担保する出典が付けられるなどの形で改善を目的とした編集が行われることは、非常によくあることだと思います。

他方、リダイレクトの削除依頼で審議中のリダイレクトに対して、改善を目的として編集(曖昧さ回避化あるいは記事作成)を行う行為を想定した場合、以下の点が編集の障壁になると考えています。

もう少し詳しく書くと、リダイレクトの改善のために編集(曖昧さ回避化あるいは記事作成)を行うと、「リダイレクト版」「即時削除対象版」以外の版を作ることになりますから、上記「Wikipedia:リダイレクトの削除依頼」の適用条件を満たさなくなります。依頼者が「削除が妥当」と考えて依頼を行い、場合によっては既に削除票が入っているこのケースにおいて、「Wikipedia:リダイレクトの削除依頼」の適用条件を満たさなくするこの行為は、審議妨害行為あるいは「Wikipedia:腕ずくで解決しようとしない」に抵触する行為と受け取られ兼ねないのではないだろうか、という点を気にしています。もちろん、改善を目的としているのでない人がこういった行為を行うのは審議妨害と見做してよいと思いますので、そういったケースはここでは除外して考えます。

上記について、もしかすると私一人が無用な心配をしているだけかもしれません。このあたりの、他の方々の考えをお聞きしたいという話です。

判りにくいかもしれませんので、もう少し具体的に書いておきます。

  1. 曖昧さ回避化
    現状、リダイレクトの削除依頼に提出されている「ちゃき」について、リダイレクトの削除依頼に投じられた意見(参考1)を見るに、「茶器」「茶木:日本の姓の1つ」「特別:検索/~ちゃき」あたりを曖昧さ回避とするのが妥当だと考えています。ただ、既に投票済みの削除票意見者が、後続する案の提示に対して賛否の意見を書いていただければいいのですが、そのリダイレクト審議ページはもちろんのこと、他所へ誘導を試みた「Wikipedia‐ノート:リダイレクト#愛称のリダイレクトについて」「Wikipedia‐ノート:リダイレクト削除の方針#リダイレクトの削除依頼でよく見かける理由「一意でない」の妥当性」なども含め、削除票意見者には意見交換を行おうとする人がほとんど現れないというのが現状です。果たしてこのような状況下において、「ちゃき」を編集することは妥当でしょうか?それとも、改善案に対する意見を表明していただける見込みがない削除票が残っていることを理由に、審議が終了するのをいつまでも待つのが妥当でしょうか?
  2. 記事作成
    ネコパンチ」という記事は過去にリダイレクトでした(参考)。その後、リダイレクトが削除依頼に出されましたが、リダイレクトの削除審議中に記事として加筆されました(参考)。そのため、リダイレクトの削除審議としては存続終了となっています(参考)。この加筆行為は審議妨害と受け取られたりしないでしょうか?「Wikipedia:リダイレクト削除の方針#削除の必要がない場合」は、リダイレクトの存在が鬱陶しいと思う人が記事を作成する場合であれば問題ありませんが、今回は「リダイレクトの存在が鬱陶しいと思う人」と「記事を作成する人」が別ですので、それをそのまま適用できるかというと疑問です。
  3. テンプレート化
    現在「Wikipedia‐ノート:ページの改名#移動に伴って作成されたノートページのリダイレクトについて」という議論が行われています。これは、ページの改名に伴って発生するノートページのリダイレクトを、リダイレクトのまま残す(「Wikipedia‐ノート:即時削除の方針#ノートリダイレクトや括弧つきリダイレクトの即時削除の再考」で提案されている案)あるいは削除する(現行対処である「WP:CSD#リダイレクト5」)ではなく、ページの改名に伴って発生するノートページであって過去の議論はリダイレクトの転送先で行われていたものであることを説明するテンプレートに置き換えるというものです。仮にこれが通ったとすれば、同じ節に書かれていることですが、「WP:CSD#リダイレクト5」は廃止されることになると思います。また、現在提出されているノートリダイレクトを残したいと考える人がいれば、その人によって{{移動済みノート}}に置き換えることとなると思います。もしかすると、テンプレート版は著作物性がないから即時削除可能な版であって、リダイレクトの削除審議条件を妨げるものでないとする考えがあるかもしれませんが、少なくとも「WP:CSD#リダイレクト5」は適用されなくなると思います。しかし、既に「曖昧さ回避化の例」で書いたことと同じですが、大多数の削除票意見者は、投票後の状況変化に応じて意見表明、補足説明、票の変更を行っていただくことは期待できません。さて、こういった場合でも審議が終了するまで{{移動済みノート}}への置き換えという編集を行うことは妨げられるべきでしょうか?

一律して審議妨害だともそうでないとも言えないのかもしれません。ただ、審議妨害とは言えない行為も含めて一律に改善のための行動が抑制され、「審議が終わるまで待つ」以外の対策(通常の削除依頼における編集改善のようなこと)が取れない、と思える点に疑問を感じ、長期化した審議を改善する方法は何かないものだろうかと考えています。状況をある程度限定して「どういう場合であれば編集しても問題ないだろう」「どういう場合であれば編集すべきでないだろう」といった形でもいいので、コメントいただければありがたく存じます。あるいは、「改善のための編集をしつつ、編集者自身の手によって通常の削除依頼(依頼者票なし)を提出して、審議場所をそこに移す」という行為についても、コメントいただければありがたく存じます。--NISYAN会話2012年4月7日 (土) 00:07 (UTC)[返信]

なかなか難しい問題だと思います。現行のルールのもとでということで考えますと、こう考えます。
リダイレクトの削除依頼提出時には、リダイレクト元がそれによって削除できる可能性があると判断して提出されているわけです。上述の箇条書きとは異なりますが、リダイレクトの削除依頼対象となっているリダイレクトページの記事化(曖昧さ回避ページ化も含みます。)ですと、それを行った時点でリダイレクトの削除依頼対象からはずれるわけですので、リダイレクトの削除依頼対象となっているリダイレクトページを記事化した方が、当該ページのリダイレクトの削除依頼において、即時存続票を投じるあるいは終了提案(リダイレクトの削除依頼対象からはずれたことを理由として。)を行うことも含め、責任もって行っていただけるのであれば、問題ないと考えます(なおこれは、記事化する前に即時存続票を投じるあるいは終了提案することが先では、リダイレクトの削除依頼対象からはずれる前であるため、良くないと考えます)。
次に、リダイレクト元のリダイレクト先の変更ですが、審議途中であるなら、それを行わず、代わりにリダイレクトの削除依頼にて、存続票を示し、リダイレクト先として相応しい案を示すことも可能です。仮に審議途中でリダイレクト先を変更し、存続させるのであれば、変更するだけでなく、リダイレクトの削除依頼にて、リダイレクト先を変更することにより存続とする票を示すことまで行うことを前提として、リダイレクト先を変更することは良いと考えます(ただし、これではリダイレクトの版が増えてしまうという問題があります)。
テンプレート化ですが、現行ルールのもとでは、テンプレート自体に著作物性はないと思いますが、WP:CSD#リダイレクト5 の適用範囲外となります。リダイレクトの削除依頼対象からはずれ、通常の削除依頼に回さないと解することもできるため、テンプレートは貼り付ける方が、当該ページのリダイレクトの削除依頼において、即時存続票を投じるあるいは終了提案(リダイレクトの削除依頼対象からはずれたことを理由として。)を行うことも含め、責任もって行っていただく必要があると思います(なおこれは、テンプレートを貼り付ける前に即時存続票を投じるあるいは終了提案することが先では、リダイレクトの削除依頼対象からはずれる前であるため、良くないと考えます)。しかし、これは WP:CSD#リダイレクト5 の適用(ケースによっては、その準用ということもあります。)を逃れるためにテンプレートを貼れば良いと考える(審議妨害したと結果的にみなされる)方がいないとは言い切れないため、改善のためのテンプレート貼り付けをすることには審議中には避けた方が良いと思います。
最後に、「大多数の削除票意見者は、投票後の状況変化に応じて意見表明、補足説明、票の変更を行っていただくことは期待できません。」とあるのですが、通常の削除依頼であっても、リダイレクトの削除依頼ほどではないとしても、そのような方はいるわけです。票あるいは意見の変更が期待できないからといって、審議妨害したと取られる行為を容認することが良いかといわれるとそうでもないのではないかと感じます。以上です。--Don-hide会話2012年4月7日 (土) 05:39 (UTC)[返信]
  • コメント 現在の、リダイレクトの削除依頼提出後に曖昧さ回避化などによって有意な履歴を作ってしまえばこの規定によってリダイレクトの削除依頼で取り扱うことが出来なくなってしまうという問題は、この方針文書の穴であってルール側を改善する必要がある問題であるように感じました。一番単純な方法としては、Wikipedia:リダイレクト削除の方針#削除してはいけないものの「1.リダイレクトページに有用な履歴があるとき。」に、「ただしリダイレクトがリダイレクトの削除依頼へと出された後に作成された履歴に関しては考慮しない。」という規定を足すのが良いかと思います。Wikipedia:削除の方針の方では審議結果が固まった後の特定版削除や存続の作業において、削除依頼が出された後になされた加筆は考慮せずに除去してしまって構わないようになっていますし、それに準じればこのような規定を足すことに問題は無いでしょう。このようにしてリダイレクトがリダイレクトの削除依頼へと出された後にどのような編集を行っても審議の妨害とならないように改善編集を行う上での障壁を取り除いてしまえば、後はその改善をもってして存続とするのか、そのような編集があったとしても削除すべきであるのかといったところを、審議の場で話し合えばいいのではないかと思います。--重陽会話2012年4月7日 (土) 06:25 (UTC)[返信]
  • コメントWikipedia‐ノート:リダイレクト削除の方針#リダイレクトの削除依頼でよく見かける理由「一意でない」の妥当性との関連と思われるので、いちおうリンクを。テンプレート化は、ここで結論出せるものでもないように思いました。曖昧さ回避化や記事作成はすればいいんじゃないかな。削除審議の妨害になることを嫌がるよりも、百科事典としての内容や機能を改善することを優先したほうがいい。曖昧さ回避化や記事作成があった場合は、その新しい版が即時削除対象かどうかを評価して、即時削除対象なら、リダイレクトの削除のまま審議継続で削除なら削除、存続なら差し戻してリダイレクトに。即時削除対象でなければ、いったん存続。必要なら通常の削除依頼。とかいう感じでしょか。--Ks aka 98会話2012年4月7日 (土) 09:08 (UTC)[返信]
  • コメント Ks aka 98さんのコメントに特に付け加えることはないですが、無駄だという理由で削除されかかっているページを意味のあるページに編集しなおすのを審議妨害だと呼ぶのは変な話であって、むしろウィキペディアにとって有意義だと思います。「一意でない」リダイレクトページが削除対象になるのも変な話であって、まずは曖昧さ回避ページに作り変えることを目指すべきだと思いました。--Bugandhoney会話2012年4月10日 (火) 21:30 (UTC)[返信]

即日のコメントをありがとうございます。来週末までの約1週間ほどご意見を伺い、それまでに挙げられたご意見を取りまとめ、それ以上に必要と思われるアクション(例えば重陽さんの挙げられている規程改訂など)があれば、それぞれの関連する方針系文書のノートで提案したいと思います。コメントがあれば、本コメントよりも上部に記載いただければありがたく存じます。--NISYAN会話2012年4月7日 (土) 20:51 (UTC)[返信]

コメントいただいた方、ありがとうございます。短期案件についてはともかく、長期化している案件については、いただいたコメントに準じて「曖昧さ回避化あるいは記事作成」「リダイレクトの削除依頼においては即時存続」という対処としようと思います。テンプレートは判断できないという意見もありましたので、「Wikipedia‐ノート:ページの改名#移動に伴って作成されたノートページのリダイレクトについて」が決まりそうになったら、そこで、既に提出済みのリダイレクトの削除依頼をどう扱うか決めていきたいと思います。重陽さんからいただいた改訂の話については、気にすることなく「曖昧さ回避化あるいは記事作成」すればよいという意見が多いように思いますが、そのような改訂が必要かどうかという最終的な確認の意味を込めて、取りまとめて提案を挙げようと思います。--NISYAN会話2012年4月15日 (日) 22:58 (UTC)[返信]

Wikipediaにおけるソックパペット、ミートパペットの考え方について

現時点でのWikipedia:多重アカウントの考え方について皆様のご意見を拝聴したくこちらに書かせて頂きました。

きっかけはWikipedia:削除依頼/東大話法です。この削除依頼において存続票を入れられた方のうちの2名について履歴を拝見しましたところ、この依頼の投票にて長期の休養から復帰している点が目につきました。(詳細や議論につきましてはノート:東大話法をご参照ください。)これについて、拙の考え方と、現在のWikipediaでの支配的な考え方との間に相違があることがWikipedia‐ノート:権限申請/巻き戻し者/Yamatochem/20120403ノート:東大話法でのコメントから分かりました。

拙としては、Wikipediaは多々あるウェブサイトの一つであり、その中の特定の削除依頼にて、長期休養から同時期に復帰し、特定の短期間に、同じ存続票を投票されていているというのは、Wikipedia外でなんらかの連絡を取り合ったのではないかとの懸念を持ちました。そして、議論提起しました。

しかしながら、結果としては、これ程度の一致では“偶然、たまたま”であるというコメントが寄せられました。拙としては、これだけの状況の一致が見られれば皆様も何らかの違和感を持たれるのではないかと考えたのですが実際は異なったようです。

実際問題として、多重アカウントを理由とした投稿ブロックが多く実行されているのも事実です。この多重アカウントのアウトとセーフの壁(判断基準)はどのあたりにあるのかというのをご教授をお願いしたく思います。よろしくお願いします。乱文失礼いたしました。--Yamatochem会話2012年4月8日 (日) 12:16 (UTC)[返信]

  • コメントこの多重アカウントのアウトとセーフの壁(判断基準)はどのあたりにあるのかというのは、多重アカウントの禁止する項目に該当するかしないかだけです。これらはこの依頼の投票にて長期の休養から復帰している点といった情報も一部含まれる場合もありますが、それだけで判定できるよな杜撰なものではありません。最近も他の利用者へ多重アカウントの嫌疑をかけて投稿ブロック依頼を何度か出されていた方がおられましたが、回答を拒否するためにコメント依頼中に別アカウントを作成し、多重アカウントの使用でブロックされた方もおられます。もしあなたのような、認定ができるのなら、『あなたはそのブロックされた利用者のソックパペットか、ミートパペットとしてブロックされていてもおかしくない。』となります。冗談はさて置き、多分多重アカウントとの理由でブロックを多く行なっているのはチェックユーザー係でしょう。多重アカウントの認定はチェックユーザー係なら簡単にできる場合もありますが、かなりの長時間(数ヶ月とか)かけた情報の収集・解析等の結果わかる場合もあります。一言言えることは容易な多重アカウントだとの嫌疑をかける行為はやめたほうがいいでしょう。--Vigorous actionTalk/History2012年4月8日 (日) 12:54 (UTC)[返信]
    • コメント早速のコメントありがとうございます。Wikipediaにおいて多重アカウントであるかの判断を行っているのはチェックユーザー係と呼ばれる“特別な権限”を持った方のみであり、チェックユーザー係であっても細心の注意を払って判断を行っているということですね。Wikipediaにおいて同一認定の基準がそれほど厳しいものであるとは知りませんでした。拙の不徳の致すところでございます。関係箇所においてはおわびの上、議論の終了やコメントの撤回をさせて頂きます。--Yamatochem会話2012年4月8日 (日) 13:07 (UTC)[返信]
      • コメント 少なくとも、偶然の一致でも起こり得るひとつの事項だけでもって容易に判断することはやめておいたほうがいいでしょう。(荒らしの対処などで)チェックユーザー係が気づかないような複数の一致などがあれば、管理者伝言板やコメント依頼などを活用するといった方法もあります、あなたが管理者やほかの利用者を説得できるだけの説明ができれば対処されたり、チェックユーザー依頼が出されることになるでしょう。--Vigorous actionTalk/History2012年4月8日 (日) 13:19 (UTC)[返信]
  • コメント 例として挙げられた編集者に関してはソックパペットを疑う人がいてもおかしくないかな、というぐらいに感じました。しかしながら、Vigorous actionさんが仰っているとおり、ウィキペディアではめったなことで誰かをソックパペットや荒らしと呼んではいけないことになっています。これは私の理解では、ウィキペディアには善意の人ばかりが集まっているとか、性善説でやっていこう、ということではなくて、そうやってソックパペットを見つけ出して排除することよりも、誰かにそのような疑いをかけることのほうが弊害が大きいからであるというふうに理解してます。チェックユーザーが調べられるのはIPアドレスが同じか似ているということまでであって、ISPが提供する可変IPアドレスから多重アカウントを証明することはしばしば非常な困難が伴います。そうすると、疑いをかけた人と疑いをかけられて人の間で必然的に話はぐだぐだになります。ソックパペットが疑われたとしてもそのことを非難するのではなく、とりあえず別々の編集者と仮定してウィキペディアのガイドライン等を論理的に説明しながら対応したほうが話はまとまりやすいです。ソックパペットを使うような人は、はっきりいってウィキペディアの方針に頓着しない人であって、そういう人の意見は普通説得力がありません。ウィキペディアでの合意は多数決ではないのであまり心配しなくていいです。そうはいっても、この話はそう単純でもないです。最近、Wikipedia:コメント依頼/114.145.108.206でソックパペットに遭遇して大変ショックを受けたのですが、早くからそのおそれに気づいていた編集者の方が、気づいた時点でそれを指摘しなかったことを後悔されています。最後のほうにコメントされた方です。ご参考まで。--Bugandhoney会話2012年4月10日 (火) 22:03 (UTC)[返信]

残虐表現や性的描写は駄目なのか

マブラヴシリーズの登場人物において、IPユーザーさんが「残虐表現や性的描写は、記事を読む人の心情を悪くする」という理由で該当する記述を削除しています。
それ自体はまあ別に分からなくも無いのですが、問題なのは「残虐表現や性的描写は駄目だというローカルルールを提示したにも関わらず、それをノートで他の執筆者とまともに議論しようともせず、一方的に他の執筆者に自分のルールを押し付けている」ということです。
僕は以前僕自身の会話ページにおいて「ローカルルールを作るなら他の参加者に対して議論提起をしろ」と忠告したのですが、残念ながらそれを無視して一方的に記述の削除を行っているというのが現状です。
そこで皆さんに意見を頂きたいのですが、
  • ウィキペディアにおいて残虐表現や性的描写は明確に禁止されているのか
  • 残虐表現や性的描写を認めないというローカルルールを作るなら作るで、どこまでが「残虐表現」「性的描写」という線引きになるのか(このIPユーザーさんの編集を見る限りでは、「背中から刺されて死ぬ」だけでもアウトのようですが。)
  • そもそも事実を正確に書いているにも関わらず、残虐表現や性的描写という理由での記事の削除が認められるのか
以上の点についてどう思うでしょうか。意見やアドバイスなどを送って頂けるとありがたいです。
ここからは僕の私見になるのですが、残虐表現や性的描写を無闇に削除する行為は記事の「特筆性」を損なう結果となり、あまり好ましくないんじゃないかと思っています。
「マブラヴ・アンリミテッド」と「マブラヴ・オルタネイティブ」の過酷な世界観、各登場人物が異性体BETAにどれだけ酷い目に遭わされたのか、異性体BETAがどれだけ恐ろしい存在なのかということを明確に読者に伝えるには、どうしても残虐表現や性的描写が必要になるのではないかと思うのです。ただ「攻撃されて死んだ」だけでは「マブラヴ」シリーズの過酷な世界観や異性体BETAの恐ろしさは伝わりにくい。「強化装備ごと全身が溶解して死んだ」「主人公の目の前で陵辱されて絶望した」ここまでやって初めて、異性体BETAはとても恐ろしい存在なんだ、主人公たちはこんな奴らと戦っていたのか、ということが明確に読者に伝わるのではないかと思うのですが、どうでしょうか。--ルーファス会話2012年4月8日 (日) 12:25 (UTC)[返信]
ウィキペディアは百科事典ですので、事実が担保できればできるだけそれを正確に、解りやすく、書くべきです。また、ウィキペディアは原則的に検閲を行ないませんし、中立であるべきです。これにつきましてはWikipedia:ウィキペディアは何ではないか#ウィキペディアでは検閲は行われませんで明記されている通りです。事象を性格に説明するのに必要であれば、どの様なショッキングな言葉やどの様な猥褻な言葉が飛びだそうが、それはやむを得ないことです。同時にWikipedia:不快なコンテンツというガイドラインもあり、必要の範囲を逸脱しない様には求められているのですが、これに示される「多くの読者にとって冒涜的、侮辱的、下品、卑猥だと感じられるであろう」な言葉と言うものは、相当に常軌を逸したケースに適用されるものであるはずです(恐らくは、普通の人が普通に記事を書いた時に問題となることはないでしょう)。
今回の編集を拝見致しますと、特に誰かの権利を侵害している訳でもなく、差別を助長している訳でも、法令に違反している訳でもありません。また、必要や常軌を逸して過度に不快に記述されて居るとも見なせません。また、私は原作を見ておりませんのでかなり想像の入った意見となりますが、こう言った状況において女性キャラが陵辱(レイプ?)されたのであるか否かは、キャラクターまたはストーリーを説明するにおいて、無視出来ない要素である可能性があります。逆に些末な要素であるのであれば、端折ってもよいでしょう。ただしいずれにしてもWikipedia:検証可能性Wikipedia:独自研究は載せないには重々ご配慮下さい。
以上の点につきましては、コメント依頼を提出し、題材について見識のある第三者の意見を募ってみるのもよいでしょう。--Hman会話2012年4月8日 (日) 12:56 (UTC)[返信]
丁寧なアドバイスをありがとうございました。とても参考になりました。アドバイスに従い、コメント依頼にも今回の件についての依頼を出させて頂きました。--ルーファス会話2012年4月8日 (日) 13:07 (UTC)[返信]
Wikipedia:不快なコンテンツの成立に少し関わっているので、個人的に気になる話題ではあります。「不快なコンテンツ」にとって鍵になるのは、その表現が百科事典の内容として必要であるかどうかというところにあります。これはWikipedia:ウィキペディアは何ではないかが求めることでもあります。この件で挙げられているマブラヴシリーズがどういうものか詳しく存じ上げませんが、記事の主題そのものが性的で残虐な表現を含む場合、その解説にそういう要素を排除することは不可能であると考えます。ですから、そういったものを避けることは百科事典の内容としてふさわしいものではないですし、過剰に強調されていない限り「不快なコンテンツ」として排除されるべきものでもありません。後はキャラクター紹介としてのバランスの問題だと思います。ウィキペディアはネタバレを禁止していない(百科事典の性質上、物事の核心に触れないことはありえないからです。)ので、キャラクターについてはそのキャラクターの情報に専念し、ストーリーや設定は別にまとめることも考えられるでしょう。--有足魚会話2012年4月9日 (月) 09:07 (UTC)[返信]
アドバイスありがとうございます。やはり残虐表現や性的描写があるからといって、余程度が過ぎた物でない限りは無闇に記事を除去するべきではないのですね。--ルーファス会話2012年4月9日 (月) 14:43 (UTC)[返信]
そうですね、今回の「陵辱」でしたら、ほとんどの方が恐らくは単純なレイプを想定するのでしょうが、もし単純なレイプでない場合はプロットの説明として、それが多少ショッキングな表現になってしまっうのであってでも、あえて陵辱の内容を記しておくことが必要である可能性もあります(これは題材に知識のある人しかわかりませんが、例えば二次資料でその陵辱の内容が説明されているのでしたら、それは敢えて特記するに足る陵辱であるとの判断を後押しするひとつの事実でしょう)。とは言え、原則主義や極端な(現実世界からの)アナーキズムに陥るのもアレなんでしょうけどね。例えば「暴行監禁レイプバラバラ殺人事件」という現実に起こった事件を題材とした場合、裁判や取材で明らかになった確度の高い残虐行為を逐一事細かに情緒豊かに示す事は確かに事件への理解を少なからず助けますが、これは「多くの人にとって不快」または「必要以上」と捕らえられる可能性があるため、若干ボカす程度の配慮が必要に成ってくるかもしれません。ただし特定の政治的主張や宗教観をお持ちの方に特別に配慮する必要は無く、もう常識で考えて恐らく8割、9割の方が、って言うレベルで判断するべきでして、いずれに致しましても程度と必要性につきましては逐一お話し合い頂くよりないでしょうね。--Hman会話2012年4月9日 (月) 15:13 (UTC)[返信]

細部の編集行為について

トピック名は大まかなものですが、Help:細部の編集に関係する以下の点について照会させてください。

  1. Wikipedia:Bot作業依頼#CiNiiへの文献直接リンクに関係し、出典文献へのリンク切れ対応を行っているのですが、こういった編集は「有害である」[3]との提議を受けてストップしています。そのため関連プロジェクト文章を調べたのですが、関連するものはen:Wikipedia:Citing sources#Preventing and repairing dead linksぐらいしか見当たりませんでした。
  2. それに関連し、「記事執筆経験のないものはGA/FA記事の編集をすべきではない」[4]という提議を受けました。こちらでは関連文章が見当たりませんでしたが、ならばGA/FAでなければOKなのでしょうか。

すみませんが、何かプロジェクト文章の読み落としがあったかもしれませんので、アドバイスいただけると嬉しいです。--Tondenh会話2012年4月8日 (日) 15:31 (UTC)[返信]

単にリンク切れに対応しているだけならば苦情は出ないと思います。何か違うこともやっているのではないですか。- NEON会話2012年4月9日 (月) 04:24 (UTC)[返信]
こちらのような[5]変更であったのですが、その方には自分は記事を書いているのでこの件について議論するつもりはないと言われ、困惑しています。。--Tondenh会話2012年4月9日 (月) 07:59 (UTC)[返信]
ぱっと見ですが、author が分割されたり、学名の斜体が解除されていたりと単なるリンク切れの対応の編集ではないように思います。前者は好みの問題ですが、さほどメリットが無い割に編集が煩雑になるため好まれないと思います。後者は明確な誤りですから差し戻されることもあるでしょう。私が初版を書いたオオマリコケムシへの編集にも同様の問題がありました[6]。雑草取りは内容を劣化させないことが前提ですから、大量編集に入る前に確認すべきです。ぱたごん氏が言いすぎている部分もありますが、記事を書かないと配慮できない事がある、という意味では尤もだと思います。naid テンプレへの書き換え自体は私は感謝しています。- NEON会話2012年4月9日 (月) 08:22 (UTC)[返信]
なるほど、「記事を書かないと配慮できない事がある」というお話のご説明ありがとうございます(斜体解除の件は申し訳ございません)。そのあたり詳しい情報源ありますでしょうか(http://sist-jst.jp/ には目を通しました)。そういうのは翻訳や追記では駄目で、新規記事の立ち上げの経験が必要でしょうか(まだ記事が書かれていないトピックを見つけないといけませんね)。--Tondenh会話2012年4月9日 (月) 08:33 (UTC)[返信]
ぱたごんさんの表現に全面的な問題があるとは思いますが、「何を経験したらOK?」と考える時点で誤ってます。仮に(ウィキペディア日本語版の方針や目的、慣習などと合致しないという意味で)ミスったとしても誠実に対応していけばあまり大きな問題にはならないとは思うので、いろいろやってみればいいんじゃないでしょうか。まあ、でも、新規記事の作成ってのは悪くない選択肢の一つだろうとは思います。「Wikipedia:多数の言語版にあるが日本語版にない記事」ってのあるので参考にどうぞ。--iwaim会話2012年4月9日 (月) 09:26 (UTC)[返信]
事前に議論を提起したときには意見が付かず、実際に実行してから異論が付くということは珍しくないことだと思いますし、取り返しの付かないことではないのですからその都度対応すればいいものだと思います。出典の明記は読者が情報源へ行き着くのを助けることが目的ですから、リンクが情報源そのものでなくとも情報源入手の手助けになり、それが冗長でないなら有益であると考えます。
記事執筆の経験はウィキペディアにおける行動に必要なものですが、すぐに身につくものではないですし、そのこと自体を非難するのは失礼な態度だと思います。そういう表現を使わずとも、きちんと対話が成立していれば、問題点を指摘し改善を促すことは出来るはずだからです。--有足魚会話2012年4月9日 (月) 08:47 (UTC)[返信]
コメント 今後もこういう意見が出るようなら、GA/FAは廃止すべきと個人的には考えます。方針に従うなら、誰でも編集できるのがWikipediaなわけですから。--Vigorous actionTalk/History2012年4月9日 (月) 09:01 (UTC)[返信]
(コメント)そういうレベルの低い意見を述べる輩が1人いるからと言って、FA/GAそのものを廃止しようってのはいくらなんでも乱暴じゃないでしょうか。質量ともに世界最大の百科事典を制作することを目的とするWikipediaにおいては、理想的には全ての記事がFAになることなのですから、そのベンチマークとなるFA/GAは必要なものですし、かような低レベルな意見を述べる輩1人のために失くしていいものであるとは、全く考えられません。Yassie会話2012年4月10日 (火) 03:44 (UTC)[返信]
コメント (オフトピックですが)わたしは、今後もこういう意見が出るようならと前置しています。これはぱたごんさんだけに限らずほかの人も含めてです。Yassieさんのような「より素晴らしい記事にするために編集を歓迎します。」「さらなるブラッシュアップと加筆によって秀逸な記事となるような編集を歓迎します。」といったことを深く理解されて歓迎されるFA/GAの主執筆者だけならFA/GAそのものを廃止する必要もないでしょう。しかし作成項目の所有権が主執筆者にあるかのように、合理的な編集であっても大きな変更前には主執筆者に連絡したほうがいいといったようなことを言う人もいます。こういう意見が複数出てくるとFA/GAは記事のさらなる成長、情報の更新がされなくなり数年後には内容的に使えないぐらい古いものになってしまうこともありえます(例えば統計局のような公的機関から公表された人口データを更新した場合、本文と齟齬が出るような場合の大幅な修正などであって、もちろん速報をなんでも載せろと言っている訳ではありません)。そうした場合FA/GA制度を廃止したほうがより良いものに早く近づくこともあるのではないかと私は思います。まあ触るな的な発言を続ける人は多分投稿制限を受けることになっていくのでしょうが・・・。ただFA/GAって合理的な編集でも心理的には触りにくいものなんですよねぇ。。。--Vigorous actionTalk/History2012年4月10日 (火) 22:11 (UTC)[返信]
(コメント)どんな前置きを置いていようと、この要約欄からは「FA/GAなんて廃止してしまえ」としか読めませんし、そもそも、FA/GAを失くしてしまえという発想が出ること自体が暴論以外の何ものでもありません。初心者ならともかく、何年もWikipediaにいて、しかも複数の管理者権限を持っているユーザとしてはあまりにお粗末な意見と言わざるを得ませんし、管理面ばかりに気をとられてWikipediaの根本理念たる「質量ともに世界最大の百科事典の構築」を忘れているんじゃないかとすら思えます。そんなの、現実世界でも相変わらず行われている(と言っても、そんな馬鹿げたことを初等教育の段階で行っているのは、私の知る限り日本しかありませんが)「徒競走の最後にはみんなでお手手つないで仲良くゴール」と変わらないし、それがどんな弊害を生んでいるのかということもまた、現実世界で既に実証されていますね。今回の件で問題となったような言いがかりをつける輩がぱたごん氏1人だけではなく、例えば100人いたとしても、その100人を片っ端から短期ブロックしてでもFA/GAの存在意義をWikipediaの根本理念とあわせて理解させていけばいいだけの話で、FA/GAの廃止提案を正当化する根拠たりえません。後半部分については、「心理的に触りにくい」と思うならFA/GAに限らず無理に触らなければよろしいし、FA/GAであってもさらに記事を良くしてやろうと思って触り、実際に記事がより良くなるのなら、「主執筆者に連絡」とか遠慮とかすることなく、じゃんじゃん触ればいいんじゃないかと思いますけどね。Yassie会話2012年4月11日 (水) 03:51 (UTC)[返信]

(お詫び)切れてるリンクの修正にまで文句を言ったのは言いすぎでした。こんなことをされたのでつい我を忘れました。怒りでプッツンしてしまって関係ないことで行き過ぎ言い過ぎたことは認めます。Tondenh氏以外の方に対してはお詫びして前言は撤回します。申し訳有りませんでした--ぱたごん会話2012年4月9日 (月) 09:52 (UTC)[返信]

ご説明ありがとうございます。3点確認させてください。

  1. 撤回といいますのは、上記の1),2)が勘違いであったということでしょうか。となると[7] は差し戻してよいでしょうか? もしこの2点以外にも問題と考える点ありましたらお知らせください。
  2. Wikipedia:Bot作業依頼#CiNiiへの文献直接リンクの進行は、提議により停止していますが、再開してよいでしょうか。
  3. 白血病について「こんなこと」と言われているお話についてご説明いただけますか。「お気に召さないなら参考文献節を削除して下さい」と言われる一方で削除には抗議されているようで、困惑しております。

細かいところですが、編集強行の虞を避けるためによろしくお願いします。--Tondenh会話2012年4月9日 (月) 10:15 (UTC)[返信]

情報 ぱたごんさんは暴言により1週間のブロックとなりました。--Kanohara会話2012年4月9日 (月) 10:47 (UTC)[返信]
了解です。1週間おきますので、まとまったところで改めて上記の回答をいただければと思います。--Tondenh会話2012年4月9日 (月) 12:50 (UTC)[返信]

コメント 「細部の編集」チェックボックスがあるくらいで、記事の間で一貫したフォーマットを提供するためには細部の機械的な編集は必要ですし、ウィキペディアでは日常的に行われています。一方で、本文をいじらない機械的な編集、特にそれが大量に行われることを嫌う編集者もいますし、ソースが見づらくなるという理由で出典テンプレートを嫌う編集者もいるのは確かですね。Tondenhさんの編集行為が何かの方針に抵触しているということはないはずですが、私の場合トラブルを避けるために、出典のフォーマットを整える際に何か他のことをついでに直す、ひとつだけ直してノートなどで主要な執筆者に出典テンプレートの使用を勧める、などといったことをするようにしていて、今のところうまくいってます。まだるっこしいですけど、どうでもいいことで延々と議論するのは時間の無駄ですから。--Bugandhoney会話2012年4月9日 (月) 14:57 (UTC)[返信]

コメント経緯としては、利用者‐会話:Tondenh#mudaiWikipedia:Bot作業依頼#CiNiiへの文献直接リンクを参照すればだいじょうぶでしょうか。
利用者‐会話:Tondenh#mudaiで指摘があった[8]の行為は、1)記事名からリンクされていたもの http://ci.nii.ac.jp/els/110001260018.pdf?id=ART0001638284 が、リンク切れとなるために、これを除去し、2)「(PDF)」を除去し、3)発行日をより詳細にし(「1日」)、4)閲覧日の記載(「2011年10月14日閲覧」)を除去したもの、以上は脚注93、脚注94に共通。5)脚注94では論題の変更と記事タイトル中の斜体の解除があります。
リンクの除去は、リンクによって論文が得られると思う読者に無駄な手間をとらせないという意味があり、URLが変わったらしいと受け取られている今のうちに修正することで、執筆者による虚偽などを疑う必要もなくなります。PDFの文字を残さないのは、リンクの除去に応じて必要なことです。これらは、記事にとって、あるいは読者にとって有益です。
一方、この編集によって、本文pdfにアクセス可能であることが、ウィキペディアの記載からはわからなくなりました。また、4)閲覧時が除去されたことで、いつリンク切れが生じたのかと言うこともわかりにくい状態です。5)脚注94での論題の変更は、本文を見れば「P20」が論文名とは考えにくいと思います。斜体については、寄生虫学、生物学分野での慣習や、当該記事内で採用されている記法を考慮して判断する必要があるでしょう。
これらはいずれのほうがよいかは、意見がわかれるところでもありますし、「有害である」とまではいえないでしょう。とはいえ、Tondenhさんが、修正後のほうが圧倒的に好ましいということを自分で説明できないなら、そうした修正を積極的にはしないほうがいいと思います。リンク先の「地方病 (日本住血吸虫症) 」の差分については、リンク切れへの対処は支持できますが、その他についても「差し戻し」するのがよいかどうかは別の話で、単にリンクを張り替えるとか、リンク切れタグを追加するといったことを超えて、修正をする場合は、慎重な作業が望ましいです。ほんのちょっとの違いが、大きな違いになることもあります。わからないことは、何もしない。
まあ、利用者‐会話:ぱたごん#白血病記事については、どっちの態度もどうかと思います。
利用者‐会話:ぱたごん#白血病記事についてとか、この編集[9]のIPさんもそうなんでしょうけど、いずれの記事も、「参考文献」は「参考にした文献」を示しています。
「こんなこと」[10]では、要約欄でWikipedia:出典テンプレートを参照させていますが、そこには「出典テンプレートの利用については、その記事の他の編集者らとの個々の合意に任せられています」とあります。差分にあるような編集は、大胆な編集としては認められるでしょうけれど、反対があるなら、合意を得る必要があります。
会話ページでの2012年4月2日 (月) 04:21 (UTC)のぱたごんさんの説明を見れば、「参考文献」がFuther ReadingsではなくReferencesであることがわかりますが、その上でReferencesを「削除する方向」では、何がしたいのかわかりません。WP:SFNが持ち出されていましたが、WP:SFN自体は英語版のガイドラインWikipedia:Citing sourcesの一つの節ではありますが、その書き出しSome Wikipedia articles を見ても分かるとおり、すべての記事に適用しなければならないものではないと思います。そして、Short citationsは、 used together with general references, which give full details of the sources, but without page numbers, and are listed in a separate "References" section. とされています。「参考にした文献の一覧」が必要。このように「参考文献」セクションを置くスタイルは珍しいものではありませんし、わざわざ聞かなくても、参考文献節に挙げられている資料が脚注に挙げられていることを確認すれば、わかると思います。そういうところがわからないまま、「もしかして「参考文献」をFuther Readingsの意味で用いていたりしますか? 」というのは、礼を失していると思われてもしょうがない。
自分が関わった記事では、[11]で、朝倉と堀内だけ変更してるのは、いまいちよくわかりませんでした。スタイルをいじるなら、統一させるべきだと思います。それから、名前+発行年の書式はわかりにくいという実感があって、区別が付く程度に省略した書名を使っているのは、かつて修論書く時にMLAやらシカゴやら社会学評論やらを比べたってのを踏まえた、意図的なものだったりもします。それ自体は、他の記事との統一などの観点から、修正されてもいいんですけど。
参考文献ほか、書式的なものについては、FA/GAを書いているような人は、どこかの分野の書式には慣れている可能性があり、あるいは学術的な研究の対象になりにくい分野の記事であれば、ウィキペディアの検証可能性からあれこれ考えた結果、メディアウィキやインターネットでの特性を考慮してきた可能性があります。FA/GAを書いた経験があれば、そうした慣習を知ることもあるでしょうし、参照のためのスタイルが、それぞれにどういうメリットがあるかということも気付く事ができるかもしれません。そういう経験を測る目安にはなる。その一方で、自分の考えや知識が一般的なものだと認識しがちで、他分野の常識に目が届いていない可能性もあるでしょう。自然科学系と人文学系では、まるで違います。その点、ぱたごんさんも医学分野でのスタイルについては、もっと丁寧に説明するべきでした。
記事の内容にかかわらない編集をする場合は、様々な分野の記事を横断して編集することもあるでしょう。そういう場合は、各分野の慣習に、十分配慮して編集しなければ、無駄な論争を招きます。そして、FAやGAを書いていなくても、そうした配慮はできると思いますし、FAやGAを書くために資料を探すのではなく、そうしたフォーマットを調べ、比較して、ウィキペディアに最適なマニュアルを提案するということを考えてもよいと思います。どれかのスタイルに統一しなければならないという拘束力のある合意は、日本語版にはないはずです。最適なマニュアルを提案するとか、便利なテンプレートを作って誰かに使ってもらうということは歓迎されるでしょう。しかし、それを、どこかの記事に適用するには、その記事の執筆者たち、その記事の編集者たちの理解を得る必要があるのです。
CINIIほかのリンクについて、いくつか追加で書いておきます。これはむしろ、ぱたごんさんの「言い過ぎ」への意見です。今となっては承知されていることかもしれませんが。
NII(あるいは他の機関リポジトリなど)は、書誌情報ページへのリンクを望むことが多いです。書誌情報ページのほうがURLが安定していること、あとはアクセス解析のためだと思いますが、ウィキペディアからのアクセスがきちんとカウントされることは、オープンアクセスへの動きを支持することにも繋がります。それを気にしないとしても、本文pdfだけでは書誌情報を得られないことが多いので、書誌情報ページへのリンクと両方を書く、あるいは、読者にリンクから本文に到達してもらえることを委ねて書誌情報ページのみのリンクを書くのが、ウィキペディアとしては好ましいと思います。
ciniiでは、本文の提供をしていない論文も収録されていますが、そのような場合でも、少なくともNIIによって提供されている論文データベースに収録されているという記録があるということで、その存在が確認できるという意味はあるでしょう。
抄録の有無は、あまり関係ないように思います。抄録そのものを暫定的な情報源として使っている場合は、その抄録へのリンクにも意味はあるでしょうけれど。その場合は、抄録しか読んでいないということも明示する必要がありますね。本文を参照して記事を書いている場合なら、書誌情報さえあれば、抄録は不要です。まあ、基本的には、字数の制約もあり、記事の情報源として用いるべきものではないでしょう。--Ks aka 98会話2012年4月9日 (月) 17:14 (UTC)[返信]
非常に長いコメントを頂いたので、返信が話題毎のぶつ切りになるかもしれませんがご容赦ください。なお利用者:125.30.123.127会話 / 投稿記録 / 記録は私ではないです。
自分はこれまでGA/FAは記事に付与されるマークだと認識していたのですが、これは個人に付与される(獲得する)マークとみなすべきでしょうか。白血病記事の要約記載ですが、これはこの編集の参考にしたドキュメントを挙げただけでして、特定個人へのメッセージや、GA/FAになる上での非難?瑕疵指摘?ではないのですが…。数多くの一連の編集の一つであり、その編集に強いこだわりはないので、「リバートで絶対対抗する」「あなたの作業は有害だらけ」とこれほど沸騰するほど怒られている理由がよく分かりません。(この編集はGA/FA選考にそれほど影響するようなものだったのでしょうか? 「参考文献節など削除して構わない」「お気に召さないなら参考文献節を削除して下さい」というのは「そのへんはこだわりがないので編集していいですよ」と言う意味だと思ったのですが、その後「絶対抵抗する」と言われて困惑しています。)
すみませんが、私は執筆者らのGA/FA記事作成レース?のようなものには参加していないので、雑草取りがレースの揚げ足取りみたいな捉え方をされ、邪魔・非難されたと怒り出されても困惑するほかないです。記事の履歴を見て、各々の編集者についてそれぞれ投稿履歴からGA/FA傾向を確認しなければならなかったのでしょうか。「その記事の履歴にGA/FA経験者がある場合、執筆者はレースに参加しているかもしれないので配慮が必要です」位の運用基準があると助かります。--Tondenh会話2012年4月9日 (月) 18:44 (UTC)[返信]
Ks aka 98さんの意見にはちょっとついていけません。
まず、ぱたごんさんのFA/GA発言ははっきりいって個人攻撃に当たる暴言であって、実際投稿ブロックされましたし、この線でこれ以上話を続けても生産的な結論に至るとは思えないです。
次に、出典明記のガイドラインですが、記事の分野にかかわらず、書誌情報の書き方はWikipedia:出典を明記する#書誌情報の書き方(和書)で決まっています。決まっていないのは、これをテンプレートまで使って強制するのか、英語文献はどう表示するのか、そして(「白血病」の記事で問題になった)Short citationの扱いといったことです。
Short citationは英語版では事細かに説明されています。ぱたごんさんにこんなこと呼ばわりされたTondenhさんの編集の根拠になっているのは、en:Wikipedia:Citing sources#Citing multiple pages of the same sourceであり、When an article cites many different pages from the same source, most Wikipedia editors use short citations in footnotes.とあり、またen:Wikipedia:Citing sources#Avoiding clutterで編集画面のソースがごちゃごちゃになることを避けるための方法として挙げられていることからもわかるとおり、ウィキペディアでは推奨されるべき編集です。Short citationは日本語版ではガイドラインがないだけであって、幅広く使われており、実際WP:FAの医学分野の記事6本のうち3本(地方病 (日本住血吸虫症)エナメル質赤血球)で使われています(前二者は著者―年方式、後者は著者―タイトル方式)。つまり、ぱたごんさんは要約欄に「医学書、医学論文を見てください」と記入してTondenhさんの編集を差し戻しましたが、日本語版ウィキペディアの医学分野の記事ではShort citationは使わないという合意や慣習があるわけではなく、ぱたごんさんの好みという以上の根拠はないです。ウィキペディアでは、FA/GA記事を編集したことがあるなどと、根拠(ガイドライン文書や編集例)を示さずに権威を振りかざしても、基本的には変なことにしかならないです。
何度も書きますが、Tondenhさんの編集は内容にはなんら問題はないです。あるとしたら、そのやり方だけですね。--Bugandhoney会話2012年4月9日 (月) 22:45 (UTC)[返信]

(コメント)今回の件では、Tondenh様の編集は全く問題のないものであり、ぱたごん氏の意見は極めて低レベルな言いがかりに過ぎないと断言します。FA/GAであっても、記事にとって良い編集ならば、記事執筆経験にかかわらず(つまり初心者やIPユーザであっても)、編集を禁じられる謂れはありません。それはTemplate:秀逸Template:良質な記事の文面に「より素晴らしい記事にするために編集を歓迎します。」「さらなるブラッシュアップと加筆によって秀逸な記事となるような編集を歓迎します。」と明記されていることからも明らかです。勿論、(善意か悪意かに関わらず)結果的に記事を破壊している編集を繰り返しているならば、それは厳しく咎められて然るべきものではありますが、それはFA/GAに限らず全ての記事に対して言えることであり、また記事執筆経験の多少/有無にかかわらず言えることであります。もっとも、ある記事/分野にきちんと関わっていく気も無いのに議論だけ吹っかけて引っ掻き回した挙句、自分の思い通りになったら肝心の記事の内容に関しては知らん振り、というのは流石に勘弁して頂きたいとは思いますが、今回の件でのTondenh様の編集は、それには全く該当しません。Yassie会話2012年4月10日 (火) 03:51 (UTC)[返信]

一週間経ちましたが、1)~3)について作業継続の前提を得られたと考えてよろしいでしょうか?「こんなこと」がいったい何だったのかは気になりますが。。--Tondenh会話2012年4月17日 (火) 20:25 (UTC)[返信]

作業再開の前に斜体の修正をお願いします。- NEON会話2012年4月17日 (火) 23:39 (UTC)[返信]
「こんなこと」に関しては想像するしかないですが、せっかく自分が統一的にきれいに並べた書誌情報を簡略化されて戸惑った、ということなのでしょうか。ただ、WP:FAの医学分野の記事で、同一の資料の別の箇所を何度も参照している記事ではいずれもShort citationを採用しているということは、Short citationは形式としてはむしろ好ましいということになると思うのですが。--Bugandhoney会話2012年4月18日 (水) 13:13 (UTC)[返信]
では1)については斜体を配慮して行う、ということでよいでしょうか。我を忘れるほど怒られたそうですが、理由を説明していただかないとアクションの取りようが無いので。。--Tondenh会話2012年4月18日 (水) 20:25 (UTC)[返信]
コメント 改良することは大切なことですが、説明出来るだけの理由が必要です。「草取り」とはその理由が明白なため、説明が無くとも誰も気にしないだけです。あまり問題になっていないようで心配なのですが、出典表記に使われている情報を削るのであれば、その点は説明する必要があると思います。例えば、度々出てきている地方病 (日本住血吸虫症)での編集差分にあるような編集は「草取り」ではないと思います。斜体の解除については既に理解されているものと思いますが、ページ数の削除や論文名の書き換えなど、明白におかしいものもあります。困惑しているとの心情は表明されていますが、これらTondenh さん自身の編集について、どのような見解があるのでしょうか。--Frozen-mikan会話2012年4月19日 (木) 03:45 (UTC)[返信]
すみません、その記事のissue=やpages=抜け落ちについては写し取りミスです。不要と判断して削除したものではないので修正対応していこうと思うのです。ただaccessdate=はこれらは紙面で出版されており、Webが一次公表先ではないので修正後に残す必要はないと判断しました。--Tondenh会話2012年4月19日 (木) 07:48 (UTC)[返信]
URL=とAccessdate=を取り除いたのは望ましいと思います。Year=|Month=をDate=に直したのも望ましいです。{{cite journal}}では前者は後者の代わりに使うとなってますので(英語版だとよく直されます)。生物種の学名は普通イタリックです。こういう表記に関するルールは多様なバックグラウンドをもつ編集者のために分かりやすいところで説明されているべきだと思って文書を探してみましたが、{{Snamei}}くらいしか見つかりませんでした。なので、en:Wikipedia:Manual of Style/Text formatting#Scientific namesを準用するとよいでしょう。en:Wikipedia:WikiProject Tree of Life#Article titlesにはさらに詳しい説明があります。あとは、編集前と編集後をよく見比べて変になってないことを確認することぐらいでしょうか。これは、あらゆる編集に通じるとは思いますが。--Bugandhoney会話2012年4月19日 (木) 16:04 (UTC)[返信]
コメントCiNiiのデッドリンク修正に伴って生じた今回の問題の根本的な原因は、分からないないものに対して分からないまま闇雲に手を出してしまったという点にあるのではないでしょうか。学名は斜体にするといったようなある分野に独特の表記ルールなどはその分野に関わりが無ければ知らなくても当然のことだとは思いますし、知らない人が分からないまま無理に触る必要などどこにもありません。今回の件であれば、他の部分には手を付けずにCiNiiのデッドリンクを修正するだけでよかったのではないでしょうか。学術情報データベースのリンク修正という性質上、様々な分野、ジャンルの記事を横断的に編集することになりますし、それらの分野すべてに精通して正確な判断のもとに編集を行えるのでない限り、リンク修正に付随して別の部分も触ることはトラブルの元にしかならないのではないかと感じます。その点で言えば、学名の斜体表記だけに配慮するのではなく、あらゆる点を配慮していただきたいと思います。知らない分野において変な表記がされていると感じることがあっても、それはその分野の慣例に従った表記であるのかもしれませんし、編集者による何らかの意図があってそういう表記をされているのかもしれないのです。などと言っている私も、やおいで出典情報の整備をした際に不手際をしてしまったことがありまして、その時の経験からそう言っているだけなのですが。accessdateに関しても、一次公表先がウェブでなくとも、ウェブ上にアクセス可能なファイルがあるのであれば、出典を確認しようとする場合まずはそのウェブ上のファイルにアクセスするでしょうし、あって困るものではないものを無理に除去する必要はないのではないでしょうか。今回の修正が必要になった大元の原因でもありますが、リンク先の仕様変更によってpdfへの直接リンクがデッドリンクとなってしまったというような際のためにも、accessdateはあるに越したことはないのではないかと思います。方針文書の整備などで精力的に活動されているTondenhさんを頼もしく感じていますし、だからこそ、ちょっとの注意で避けることが可能な些細なトラブルに煩わされることのないようご配慮いただければと思います。--重陽会話2012年4月19日 (木) 17:33 (UTC)[返信]
ええと、そのあたりはWP:CITEHOWといった上位レベルのガイドライン(多くの利用者が基本的に同意しており従うことが推奨されます)だと思っていまして…。これを読むと、少なくとも和書形式はガイドライン化されていると思ったのですが、それと違う部分は、分野での慣例や編集者の意図といった「あらゆる点」として汲み取る、との事なのですね。--Tondenh会話2012年4月20日 (金) 07:51 (UTC)[返信]
(重陽さんへ)何人かの編集者の方が反対の意を表明してますが、「今回の問題の根本的な原因は、分からないないものに対して分からないまま闇雲に手を出してしまったという点にある」というのはこの話の落としどころではないでしょう。誰でもどの記事でも編集できるということは、「分からないないものに対して分からないまま闇雲に手を出しまう」のはありですし、その結果間違ってしまうのもありです。このような問題に対しては、分かっている人が直してあげる、というすばらしい解決法がウィキペディアには用意されてますので。「Tondenhさん、学名はイタリックですよ」と教えてあげていれば済んだ話がこういうふうにこじれてしまって大変残念です。明示的に文書化されていないことを、分野の慣例や編集者の意図として「汲み取れ」というのでは、どう考えてもうまくいかなさそうです。
リンク切れのURLを除去するというTondenhさんの対処は正しいです。日本語版ではリンク切れの対処の仕方は決まってないようですが、英語版だと3番の「紙媒体で出版された場合は単に除去せよ」に相当します。理由はTondenhさんが説明したようなことなのでしょう。地方病 (日本住血吸虫症)に関して言うと、これはオリジナルの書誌情報がCiNiiという同一のサイトに対して固定リンクとそれとは別のURLという二通りのやり方で参照するというあまり意味がないことをしていて(ワンクリックでPDFにたどり着くという利点はありましたが)、そもそも固定リンクがあるのでAccessdateは不要ですし、固定リンクじゃない方はリンク切れとなった時点でますます意味がなくなっています。最初にこっちのほうをクリックしてしまった読者はがっかりするでしょう。{{cite journal}}にDeadlinkdateが使えるかどうかは知らないのですが、それは単純に言って冗長ですし、実際上、サイトへのリンクは切れてないので、単にURLを除去するのでいいはずです。
(Tondenhさんへ)論文タイトルと著者名は面倒でもPDFで確認してください。HTML版は技術的な理由から最終的に出版された表記(PDF版)と異なる、ということはよくあります。イタリックの省略以外に、上付き・下付き文字の省略、ギリシャ文字をAlphaなどとスペルアウトする、著者名のウムラウトを省略する、といったことはよくあります。号数のSupplementは学会発表の抄録集(など)という意味であって省略したらだめです。「P20」は発表番号であってタイトルの一部ではないです(というような間違いはPDF版に表記を合わせれば起きないはずです)。--Bugandhoney会話2012年4月20日 (金) 12:58 (UTC)[返信]
コメント私宛の前半部分に関しては、Tondenhさんには分かっていただけたようですのでこれ以上この場でどうこう言うことはありません。後半部分のURLの除去の方は、URLを除去してNAID引数に置き換えることでCiNiiのデッドリンクを修正するという今回の編集の目的そのものですし、URLの除去に異議は唱えていません。accessdateの方に関しては、「紙面で出版されており、Webが一次公表先ではないので」という理由で除去されるのであれば反対であることに変わりませんが、NAIDがDOIのような恒久的な識別子であって通常の範囲内ではリンク切れが起こることは考え辛いため、DOIのリンクにはaccessdateが付けられていないことに準じて除去するという理由であるならば反対はしません。--重陽会話) 2012年4月21日 (土) 01:01 (UTC)下線部追記--重陽会話2012年4月21日 (土) 01:20 (UTC)[返信]
「分野での慣例」なのか「編集者の意図」なのか、特にこだわりがなくそうやっているだけ、という点はどのように判断すればよいのでしょうか。推奨形式を知らないのと、知っていて崩している、との違いは他人が見抜けるものなのでしょうか(医学記事でもそのあたり様々だったので)
自分は今回のことは「表記をプロジェクト推奨形式に修正したら、ある人が我を忘れるほど怒って暴言を吐いて投稿ブロックされた」といった感触でして、自分と特に関わりのなかった第三者が沸騰するほど怒り出すとは、よっぽど自分が何か根本的重大なガイドライン違反をしたのかと思ったのですが、話を聞くと「慣例」とか「個人の意図」という事で拍子抜けしているのですが…。--Tondenh会話2012年4月21日 (土) 02:04 (UTC)[返信]
コメント科学技術情報流通技術基準 参照文献の書き方など書誌情報の示し方の基礎的な所を抑えた上で、それぞれの分野における学術雑誌の投稿規程などを参考にしてそれぞれの分野における慣例を確認しながら判断するのがいいのではないでしょうか。「推奨形式を知らないのと、知っていて崩している、との違い」に関しても、その分野ではそのような崩し方が一般的に認められているのかもしれませんし、まずはその分野における知識の下地を自分の中に構築するのが第一かと思います。基礎・専門知識の下地があれば、その編集がどのような意図をもってなされたかはある程度汲めるものです。それと、authorをauthorにまとめて記述するかauthor1、author2と分割するかのような基本的にどちらでも構わないものや、推奨もしくは認められている方式が複数ある場合などにおいて、別の方式に置き換えてしまう事は避けたほうがいいでしょう。--重陽会話2012年4月21日 (土) 04:43 (UTC)[返信]
ええと、科学系論文誌における http://sist-jst.jp/、 社会学系論文誌における http://www.gakkai.ne.jp/jss/bulletin/guide.php といった投稿規定の存在は知っておりまして、そしてWikipedia論文誌?での投稿規定がWP:CITEHOWWP:STYWP:NOTEだと認識していたのですが、自分のこの認識は的を外したものなんでしょうか。。総論として、個人的には「風の息づかいを感じていれば事前に気配があったはずだ」みたいな話ではないと思うんですけど…。--Tondenh会話2012年4月21日 (土) 05:27 (UTC)[返信]
WP:CITEHOWは全てのケースにおける書き方が網羅されているわけではありませんし、その分野において慣例的に行われている書き方に従って書かれた書き方がWP:CITEHOW等のWikipedia上のルールと相反するようなものでないのならば、それを排する必要はないわけです。そのような事を判断するためにはその分野における知識の下地が必要なのであって、その分野における書誌情報の示し方の知識が必要なのであれば、その分野における学術誌の投稿規定などを参照すればいいのではないでしょうかということです。書誌情報に限らず本文の変更などであっても関連する周辺情報を抑えておくということは重要ですし、それをしないで編集した結果不具合を生じさせてしまったらトラブルの元になりかねません。知識の下地があれば編集意図をある程度汲めるというのは、この書き方はその分野の専門書でよく見る形なのでおそらくは意図的に行っているのだろうなとか、この言葉はこの分野で専門用語として用いる場合には一般的な意味合いとは異なる意味があるので一見変に見えるけれども意図的にこのような言い回しにしているのだろうな等といったようなことがある程度汲めるというような意味ですので、風の息遣い~とは違う話です。--重陽会話2012年4月21日 (土) 07:40 (UTC)[返信]
総論にとどまっているので、具体的に何の投稿規定なのか指摘していただければと思うのです。en:Wikipedia:Manual of Style/Medicine-related articles#Citing medical sourcesでも、MEDLINE styleでも、臨床血液投稿規程でもありだと思うのですけど、これらのうちの何かに厳密に従っている様子ではなかったので。はっきりと「これを読め」と言っていただかないと、改善の仕様がないのではないでしょうか。--Tondenh会話2012年4月21日 (土) 09:27 (UTC)[返信]
はい、総論を述べています。今回問題となったケースにおいて何を参照すれば分かるかを教えてもらって解決したとしても、その総論部分を理解していただけないと別の所で同じようなトラブルが起こるのではないかと危惧しているのです。ですので、はじめに「学名の斜体表記だけに配慮するのではなく、あらゆる点を配慮していただきたいと思います。」と述べているのです。繰り返しになりますが、今回のケースだけであれば、学名の斜体に配慮する、pageやissueのような必要な引数の転写ミスに注意する(および、authorをauthor1、author2・・・に分割するようなどちらの書き方でも構わないようなものを無理に触らない)といった所に気を付ければいいだけですが、CiNiiのリンク修正を行っていくには様々な分野の記事を横断的に編集することになるでしょうし、その際にまた別の分野に記事において学名の斜体のような知らなければ無意味なものに見えてもその分野においてはそのように書くようになっているものがあるかもしれず、そういう所にも配慮していただきたいという事です。--重陽会話2012年4月21日 (土) 10:55 (UTC)[返信]

すいません。基本的なことを確認したいのですが、Tondenhさんが破ったという医学記事における慣例とは具体的に何を指しているのですか?Tondenhさんが行った編集と医学分野のFA/GA記事を見比べたのですが、そんなものは見当たらないのですが。「医学記事における慣例」などというものは、今のところそういうことを抽象的に主張している人がいるだけであって、実際にはそんなものはないと思っているのですが。存在しない慣例やルールを根拠に編集を差し戻すというのであれば、問題ではないでしょうか。前も書きましたが、ぱたごんさんがTondenhさんによる編集を差し戻したのは、基本的にそれがぱたごんさんの趣味に合わなかったからだとしか思ってないです。pageやissueを省略したのは、医学分野とは関係のない単純ミスですよね?Authorの分割も医学分野とは関係のない、意味のない編集ですよね?Short citation形式は人物記事などとともに医学分野の記事でも採用されてますよね?唯一、「医学記事における慣例」を破った例に該当しそうなのは学名のイタリックを省略したことですけど、これはTondenhさんがリンクを直す際に、有効なリンクであることを確認したCiNiiのページに書いてあるタイトルに表記を合わせようとしたからであって、確かに医学分野の論文をたくさん読んでいれば気付きそうなことではありますけど、ウィキペディアの記事で引用されている論文を検証したらタイトルが違っていたという場合、その検証した出典で確認できるタイトルに直すのは、どう考えてもWP:AGFな編集であって、問題があるとは思えないのですが。--Bugandhoney会話2012年4月23日 (月) 13:47 (UTC)[返信]

私は初めから一貫してCiNiiのデッドリンク修正に関する地方病の編集に関してのみ述べているので、これは医学の慣例というよりは生物関係の慣例でしょうけど、地方病のケースにおいて慣例とは学名のイタリックのことを指しています。地方病における編集はこの場だけでも数点の不備が指摘されており、その編集自体は差し戻されても仕方ないものであったと思います。
記事中に書かれている表記とCiNiiのタイトル表記が違った際に、その違いが単純なミスではなく何らかの意図を持ってあえてそのように記述しているのではないかということをまず始めに考えていただきたいということです。特にその分野に関する知識を十分に持っていないのであればなおさらです。その部分を編集した方は出典元としてCiNiiへのリンクを貼っているのですからCiNiiのタイトル表記は確認しているはずであって、CiNiiで斜体になっていないもの(pdfの方は斜体になっていますが)をあえて斜体にしているのだからそれには何らかの意図があるのだろうということを考えていただきたいと思うのです。確かに、この編集だけ見れば単純なミスですし、ミスはあって当然ですから今後気を付けていただければそれで済む話です。ただ、Tondenhさんは「では1)については斜体を配慮して行う、ということでよいでしょうか。」とおっしゃられ、その発言から、今回の学名の斜体に関してはそれで問題解決したとしても、別の分野の類似のケースがあればまた同じような問題が起きるのではないかと危惧しました。なので、繰り返しになりますが、CiNiiのリンク修正は様々な分野の記事を横断的に編集する必要があるでしょうから、学名の斜体だけでなく、他の分野においても学名の斜体のような知らなければ無意味なものに見えてもその分野においてはそのように書くようになっているものがあるかもしれないので、斜体表記だけに配慮するのではなく、あらゆる点を配慮していただきたいと思います。と申したのです。別の分野の記事を編集した際にも、上記のような配慮を行っていただければ今回の問題と同根のミスを繰り返すことは少なくなると思います。そして、一つ一つの編集に対してそのような配慮を行っていれば自然とpageやissueの抜け落ちのような単純ミスも減らせると思うのです。また、そのような考え方が身に着けば、CiNiiのリンク修正のみならず様々な記事編集の場においても役立つことと思います。始めに「方針文書の整備などで精力的に活動されているTondenhさんを頼もしく感じていますし、だからこそ、ちょっとの注意で避けることが可能な些細なトラブルに煩わされることのないようご配慮いただければと思います。」と申しました通りTondenhさんの活動を期待しているからこその意見であって、殊更にTondenhさんの編集の悪かったところをあげつらって糾弾しようというものではありません。--重陽会話2012年4月23日 (月) 17:25 (UTC)[返信]
お返事どうもです。Tondenhさんを糾弾するつもりなど一切ないというのはよく分かりますし、記事を改善しているつもりが結果的にいろいろと間違いがあったという点に関してだめだというのもそのとおりだと思います。私が納得できないのは、その間違いが起きた原因が、「何らかの意図を持ってあえてそのように記述しているのではないか」ということに思い及ばず、そのような意図を無視したからなのか、ということなのですよ。もっというと、ウィキペディアでは「明示することなく何らかの意図を持って記述を行い、それを後から編集しようとする人に斟酌させたり加筆の仕方に何らかの枠にはめさせようとするのはありなのか」ということなのですよ。このような考え方は、誰でもどの記事でも編集することができる、記事には所有権が認められない、というウィキペディアの方針に反しているように感じるのです。私にとっては、学名のイタリック表記は、「何らかの意図」とか「生物学記事の慣例」といったような大げさなものではなくて、経験がない人でもせいぜいPDF版で確認できるような表記の決まりごとでしかないです。要するに、オリジナルの編集者の意図などに思い至らなくとも(そういうものがあったとして)、単に出典に厳密に基づいた記述を行うだけで間違いを避けることができたように思われますし、他の編集者の意図に思いを寄せるというのではなくて、出典に厳密に基づいた記述を行う、という編集姿勢のほうがわかりやすくてウィキペディアにとっても好ましいように思われます。オリジナルの記述を行った編集者も、単に出典となっている論文に依拠して記述しただけではないでしょうか(まあ、そういうことが「生物学の慣例」ということなんでしょうけど)。--Bugandhoney会話2012年4月24日 (火) 18:02 (UTC)[返信]
「明示することなく何らかの意図を持って記述を行い、それを後から編集しようとする人に斟酌させたり加筆の仕方に何らかの枠にはめさせようとするのはありなのか」という点についてですが、学名の斜体のように通常その分野に対するある程度の知識があれば明示されなくてもその意図は理解できるものに対してまで明示する必要はないと思います。共同作業で記事を作り上げていくというWikipediaの特性上、ルール等によってある程度加筆の仕方を枠にはめることは必要でしょうし、「あらゆる点を配慮していただきたい」という私の要望はWikipedia:編集方針#記事の改善を試みて下さい、但し慎重さも忘れずににある「どのような方法で改善するにしても、十分に検討を行い慎重さを忘れないようにしてください。」という方針文書の範疇であると思っています。
「何らかの意図」や「分野の慣例」について多少認識にずれがあるようです。私は「編集者の意図」や「分野の慣例」の多くは少し慎重に調べれば分かる程度のもので大げさなものではないと思っていますし、慎重に検討しても分からないようなレベルの意図までも斟酌しなければいけないとまでは言いません。が、そのような場合も編集前にノートページ等で前もって尋ねるといったことを行えばより良いとは思います。もっとも今回のケースでは、Tondenhさんがぱたごんさんの会話ページで白血病の参考文献除去について事前に尋ねて除去すればいいと言われたので除去したら差し戻されてしまったといった経緯があったことを鑑みれば、仕方がないかなとも思います。話を戻しまして編集者の意図についてですが、以前述べた「この書き方はその分野の専門書でよく見る形なのでおそらくは意図的に行っているのだろうな」という部分で具体的に示したいと思います。例えば「Hill, A. F. (2000). “"Simple" Ruthenium Carbonyls of Ruthenium: New Avenues from the Hieber Base Reaction”. Angew. Chem. Int. Ed. 39: 130–134. doi:10.1002/(SICI)1521-3773(20000103)39:1<130::AID-ANIE130>3.0.CO;2-6. 」(塩化ルテニウム(III)より)という書誌情報があったとします。DOIから誘導されるページに書かれた雑誌名は「Angewandte Chemie International Edition」ですから、出典に書かれた雑誌名は一見間違っているように見えるかもしれません。しかし、雑誌名から内部リンクされているAngew. Chem. Int. Ed.を見れば、「Angewandte Chemie International Edition」は「Angew. Chem. Int. Ed.」と略記されることは分かりますし、もっと突っ込んで調べればこのような省略方法がISO 4という国際規格によって定められたルールに従った略記法であることや、SIST05雑誌名の表記の「3.3 外国語誌名の表記」および「4. 欧文誌名の省略・略記の方法」に書かれているように、そのような表記法によって雑誌名を記載することは通常認められているというところまで分かるはずです。ちょっとした専門書や欧文の論文に多く触れていればそのような略記法は良く見かけますし、そのような知識の下地があれば、編集者が独自研究で勝手に略したのではなく、きちんとルールに沿って略記しているのだとその意図が分かるはずです。そして、そのような前提知識がなかったとしても、自分が知らないだけでそのような表記法もあるのではないかとちょっと調べれば容易に分かります。「出典に厳密に基づいた記述を行う」という点についても、この例示したケースと逆のケースを考えれば、機械的に全てのケースにおいて適応することが適切でないこともあるのではないかと思えます。例えば「The Elbs and Boyland-Sims peroxydisulfate oxidations Behrman, E. Beilstein Journal of Organic Chemistry 2006, 2, 22. DOI: 10.1186/1860-5397-2-22」(エルブス過硫酸酸化より)と書かれた書誌情報があったとします。DOIから誘導されるサイトの書誌情報がまとめて書かれている部分には雑誌名は「Beilstein J. Org. Chem.」と書かれており(このサイトの場合右上に省略しない雑誌名が大きく画像で書かれていますが)、雑誌名について出典に厳密に基づいた記述はされていません。しかしながら、略記しない雑誌名である「Beilstein Journal of Organic Chemistry」と書く方が閲覧者に取ってより親切であろうという意図のもとにそうされているのかもしれませんし(この記事の場合、翻訳元である英語版でこの部分を書いた同じ方が別の出典の雑誌名を省略した形式で書いていることからそうでないかもしれませんが)、単純に紙の雑誌を見て書いたのかもしれません。このケースでもっともありそうなのは英語版にはen:Beilstein Journal of Organic Chemistryという記事があるので単にそれに合わせたというだけのことなのでしょうが、省略しない雑誌名で書く方が親切であろうという意図が見えるようなケースならば(例えばその人が書いた出典部分が全て省略しない雑誌名になっているといったような)、そのような場合にまで「出典に厳密に」略記された雑誌名へと機械的に置き換えることは最善な編集ではないように思います。--重陽会話2012年4月25日 (水) 12:07 (UTC)[返信]

雑誌をスペルアウトするか省略形を用いるかは、学名イタリックのあるなしと違って、どちらも論文で一般的に使用される表記法であって、どちらを使っても正解ということになると思います。どちらを使うかは編集者の好み以上の意味はないでしょう。一方を他方に書き換える編集は、意味がないと指摘されることはあっても、学名イタリックの省略とは違って、記事の質が悪化するということは起きないです。出典どおりに表記すれば間違いはない(記事が悪化することはない)というのはそのままだと思います。

この問題に関しては、英語版の出典の示し方の表記ぶれの統一の仕方en:WP:CITEVARが大変参考になりました。英語版の書誌情報は日本語版以上に混沌としていて、たとえば日付表示も統一されていないのですが、特にルールを定めない、というのがルールになっているようです。唯一のルールは、出典の示し方は一つの記事の中では統一させるということです。ですから、雑誌名でいうと、一つの記事の中ではスペルアウトするか省略形を用いるかどちらかにせよ、ということのようです。表記を統一させる際は、すでにある表記法に合わせる、というふうになっていて、もめた場合は最初に記事を書いた主要執筆者が採用した表記法に合わせるか、ノートで合意を得る、となっています。Tondenhさんが導入しようとしたShort citation形式は、ノートで提案して合意を得てからのほうがよかったかもしれません。私が関わった事例ノート:赤報隊事件#出典の示し方では、そのおかげで非常にスムーズに行きました。--Bugandhoney会話2012年4月25日 (水) 18:15 (UTC)[返信]

それはBugandhoneyさんがその点に関する知識がおありであり、その上にen:WP:CITEVARという文書を参照なされたから、そのような適切な判断ができるわけです。もちろんここまで対話を進めた上でBugandhoneyさんやTondenhさんが雑誌名の省略に関するルールを知らないとも思いませんし、あくまで例示であることを念頭に置いていただきたいと思います。先の私の発言における前半部分の「明示することなく何らかの意図を持って記述を行い、それを後から編集しようとする人に斟酌させたり加筆の仕方に何らかの枠にはめさせようとするのはありなのか」に関する見解についてはいかがでしょうか。そちらの方がBugandhoneyさんが一番気にかけておられる部分ではないかと思うのですが。--重陽会話2012年4月25日 (水) 22:31 (UTC)[返信]

個人的には、慣例や個人の意図レベルの問題で初対面の人にブロックされるほど怒りだし、それに対し”記事執筆を中心とした参加者であれば多少の問題発言も仕方なし”といった同情的コメントが集まるメンタリティは不可解ですが。。Wikipedia:編集方針#多様な参加姿勢が受け入れられますウィキペディアは、これらすべてを受け入れています。ともあったと思うのです。
取り敢えずは自分からのコメントはこれで一区切りとしたいと思います。--Tondenh会話2012年4月26日 (木) 03:13 (UTC)[返信]

日本語版ウィキペディアの裁定委員会と調停委員会の設置提案

日本語版ウィキペディアに裁定委員会と調停委員会を設置したらどうでしょうか?よりよい健全なウィキペディアを守るために。--ASD123会話2012年4月10日 (火) 05:22 (UTC)[返信]

Wikipedia‐ノート:裁定委員会を見れば4年半前から動いていないようです。今から議論を再開したとしても設置には1年以上はかかるのではないかと。(Wikipedia:裁定の方針の作成。委員選出の方法、委員選出)--hyolee2/H.L.LEE 2012年4月10日 (火) 05:38 (UTC)[返信]
その委員会を設置するための予算、誰が出すんですか? また、そうした委員会のメンバーは、その人選はどのようにされるのでしょうか? 日本語版にだけ特別にそのようなものが必要だとお考えなのですか? そもそも、そうした委員会を設置するという考えは、コミュニティによる相互監視がうまくいっていないと思われているからでしょうか。--静葉会話2012年4月10日 (火) 06:22 (UTC)[返信]
そもそも、ウィキペディア上の委員会ですから設置にはお金はかかりません。裁定委員会は現在WP10言語版で運営しています。(Wikipedia‐ノート:裁定委員会は9言語版と記載されていますが、昨年の12月にWP韓国語版が設置しましたので10言語版になります)必要かどうかはWikipedia‐ノート:裁定委員会で議論するほうがよいでしょう。--hyolee2/H.L.LEE 2012年4月10日 (火) 06:30 (UTC)[返信]
予算云々は余計でした。どのみち、そうしたものが日本語版でも必要であれば、議論が活発になっている、あるいはすでに活動しているのいずれかになっているでしょうね。--静葉会話2012年4月10日 (火) 11:37 (UTC)[返信]
現状ではまだ早いと思います。英語版のプロジェクト文章はそれなりに充実しており、それらを読めば裁定に持ちこまずともきちんと方向性が示されていることが多いと感じます。いまの日本語版のドキュメント整備状況では、委員会を設けても裁量裁定(足して二で割る)で終わるような気がします。まずは日本語版のプロジェクト文章でもGA/FAレベル?を目指しませんか…ということで翻訳を時折やっております。--Tondenh会話2012年4月10日 (火) 15:16 (UTC)[返信]
適切な手続きで行われるのであれば設置には賛成ですが、その結果ASD123さんが望まない状況になる可能性もあることをご理解していただけているかどうかが少し不安です。--Himetv 2012年4月11日 (水) 12:50 (UTC)[返信]

GAのマークをつけてください

スミマセン。どこにお願いしていいかわかりません。矢数道明 小林ハルを英文にしましたが、どちらもGAですので、英文の方の左の方にGAのマークをつけてください。--Ichiro Kikuchi会話2012年4月10日 (火) 12:14 (UTC)[返信]

こんばんは。英文とはen:Dōmei Yakazuen:Haru Kobayashiのことでしょうか?両記事にen:Template:Link GAを追加しましたのでご確認ください。英語版のことは英語版で聞かれた方が良いと思います。また、Wikipediaの利用方法に関するご質問はWikipedia:利用案内でお願いします。--Penn Station 2012年4月10日 (火) 13:01 (UTC)[返信]

放送番組の検証可能性について 20120411

元議論はノート:あの夏で待ってるで行っておりましたが、記事とは無関係な議論になったとの発言もありますゆえ、議論場を井戸端へ移動します。

議論は2012年3月6日15:03(UTC)のDojikingさんの発言に対する2012年3月21日11:28‎(UTC)の私の発言に端を発します。Dojikingさんの発言が検証可能性の理解不足でないかと思い件の発言を行いました。その後DVDやBlu-rayの検証可能性について話がずれましたが、ここでは議論の対象と致しません、ご了承を。その後も議論を続け検証可能性について言及がされましたが、

  • 「私たち編集者だけが検証できても検証可能とは言わない」とする拙案
  • 「検証する手段を保有している人が検証する」とするDojikingさん案

以上の二つが正面からぶつかっております。一対一で議論しても話が平行線を辿る一方のため、広くご意見を頂きたく宜しくお願い致します。--Ritis会話2012年4月11日 (水) 12:15 (UTC)[返信]

放送局や制作会社が保存しているはずのVTRやフィルムにきっと残っているはずだから検証可能だ!・・・は、恐らく誰の賛同も得られないと思うのですが。この場合の検証可能って、閲覧者層や検証を望む将来の編集者が、そのVTRやフィルムを見ることが現実的に可能かどうかですから。・・・・・・無理でしょう。それが検証可能と認められるなら、どこかの会社のどこかの会議資料も「検証可能」になってしまいますし、○○家に門外不出の古文書なども「検証可能」と見なせてしまいませんか?望めば誰でも(多少は困難でもよいので)検証できなくてはいけません。--Hman会話2012年4月11日 (水) 13:07 (UTC)[返信]
検証可能性の「検証」は、読者自身が記述の正確さを確かめるために行う行為です。そのため、読者が検証を行いたいときに、常識的な方法で入手できる資料だけが検証可能だといえます。したがって、「検証する手段を保有している人」が「不特定多数のウィキペディアの読者」と等しくならないものはふさわしくありません。そういった事情から、一度見逃してしまうと見ることの出来ないテレビ番組は、検証可能な資料とはみなされてきませんでした。--有足魚会話2012年4月11日 (水) 13:36 (UTC)[返信]
一般論でいうと公開された動画は検証可能性を満たしています。一方で、テレビなどの一回きりの流しっぱなしの放送番組は記録しておかないと消えてしまうので検証可能性を満たしていないです。検証可能性というのは、他の人もその情報の裏が取れるということです。要するに「俺がTVで観たときはこうなっていた」は他の人が検証しようがないです。方針WP:V#NRでもそういう風になっています。
一方で、今回のケース、記事の主題が放送番組自体の場合、ここまで厳格にこのルールを適用できないと思います。というのは、プロットやキャラクターに関しては放送内容をもとに記述することができるのに、それ以外のことは検証可能性を満たしていないので記述することができないというのでは変な感じです。番組を観た編集者の間で見解が一致しているのであれば(もめていないのであれば)、主題が放送番組の記事では放送内容を根拠にしてもよいのでは。--Bugandhoney会話2012年4月11日 (水) 13:58 (UTC)[返信]
それについては、後日、アニメ評論家なり、アニメ雑誌なりによる「二次資料」が出てくれば検証可能と言うシステムですね。10年もすれば「懐かしのアニメ」的なムックが出てくるかもしれません。一次資料ですが、制作者のうちあけ話も出てくるかもしれません。それから書けば良いのです。「二次資料がまだ出てこないから取り敢えず検証不可能だが書いておく」のは、非常にまずいんじゃないでしょうか。そこまで拙速を求める必要はありませんし、ウィキペディアは速度より検証可能性と信頼性に重きを置くべきものと心得ておりますのですが。クイズ番組やバラエティ番組の記事などでも、「見た」からと言って加筆される例を非常に多く見かける印象があるのですが、検証も反証も不可能でして、いやはやなんとも・・・。検証可能性、大切ですよ。ウィキペディアでは。この辺りはWikipedia:検証可能性にぼんやりと書いてはあるのですが、もう少々踏み込んでわかりやすく明記しておくべきなんじゃないかと、今の状況を見ると、考えざるを得ません(もちろんこれはウィキペディアと言うサイトの指向がそういうものなんじゃないかと言うだけの話であり、テレビで見たままを記述してよいwiki百科事典は、それはそれでもちろん、アリと思います。私も結構余所で色々、自由奔放に、楽しく書いてます)。--Hman会話2012年4月11日 (水) 14:08 (UTC)[返信]
もとの議論をちゃんと追っていないので勘違いしているだけかもしれませんが、もめているのはテレビ番組のエピソードのサブタイトルの表記をめぐってですよね?この場合はもっぱら一次資料(つまり作品そのもの)に依拠することになると思うのですが。たとえば、ある本を主題にした記事で章見出しを一覧にしたい、という場合はその本を見ながら書くことになると思うのですが。活字媒体と違ってテレビ放送には原則として検証可能性がないというのはそのとおりですが、一方でテレビ番組を一次情報にあらすじや登場人物を記述することは一般的に行われていて、問題の記事でもそうなっています。たとえば、あるテレビドラマで時間の経過を表すために画面に「その3日後」というキャプションが表示されたとして、ウィキペディアの記事の「あらすじ」に「それから3日が経って」と書くのはありなのに、番組冒頭で画面に表示されたサブタイトルはウィキペディアでは参考にできない、というのでは変だと思います。何を情報源にして記事を書くかは記事の主題によるかなと。
製作者や出演者のコメント、作品の評価といった二次情報を記述する際にテレビ放送を認めるべきではない、というのはそのとおりだと思います。--Bugandhoney会話2012年4月11日 (水) 16:16 (UTC)[返信]
今回の場合は議場が井戸端ですので、テレビ放送が検証可能かと言う一般論で考えるべきでしょう。Bugandhoneyさんの仰る「テレビドラマでそれから3日経ってと表記されていた」とういものも、やはりこれがDVDなりBDなりで流通し、検証可能になった時に一次資料として成立するんです。人によってはDVDやBDでさえ十分でないと仰る場合もあります。まあ所詮一次資料ですから、一次資料なりの扱いしかできないのですが。筆がちょっと走りすぎるとすぐに独自研究になってしまいます。そう言った意味で二次資料の報が遥かに好ましいのは申し上げるまでもありませんがそれはさておいても、結局史料が出てくるまでは有効な出典を示せません。検証不可能なので、書くべきではないのです。更に、「本放送では甲であったが、DVDでは乙であった。確かにそうなのだ。私は確かに見た」場合も、それがDVDの冊子やその他各種二次資料で示されるまで、書くべきではないんですね。どうしても入れ込まねばならないほど重要なことであればきっといずれ二次資料が出る、と、どんと構えているしかないでしょう。まあウィキペディアって大抵そんな事だらけですし。漫画やゲームならまだ、十分に流通に乗ったものでしたら現実に情報にアクセスできる可能性もあると言えますが、いかんせん電波は、無理でしょうね。もっとも、DVD化されていなくても、その気で望めば多少時間と手数料がかかっても、常識の範囲で、おおよそ誰もが検証できる映像ソースももちろんありますでしょう。そういうものが示されましたら、それはそれでケースに合わせて検討すれば良いのです。・・・と、Wikipedia:検証可能性は言っていると思うんですけどね。結局は「(誰でもそれなりに満足に)検証可能かどうか」ですから。--Hman会話2012年4月11日 (水) 16:41 (UTC)[返信]
誤解を生じない様、念のため発言させて頂きます。元のノートでも述べていますが、私は「私たち編集者だけが検証できても検証可能とは言わない」と言う意見を否定する気は全く有りません。検証するのが編集者であるか閲覧者であるかを、限定しなければならない様な理由は全く無いと思います。ただし、それはあくまでも「検証する手段を保有していれば」の話です。検証材料が無いのに検証すると言う発想は有り得ないと思いますし、検証材料が手に入らないから検証可能性を満たさないと言う事にもならないと思います。そうでなければ、高価な専門書を出典とする様な記事で、「そんな書籍を私は買えない」「だから検証できない」「なので検証可能性を満たさない」と言う事になってしまいます。ニュースやバラエティであればともかく、不特定多数の方が録画を所有している事が期待できる、アニメやドラマの場合に於いて、「私は録画を所有していない」「だから検証可能性を満たさない」は、通用する話では無いと考える次第であり、事実、本放送作中の描写は、無数の記事に於いて存在していますし、それを全否定すると言う話は、現実問題として有り得ないと思います。--Dojiking会話2012年4月11日 (水) 16:45 (UTC)[返信]
一部の記事で高価な文献を使っている可能性もあるのでアニメ記事でも電波を出典としてよい、とはもちろん、なりません。他の出典に問題が有るのであれば、それは他の記事を改善すべきだけの話です。もちろん極端に参照(購入する必要は無いんですよ、念のため。アニメDVD/BDだと公的な図書館での参照や貸し出しが難しく、購入になる場合が多そうですが)が難しく事実上不可能だと言いたくなる様な文献が典拠とされているのは、厳しいでしょうね。そちらはそちらで改善しましょう。もちろん、日本中に幾十枚か幾百枚か有るかもしれないでもない本放送の個人録画・個人所有のDVDは、満足に検証出来る媒体ではありません。--Hman会話2012年4月11日 (水) 17:06 (UTC)[返信]
Hmanさん、コメントどうもです。いろいろと読み比べてみた結果、Hmanさんと似たような意見に変わりました。一番合点がいったのはen:Wikipedia:Identifying reliable sources#Overviewでした。ここには"Published"(公表された)の定義には音声や動画など放送されたものも含まれるが、"Additionally"として但し書きがあり、その場合はアーカイブされたコピーが存在することが必須だ、となっています。その際、有効なアーカイブと呼べるのは、信頼できる第三者によるものだけだと限定すると、私的な録画はアーカイブされたコピーとまでは言えず、ウィキペディアでは出典として用いることができない、ということになると思います。DVDなどになっていないテレビドラマでも、あらすじや登場人物を記述することは現状では広く行われていますが、これは検証可能性の方針が一貫して適用されているわけではないから、というふうに理解することにします。DVDとして発売されていなくても、何がしかの機関が録画・アーカイブにしていれば、検証可能性を満たすことになると思います。--Bugandhoney会話2012年4月11日 (水) 18:44 (UTC)[返信]
まあ結局は「まともに参照可能かどうか」なだけでして(その次には信頼出来るかという関門がありますが)、昔から言われているらしい笑い話に、「マニアックな文献を出典としたいなら、それを図書館に寄贈してしまえばいい。それで検証可能になる」などと言うものがあります(笑)。DVDなどになっていないテレビドラマのあらすじ等は、どうなさったのかは執筆成されたご本人に聞いてみないとわかりません。ウィキペディア創世記は、方針の適用もかなり鷹揚(適当)だったと聞きまして、この3,4年でしょうか、記事の数や分量もそれなりに整ってきたしそろそろちゃんと方針通り、信頼できる百科事典にしていこう、となってきた様です。すいません、私も特にかつてのIP時代など、ちゃんとした本でなくて真偽不明のネット情報やテレビを見た記憶で書いた事がいっぱいあります(苦笑)。はい、もちろんその様な事は現在も将来も、もう金輪際行いません。でまあ、そう言った時代の記事については徐々に(時として大幅削減と言う痛みを伴いながら)改善していくしかないのですが、何よりこれ以上増やさない事が、急務なんでしょうね。何十人もの人が情熱を注ぎ込んだ記事の大幅削減と言うのは本当、心が痛むのですが(他のwikiに転載すればいいのかもしれませんね)。--Hman会話2012年4月11日 (水) 20:44 (UTC)[返信]
武勇伝(?)どうもありがとうございました。en:Wikipedia:Reliable sources/Cost(私論)には、その資料がたった一箇所のアーカイブや博物館でしか閲覧可能でないとしても検証可能であることには変わらない、とはっきり書いてありますね。テレビドラマのあらすじは新聞の番組紹介やテレビ情報誌を参考にすることもできますが、そういうのは普通結末までは書いてないのでウィキペディアで紹介するあらすじとしては不適当なはずです。あらすじには普通出典をつけないですが、これは記事の主題である作品そのものが出典であることは自明だからだと解釈しています。つまり、アーカイブのないテレビドラマのあらすじは検証可能性を満たしていないとみなされても仕方ないでしょう。ただ、今どきテレビドラマなんて、どこかでアーカイブにされてそうですが。--Bugandhoney会話2012年4月11日 (水) 21:39 (UTC)[返信]
日本語版にどの様なかたちで移入されるのか、或いは制式化されるのかは全くわかりませんが、相応に公的な資料館で確かに閲覧できるのであれば、検証可能と見なされるのが自然そうです。私の頼りない英語力で読む分には、全ての項目について妥当な考え方に見えます。現在でも書籍なら、どうやら「地方図書館になくとも最悪国会図書館に蔵書されていればよし」と言う運用になっていますしね。フィクションのあらすじに出典が明記されていない事例が多いのは、ご指摘の理由によります(細かい点については何巻、何分頃、まで脚注で示すべきでしょう)。実際にその参照先がどうなのかは個別の記事に因りますので、ノートでお問い合わせ頂くよりないでしょう。実は何かの本が典拠でした、となって頂きたいものです。--Hman会話2012年4月12日 (木) 04:06 (UTC)[返信]
議論の為の議論の結果として、「本放送は検証可能性を満たさない」と結論付ける事は簡単ですが、それを編集方針として記事の編集を行ったとして、現状のWikipediaに於いて、果たして支持は得られるのでしょうか。現実問題として、本放送を出典とする記述は星の数ほど有り、放送作品の記事全てに存在すると言っても過言では無い状況下で、その全てを「検証可能性を満たさない」として切り捨て、片っ端から記述の除去を行ったとして、それが受け入れられる行為だと思われますか。もちろん、何処かのガイドラインに「本放送は検証可能性を満たさない」と、誰もが読み取れる表現で明記されたとすれば、それに沿った編集を行うのが筋ですが、現状の曖昧で解釈の分かれる記述では、許容される編集とは到底思えません。また、受け入れられたと仮定しても、その様な編集を行った記事が、マトモな記事としての体裁を維持できるのかどうか、甚だ疑問に思われます。もし、「本放送は検証可能性を満たさない」と明言されている皆さんが、実際にその方針に沿って編集を行われているのであれば、該当する記事を御案内頂ければ参考にしたいと思いますが、実在しないと言う事であれば、裏付けの無い机上の空論に過ぎず、全く説得力が有りませんし、今後その様に編集する、と言われても、単なる掛け声に過ぎません。ノートであれ井戸端であれ、議論の経緯や結果は少なからず周りに影響を与えますし、この場の議論の結果を頑なに遵守する編集者も現れるかもしれません。もっと現状を見据えた上で、それを指針とした編集が実際に行われる事を想定した議論を行うべきではないでしょうか。なお、「Additionally」には「アーカイブされたコピーの存在が必要」とは書かれていますが、「有効なアーカイブと呼べるのは、信頼できる第三者によるものだけ」とも「私的な録画はアーカイブされたコピーとまでは言えず」とも書かれておらず、「ウィキペディアでは出典として用いることができない」との発想は、余りにも強引で乱暴過ぎると思います。--Dojiking会話2012年4月12日 (木) 08:13 (UTC)[返信]

まあ、個人的なアーカイヴが検証可能なものとして認められることは、ウィキペディアでは、ありえないでしょう。--Hman会話2012年4月12日 (木) 09:37 (UTC)[返信]

個人が撮影したホームビデオならイザ知らず、本放送された作品の録画が検証可能では無いなんて話は、支持を得られる意見では無いですね。--Dojiking会話2012年4月12日 (木) 11:40 (UTC)[返信]
これ以上私から申し上げることは無さそうです。もちろん方針の改訂に向けてのロビー活動に制限はありません。--Hman会話2012年4月12日 (木) 11:52 (UTC)[返信]
一つの懸念としてあるのは、その録画が全く何の改変もされていないという保証は誰が行うのでしょうか。ウィキペディアは匿名の不特定多数の人間が編集しているのですから、たとえ善意の行動だとしてもすべてを信頼するわけには行きません。--有足魚会話2012年4月12日 (木) 11:55 (UTC)[返信]
コメント それだとコモンズの画像を元に記述したものも「Photoshopで大きく加工したかもしれないから無効」となって泥沼化するような気もするのですが……(出典がない記述は論外として)Wikipediaは性善説ではないのでしょうか。あと、素朴な疑問なのですが専門家自身が「○日のテレビを見ていたらこんなことが放送していたがこれはこうだ」とWeblogや書籍でmentionするのは出典になるのでしょうか。こうなってくると「なる」にしても「ならない」にしても異論が噴出してくる感じがするのですが。--にの会話2012年4月12日 (木) 12:35 (UTC)[返信]
画像に関しては確かにおっしゃるとおりで、撮影者を信頼する姿勢なのだと思います。しかし、そういった画像は記事の記述の出典にはならないので、ここで議論になっている話題とは関係しないと思います。複数の情報源で矛盾する事実があった場合は、Wikipedia:中立的な観点に従って記述されるべきでしょう。--有足魚会話2012年4月12日 (木) 13:30 (UTC)[返信]
ブログはともかくTwitterは気軽に放言できてしまうと言う問題が有り、公式に書籍として出版する場合より慎重に扱わねばならないと思いますが。東日本大震災および福島原発事故の時も、Twitterでのつぶやきを逐一記事に盛り込もうとして悶着が有った様な記憶が・・・。Wikipedia:中立的な観点Wikipedia:言葉を濁さないに則って、○○がTwitterでつぶやいた、という筆致で書いておけばあまり間違いも起こらないかもしれません。ただし検証可能性以前に、事象に特記性がなければ仕方がないですけどね。commonsの画像の方はやはり、それを根拠に記事を執筆することは難しいでしょう。恐らく、論外です。それはさておき私も時折、「○○の写真」を上梓しますが、「それほんまに○○の写真なん?捏造とちゃうの?」と言われると・・・。「この写真は他の資料に掲載されている写真と矛盾していない」と主張することで、その追求を一部、免れ得る可能性はありますが、本当のところは難しいです。「これは琵琶湖の写真である」でしたら、他の資料に似た風景があれば、証明になるかもしれません。ですが、「この写真がキャプション通り7月下旬の琵琶湖であり、8月上旬のものではないと言うことを証明せよ」と言われたら、どうするんでしょうね。--Hman会話2012年4月12日 (木) 14:21 (UTC)[返信]
ちょっと話がそれているとは思いますが、コモンズは基本的に改変などありのフリーな素材集であすし、コモンズに画像をアップしてそれを根拠に何かを記述するというのではWP:CIRCULARに抵触しますし、コモンズの画像を記事の出典に用いるということは行われていないと思います。画像は、記事の出典ではなく主題理解を助ける一手段ではないでしょうか。その上で画像やキャプションに改変が加えられていないことをどうやって確かめるのか、という問題を考えてみますが、私的に撮影してコモンズにアップした画像と私的に録画して手元にある動画の違いは、他の編集者が内容を確認できるかどうかにあると思います。画像やキャプションの中に、記事の主題にとって重要となる情報があるが真正であるかどうかが確認できない、あるいは記事の主題理解にそもそも役立ちそうにない、というのであれば単にその画像を使わなければいいだけですので。画像はなくとも記事としては成り立つはずです。
名前の通った専門家が何人もの編集者が編集に関わっているような評判のよい情報源で「○日のテレビを見ていたらこんなことが放送していたがこれはこうだ」と言及することは基本的に出典になります。同じことを誰でも書き込むことができるウィキペディアのノートに匿名の人が書いたとしても、情報の信頼性や重みがまるで違います。出典としたいブログや書籍がウィキペディアと同じルールで記述されている必要はないですし、ウィキペディアで大事なのは、編集者が記述していることが検証可能かどうかなのであって、記述の内容(出典)が真実であるかどうかではありませんので。--Bugandhoney会話2012年4月12日 (木) 15:49 (UTC)[返信]
なるほど「この地域の看板の色は他と違う」というようなものは補助的なものに過ぎないということですね。これは得心しました。--にの会話2012年4月12日 (木) 20:13 (UTC)[返信]
Dojikingさん。まず、基本的な事実を共有したいのですが、TV番組は信頼性に乏しい情報源であるというのは現行の方針ではっきりと謳われています。
一般に、信頼性に乏しい情報源とは、事実確認について評判がよくない情報源、あるいは事実確認の機能を欠く情報源(「TVで観た」等)、または編集上の監督を欠く情報源です。 — WP:V#NR
次に、英語版の文書ですが、アーカイブに関しては確かに何も規定されてないですが、「俺は録画テープを持っている」「その内容はこうだ」というのは、結局他の人が客観的に確認する手段がないです。今問題になっているのはテレビ番組を一次資料として使用してよいか、ということだと思いますが、一次資料に関しては以下のように決められています。
信頼できる出版元によって、その情報が入手できる状態になっていない一次資料は、使ってはいけません。 — Wikipedia:信頼できる情報源#情報源
現行の方針文書でこのように謳われているので、「TV番組やそれを私的に録画したものは検証可能性を満たしているとは言えない」という見解は多くの編集者から支持されているとみなすことができると思いますし、実際この議論でもDojikingさんの見解に対して賛意を表明した人はいないです。テレビ番組の検証可能性に関しては過去に何度も議論されているのでそちらも参考にされるとよいでしょう[12]。それから、ガイドラインがどうなっているか、ということと、それが一貫して守られているか、というのは別の問題であって、たとえば駐車違反を取り締まる法律があるだけで駐車違反を根絶できるわけではないですし、また、現状でたくさんの駐車違反があるからといって、それならそれを取り締まる法律がないのだろうとか、そんな法律は尊重しなくてもいいはずだ、ということにはならないです。ウィキペディアでは記事は徐々に改善していけばよい、という考えであって、TV番組は出典としないという一貫した扱いが編集者の間に徐々に浸透していけばよいのであって、何かの方針に反している記述が一斉に除去されるというようなことはウィキペディアでは普通起こらないです。--Bugandhoney会話2012年4月12日 (木) 13:04 (UTC)[返信]
根本的に認識が相違している箇所が2点有ります。まず、「TVで観た」と「TV番組」は同義では有りません。「Webで見た」と「公式サイトに載せられている」が全く異なる位置付けであるのと同様に、単に「TVで観た」と言う得体の知れない証言と、記事の題材そのものである、素性の明らかなPGの中で描かれた内容とでは、全く意味合いが違います。次に、例えば何々と言う放送作品について、記事の対象として扱うのは、個人の録画では無く本放送です。Aさんの保有している録画に関する記事を作成している訳では無く、本放送された放送作品の記事を作成する際の検証材料として、Aさんが検証物として録画を使用するのです。つまり、「俺は録画テープを持っている」「その内容はこうだ」という事を検証するのでは無く、記事に書かれた内容の真偽を確認する為に、録画を参照する訳です。従って、「結局他の人が客観的に確認する手段がない」のでは無く、他の人が検証する際に使用する手段が録画なのです。これは、出展として余り異論の出ないであろう活字媒体にしても同じ話で、Bさんが所有する、唯一無二の書籍の個体の記事を書く訳では無く、その書籍に於いて語られた作品の内容を記事として書く訳で、それを検証する為に、Bさんは保有する書籍を参照する訳です。これらに関しての認識が曖昧なままでは、確かに「TVは出典に相応しくない」との漠然とした結論に至るかもしれませんが、各々の位置付けを適切に認識しさえすれば、自ずと答えは違ってくるはずです。--Dojiking会話2012年4月12日 (木) 15:42 (UTC)[返信]
うーん、ちょっともう私のほうからは何とも。たとえばDojikingさんが録画したものを出典に何かを記述したとして、その内容を私が検証したければDojikingさんの家に出かけて行って録画したものを見せてもらえば検証することはできますが、それをウィキペディアでは検証可能性を満たしているとは言わないというだけだと思いますけど。--Bugandhoney会話2012年4月12日 (木) 18:12 (UTC)[返信]
うーん、ちょっともう私のほうからは何とも。たとえばBugandhoneyさんが所有する書籍を出典に何かを記述したとして、その内容を私が検証したければBugandhoneyさんの家に出かけて行って所有する書籍を見せてもらえば検証することはできますが、それをウィキペディアでは検証可能性を満たしているとは言わないというだけだと思いますけど。と言う文章が正しいと思いますか。--Dojiking会話2012年4月13日 (金) 05:44 (UTC)[返信]
(呆)図書館と言うものがこの世にはあってだな。--125.2.47.93 2012年4月13日 (金) 15:36 (UTC)[返信]
(戯)それは知りませんでした。大変勉強になりました。彩の国を訪れた際には、是非とも図書館と言う場所を訪問したいと思います。情報に感謝致します。--Dojiking会話2012年4月13日 (金) 16:37 (UTC)[返信]
脈絡の無い発言は無視するとして、改めて説明させて頂きますが、上で書いた内容は少しフザけて見えたとしても、言っている事は変わりません。まず、繰り返しになりますが、出典は録画では無く本放送です。例えば、仮に「三国志」の単行本をAさんが個人的に所有していたとして、その単行本を見て記事を書いたとします。その場合の出典は、あくまでも「三国志」であり、「Aさん個人所有の単行本」では無いはずです。また、手元に単行本を所有するAさんが、わざわざ図書館や、ましてや国会図書館に出向いて検証を行うとは考えられません。であるならば、手元の単行本を元に検証を行うのも、手元の録画を元に検証を行うのも、全く同一の行為です。にも関わらず、放送作品の場合だけ「録画が出典」と連呼するのは、明らかに印象操作です。更に言えば、Wikipediaの執筆や検証だけの為に、国会図書館にまで足を運ぶコアな利用者は、極めて少数派だと思います。従って、それが書籍であろうが放送作品であろうが、現実的には「個人所有の」ソースを使用していると考えるのが妥当です。この様な現実にも関わらず、公的なコピーが参照できい事だけを盾に、頑なに検証可能性を否定し、Kanoharaさんの算式に倣えば、都内だけでも1万本の存在が期待出来る録画を全て無効とする考え方は、ルールと常識の尊重を無視した、法律家ごっこそのものです。--Dojiking会話2012年4月13日 (金) 20:41 (UTC)[返信]
コメント 月1回以上国会図書館にまで足を運ぶコアな利用者から一言。もしかして、国会図書館の蔵書は国会図書館でしか閲覧できないとお思いですか?資料の状態が悪いものや、雑誌・DVD・マイクロ化資料などの一部資料を除き希望すれば地元の図書館で閲覧できます(図書館によっては送料が必要な場合があります)。また遠隔複写申し込み制度などにより資料の複写を受け取ることも可能です。--Vigorous actionTalk/History2012年4月14日 (土) 03:33 (UTC)[返信]
いや、だから今話しているのは、Aさんの手元にその書籍がない場合なんですけど。内容を確かめたかったら、Aさんはその書籍を図書館や書店で探すことになりますよね?記事で引用されている書籍がどの図書館や書店でも利用できないのであれば検証可能だとはいえない、ということなんですけど。本だったら、都内だけで1万部もあるのに、図書館や書店で見つけることができないというのでは探し方が悪いのだろう、ということになるとは思いますが。--Bugandhoney会話2012年4月13日 (金) 21:53 (UTC)[返信]
あ、スミマセン。月に数回程度でコアな利用者と呼ぶとは思っておらず、Wikipediaの為だけに、暇さえ有れば毎日の様に通い詰めている方を想定していました。これは私の認識不足でしたので今後は気を付けます。
さて、何故Aさんでなければならないのでしょうか。別にBさんでもCさんでも構いませんし、Aさんが図書館で見た本でも構いません。だったとしても、「Aさんが図書館で見た本が出典」では無く「三国志が出典」です。にも関わらず「個人の録画が出典」と連呼するのは間違いだし、印象操作ですよと申し上げているのですが、言っている意味が伝わらないのでしょうか。--Dojiking会話2012年4月14日 (土) 06:28 (UTC)[返信]
うーん、もう同じことしか書けないですけど、ある書籍に関して、Aさんが図書館で読んだ場合、BさんもCさんも同じ図書館か別の図書館や書店で同じ書籍を参照することができますが、ある動画に関して公に利用可能なコピーがない場合、それをたまたま録画していたAさんは参照することができますが、録画していなかったBさんやCさんは内容を参照することができない、ということなんですけど。検証可能性というのは誰でも検証することができる、ということなので。--Bugandhoney会話2012年4月18日 (水) 13:05 (UTC)[返信]
どうしても情報の入手性の話に持って行きたい様に読めますが、私は、放送作品に限って「録画が出典」と連呼するのは「印象操作」ですよと申し上げているだけなのですが、何故、意図が伝わらないのでしょうか。出典は「広く信頼されている発行元からすでに公開されている」本放送であり、録画は、限りなく本放送と近似したものではありますが、あくまでも本放送の記録であり、出典では無く、検証材料もしくは参考資料です。例えばAさんが、東京スカイツリーの写真を撮影し、それを見ながら記事を書いたとしても、「出典はAさんが撮った写真」とは言わないでしょう。この場合の出典(一次資料)は、あくまでも東京スカイツリーである事は、私が説明するまでも無く、誰にでも理解できる簡単な話です。にも関わらず、放送作品の場合だけ「録画が出典」と表現する事は、私的な所有物を出典とした記事であると印象付けようとする、意図的な「印象操作」なので差し控えて下さいと申し上げているのです。もし、「東京スカイツリーの写真は誰でも撮影できるから」と言う的外れな反論を御用意であれば、世界貿易センタービルにでも置き換えて頂いても構いませんが、何れにしても、「出典はAさんが撮った写真」とは言わないはずです。なお、やたら電波電波と連呼されている方も見えますが、誰も(それ系の研究室等は知りませんが)TV画面で電波を観ている人は居ませんし、電波の記事を書いている訳でも有りませんので、こちらも明らかに本放送の軽視を意図した「印象操作」なのが見え見えですので、自重頂ければと思います。
それと、発言のついでに申し上げますと、「誰でも検証可能」を曲解されていませんか。この「誰でも検証可能」は「全人類が検証可能」を意味しているのでは無く、「特定の関係者等で無い任意の第三者が検証可能」である事を意図しており、総人口の全てが検証できなければならないと言っているのではありません。もし、全人類が検証可能である事を意味しているのであれば、極端な話、「目の不自由な人は記事が読めないし資料も読めない」だから「全ての記事は検証可能性を満たしていない」と言う、無茶苦茶な屁理屈が成り立ってしまいます。目が不自由と言うのは、あくまでも「その人の事情」であり、そうでない方々の手で相互に検証を行う事が可能であれぱ、検証可能性を満たしていると考えるのが普通です。放送作品の検証可能性も全く同じ話で、録画を所有していないのは、あくまでも「その人の事情」であり、下でKanoharaさんも述べられている通り、録画を手元に残している不特定多数の方の相互確認が行えれば、全く何の問題も有りません。ニュースやバラエティは厳しいと思いますので除外して良いと思いますが、高い録画率の期待できるドラマやアニメに関しては、充分に検証可能であると考えるのが妥当であり、それを否定する事は、間違っても支持を得られる様な考え方では有りません。--Dojiking会話2012年4月19日 (木) 14:53 (UTC)[返信]
再度お邪魔しますがDojikingさんのおっしゃっていることは再度根本から考える価値が十分あると思います。In the first place, WP:V#NRが解釈の余地を残しすぎなんですよね。数百万人が実際見た、あるいは録画したものを「事実確認の機能を欠く」と片付けるのは明らかに「フツー」の感覚とかけ離れているでしょう。「だから見てなかった人はどうやって検証するんだ」というのはネットが普及する遙か前、親戚・友人に問い合わせたり地方の広報誌などで「どなたか録画した人いませんか?」ってやりとりがあったものですが……。(法律云々は一旦おいて)「その録画が改変されている可能性は」といいだしたらもはや出版物だって同じことがいえるでしょう。(それとも図書館に存在するものだけを信頼できる出典にする?)で、ここでベクトルを変えます。「この番組でこんなすごい内容が放送された」となればメディアがそれなりに反応するからそもそも出典には困らないはずです。ということは数百万人が認知していることでもメディアが喰いつかなかったものは「検証云々」の前に「特筆性がないということでは?」という気がしたのですがDojikingさんはいかがお考えでしょうか。整理しますと「2次言及がないテレビ放送は検証可能性以前にWikipediaに載せるだけの特筆性がないのでは?」ということです。井戸端のタイトルとはかけ離れますが「載せる/載せない」という視点で見れば同様ではないかと思います。--にの会話2012年4月19日 (木) 15:44 (UTC)[返信]
コメント ビデオテープ、DVD、BDなどで販売された実績も予定もないテレビ番組は、検証不能とは言えないものの合法的な事実確認が困難な「信頼性に乏しい情報源」ですので、{{信頼性要検証}}を貼って二次資料を求めるべきかと考えます。映像ソフト化の予定があるものは、いずれ時間が解決してくれることが保証されるため、{{信頼性要検証}}は不要でしょうけれど。
日本においては建築物に著作権は生じないためスカイツリーの写真を見せたりすることは自由ですが、著作権が失効していないテレビ番組の録画(私的複製)を家族以外の誰かに見せることは著作権法で保証された私的利用の範疇を逸脱し、法的な問題があります。編集者間で検証ができたとしても「非合法な方法で検証できた」ことを大っぴらに公言することは、色々な意味で法的リスクが存在するため、検証できたことを報告できないし、ウィキペディアとしても非合法な活動を推奨する訳にはいかないという問題があります。--Kanohara会話2012年4月19日 (木) 16:54 (UTC)[返信]

(Dojikingさんへ)公に利用可能なコピーがないのは本人の責任じゃないでしょう。実際、それを用意しているテレビ局はありますし。「自分がテレビで見たときと違うことが書いてある!」と指摘した人に対して、録画しなかったおまえが悪い、と言われても納得する人はいないと思いますが。「録画を手元に残している不特定多数の方の相互確認が行えれば、全く何の問題も有りません」というのは、論争を呼ぶような発言があったニュース番組と違って、シリーズ物のテレビドラマでは記述をめぐって揉め事が起きにくいだろう、というだけの話であって、実際には三点リーダかピリオド三つかでもめている現状では説得力があるとは思えませんが。たとえば、動画よりもはるかに解釈の入りづらい活字媒体であり、なおかつ録画テープよりもはるかに数多くのコピーが出回っている新聞記事を用いていても、内容の解釈や引用の正確性をめぐってもめるということはざらにあります(私が編集に関わった例ノート:野田佳彦#人物、性格、趣味など)。検証可能性というのは、検証できる人がたくさんいれば内容は正しいだろう、などという大雑把なことではないですよ。--Bugandhoney会話2012年4月19日 (木) 18:32 (UTC)[返信]

特筆性に関しては、概ね御指摘の通りである様に思います。必ずしもイコールとなるかと言えば、様々な要因が絡む事から、そうでも無いとは思いますが、大筋で言えば、外部のメディアが触れていない些末な話題は、特筆性も薄いとの判断で問題無いと思います。ただ、公式ガイドブック等に詳細に書かれてるからと言って、それ全てを載せる事にはならないと思いますし、逆に、例えば最近なら家政婦のミタ辺りを思い描けば判る様に、視聴率や「承知しました」の回数ばかりが記事になり、(意図的に避けているのかもしれませんが)特筆性の高い内容には触れられていない事も有ると思いますので、個々の項目毎の判断も必要かと思います。実際には、多くの利用者の取捨選択によって、載せるべき項目が絞り込まれ、過不足の無い状態に遷移していく場合が多いですし、自ずと特筆性の有る項目だけが生き残るであろうとも考えますが、如何でしょうか。まあ、登場人物欄に人物の行動を逐一加筆して、小学生の日記帳の様になっている記事も見掛けますし、雑多な項目だと言ってバッサリと切ってしまうのも、それなりに勇気の要る行為だと思いますので、単純な話で無いのも事実では有りますが…。
次に、違法な検証手段に関しては、気にしなくても良いのではないでしょうか。もちろん、ここで言う気にしないとは、問題が無いと言う意味では有りませんし、「違法な手段で検証しました」と公言していれば、それを排除する必要も有りますが、原則としては性善説のスタンスで良いのではと考えます。例え活字媒体だったとしても、不正に入手したコピーや電子書籍を参照している可能性だって有る訳ですし、法的にグレーやクロの状況を想定すれば、それこそキリが無い様に思えます。そもそも、執筆者が違法なソースを用いて検証していたとしても、それを知る術は基本的に無いので、判別する事自体が不可能(だからと言って不問にせよと言う意味では無いですよ)なのが現状ではないでしょうか。
最後に、どうもBugandhoneyさんとは、根本的な考え方に大きな乖離を感じます。始めに申し上げておきますが、私は「録画を所有していないのは、その人の事情」と申し上げましたが、「公に利用可能なコピーがないのは本人の責任」なんて、一言も言っておりませんし思ってもいませんので、デタラメな発言は御遠慮頂きたいと思います。さて、揉め事が起きるのは、すなわち、それだけ多くの人が異なる視点や考え方で検証を行っていると言う事であり、決して悪い事ではありませんし、それを以て説得力が無いと考える意見こそ説得力が有りません。また、「録画しなかったおまえが悪い」と言われれば、少なくとも私なら納得しますし、誰だって確たる出拠が無ければ言い張る事はできませんので、納得するしかないでしょう。検証材料を手にしていないのに、検証しようと言う発想は有り得ませんし、それは放送作品に限った話でも有りません。ただし、本放送を視聴した際の記憶が鮮明で、絶対に間違いが無い自信が有れば、それを主張する可能性は有りますね。なにしろ、出典は本放送であり、録画ではありませんから。次に、言い回しが少しアレな感じもしますが、検証可能性が「検証できる人がたくさんいれば内容は正しいだろう」で無いのであれば、それでは一体何が検証可能性なのでしょうか。不特定多数の任意の第三者の目で、「この記事は確かに事実と相違無い」事を検証する(査読を外部に求める)事で成り立っているのがWikipediaだと思っていますが、違うのでしょうか。
補足ですが、元の議論の論点は「三点リーダかピリオドか」では無く、「表記が下詰めか中寄せか」ですよ。本放送が下詰めで、公式サイトが中寄せであった事から、どちらに準ずるべきなのかに始まって、本放送は検証可能か否かに至っていると言う次第です。もっとも、一部に独自研究(想像による文字やフォントの特定)を根拠とした主張が存在していた為、議論は混沌とした解り辛い内容になっており、誤解が生じても無理は無いのですが。--Dojiking会話2012年4月20日 (金) 14:36 (UTC)[返信]
すみません。横槍ですが。検証可能性は「検証できる人がたくさんいれば内容は正しいだろう」とは全く違いますよ。「不特定の人が、(ある程度のやる気とほんの少しの金銭的負担を負えば)”記述の正しさをあとから検証することが出来る”」ということだと、私は思っています。散々言われていますが、書籍や新聞による出典が検証可能性を担保するのは、日本語で書かれたものであれば国立国会図書館にいけば誰でも、いつでも記述の正しさを確認することができるからです。対して、DVD化されていない番組については、例えば10年、20年経った後にとある人が記述の正しさを確認しようとしても、検証することが「確実にできる」と言えるでしょうか。20年も経ってしまえば個人所蔵の映像もかなり数が減っているでしょうし、人の記憶なんて曖昧になってしまいます。--133.86.235.200 2012年4月23日 (月) 07:13 (UTC)[返信]
例えばビデオテープやカセットテープ、フロッピーディスク等を想像すれば解る様に、20年先にDVDを誰もが参照可能であると言う保証は有りません。また、何かの作品の公式サイトが、20年先にも存在していると言う保証も有りません。もちろん、録画や記憶が残っている保証も有りません。従って、永続的な検証可能性に関しては、(それはそれとして議論の意義は有りますが)この場の議論に混ぜ込んでも意味は無いでしょう。それに、映像ソフト化されていない(予定も無い)作品に関しては、検証可能性を満たさないと言う見解で一致している様に思いますので、敢えて引き合いに出すのも無意味でしょう。また、先にも述べていますが、「検証できる人がたくさんいれば内容は正しいだろう」と言う言い回しは、確かに聞こえが良く無い(私からすれば印象操作の意図を感じます)ので、偏見を生むと思いますが、要は前述の通り、「不特定多数の目で記事の内容が事実と相違無い事を検証する(査読を外部に求める)事」であると私は考えていますし、明快な誤りでは無いとも信じています。ちなみに、「ほんの少しの金銭的負担を負えば」の部分に関しては、ケースバイケースですし、情報の入手性の話ですので、この場での言及は避けておきます。--Dojiking会話2012年4月23日 (月) 11:47 (UTC)[返信]
うーん、前に私は「発言を注意深く読んで」と、また「アクセシビリティあたりが(中略)異なる記述です」と書いていたんですが、まったく理解頂けていなかったのですね。内容に関する三大方針としてWikipedia:中立的な観点Wikipedia:独自研究は載せないそしてWikipedia:検証可能性がありますが、これらは密接に関わりつつも独立した方針です。翻ってアクセシビリティは検証可能性の内部項目であり、独立した方針ではないんです。もしアクセシビリティがDojikingさんの言う「情報入手性」なのだとしたら検証可能性とは切り離せないことになる、切り離して議論するなら該当する方針を示してくださいと述べたのですが未だにご理解頂いていなかったとは残念です。--Ritis会話) 2012年4月23日 (月) 15:16 (UTC)リンクtypo--Ritis会話2012年4月24日 (火) 11:47 (UTC)[返信]
確かに、検証可能性とその情報のアクセスしやすさがごっちゃになっていて、Dojikingさんになかなか話が通じない、という気がしますね。盲目の人なり、フロッピーディスクなり、外国の図書館なり、アクセスしづらいだけであって検証可能なことには変わらないと思いますけど。--Bugandhoney会話2012年4月23日 (月) 18:43 (UTC)[返信]
「ごっちゃになっていて私に話が通じない」のではなくて、「ごっちゃに考えているから整理できない」のですよ。既に過去にも提示していますが、ここには、ハッキリと「この検証可能性の原則は文献へのアクセスが容易でなければならないことを意味するものではありません。」と明記されていますが、お読みになっていないのでしょうか。この事は、多くの利用者の共通認識でもあり、この場でも過去に指摘が挙がっていますので、再確認してみて下さい。--Dojiking会話2012年4月24日 (火) 01:58 (UTC)[返信]
また話がこじれてしまうと大変恐縮なのですがprincipalに従うとすると視聴率が30%を超えた番組でも定期的再放送がない限り「出典無効」ですよね?ところが視聴率1桁でもその番組をガジェット通信あたりがmentionすればさしあたりのrequirementを満たす……と。(少なくても「無効」ではないですよね)このあたりがどうにも引っかかって仕方ありません。確かにprincipalを尊重するというルールは完璧だとは思うのですが「常識」からはどえらい乖離を感じます。で、「じゃあどうすんだよオメー」という話なるのですが例えばn回の再放送が決まっている場合は「Wikipedia検証委員会」なるものが「こういう内容の放送をconfirmした」みたいなことはできないのかなと。時が経って検証を希望する人がいたら「検証委員会」にcontactしてメンバーのおうちにお邪魔して視聴、みたいな。まさか録画した人の家に行って見るだけで違反にはならないですよね?「何言ってんだこいつ」と思われたら恐縮の限りですが現実可能性と法律を天秤にかけるとこうなってしまうのかなと思った次第です。(もちろん上記は「想像」の話なので提案でもなんでもありません)--にの会話2012年4月24日 (火) 09:44 (UTC)[返信]
ウィキペディアは基本的に誰でも(その気になればそれなりに容易に)検証可能である、というのが根っこです。定期的再放送が約束された番組などほとんど無く、というかそういうものならDVDでも二次資料でもなんでも有るはずであり、また一般人の所有物を探し歩くなどは明らかに方針の精神に反しています。あまり「何故かDVDも二次資料も全く皆無だが定期的再放送が有れば・・・」などと言った超レアケースでのウルトラCにこだわると本質を見失うんじゃないでしょうか。ガジェット通信やJ-CASTが「信頼できる情報源」であるかどうかは、また別の話でしょう。--Hman会話2012年4月24日 (火) 10:13 (UTC)[返信]
Dojikingさんご自身が検証可能性に記載されている文献へのアクセス情報入手性だと述べられているのですから、「情報入手性」は中立的な観点独自研究は載せないの様に別個の方針ではなく検証可能性とは切り離せないものだと述べているのですよ。Dojikingさんは別のものだと思っているようですが、他の方から同様の意見が出たことは少なくともこの議題上では無いようです。Dojikingさん以外の方で、情報入手性は検証可能性と切り離して考えることだと考えている方がいれば、私の意見に異論を頂戴したいと考えます。--Ritis会話2012年4月24日 (火) 11:47 (UTC)[返信]
何度も同じ事を書くのにも飽きてきたんですが、ここに、ハッキリと「この検証可能性の原則は文献へのアクセスが容易でなければならないことを意味するものではありません。」と書いてあるんですが、この一文では御不満なんでしょうか。それと、同様の意見とは、例えばこれとかで如何ですかね?--Dojiking会話2012年4月24日 (火) 12:22 (UTC)[返信]

インデント戻します。IP変わってますが、上の横槍です。容易である必要はないとは、例えば出展となる書籍が国立国会図書館一館にしかない場合なんかのことですよね。確かに近所の書店や図書館にちょっと行って手に入るというわけではありません。しかし、複写依頼を通せば日本にいる限りは誰でも検証可能です。一方で、テレビ放送の場合、「後から」「本放送を見ていない誰かが」検証しようとした場合、それは果たして可能なのでしょうか?容易と不可能の間には大きな溝があるように思うのですが。それとも、Dojikingさんの仰る「不特定多数」とは「本放送を見た不特定多数」なのでしょうか?--113.159.24.145 2012年4月24日 (火) 13:23 (UTC)[返信]

その「誰でも」と「本放送を見た不特定多数」の違いが、Dojikingさんにはなかなか伝わらないのですよ。Dojikingさんは実際的な話をしているのだと思います、たぶん。国会図書館にある資料は確かに誰でも参照することができるが、実際にはごく少数の人しか参照しようとはしない。それに対して、テレビ放送は誰でも参照することはできないが、実際には多くの人が録画していて手軽に参照することができる、というような。これは単に資料の参照しやすさを、簡単に参照することのできる人の数で測っているだけであって、WP:Vとはそういうことではない、ということなのですが...。
(にのさんへ)一次資料(テレビ放送)を基にして記述できないというのはそのとおりです。ただ、視聴率30%の番組の場合、二次資料はふんだんにあると考えてよいでしょう。にんげんだものを加筆したときに、そのことがよく分かりました。ここから先は個人的な考えですが、一次資料を基づいてこと細かに記述してもファンサイトみたいにしかならなくて、あるテレビ番組という主題の理解を助けるとは思えないです。百科事典を目指すんだったら二次資料メインでいいんじゃないかなと。--Bugandhoney会話2012年4月24日 (火) 13:58 (UTC)[返信]
私が南極に赴いて、世界中の文献に載せられていないコウテイペンギンの知られざる生態を発見したとします。同じ事は「誰でも」できますので、この事を記事に載せても、文句無しに検証可能性を満たしています。もちろん、南極でコウテイペンギンの生態を見ていない、見に行く気も無い人々にとっては、検証可能であっても検証はできません。ちなみに、これは冒頭の「検証する手段を保有している人が検証する」にも関わりますが。逆に、全国ネットであれば、場合によっては数千万人の人々の目に触れた本放送が、そして録画率が0.1%であったとしても、数万の存在が期待できる録画が、そして追って映像ソフトもがリリースされる予定の作品が、検証可能性を満たしていないと主張されています。これは明らかに、ルールと常識の尊重を無視した、法律家ごっこです。あくまでも常識的な見地に立った上で、常識的に物事を考えたとして、冒頭のコウテイペンギンの記事は、検証すらする事無く、即座にリバートされるでしょうね。皆さんの言う「誰でも」検証する事が可能な事実であるにも関わらず、です。私は、例えルールと常識の尊重の記載が無くとも、Wikipediaの原則の全ては、常識と言う世間一般のルールから逸脱しないレベルで存在していると思っています。南極でコウテイペンギンの生態を調査しなければ検証できない事柄が、常識的に考えて、検証可能性を満たしているとは(フツーの日本人の立場として)考えられません。同様に、数千万人の観た(あくまでも素性の明らかなものに限定しても良いですが)放送作品の検証可能性を、観ていない人が存在するから、と言うだけの理由で否定する事は、常識の範疇を完全に逸脱しています。また集中砲火を浴びそうですが、誤解されるのを覚悟の上で明言すれば、「不特定多数」とは「本放送を見た不特定多数」もしくは「録画を(合法的に)観る事が可能な不特定多数」および「その内容を伝え聞く事で確認できる不特定多数」で良いと思っています。録画は確か、家庭内での視聴は問題無いはずなので、3~5人家族の御家庭に録画が1本有れば、単純に検証可能な方は3~5倍に膨らみますので、先ほどの算式で言えば10万を超える人々が検証可能と言えます。これでも不足なのであれば、それ以上の人数が、南極でコウテイペンギンの生態を調査する事の実現性を立証して頂きたいと思います。私は、この場の議論に於ける「不特定多数」の認識をお話させて頂きました。逆に伺いたいのですが、皆さんの仰る「誰でも」とは、一体どの程度の範囲を指しているのでしょうか。ちなみに、「本放送を観ていない人を含む誰でもだ」と言うのは回答になっていませんので御遠慮下さい。--Dojiking会話2012年4月24日 (火) 15:57 (UTC)[返信]
Dojikingさん、Dojikingさん。世界中の文献に乗せられていないペンギンの知られざる生態だったら、独自研究ですよ。なぜ独自研究かといえば、検証可能な信頼出来る情報源がないからです。「見ればわかる」は基本的にwikipediaでは通用しません。たとえ他の編集者が南極まで行ってDojikingさんと同じ事実を確認できたとしても、やはり記事に追加することはできないのです。ですから、これは検証可能性を満たしていません。検証可能性は、再三申し上げておりますように、基本的に「後から」「誰でも」検証が可能である、ということを意味します。回答になってないと先回りされてしまいましたが、本放送を見ていない人が検証できないのであれば、検証可能性が満たされている、と言うことはできません。たとえ全世界で50億人が見た放送であったとしても、日本国民全員が目にしたものであっても、時間が経ってからその事実を再確認できる信頼できる情報源が出てこない限り、検証可能性は満たされないのです。いくら前置きされようと、これはWikipediaにおける基幹となる方針ですから、これ以外の回答はありえませんよ。常識、とおっしゃりますが、少なくとも学術論文ではそれが常識ですよ。常識は人によって異なる、ということをご理解ください。共通認識を作りにくいからこそ、否定出来ない検証可能な情報源というものが必要となるのですから。--113.159.24.145 2012年4月24日 (火) 17:08 (UTC)[返信]
一次資料の意味を理解されていない方に対しては、例えが悪かったですかね。「検証可能な信頼出来る情報源」がペンギンと言う一次資料なのは、誰にでも解る話なんですけどね。それでは、「南極のヘンギン」を、「南米の奥地に唯一存在する原書」に置き換えて、「知られざる生態」を「二次資料に載っていない重要な記述」とでも思って頂いても結構ですよ。何れにしても話は全く同じですが、これでも意味が伝わらない様であれば、これ以上噛み砕いて説明するのは私には無理です。--Dojiking会話2012年4月25日 (水) 07:35 (UTC)[返信]
例えが悪いというのには同意させて頂きます。。検証可能性と独自研究をしないを最大限に重んじるならば、入手性の最悪な、引用されていない一次資料は使うべきではありません。その媒体がなんであってもです。「常識的」に考えて、他の文献に引用されていない一次資料に重要性があることは稀ですし(被引用数で論文や資料の重要性が語られることが多いのはご存知かと思います)、WP:NORから鑑みてwikipediaに載せるのには適切とはいえません。真に重要であるのであれば、近いうちに二次資料が出てくるでしょうし、それを待って編集したほうが真実性の点でも検証可能性の点でも優れているのは明らかでしょう。後、下でBugandhoneyさんのおっしゃっていることが少なくとも文系の研究分野では「常識」でしょうし、wikipediaでもそれに準じているのだと思っています。--113.159.24.145 2012年4月25日 (水) 11:40 (UTC)[返信]
別に二次資料でも三次資料でも構いませんよ。要は同じ話なので。ですが前述の通り、これ以上噛み砕いて説明するのは私には無理です。悪しからず。--Dojiking会話2012年4月25日 (水) 15:10 (UTC)[返信]
使えないという点では同じですね。二次以下の資料で、Dojikingさんがおっしゃるような「特定の限られた人」しか手に入れられない資料の場合は、、こんどはWikipedia:信頼できる情報源に対する逸脱です。二次資料というのは一般に広く知らしめるためにあるのですから、どうして特定の人しか入手できない、たった一部しか存在しない資料について「信頼出来る二次資料」であると認定できるのでしょうか?それでしたら、私が手元に書いたメモ書きも二次資料としての効力を持つことになってしまいますよ(どの時点で信頼出来る二次資料になるのか、という野暮はやめてくださいね。砂山のパラドクスです)。大体ご意見がわかりましたのではっきり言わせて頂きますが、Dojikingさんの仰ることが伝わっていないわけではないのです。伝わっているのですが、共感することができないのです。なぜなら、Dojikingさんのご主張、常識が「Wikipediaというコミュニティの内部」では誤っているからです。どうかどうしたら伝わるのか、などという無駄な努力をするようなことをせず、誠心にここまでの議論とWP:VWP:NORWP:RSをお読みになって、どんなにご自身の常識から外れていたのだとしても「wikipediaではこうなのだ」ということをご理解いただきたいと思います。長々失礼いたしました。--113.159.24.145 2012年4月25日 (水) 15:46 (UTC)[返信]
皆さん苦笑して傍観されていると思いますので、敢えて私から申し上げる事でも無いのですが、残念ながら113.159.24.145さんは、Wikipediaと言うものを、まるで理解されていません。たった一部だろうと、「広く信頼されている発行元からすでに公開されている」資料であれば信頼出来る資料だし、100億部有ったとしても、113.159.24.145さんのメモ書きであれば、信頼出来る資料では無いと言うだけの話ですよ。--Dojiking会話2012年4月26日 (木) 00:57 (UTC)[返信]


(Dojikingさんへ)それはまた、「一人vs.十万人超」という人数の話になってますよね。WP:Vは人数の話ではないです。WP:SOURCEACCESSの趣旨は、手軽に資料を参照することのできる人数は検証可能性を満たすための条件や制約にはならない、ということです。「誰でも」は、ずばり「本放送を観ていない人を含む誰でもだ」です。WP:Vはそうとしか読めないです。もっと具体的に言うと「記事にある記述を出典となっている資料で確認したい任意の読者」です。つまり、たとえば「Bugandhoney」というユーザーです。私にも出典の内容を確認する手段がないとだめだということです(記述した編集者に問い合わせる以外の方法で)。--Bugandhoney会話2012年4月24日 (火) 17:25 (UTC)[返信]
それは不可能ですよ。Bugandhoneyさんの御意見は、一見マトモそうに見えますが、言い方を変えれば、例えば私が検証できない(出典や検証資料を参照できない)内容は、全て検証可能性を満たさないと仰っているのですよ。繰り返しますが、もっと世の中の常識で物事を考えて下さい。--Dojiking会話2012年4月25日 (水) 07:53 (UTC)[返信]
コメント ううむ、やはり「後から検証したくなっても、建前上は誰にでも合法に検証できる」のと「後から検証しようと思っても合法的に検証できる者が限られる」のとでは、決定的な溝があるのではないでしょうか。
古本は合法的に売買したり図書館で借りたりできますが、私的な目的で録画された放送番組は合法的に貸し借りできないため、検証に参加できるのはその放送日に録画をセットしていた人に限られます。「建前上は誰でも見ることができる」「建前上は誰にでも見ることができてはいけない」という条件は、明らかに矛盾するでしょう。あまり例え話に深入りすると話がややこしくなりますが、「南米の奥地に唯一存在する原書」に例えるなら、その地域の言語を勉強し、旅費を稼ぎ、大金を支払って渡米し、現地ガイドを雇って、生命の危険を乗り越えて奥地にたどり着き、閲覧する……というところまで、全て合法的に行うことができるなら建前上は検証可能でしょうけれど、一方、その原書に触れるためには特定の部族の血筋を引いていなければ立ち入ることができない聖地を通り抜けなければならない、といった場合には検証不可能である、といったことになるかと思います。--Kanohara会話2012年4月25日 (水) 09:10 (UTC)[返信]
(Dojikingさんへ)何が「不可能」なのかがちょっと分からないのですが、その場合は、私もDojikingさんも検証できるようなことだけ書けばいいのであって、ウィキペディアではそのようなポリシーのもと、いずれの記事も基本的にはそのようなことしか書いてないと思いますが。WP:Vの冒頭にあるとおり、『ウィキペディアに執筆してよいかどうかの基準は「真実であるかどうか」ではなく「検証可能かどうか」』ですから。--Bugandhoney会話2012年4月25日 (水) 17:50 (UTC)[返信]
ですから、それが不可能な事だと申し上げているのですが、意図が伝わりませんか。「私もDojikingさんも検証できるようなことだけ書けばいい」のであれば、「それ以外の事は、例え他の人が検証できたとしても、書いてあってはならない」と仰っているのですよ。言い換えれば、「全人類が検証できて初めて、記事として書く事ができる」と仰っているのですよ。御自身で仰っていて、マトモな発言であると思われているのですか?--Dojiking会話2012年4月26日 (木) 00:57 (UTC)[返信]
Dojikingさんの発言に対し思うところがあり、本議論のノートにて提起致しました。--Ritis会話2012年4月26日 (木) 10:52 (UTC)[返信]

(インデント戻し)Dojikingさんの2012年4月24日 (火) 15:57 (UTC)の発言ですが、少なくともDojikingさんが言及されたような方法で取得した内容をコウテイペンギンに加筆しようとすると、即刻差し戻されることでしょう。学術的な分野においては現地調査で得られた結果は1次資料ですらなく、コウテイペンギンの生態を観察して得られた結果の一つでしかありません。しかるべき学会での査読を経て論文として発表されてようやく1次資料となるかとは思いますが、それでもウィキペディアに記述する内容とするためには、単に出典となる論文を明記するだけでは不足で、「生物学者何某によれば・・・・という観察結果が得られた」というような記述方法とせざるを得ないでしょう。なお、少なくとも鉄道関連の記事では、「現地で見た」の類の記述は検証可能性を満たさないとする合意がほぼ成立しています。--VZP10224会話2012年4月26日 (木) 15:25 (UTC)[返信]

◆放送番組に関する記述でその放送自身を一次資料とみなすのであれば、信頼できる出版元によって、その情報が入手できる状態になっていない一次資料は、使ってはいけません。この場合放送事業者自身によりアーカイブ等で公開されているかDVD等で発売されていれば『信頼できる出版元によって、その情報が入手できる状態』といえるでしょうが、『どこかの誰かが私的に行った録画』では、量的な多寡以前の問題として一次資料として使えないでしょう。--M_aisawa会話2012年4月28日 (土) 03:29 (UTC)[返信]



少し話は外れるかもしれませんし、議題提起者は≪DVDやBlu-rayの検証可能性について話がずれましたが、ここでは議論の対象と致しません≫と書いていますが、≪他の人が客観的に確認する手段がない≫という観点に絞って、少し気になっているところを書きます。映像メディア(ビデオテープやDVD)における、国会図書館のような存在(放送ライブラリーなど)で、網羅的なものがあるならその旨ご指摘ください。以下、そういうものがないという前提で。
例えば、流通されなくなったあるいは法改正によって入手が規制された映像メディア(ビデオテープやDVD)は、≪信頼できる出版元によって、その情報が入手できる状態になっていない≫≪他の人が客観的に確認する手段がない≫と扱われるべき、ということになるでしょうか?例えば、ある人物記事の(法改正前の)写真集は国会図書館でも閲覧できないのではありませんでしょうか?当該写真集やビデオに撮影秘話のようなものが掲載/収録されていたかどうか私は知りません(手元にもありませんし、入手のしようもありません)。しかし、そういったものを出典として記述していたときに、ある日突然(施行までの半年くらいの有余の後に)、法改正によって当該資料の入手が規制され、≪他の人が客観的に確認する手段がない≫状態に変わることがあり得る、ということがこのケースから想像できます。
アニメにしたってそうです。先日某所で意見相違からいろいろと意見交換を行いました。そこでの主意見は、登場キャラクターのキャラクター描写について「DVDを見れば検証可能」(話数などの情報がないと検証困難かもしれないが、ここでの話とは無関係なので省略)というものでした。当該アニメのDVD版が流通しなくなった場合、{{Cite video}}付きの出典が付いていたとしても、当該DVDを≪他の人が客観的に確認する手段がない≫状態になったことを理由に「出典として使えなくなる」ということになるのでしょうか?
つまり、≪DVDなりBDなりで流通し、検証可能になった時に一次資料として成立するんです。≫とHmanさんが書いていらっしゃいますが、「過去に検証可能であったものが検証可能でなくなることもありそうですが、じゃあ検証可能でなくなった時には一次資料として(に限らず、二次資料としても)成立しなくなるのでしょうか?」という話です。--NISYAN会話2012年4月12日 (木) 15:29 (UTC)[返信]
えっと、上にあるある人物の写真集は、NDLでは閲覧どころか複写も可能なようです。--Vigorous actionTalk/History2012年4月14日 (土) 03:33 (UTC)[返信]
同一の内容が繰り返し放送されている場合については、少なくともその放送期間中については「資料」が一般に対して確認可能な状態に置かれており、検証可能といえます。また、放送期間終了後については、リンク切れのウェブページ資料と同様の扱いとなります。(一般論としての放送番組の検証可能性については、判断を留保致します)--4行DA会話2012年4月12日 (木) 15:57 (UTC)[返信]
何らかの事情で事実上参照不能になったものは、検証可能性や正確性の保証がほぼ潰えているのですから、ウィキペディアの原則に沿って対処するよりないでしょう。また、自己言及・自己参照が認められて居ないことは言うまでもなく、「長くウィキペディア編集者から異論が無い記述だから」という理由だけで記述を維持することも難しそうです。私は広く流通しているDVDはおおよそ、現在または今後数年間は検証可能性を満たすと考えていますが、将来的に中古でも入手が困難になると、最早それは成り立たないでしょう(超人気映画、超人気アニメであれば問題は無いのでしょうけど)。新たな情報源が見付かるまでの間、サブページやノートに退避するなり、コメントアウトしておくなりが考えつくところですが、何のかんのと言いながらウィキペディアもまだ、歴史が浅いものですから、この辺りの文書の整備はこれからなのかもしれません。何分私はメタを存じ上げませんので、あちらや英語版でどの様な構想が持たれているのかはよくわかりませんが。--Hman会話2012年4月12日 (木) 16:19 (UTC)[返信]
NISYANさんや4行DAさんの発言と少し重複しますが、劇場公開作品を思い描くとイメージし易いと思います。劇場公開作品の記事の内容については、外部媒体に載せられている事柄を除けば、基本的には劇場に観客として足を運んだ執筆者が、自身の記憶を頼りに執筆している事になると思います。劇場公開中は、劇場に足を運びさえすれば、誰でも「信頼できる出版元によって、その情報が入手できる状態になっている一次資料」を閲覧できますので、皆さんの言う所の出展としての問題は無いと考えます。ただし、TVと違い録画は存在しませんので、作品と記事とを突き合わせて確認する事はできませんので、厳密な検証は、映像ソフトのリリースを待つ事になるかもしれません。では、劇場公開が終わり、映像ソフトがリリースされるまでの期間は、一体どうなってしまうのでしょうか。特殊なセールスパターンを除けば、劇場公開後、映像ソフトは数ヶ月から1年程度遅れてリリースされるのが一般的だと思いますが、その間、当該の記事には出展が存在しない事になってしまいます。TVと違い、録画も一般には存在しないはずですので、真に検証材料が存在しなくなってしまいます。では、この期間に限り、記事から該当箇所を削除すべきなのでしょうか。少なくとも私の知る限り、そんな不自然な編集が行われた記事は見た事が有りません。TVでの放送作品も、これと全く同じ話で、放送期間中は「信頼できる出版元によって、その情報が入手できる状態になっている一次資料」が存在するにも関わらず、出典足り得ないとの扱いは理不尽であると考えます。また、放送期間が終わったからと言って、手のひらを返した様に、「事実確認の機能を欠く情報源」として扱われる事も理解に苦しみます。--Dojiking会話2012年4月12日 (木) 16:44 (UTC)[返信]
(NISYANさんへ)難しい問題ですけど、はっきりいえるのは、検証可能性と文献の入手しやすさは別の概念ということですね。WP:SOURCEACCESSでも説明されていますが。誰かにとって入手が困難な資料だとしても、それを出典にして記述した編集者は少なくともその資料を参照できるわけで、その場合はその編集者にその資料になんと書いてあるか問い合わせることはできますし、場合によっては(著作権の問題がなければ)スキャンしたものを見せてもらえるかもしれないわけで(というようなことはen:Wikipedia:Offline sourcesで説明されています)。検証可能かどうかを、その資料が市場で流通しているかどうかに読み替えるのは間違っていると思いますけど。(WP:VWP:RSはそういうふうには読めないです。)
アニメのキャラクターに関する記述は検証可能性とも関わってますが、主に独自研究にあたるかどうか(執筆者の解釈が入ってるかどうか)の問題だと思います。一次資料をもとにあらすじや登場人物を記述する際に大事なのは解釈を交えずに見たとおりに書く、ということであって、あるキャラクターの性格はこうだ、というのはいくつかのエピソードの中のそのキャラクターの行動をまとめて編集者が総合的に勘案しているわけで、独自研究に当たると思います。この場合は、あるキャラクターの性格はこうだ、と直接的に書いてある資料が必要でしょう。--Bugandhoney会話2012年4月12日 (木) 18:12 (UTC)[返信]

話をややこしくする意図はないのですが「定期的に再放送が行われているテレビ番組はどうなるのか」「地域によって放送日に差があるテレビ番組はどうなるのか」という疑問がわいてきました。これなら「えっ、本当かな?」と参照したいとき間違いなく確実に参照可能ですよね?(その日の予定がどうとかその地域までの交通費うんぬんは全部棚上げすれば)過去ログも見たのですがなぜか再放送あたりに話が及ぶと名言を避けるような傾向を感じました。ということを鑑みても「テレビ放送の出典は100%除外する」のは少々無理があるのではないかと考えるのですが……。これを「再放送時にさらに編集される可能性がある」と言い出したら出版物に関しても「初版にだけ書かれている」とか映画も「上映時とブルーレイで異なる」となっていよいよその先には混沌しかないのでは。ギュウギュウにしめるよりも、もう少し性善説よりでもいいのではないでしょうか?(過去のバージョンが公開されていないソフトウェアとかもありますよね)--にの会話2012年4月12日 (木) 20:13 (UTC)[返信]

コメント 一般の書籍として流通した文献は、たとえ絶版になったとしても図書館で借りたり古本屋で入手したりできるので、絶版になっても検証可能です(何世紀も前に木版印刷で出版された古書、といったものとなればまた話は別でしょうが)。多くの書籍は通常、何年も経てば品切重版未定や絶版になってしまうので、これを「常に出版元から新品の状態で入手できなければ検証不可能である」と定義してしまうと、ウィキペディアの検証可能性は成立しません。同様に「信頼できる出版元によって、その情報が入手できる」状態になったことがあるBD/DVD/ビデオテープなども、レンタルで借りたり中古で購入したりできるので、検証可能でしょう。またインターネットで公式配信されている番組も、Web上の文献と同様に「信頼できる出版元によって、その情報が入手できる」ので、検証可能です。将来的にWeb上での配信が停止したとしても、その頃にはBDやDVDでの検証が可能になっていることでしょう。
さて、テレビで放送され、BD/DVDとしてリリースされる予定がある映像作品の検証可能性ですが、私は「ある」と考えます。まずBD/DVDとしてリリースされる予定があるということは、その映像は将来的には永続的な検証可能性が保証されるわけです。ではBD/DVDとして発売されるまではどうか。一般に、アニメやドラマなどは録画率が高いことが知られています。BD/DVDで発売される予定があるということは、その映像にはそれだけの商業的価値があると見做されているわけですから、当然、録画している視聴者も多いわけです。ここで「Wikipedia:検証可能性」で、ウィキペディアではなぜ検証可能性が重視されているのかを思い返してみて下さい。
> なぜいけないのでしょう。それは「ウィキペディアの閲覧者層や他の編集者が満足に検証することができないから」です。
ウィキペディアのルール解釈で重要なのはルールの精神と常識を尊重することです。確かに、その番組を見ておらず録画していない者は、その記事の正確さを検証することができません。ですが、テレビドラマやテレビアニメといった放送番組は、放送開始前から雑誌などで宣伝が告知されます。また、どんなにローカルな番組でも都道府県レベルの広域にある人々が、一時的にせよ「信頼できる出版元によって、その情報が入手できる」状態に置かれます。たとえ東京都民の0.1パーセントの人しか録画しなかったとしても、一万人の視聴者がその番組を録画したことになる計算です。その番組に関心を寄せており執筆に関わろうとしている編集者や読者であれば、高い録画率が期待できるでしょう。つまり、たとえ自分は番組を見ていなかったとしても、番組を録画していた少なくない編集者や読者がその正しさを検証することができます。これが学校の部活やサークルで作られた個人作品で、執筆者全員がその関係者である、といった場合であれば「私たち編集者だけが検証できても検証可能とは言わない」という批判は正当ですが、そういった作品との違いは「信頼できる出版元(一定の放送圏を持った放送局)によって、その情報が(自宅のテレビで)入手でき」たか否かにあると言えるでしょう。
また、テレビドラマやテレビアニメが現実の出来事と異なり、娯楽作品としてデフォルメされたものであることも見逃せません。全ての視聴者には同じ内容の番組が届けられますので、これは個人的な体験談といった意味での一次情報とは事情が異なります。出来事には起承転結が設けられ、登場人物の性格や容姿には一貫した特徴が用意され、有限に区切られた時間の中で筋道立てて説明されます。義務教育を通して小説の読み方を習ったことがある大人であれば、わかりやすく整理された娯楽作品の内容を整理して説明することは容易でしょう。解釈や分析に踏み込まない限りは、一次資料に基づいて構わない範囲です。
一方、BD/DVDとしてリリースされる予定がない番組は、私も検証不可能であると考えます。例えばニュースなどは録画率を期待できませんし、内容を詳細に覚えていることも期待できないでしょう。また、BD/DVD化された際に、オンエア版と異なる内容でリリースされた映像作品は、BD/DVD版に合わせるべきであると考えます。もっとも「オンエア版とBD/DVD版で主題歌が差し替えられている」といった大きな違いは、たいてい公式ファンブックなどに記載されますし、取るに足りない作画修正などの違いは、そもそも百科事典的な記述ではないので不要と考えます。--Kanohara会話2012年4月12日 (木) 21:20 (UTC)[返信]

コメント「映像メディア(ビデオテープやDVD)における、国会図書館のような存在(放送ライブラリーなど)で、網羅的なものがあるならその旨ご指摘ください」との話がありましたが、国立国会図書館#資料の収集・整理には、「CD-ROM、DVDなどパッケージで頒布される電子出版物(音楽CDやゲームソフトも含む)」は納品対象となっています。実際国立国会図書館 蔵書検索・申込システム NDL-OPACで検索すると、最近のDVDやゲームソフトなども収納されています。念のため。--アルビレオ会話2012年4月12日 (木) 21:45 (UTC)[返信]

Kanoharaさんの説明はわかりやすくてすごく頷けました。あとからDVDが出ることが分かりきっているにも関わらず、TV番組や劇場公開の終わった映画を出典とすることを排除する必要はないと思います。あと、もうひとつ英語版の文書を見つけたのですが、そこには書籍に関しては世界中でたった一つの古本屋にしかないとしてもアクセス可能である、テレビ・ラジオ番組に関しては放送局にあるアーカイブが(お金を払えば)誰でも視聴することができるのであればアクセス可能、番組アーカイブが大衆に解放されていないのであればアクセス不可能、今この時点で誰でも利用することのできるコピーがただの一つもなければ、たとえ過去の時点では利用可能であったとしても、アクセス不能、などとなっていて理にかなっていると思いました。
(にのさんへ)「ギュウギュウにしめる(参照した資料を特定する)」のと「性善説」は別なのでは。DVDは発売されたバージョンで内容が大きく違うというのは普通にありますし、書籍でも初版とそれ以降の版で内容が大きく異なるというのも普通にあります。そのため、{{cite book}}や{{cite video}}では発売日や版・エディションなど、どのバージョンを参照したのか事細かに指定できるようになっていて、編集者も当然どのバージョンを参照したのか明記する必要があるでしょう。「性善説」というのは、たとえば、誰かが「○○という資料には××と書いてあった」と主張したときに、たとえそれが自分にとって入手が困難で内容が確認できないとしてもその内容は正確であると仮定することだと思います。テレビ番組を出典とできるのかどうかは、その公式なコピーがあるのかどうか、という問題であって、「性善説」とはちょっと違うと思います。たとえば、誰かがYouTubeやニコニコ動画にテレビ番組をアップすれば(普通は違法ですが)、誰でも内容を検証することができるコピーができたことになりますし、性善説にたてばその内容の正確さも保証されていると仮定してもいいかもしれませんが、このような出所が放送局や製作会社ではないコピーは、信頼できる第三者が公表した公式なコピー(発売されたDVDなど)と同列に扱えないかなと思います。--Bugandhoney会話2012年4月12日 (木) 22:45 (UTC)[返信]
はい、まさにおっしゃるとおりでYouTubeに違法uploadされたものは出典とはいえないと私も思います。あと、「どこかの古本屋にあるかもしれないはOK」であるというのは理解しました。残りました「再放送が確定している」・「地域によって放送日時がずれている」のは如何でしょうか。さらに「どこかの古本屋で入手できるかもしれない」なら「再放送されるかもしれない」というopinionが考えられそうですがこれはどういう扱いになるのでしょうか。もちろん逮捕歴のある芸能界を追放された芸能人が出ていた番組の再放送はまず無理でしょうから可能性ゼロ=出典無効といえるかと思いますが……。「性善説」「劇場版」については一旦おいて、まずは現行の「テレビ放送」について一定の方向を見いだせればと思います。--にの会話2012年4月13日 (金) 01:51 (UTC)[返信]
書籍やDVDであれば、国会図書館にも、各自治体の図書館にも、国立大学の図書館にも、最悪民間資本の図書館にも無い。資料館・博物館等での参照も困難。とどめにamazonでも流通しておらず、根気強いヤフオク巡回か古書店巡りくらいしか参照または入手の可能性が無い。・・・レベルの資料は、媒体を問わず、ウィキペディアでは満足に検証可能と見なすべきではないでしょう。古文書レベルになると引き写しが各所にあり、情報自体は参照可能なんですけどね。まあ、この辺りが「常識の範囲で一般人に検証可能」じゃないんですか。で、再放送の可能性ですが、これまでVTR化もDVD化もなされていないテレビ番組おおよそ全てについて(にのさんはバラエティ番組を想定していらっしゃる様ですが)、「放送局のVTRが上書きまたは破棄されたとの明確な情報がもたらされるまでは放送局がそれを持っている可能性もあり、人気番組であったはずだから今後再放送される可能性も0%とは言い切れないので一般編集者や閲覧者による満足な検証が十分に可能である。最悪の場合、個人宅にお邪魔して録画したテープを見せて貰える可能性やダビング(違法ですけど)できる可能性も無いとも言えないので、一般の編集者にも検証可能である」って、無理が過ぎませんか?この理論が通用するのであれば、かつてテレビで見た記憶や印象だけで何でも書けてしまえますけど。--Hman会話2012年4月13日 (金) 04:06 (UTC)[返信]
うーん、古書についての見解はバラけているところでしょうか。これは一旦おいてまず「再放送するかもしれない・しないかもしれない」というのは「想定される意見」で私自身が主張・推す意図はありません。これは「無理がある」ということは理解しました。引き続き「予定が確定している再放送」「地域で異なる放送日時」はいかがでしょうか。話がとっちらかるとぼやけてしまうのでここに絞っていきたいと思います。なお、私は「だから認めてほしい/認めるべきだ」というつもりはありません。(私はレコーダーすら持ってませんので……)「考えられうること」としてクリアーにしたいと思っています。--にの会話2012年4月13日 (金) 04:23 (UTC)[返信]
まあ実績から再放送の可能性が通常より高い番組ももちろん無いでもないのでしょうが、掲載を望む側がある程度それを担保できないと駄目でしょうね。さて、地方での時間差放送が4月20日としましょう。現在現役でウィキペディアに参加している編集者でありその記事に興味を示している方の一部は、その気になれば参照が可能です。結構一部な気がしますが、結構。では、4月21日以降に参加または興味を示された方は?・・・参照できません。つまり、本日4月13日から4月20日までの1週間の間のみ瞬間的に参照可能な資料を広く検証可能と見なすのも、やはり無理です。それを一日でも過ぎれば「過去に参照できたと言われている資料」に過ぎません。ただし長期間継続的に同じ内容のものの再放送が行われた実績があり今後もそうであることを掲載を望む側がかなりの確度で示せるものについては、例外かもしれません。「ドリフの大爆笑OP」レベルであったら、もしDVD化もVTR化もされていなくとも、認めると仰るかたもいらっしゃる可能性も・・・?--Hman会話2012年4月13日 (金) 04:45 (UTC)[返信]
なるほど「長期的再放送の実績なら一概に断定できない」ということですね。納得できましたので私の疑問の箇所についてはこれで「done」にしたいと思います。ありがとうございました。--にの会話2012年4月13日 (金) 04:57 (UTC)[返信]
あくまで私がそう思う、またはそうであってもいいんじゃないかなあ、と思うだけですので、念のため^^;。・・・っていうかドリフの大爆笑OPレベルのものの話で、ウィキペディアに掲載すべき事象について他の資料化がされてないって相当希なケースでしょうね。--Hman会話2012年4月13日 (金) 07:58 (UTC)[返信]
了解しました。As a whole, テレビ局がもっとアーカイブを公開すればいいんですよね……と思いました。(脱線してしまうので背景云々は控えます)--にの会話2012年4月13日 (金) 08:08 (UTC)[返信]
本議論提起者です。製品DVD等の検証可能性についてや、Hmanさんとにのさんによる再放送の議論(正確にはその結論)は前議論で既に意見を述べている(この辺とか)んですよね。ですので特定の案件についてではなく、広く放送番組の検証可能性について伺いたかったのですが、書き方が下手ですみません。
NISYANさんのおっしゃるような映像メディアが規制によって入手不可能となったとしたとしても、そのメディアが発売されたという事実及び規制された事実は他の検証可能な資料を元に記載可能でしょう。場合によっては規制理由について書かれた資料もあるかもしれません。さすがに元メディアの中身についての記述は無理になるでしょうが、発売及び規制の事実は特筆性が低くないと個人的に思いますので、その記載に代えるというのでは駄目でしょうか。製品DVD等については網羅とはいかないまでもアルビレオさんのおっしゃるとおり国会図書館にも所蔵が増えているようです(私的所有物タイトルで検索にかからなかったものも結構ありましたが)。
最初の提起に書きました「検証する手段を保有している人が検証する」については、製品DVD等の発売が見込めない番組を私的DVDに録画したものや放送局が非公開アーカイヴしているもので確認しても検証可能とは言わないということで宜しいでしょうか? --Ritis会話2012年4月13日 (金) 11:30 (UTC)[返信]
その確認の仕方は明らかに方手落ちでしょう。「製品DVD等の発売が見込めない番組を私的DVDに録画したものや放送局が非公開アーカイヴしているもので確認しても検証可能とは言わない」かを確認するのであれば、併せて、「製品DVD等の発売が見込める番組を私的に録画したもので確認した場合は検証可能と言う」のかも確認しなければ、結局是非はグレーなままではありませんか。--Dojiking会話2012年4月13日 (金) 12:04 (UTC)[返信]
Ritisさんの理解でよいと思います。書籍に関していうと、ある書物が発刊されたことがありどこかにコピーが存在している、というだけでは不十分で、検証可能性を満たすためには少なくとも一部が世界中のどこかの図書館か古本屋で利用可能であることが条件になります。その気になれば(お金と時間さえかければ)誰でも(関係者などでなくとも)アクセスできる、公に利用可能なコピー少なくとも一部が今この時点で存在していなければならない、ということです。世界中のどの図書館にも収蔵されてなく、法的な理由で売買が禁止されており、すべてのコピーが私的な蔵書としてしか存在していない書物は検証可能性を満たさない、ということです。これをテレビ番組に当てはめると、私的な録画は公に公開されているとはいえず、それ以外に今この時点で誰でもその気になればアクセス可能なコピーが存在していないのであれば、検証可能性を満たさない、ということになると思います。たとえば、NHKは各地のアーカイブで過去の番組を一般公開しています[13]。これは、その気になれば誰でも視聴することができるコピーが存在しているということであって、検証可能性を満たしている、ということになると思います。アーカイブの公開が放送関係者などに限定されている場合は、検証可能性を満たさない、ということになると思います。例外はKanoharaさんが指摘したDVD発売待ちの動画だと思います。--Bugandhoney会話2012年4月13日 (金) 13:12 (UTC)[返信]
(少し脱線してる気もしますが)DVD発売待ちの動画についてはWikipedia:性急な編集をしないにも注意が必要な気がします。マンガなどの分野ではコミックス発売まで加筆しないと言うローカルルールも良く見かけますし。--219.105.90.213 2012年4月13日 (金) 23:53 (UTC)[返信]
うーん、その二つの扱いは基本的に、違うと思います。マンガなどについて単行本発売まで反映を控えるのは、逐一だらだら書いていてはぐだぐだ或いは支離滅裂になり読めた記事にならないと言う意味が大きいんじゃないですか。そしてマンガ雑誌は通常の物であれば、単行本発売まので間も、それなりに参照と検証が可能です(外国の方などが日本の雑誌を相手にする時は単行本より入手何度が2つ3つ桁違いに高いかもしれませんが、一般的に見て十分に可能でしょう)。よって「性急な編集はしない」となります。DVD発売待ちの等、その時点ではまだ電波が発されただけに過ぎないテレビ番組については、その実執筆時には検証不可能であるのに将来的に検証可能になるからという理論で前倒ししているお話なので。こちらは仮に、善意の閲覧者がノートに現れ、「これ、ほんまですか?どうやって検証・確認すればいいんですか?」と言った際に、「当面無理です」とお答えせねばなりません。こちらは「検証不可能なことを書かない」となります。いずれにしても「基本的には二次資料を使う」というウィキペディアの原則をできるだけ尊重することで、記事の品質は向上するはずです。--Hman会話2012年4月14日 (土) 01:33 (UTC)[返信]
コメント 漫画がコミックス単位で加筆されるのは、ストーリーがある程度まとまってから加筆すべきという理由によるものですが、テレビアニメのDVDはたいてい2話単位で収録されるので、ストーリーのまとまりという点ではオンエアを元に加筆するのと大差ないでしょう。
それと、漫画は作者の個人作品という性格が強く、雑誌などに事前情報が掲載されるのは稀ですが、マニアックな客層がつく深夜アニメなどは、アニメ雑誌などに特集記事やスタッフインタビューが掲載されることも多く、ある程度先の展開への展望や、解釈が分かれる場面の解説などに触れられることもあります。現在の「Wikipedia:創作物を基にした逐次的な編集」では、出典により裏付けのある情報は加筆して良いことになっています。
> 善意の閲覧者がノートに現れ、「これ、ほんまですか?どうやって検証・確認すればいいんですか?」と言った際に、
それは、録画を手元に残している人が検証・確認すれば宜しいかと。仮に虚偽の内容をでっち上げたい人がいて、ソックパペット、ミートパペットを大量動員して「検証した」と言い張っても、その番組がオンエアされたものである以上は別の誰かにも検証できるので、虚偽は相互監視によって見抜かれることでしょう。騙し通せるはずがありません。そもそもウィキペディアには締め切りなんてないので、記事の内容が疑わしく思え、ノートで質問しても納得がいく答えが得られなかったのなら、BD/DVDの発売を待って自分でじっくり検証すればよいのです。虚偽の記述が書き込まれる可能性がないのなら、BD/DVDが発売されるまで記述の内容を検証できないのも、BD/DVDが発売されるまで記述自体が存在しないために疑問を抱くこと自体が不可能であるのも、結局は同じことでしょう。--Kanohara会話2012年4月14日 (土) 02:05 (UTC)[返信]
一部の方には私が感じていたものが理解いただけたかなと。
私はKanoharaさんの言う製品DVD等の担保による録画された番組の検証可能性も、Ohgiさんの言う永続的な検証可能性を追求するという言葉も、いずれかに結論付ける必要はないと考えております。いずれの考えも方針の精神を十分に理解した上での解釈の差異であり、いずれかに決める必然性が無いからです。好みだけを語るなら製品DVD等の担保によって書いても良いのではとは思っていますが、急いで書き上げる必要性もないですからね。
だからこそ結論は前の発言で述べたとおり「製品DVD等の発売が見込めない番組を(中略)確認しても検証可能とは言わない」しかコミュニティでの同意を得られないと思うわけですが。--Ritis会話2012年4月16日 (月) 12:50 (UTC)[返信]
少し空いてしまってコメント付けづらいインデント状況になっているので、下に書きます。
Vigorous actionさんの≪NDLでは閲覧どころか複写も可能≫について。コメントありがとうございます。そうでしたか。確認に行くつもりもありませんが、2005年7月16日の朝日新聞に載った記事(法務省に「摘発対象になりうる」と指摘されて調査に乗り出した云々)で、その後てっきり閲覧不可になっていたものと思っていました。
アルビレオさんの≪「CD-ROM、DVDなどパッケージで頒布される電子出版物(音楽CDやゲームソフトも含む)」は納品対象≫について。ありがとうございます。そうすると、その方向で問題がありそうなものは、納品がほとんど行われていないとされている、アダルト作品類(参考:『図書館界』61巻4号、国立国会図書館における成人向け出版物の納本状況)くらいかもしれません。そうすると、ここでの主題(放送番組の検証可能性の話)からは大きく外れそうですね。--NISYAN会話2012年4月16日 (月) 13:45 (UTC)[返信]

すいません、少しまぜっかえすようですが、テレビ本放送と製品BD/DVDがまったく同じだとは限りません。細かい所だとグッズのレーベルがかえられたり、ひどいときは話の内容までかえられているものもあります。また最近(でもないか)映画と製品BD/DVDの色が違うと話題になったこともあります。漫画の場合は雑誌と単行本(文庫本)を並べてみれば一目瞭然ですけど・・・--219.40.151.3 2012年4月18日 (水) 15:37 (UTC)[返信]

はい、その通りです。アニメを前提とされているのかもしれませんが、あらゆるテレビラジオ記事に言えることでしょうね。よってどうしても一次資料で書く時は、DVDに準拠して、DVDの内容を解説することになります。・・・というのもおかしな話ですが、とにかく過去発せられた電波がどの様なものであったのか、直接確認することは物理的に不可能ですのでどうしてもウィキペディアで書く以上こうするよりありません。しかし手立てはあります、と申しますかウィキペディアでは基本的に二次資料を使って執筆することになっていますので、有力な文献が出てくれば「○○著『××』(2010)は、DVDでは△であるが、本放送では□であったとする」と書く事ができます。「ウィキペディアには締め切りなんてありません」ので、検証不可能な事は書かず、ちゃんと検証可能な資料が出て信頼性を確認できるまで待ってから、が大原則です。もっとも、<ref>DVDによる。</ref>と、本放送とは違うんだぞ、と臭わすささやかな抵抗を行なうくらいは構わないんじゃないかな、と個人的には考えています(個人の考えです)。なお、間違い探しレベルの些末な違いは恐らく、ウィキペディアには列記する必要がありません。特記性・特筆性のあることだけで良いと思います。抗議が来て話を差し替えたとか、犯罪を起こした芸能人が編集カットされたとか、そういった重大な変更は二次資料で触れられているはずですので、それが一つの閾となるでしょう。コンピュータゲームの機種ごとの違いなどもそうですね。これも個人的には「多少筆が走るのがウィキペディア」と思い、おおらかにはやっておりますが。--Hman会話2012年4月18日 (水) 16:19 (UTC)[返信]
コメント(冒頭の問題提起に対して)基本的にKanoharaさんと同意見になりますが、本放送以外のメディアでリリースされているものについては検証可能性の面で問題はないと思います。たとえばこの議論の端緒として提示されている『あの夏で待ってる』であれば、テレビ録画をしていない人でも内容を検証したければバンダイチャンネルなどで閲覧可能ですから、もしも最初の投稿者がそれを知らずに本放送の放送情報を出典に提示して記事を書いていたとしても、他の編集者がより適切なアクセス性の高い出典に差しかえてくれることが望めますし、逆にその内容が正確でない場合にも(放送日時・放送回さえ分かれば確認の対象が絞れるので)記述除去の判断がかなりやりやすくなると思います。そもそも前述の作品の当該議論に参加されている編集者の方々はおそらく全員がその作品内容を確認する手段はお持ちでしょうから、そういったある程度メジャーな放送情報に対して「検証可能性」という側面をことさらに問題視する意味は(少なくとも編集の実務上は)あまり無いと思います。
それよりも、放送番組の録画でも何でも良いのでとにかく出典を提示する、ということのほうが格段に重要かもしれないと思う今日この頃です。たとえば、先日もののついででうる星やつらの登場人物の一部記述に{{要検証}}テンプレートを貼ったのですが([14])、「この情報は99%間違いだろう」と思う記述を目にしても、原作の漫画が全34巻、TVアニメは5年間で200回近い放送回数なので、それがどのメディアのどの箇所のことを述べているのかが分からないと容易にチェックすることができないということを経験しました。私個人はその作品のテレビアニメ版(テレビ録画もDVDも)は所有していませんが、それでももし番組放送日か話数だけでも記事の出典(実際に利用された情報源)として記載されていれば、その話数に対応する原作の内容を確認して「少なくとも原作にはそのような描写はないですよ」と指摘することは短時間でできますし、他の編集者の方に放送版の内容を確認頂くことも容易になったと思います。そういう放送情報源の有用性を全否定されてしまうと現実の運用面で逆に辛いものがあるようにも思います。--ディー・エム会話2012年4月21日 (土) 06:16 (UTC)[返信]
情報提供ありがとうございます。今どきのテレビドラマはおそらくそんな事情になっているのではないかなとは思ってましたが。この場合は、当然検証可能性を満たしているということになると思います。
「うる星やつらの登場人物」は(確かに焼け石に水という感じですが)、出典に関する情報をできる限り細かに提示するということであって、テレビ番組やフィクションに関する記事に限ったことではないと思います。--Bugandhoney会話2012年4月23日 (月) 18:43 (UTC)[返信]

最近の新しい試みとしてオンデマンドなんて物が出てきましたが、これはどういう扱いになるのでしょうか?--219.40.151.3 2012年4月28日 (土) 16:26 (UTC)[返信]

コメントもともとインターネットなどでは文字・音声・映像の区別にかかわらず、ストリーミング放送(著作権法でいう「放送」または「有線放送」)よりもオンデマンド配信(著作権法でいう「自動公衆送信」・放送法ではおそらくこれも「放送」の一種)が主流だと思いますので、後者のコンテンツに関しては基本的に通例的なウェブサイト情報源の出典の示し方に準じれば良いのではないかと。--ディー・エム会話2012年4月29日 (日) 05:03 (UTC)[返信]

報告 Wikipedia‐ノート:信頼できる情報源#動画などのマルチメディアの扱いWP:RSに動画などの取り扱いに関する但し書きを加えることを提案しました。--Bugandhoney会話2012年4月30日 (月) 22:55 (UTC)[返信]

コメントWikipedia:井戸端/subj/テレビ番組は検証可能な情報源ですか?,Wikipedia:井戸端/subj/テレビ番組は検証可能な情報源なのか,Wikipedia‐ノート:検証可能性/テレビ番組Category:井戸端の話題/テレビ番組に関連議論があるようです。--fromm会話2012年5月1日 (火) 08:41 (UTC)[返信]

可変Ipからの書き込み失礼します。 私としては中立の立場なのですが、ガイドラインの解釈について、明らかに間違っている箇所が有りますので発言させて下さい。 何度となく『誰でも検証可能』との表現が使用されていますが、Wikipedia:検証可能性には、どこにも『誰でも検証可能』とは書いてありません。 これは私の勝手な想像ですが、『広く信頼されている発行元からすでに公開されている』の表記から、『公開されている資料なら誰でも入手できる』との発想が生まれたのではと思います。 しかしながら、この考え方は間違いで、公開されている資料を入手できない立場の人も大勢います。 最も分かりやすい例としては、レイティング指定の資料が出典となっている場合で、俗に言う『18禁』の書籍が出典であれば、未成年は入手も閲覧もできませんので、検証資料にできません。 この事と、放送を見ていない人とを同じに扱えるかどうかは意見が分かれると思いますが、参考になれば幸いです。--58.138.13.52 2012年5月2日 (水) 17:22 (UTC)[返信]

それは極論だと思いますけど、ウィキペディアの記事に出典として用いられている資料には当然時間とお金という制約があります。ワンクリックで閲覧することのできるものもあれば、相当のお金と時間をかけないと手に入らないものもあります。18禁の書籍以外にも、子供にとって事実上入手不可能な資料はいくらでもあるでしょう。こういうことは時間が解決してくれる制約だと思います。あとまあ、「誰でも」というのは「記事を読んだ誰でも」ということであって、そもそも、よい子は18禁の書籍を出典にしているような記事を読んだり内容を検証しようとしたりはしないと思いますけど。--Bugandhoney会話2012年5月2日 (水) 20:59 (UTC)[返信]
コメント全ての読者・全てのユーザーとはいかないまでも、特定の地位や職権などに依存しない不特定多数による検証手段の存在が求められているのは間違いありません。
Wikipedia:検証可能性現在の最新版)には、次のような言及があります。
Wikipedia:検証可能性#「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」
検証可能性とは信頼できる情報源(例えば、査読制度のある雑誌や新聞)からすでに公開されている情報だけをウィキペディアに記載することで、読者にも検証可能にするということです。編集者が独自に検証できるからといって、それは(一般的な)検証可能性を満たしたことにはなりません。
Wikipedia:検証可能性#アクセシビリティ
この文章での検証可能性とは、ウィキペディア内の記述について他ユーザーが、信頼できる情報源によって公表されていることを検証可能でなければならない、ということです。
他方、Wikipedia:検証可能性#信頼性に乏しい情報源では次のようにも述べられています。

一般に、信頼性に乏しい情報源とは、事実確認について評判がよくない情報源、あるいは事実確認の機能を欠く情報源(「TVで観た」等)、または編集上の監督を欠く情報源です。

そして、そのような信頼性に乏しい情報源にしか見つけられない情報の扱い方について次のように指示されています。

その情報があまり重要でないものならば、それを除去してください。もしもその情報が重要で残す値打ちがあるものならば、それをくだんの情報源によるものと明示してください。

過去の議論の中でいえばKs aka 98さんのご意見(Wikipedia‐ノート:検証可能性/テレビ番組など)を私は支持しますが、必ずしも多数派ではないかもしれません。いずれにせよ、放送メディアの検証性に否定的な立場の方々に対して「横暴だ、やめてくれ」と不毛な抗弁に終始することよりも、なぜそのような厳しい声が多数沸き上がるのか、その理由に思慮を巡らせることのほうがより重要であり、建設的であると思います。少なくとも、
  • 重要でない情報は検証可能性を検討するまでもなく記述不要。
  • 情報源が何であろうと出典を記載しなくて良いということはない。
という点については方針に明記されていますから異論の余地は無いはずです。翻って、放送分野の記事の現状に照らし合わせて省みた時、認識を改めるべき部分も多いのではないかと思います。--ディー・エム会話2012年5月3日 (木) 07:09 (UTC)[返信]

Ip変わっています。 ウィキペディアには『よい子は18禁の資料を出典とする記事を読んではいけません』というルールはありませんが、世の中には『よい子は18禁の資料を読んではいけません』というルールがある以上、『記事を読んだ誰でも検証可能』という解釈は成立しません。 レイティングについては、分かりやすい例として書いたまでのことで、それについて議論しようと思っていませんし、他にも同じような事例は有ると思います。 また、著しく入手が困難なことと、立場上入手不可能なこととは、全く意味が違いますので、対比することに意味はないでしょう。 最後に、議論の内容へは深入りしたくないのですが、『時間が解決してくれる制約』を許すのなら、放送番組のDVDが発売されるのも、『時間が解決してくれる制約』ですよね。--101.128.163.43 2012年5月3日 (木) 09:06 (UTC)[返信]

DVDの発売が見込める場合については、私が見た限りでは統一した見解には至ってないですが、柔軟に対応すればよい(検証可能性を満たしている)という意見を私を含めて複数の編集者が表明しています。あと、一般論で言えば今どきのテレビ・シリーズはどこかにデジタル・アーカイブがあると考えてよいと思います(それをちゃんと探してという意味です)。--Bugandhoney会話2012年5月3日 (木) 12:41 (UTC)[返信]

報告「放送番組の検証可能性について」に関するまとめとして、WP:RSで動画などの媒体の取り扱いに関する提案を行っています。Wikipedia‐ノート:信頼できる情報源#動画などのマルチメディアの扱いまでコメントよろしくお願いします。--Bugandhoney会話2012年5月14日 (月) 19:13 (UTC)[返信]

「Wikipedia:出典を明記する」の新規方針(リンク切れの回避と修復)との整合性について

放送番組が直接対象となるものではありませんが、5月1日 (UTC, JST)以降、ウェブサイト情報源のリンク切れに関する扱いの方針がWikipedia:出典を明記するに加わりました(→Wikipedia:出典を明記する#リンク切れの回避と修復)。この新規方針の対象であるリンク切れウェブサイトと、当議論の対象である放送番組情報源とを比較した場合、

  • 各個人レベルでの複製保存以外、情報源に対する検証性(アクセス性)が担保されていない。
  • 情報源へのアクセス遮断からアーカイブメディアのリリースまでにタイムラグがある。
  • 当該アーカイブのリリースが見込めない情報源も存在する。

といった点で共通しており、今後それらの整合性を加味した明瞭な新規ルールを検討する価値はあるかもしれません。--ディー・エム会話2012年5月3日 (木) 13:29 (UTC)[返信]

「要出典範囲」のタグ部分が出典を張らずに削除された件への対応

はじめまして。たぬきそばといいます。
http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E9%9D%92%E6%A3%AE%E7%9C%8C%E9%81%93192%E5%8F%B7%E5%B2%A9%E5%B4%8E%E6%B7%B1%E6%B5%A6%E7%B7%9A&diff=42048970&oldid=42048382
上記の通り、「要出典範囲」を張った部分が、出典を張らずに削除されています(本文までは消されていませんが、タグ部分が消されています。
この場合、差し戻し(要出典範囲が書かれた状態まで)をしても差し支えないでしょうか?--たぬきそば会話2012年4月13日 (金) 10:01 (UTC)[返信]

Wikipedia:ウィキペディアでやってはいけないこと#独断でメンテナンス用テンプレートを剥がそうとすること」に相当する行為ですので、例えば要約欄に「[[Wikipedia:ウィキペディアでやってはいけないこと#独断でメンテナンス用テンプレートを剥がそうとすること|問題を解決せずにタグを剥がさない。]] 」と記載の上差し戻しても構わないと思います(私はだいたいそうします)。それをさらに差し戻されてしまった場合には、相手の会話ページで対話を試みるのが宜しいかと思います。--Szk7788会話2012年4月13日 (金) 10:13 (UTC)[返信]
コメント 編集回数が少ない方なので、{{welcome}}を入れた上で({{ようこそ}}を使って省略することも出来ます)テンプレートを剥がさないようにお願いしてみてはいかがでしょうか。最初だけはどういう書き方をすれば歓迎されるのかを案内してさし上げたほうがいいんじゃないかと思います。--Marine-Bluetalkcontribsmail 2012年4月13日 (金) 12:30 (UTC)[返信]

皆様、ありがとうございました。今後当該ページにまた異変があれば相談したいと思います。--たぬきそば会話2012年4月14日 (土) 09:56 (UTC)[返信]

ノートページの過去ログ化について

ノートページの過去ログ化を、その当事者[15][16]が行なうのは如何なものか?

後者については「半保護」に乗じる形で保護理由とは無関係の記述が抹消[17]されており、それら[18]を隠蔽する為なのでは?と疑わざるを得ない。(同様の手法は、こちらの「言霊詩人」に関する記述[19]からも確認できるはずである。)

以前、当該ユーザーは要約欄への記入について、ある利用者と騒動[20]を引き起こしているが、そのご当人からして虚偽、或いは事実誤認的な記入、こちら[21]に至っては自らに都合のいい結果を導く為の意図的な記入と断ぜざるを得ない。

都合が悪くなると黙り込み[22][23][24]、相手を荒らし呼ばわりする[25][26][27]当該ユーザーこそ、ルールに反しているのではないのだろうか?

自らが署名した議論を過去ログ化するということは、自らの発言に責任が持てない、或いは自信が無いということか?

本件に関しては、過去ログ化されたページを精査の上、速やかにこちらの版に差し戻すことを希望する。

ページの保護同様、ノートページの過去ログ化についても、当事者にはそれを禁じる等の何らかのルールが必要では?--49.135.63.40 2012年4月13日 (金) 20:32 (UTC)[返信]

コメント そうなると、自分の会話ページは未来永劫過去ログ化できないということになってしまいますね。--Jkr2255 2012年4月13日 (金) 22:54 (UTC)[返信]
個々人の会話ページは各人の裁量に委ねられているのでは?ここで指摘しているのは各項目の議論ページについてです。

とは言え、全然過去ログ化しない人や、過去ログの多い人とまちまちなようで。後者の場合、過去の投稿[28]を確認するのが手間でした。--49.135.63.40 2012年4月14日 (土) 00:50 (UTC)[返信]

通常のノートページは、長すぎると困ります。明らかに。頼むからいい加減過去ログ化してくれ、というノートページも非常に多いです・・・。--Hman会話2012年4月14日 (土) 01:38 (UTC)[返信]
この辺りについてはどうも過去ログを「無かった物(無効)にする行為」だと考えている人が、良くも悪くも結構いるような気がします。
そもそも原則としてノートに議事録を残しておくというのは、過去にあったことを参照できるようにして車輪の再発明を行わないためであって、いつでも議論を再開できるようスタンバイしておくためではないです。これは何も過去の議論を蒸し返すなと言っているのではなく、(どんな理由であれ)終了して一定期間を経た議論に、今更のように書き込むくらいならば、新たに議論提起した方が望ましいってのもあります。
その上で、まだ書き込みが行われる蓋然性が高い状態、すなわち議論が終了ないし途絶えて間もない状態で過去ログ化するのは、当事者であれ第三者であれ問題です。逆に、仮に異論があっても、新しく提起する方が望ましいくらいに期間を経ているならば、当事者であれ第三者であれ過去ログ化しても特に問題はないでしょう。--EULE会話2012年4月14日 (土) 01:53 (UTC)[返信]
コメント過去ログ化については文章量が多くなった時期に行なわれておりかつリンクを貼っているので問題はないと思います。記事鈴木寛については過去ログ化と分けて考えるべき問題だと思います。差し戻しを希望されている内容については信頼できる情報源を示さないと記載すべきではないと考えます。--みや1229会話2012年4月14日 (土) 02:10 (UTC)[返信]
コメント 過去ログ化は既に皆様が御回答されている通りだと思います。ノートの履歴を拝見しましたが、9ヶ月近く書き込みが無いので、過去ログ化は全く問題ないでしょう。また議論中の場合かつ膨大な量の場合は、当事者同士合意の上で過去ログ化とすべきでしょう(例:ノート:平清盛 (NHK大河ドラマ)‎)。保護依頼や発言に関してどうしても納得行かないのであれば、利用者へのコメント依頼とすべきでしょう(赤リンクを消して、なぜ虚偽なのか? 問題のあるユーザの行為を指摘して、なぜ騒動を引き起こすなのか?、理解できかねますが)--JapaneseA会話2012年4月14日 (土) 02:45 (UTC)[返信]
上記(49.135.63.40)での問いかけについて、多大なるご返事、まずは感謝。

EULEさんの丁寧なご説明であらまし理解が出来ました。その一方で、これが現実[29][30][31]

みや1229さんのご指摘については、それまでの経緯、第一印象ありき的な当該ユーザーの特性関係の議論からして難しいかと感じます。

最後にJapaneseAさんのご指摘について、実はこの間、半年以上行なわれていたのがVigorous action管理者による「広域ブロック」。そして、その間にアドレス帯域が変化。当該管理者からは確たる回答が無い[32]ので、断言は出来ないものの、Tiyoringo利用者がブロック逃れIPユーザーと認識されているのも、その辺りが関係しているのだと思うのですが、それ自体がこの方の特性なので致し方ないと理解している次第。

さて、ご指摘の虚偽[33]とした件について、要約欄に記されているように羅列されてある赤リンクを除去したのは事実だとして、と同時に青リンクの部分も消されているのがご理解いただけるでしょうか?景浦安武孫正義は文中に記載があるものの、高塚猛については現行版を確認しても除去されたまま。高塚のその後の所業からして、意図的に除去したのでは?と勘繰っている次第。要約欄からパッと見した限りでは問題が無いようで、そうではないという点を指摘したかったのが実情。因みに、これを書き込んだのが、[34]ということです。

次に騒動について、要約欄への漢字変換ミスを指摘したという点は当該利用者のいうとおりだとは思います。ただ、それを指摘した文章の差分ではなく、本文を確認するとご覧の通り[35]。以降、この辺り[36][37]に至るまでを「騒動」と考えている次第。これ以上の差し出がましいことは、元来好まないのですが、今後の動向によっては、ご指摘の方向に進まざるを得ないのかもしれません。--49.135.58.202 2012年4月15日 (日) 03:35 (UTC)[返信]

ログアウト時における「ソースを表示」について

こんにちわ、韓国と音楽を愛する男です。

ログアウト時において、保護の有無にかかわらず、特定版表示で「編集」・「取り消し」と表示されるべきところが「ソースを表示」と表示されます。

ログインしている場合は表示されません。

LTA:AJAX関連で神戸OCNは広域ブロックになっています、これとの関連性はあるでしょうか。--韓国と音楽を愛する男 2012年4月14日 (土) 03:43 (UTC)[返信]

半保護されていないにもかかわらずログアウトの時のみ「ソースを表示」が表示されログイン時には表示されないのであれば、使用しているIPがソフトブロックされていると思われます。あなたの使用するIPが上記に書かれている兵庫OCNでここで示している範囲内に該当する場合のであれば広域ブロック可能性があります(その他そのIPがほかの荒しに使用されてブロックされている場合も同様になります)。ログアウトした状態で「ソースを表示」をクリックし編集画面を表示すると、そこにブロック理由が示されると思いますのでご確認ください。なおプライバシーに関わることもあるかと思いますので、ご理解いただけた場合詳細な返答は必要ないと思います。--Vigorous actionTalk/History2012年4月14日 (土) 22:26 (UTC)[返信]

権威ある情報源の間で表記に食い違いがある場合にどのように記事命名をしたらよいのか

すでにコメント依頼もさせていただいたのですが、ノート:核兵器の威嚇または使用の合法性事件#改名提案についての相談です。元々英仏語起源の事象で、その訳出がタイトルの通り権威ある情報源の間でも食い違っている場合どのように記事を命名すればよいのか困っております。原語である英仏語に忠実な記事名にすべきか、日本語で書かれた情報源にできるだけ従うか、提案される記事名全てのどれもどちらかと言えば「正解」と言えるようなものばかりで、しかし記事名となると一つしか選ぶことができませんから、どうすればよいのかわからなくなっております。どなたかお力をお貸しいただけませんでしょうか。--Henares会話2012年4月14日 (土) 07:16 (UTC)[返信]

日本語版では日本語の資料を優先する考え方で問題ないと思います。後はWikipedia:記事名の付け方#記事名を付けるにはにある5基準(認知度が高い、見つけやすい、曖昧でない、簡潔、首尾一貫している)を考慮して決めることになるでしょう。それで一つに絞れなかったとすれば、極端な話「どれでも正解」にはなってしまいますが、一つの記事に一つの記事名しか付けられないのはシステムの事情によるものですし、他の名称はリダイレクトでカバーできるので、思い切ってどれかに決めてしまわないといけないでしょう。--有足魚会話2012年4月16日 (月) 13:56 (UTC)[返信]
有足魚さん。ありがとうございます。おそらく今ノートで候補に挙がっている記事名はおっしゃるとおり「どれでも正解」になってしまいます。一定期間様子を見て確定的な資料が出てこないのであれば、言い方は悪いですが乱暴にどれかの候補に決めつけてしまうしかないのでしょうね。--Henares会話2012年4月16日 (月) 15:07 (UTC)[返信]

報告議論の結果、核兵器の威嚇または使用の合法性国際司法裁判所勧告的意見に改名しました。--ジャコウネズミ会話2012年4月20日 (金) 15:34 (UTC)[返信]

赤リンクばかりの曖昧さ回避ページについて

具体的には「フアン・アロンソ」に即時削除依頼が出されたことを契機に疑問に思ったのですが、一般論として伺います。

曖昧さ回避のページが作成され、そこからのリンクがすべて赤リンクである場合、あるいは、他言語版記事へのリンクだけが有効で、日本語版記事は赤リンクばかりである場合、この記事は、それを理由に即時削除、ないし、通常の削除依頼による削除ができるのでしょうか? またその場合、削除の理由は何になるのでしょうか?

実際に赤リンクであっても、近日中の記事作成を準備した上での曖昧さ回避ページの先行作成かもしれません。しかし、要約欄やノートで、その旨が宣言されていないと、その見極めは容易ではないと思います。したがって即時削除依頼には違和感を覚えたのですが、かといってWikipedia:曖昧さ回避#曖昧さ回避すべきものにも、赤リンクばかりで作成すべきではないと明記されているわけではないものの、赤リンクの掲載は慎重にという姿勢での記述になっていますので、赤リンクばかりの曖昧さ回避ページが安易に作成されるのは望ましいこととも思えません。特に、従来の例などをご存知の方がお出でになりましたら、先例をご教示いただければ幸いです。よろしくお願いいたします。--山田晴通会話2012年4月14日 (土) 16:32 (UTC)[返信]

こんばんは。まず赤リンクだけとはいえ体裁の整っている曖昧さ回避ページの「定義なし」(WP:CSD#記事1)での即時削除は無理があるかと思います(そもそも曖昧さ回避ページは「記事」ではないですし)。「赤リンクばかりである」ことを理由とした即時削除も該当する基準がありません。
曖昧さ回避ページは、Wikipedia:曖昧さ回避にありますように、内容が異なるのに同じ名前になってしまう記事を判別しやすくすることが目的ですので、存在しない記事を掲載することはそもそも目的外だと思います(一覧記事とは異なります)。例外は、同文書に「近い将来執筆される可能性がある主題については曖昧さ回避のページに記述しておいて構いません」とあるとおりです。削除依頼が提出された場合は、この点が審議の主なポイントになるかと思います。削除審議期間内(1週間)にリンク先記事が作成されなかった、あるいは執筆意思と妥当な予定が示されなかった場合は、削除もやむを得ないのでは、と個人的には思います。削除の理由は「存在しない記事へのリンクのみからなる曖昧さ回避ページ」(ケースZ)という感じでしょうか。とは言え、妥当な内容であれば積極的に削除する必要性を感じないかもしれません。なお自分の短い経験では、赤リンクのみの曖昧さ回避ページであることを理由にした削除依頼を対処したりそのようなページを見かけたことはおそらくなかったと思います(青リンクと赤リンクが混在するケースは時々見かけますが)。--Penn Station (talk) 2012年4月14日 (土) 18:54 (UTC)[返信]
コメント Penn Stationさんの話と被るかもしれません。「Wikipedia‐ノート:曖昧さ回避#曖昧さ回避させる対象記事が存在しない項目について」をご一読ください。そこでの内容からは、Jmsさんが話されている≪曖昧さ回避において赤リンクは抑制されるべきですし、同時に「記事として成立する蓋然性がある未筆記事への赤リンクは、曖昧さ回避のリンク先として許容される」≫というものが今のところ説得力のある現行解釈意見だと思っています。≪近日中の記事作成≫という、作成までに見込まれる期間ではなく、≪蓋然性≫という、誘導先の解説の存在があって然るべきかどうかという基準であると。そして、どうあるべきかという話においても同じと私は考えています。その上で、依然として≪赤リンクばかりの曖昧さ回避ページが安易に作成されるのは望ましいこととも思えません≫ということであれば、≪近い将来執筆される可能性がある主題については曖昧さ回避のページに記述しておいて構いません≫に対する改訂の提案を行うのもいいかと思います。
削除依頼提出時の判断は、ケースEに近い感じになるのではないでしょうか。もっとも、誘導先として記事ではなくて節というのもありえますので、「記事として解説されるべきほどの主題ではないが、ある記事の一部で充分解説されうる主題」が誘導先候補として成立するなら曖昧さ回避ページとしてはOKだと個人的には思いますので、ケースEよりは緩い判断になるだろうと思っています。--NISYAN会話2012年4月14日 (土) 21:47 (UTC)[返信]

Linkについて

邦文のWikipediaと英文のWikipediaに興味があります。邦文があり、英文がない時は英文を作り、英文があり、邦文がない場合は和文を作り、また両方ない場合は両方つくることもありますが、よくリンクを消されますがなにか規則でもありますか?--Ichiro Kikuchi会話2012年4月15日 (日) 13:26 (UTC)[返信]

宣伝と思われる曖昧さ回避ページをどうするべきか?

こんにちは。私はG-Soundsと言います。 さて、曖昧さ回避ページの存在意義は理解しているつもりなのですが、

  1. 曖昧さ回避のリンク先が、片方は商品。
  2. もう片方に至っては、特筆性があるのかも怪しい、恐らく個人経営のバーの名前。
  3. そして、他の意味は記されていない。(上記2つへの水先案内しか行っていない。)

という曖昧さ回避ページを見つけてしまいました。次のリンク先を御覧ください。

これではバーの宣伝に当たるのではないかと思うのですが、いかがなものでしょうか?  これは削除するべきなのか、それとも、存続させて索引にでも登録しておくべきなのか……。どうしましょう?--G-Sounds会話2012年4月16日 (月) 23:14 (UTC)[返信]

この場合はルノー・コレオスへのリダイレクト化で良いと思います。- NEON会話2012年4月16日 (月) 23:27 (UTC)[返信]
なるほど、その手は思い付きませんでした。御助言、ありがとうございます。
というわけで、転送ページに変更しました。--G-Sounds会話2012年4月16日 (月) 23:33 (UTC)[返信]
せめてリダイレクト化される前にen:correos(スペインの国営郵便企業)を参照されなかったのかと、残念でなりません。--Himetv 2012年4月17日 (火) 20:27 (UTC)[返信]
日本語版が作られた後に曖昧さ回避に戻せば良いでしょう。何か問題がありますか。- NEON会話2012年4月17日 (火) 23:45 (UTC)[返信]

ウィキペティアに当該単語をどのくらい知っているかどうかのアンケート機能を追加してほしい

論文とか、みんなに読んでもらう文章を書くときに、専門用語など、どのくらいみんな知っているのか、わからないときがあります。いたずらに、難解でみんな知らない単語を文章に使用すると、文章が通じないことがあると思います。そういう疑問がときどき生まれるので、たとえば「レゾンデートル」という単語を1詳しく知っている。2少し知っている。3聞いたことがある程度。4全く知らない。というようにアンケートして、結果を表かグラフにして表示できないでしょうか?--以上の署名のないコメントは、210.133.175.72会話)さんが 2012年4月24日 (火) 06:56 (UTC) に投稿したものです。[返信]

それは別のところで調べるべき物ではないのですか?百科事典としては必要ない物と思います。さらに言えば、通じる、通じないと言うのは対象者によっても変わってくると思います。たとえば、論文と言いましたが、専門分野の論文なんて一般人が読んでもちんぷんかんぷんでしょうが、それなりの人が理解できれば問題ないでしょう。--219.40.151.3 2012年4月24日 (火) 14:27 (UTC)[返信]
まともな学会なら学術用語に関する小委員会を持っているし大きな学会は学術用語集なりペケペケ学用語辞典を刊行しています。そういう成書を字引けばよろしい。アンケートなど無用。--あら金会話2012年4月24日 (火) 14:42 (UTC)[返信]
読者に対してわかりやすい記事を提供する、と言う目的であればmw:Extension:ArticleFeedbackというアンケートのような機能があり、英語版などで試験的に運用されています。ただし、まだ正式稼動ではないみたいだから推したくはない…。--Marine-Bluetalkcontribsmail 2012年4月24日 (火) 14:53 (UTC)[返信]
「レゾンデートル」は専門用語というよりはちょっと小難しい言葉、という感じです。私にとっては。辞書で意味は引けるとは思いますが。Wikipedia:素晴らしい記事を書くには#専門用語には解説をとありますので、意味もなく使用することは避けて、単に「存在理由」としたほうがよいと思います。どうしても使用しなければならない、というのであれば、内部リンクを張って理解を助けることもできるかと。レゾンデートルという感じで。記述の基になっている出典でも使用されているかどうかが記事で使用するかどうかの判断基準になるのではないでしょうか。--Bugandhoney会話2012年4月24日 (火) 17:35 (UTC)[返信]
コメント 210.133.175.72さんの言わんとされていることに共感する部分があるので、少々脱線もありますがコメントします。
専門用語について: はじめに3つ引用します。
  • ウィキペディアは、子供、お年寄り、非日本語話者など、幅広い層が読みます。」(Wikipedia:素晴らしい記事を書くには 2011年2月22日 (火) 17:38‎ UTC
  • 執筆するときには、読者のことを考慮してください。例えば、「初期バロック音楽における半音階の使用」という題名の項目は主に音楽の専門家が読むでしょう。ですから、専門家しか理解できないような細かい記述も専門用語もまったく問題はありません(もちろん、素人でもわかるようになっていればより素晴らしくなります)。しかし、「ラップ音楽」のような題名の項目は、専門外の人も読むと考えられますから、簡潔で明瞭な概要と、もしあれば詳細な情報へのリンクをつけてください。」(Wikipedia:読者に役立つ記事を書く 2012年4月17日 (火) 12:48‎ UTC
  • もっとも理想的なのは、ある事柄を説明するのに使用した専門用語全てにリンクを張って、そのリンク全てに解説を付けることです。そうやって、専門外の教育を受けた人であっても十分な理解に導かれるような、脱落者を生じさせない記事の構成が目指されるべきです。」(Wikipedia:専門用語には解説を 2012年4月10日 (火) 13:24‎ UTC
Wikipediaの記事は専門家だけが理解できればよいというものではない、ということが分かります。扱う主題にもよりますが、一般的には不必要な専門用語の使用を避け、専門的な内容の説明のためにその使用が不可避の場合はその意味や背景を理解するための解説へのリンクを提供すべきです。英語版にはさらに突っ込んだガイドラインがあり、望ましい記事構成を考える上で参考になります(en:Wikipedia:Make technical articles understandable)。このように考えれば210.133.175.72さんの悩みや要望は理解できますし、記事を読者に役立つものにしたいという姿勢に共感します。
アンケート機能について: ただ、おそらく210.133.175.72さんが想定されているWikipediaやネット上の「アンケート機能」は、たとえ実現されたとしても、多重回答やいわゆる「祭り」を厳密に防ぐことは技術的に困難です。また母集団の定義や抽出枠の設定をどのように行うのか?という根本的な問題もあります。このため仮に簡単なアンケート機能を作ったとしても、その結果にはほとんど利用価値がないように思います(執筆者の気休め程度にはなるかもしれません)。
更なる考察: ところでここで問題提起のあったような執筆者自身の疑問・悩みの解決、ということに加え、これは私自身が日頃から感じていることなのですが、Wikipedia上で頻発する記事に関する執筆者間・編集者間の不毛な論争を合理的に解決し、そのエネルギーを記事内容の充実に振り向けることはできないか、という疑問・悩みがあります。記事名、用語、表記など、往々にして泥沼に陥ったり堂々巡りになったりします。議論が尽くされどうしても決着がつかない場合(例えば最終的に、現時点でどちらがより一般的なのか?どちらが読者に理解しやすいのか?といった類の問題に帰着した場合)に取り得る選択肢の一つとして「アンケート調査」のようなものがあれば…と思ったことは一度や二度ではありません。
ここで私が想定している「アンケート調査」は、信頼できる機関が一般的な標本調査の手法で実施する厳密なものですが、その実施はボランティアには限界がありそうです。やり方次第では例えば大学の協力を得るといったことも考えられますが、一部のテーマに限られるでしょう。いずれにせよ相応のお金とマンパワーが必要になると思います。こういう時こそ財団(やもし設立されるならchapter)の支援を受けられないのかなあ、と思いを巡らせたりしています。
という訳で、結論としては、210.133.175.72さんの実現されたいことは十分理解できるのですが、その実現は難しそう、というのが現時点での私の印象です。--Penn Station (talk) 2012年4月24日 (火) 19:33 (UTC)[返信]

重複記事であるのか?違うのか?

こんにちは。ノート:九州の役で、「九州征伐」や「九州攻め」の候補への改名について議論中でしたが、先日改名でなく記事の独立という形で元記事の九州の役から履歴継承と加筆による九州攻めが立てられました。Wikipedia:ウィキペディアでやってはいけないこと#重複した記事をつくることという決まりがあり、元記事から引き写された履歴、定義や内容を見たところ重複記事であるように思いました。コメント依頼も考えましたが、まずはルール運用として重複記事なのか否かについて皆様に判定をいただきたいと思います。また、このルールの解釈によって記事が両立可能(あるいは可能性として九州の役、九州攻め、九州平定、九州征伐が並立可能なのか?)な状態であるのか意見をください。(どちらが正しいといった、意見や議論についてはこの項目では扱わないこととしてください)--Jaszmars会話2012年4月25日 (水) 07:34 (UTC)[返信]


九州の役
  • (序文・定義)九州の役(きゅうしゅうのえき)は、天正14年(1586年)7月から同15年(1587年)4月にかけて行われた、羽柴秀吉(1586年9月9日、豊臣賜姓)と島津氏との戦いの総称である[注釈 1]。秀吉の「九州攻め」、「島津攻め」、「九州平定(戦)」、「九州征伐」などの名称で呼ばれることも多い(詳細は#呼称と開始時期について参照)。
九州攻め
  • (序文・定義)九州攻め(きゅうしゅうぜめ)は、天正14年(1586年)7月から同15年(1587年)4月にかけて行われた羽柴秀吉(1586年9月9日、豊臣賜姓)による九州地方への進攻戦、秀吉が全国統一の一環としておこなった島津氏をはじめとする反豊臣勢力に対する平定戦である。
九州平定#豊臣秀吉の九州平定
  • (項目の序文)豊臣秀吉の九州平定戦は、戦役としては「九州の役」「九州の陣」「九州攻め」「島津攻め」「(秀吉の)九州征討」「(秀吉の)九州征伐」「(秀吉の)九州出兵」などの名称で称されることも多い。
  • (序文・定義)豊臣秀吉の九州平定戦は、戦役としては「九州の役」「九州の陣」「九州攻め」「島津攻め」「(秀吉の)九州征討」「(秀吉の)九州征伐」「(秀吉の)九州出兵」などの名称で称されることも多い。九州平定(きゅうしゅうへいてい)とは、九州地方における敵対勢力を討って服属させること、あるいは、それにより平和な状態をつくりだすこと。九州征伐(きゅうしゅうせいばつ)とも称する。日本の歴史においては、九州停戦命令(惣無事令)にもとづいた豊臣秀吉による九州平定戦(九州の役)が特に有名である。
    • (履歴継承)2010年7月25日 (日) 17:57‎ Chokorin (会話 | 投稿記録)‎ . . (22,909バイト) (+12,051)‎ . . (源為朝、耳川の戦い、今山の戦い、沖田畷の戦い、戸次川の戦い、九州国分、九州の役、惣無事令各一部を改変転記して加筆) (取り消し)
    • (履歴継承)2010年7月25日 (日) 17:55‎ Chokorin (会話 | 投稿記録)‎ . . (10,858バイト) (+10,834)‎ . . (ノート:九州の役合意により立項。 源範頼、治承・寿永の乱、足利尊氏、多々良浜の戦い、懐良親王、筑後川の戦い、今川貞世#九州平定、水島の変 改変転記。) (取り消し)
(参考記事:九州国分
(類似案件:四国攻め四国平定四国国分

  • (問い合わせ点)重複記事であるのか?違うのか?
コメント 個人的にはどっちでもよいと考えていたので上記議論には入りませんでしたが、今回のChokorinさんのリダイレクト解消加筆は、二者択一で応えるなら重複記事であると思います。ただ、これには続きがあって、Chokorinさんの思惑では、履歴継承元記事から重複部分を除去する予定らしいですよね。ほぼ同一の主題について、視点の違いから別記事を作成することは、全く出来ない訳ではないと思います(例:大東亜戦争太平洋戦争等)。また、Jaszmarsさんの案も記事の分割のようなものであったと記憶しています。であれば、前向きに今後の方針を話し合う方が建設的かと思います。まあ、重複記事を理由に一旦リダイレクトに戻すというのも理屈としてはありだとは思いますが、腕ずくで解決しようとしない方がよいと思います(もう無理かもしれないくらい拗れているようにも思えますが)。--ろう(Law soma) D C 2012年4月25日 (水) 10:19 (UTC)[返信]
コメント 記事「九州の役」については、今もって改名提案が出されたままの状態であり、また、投票に先立つコミュニティの合意事項と2月に行われた「改名投票」の結果を踏まえれば、前回の改名直前の版(「九州征伐」2009年3月8日 (日) 07:51(UTC)(6.915バイト))に巻き戻したうえ「九州征伐」に改名するのが最も妥当な処置であり、早くその作業に移るべきだと思います。その場合、「九州征伐」への改名根拠としては「九州征伐」 (神田伯竜)や 「豊臣島津九州征伐」 (松林伯知)など娯楽作品が掲げられており、改名支持者の支持理由にも「サブカル分野への配慮」があったので、そのような方向性への加筆が見込まれます。したがって、重複記事にはならないものと考えます。しかし、あってはならないことですが、もし「九州の役」がこのままの状態で放置されるとか、現状のまま改名議論が凍結されるという可能性がもし存在しうるならば、もしかしたら重複記事となる事態も生じるかもしれません。「九州の役」の主筆者という立場で申し上げるならば、もし重複記事ということになるのであれば、削除すべきなのは「九州攻め」ではなくて「九州の役」だと考えます。というのは、「ノート:九州の役」によれば、「九州の役」の用語を用いている書籍として『日本戦史 九州役』(参謀本部編)、『日本の戦史4 小牧・九州・小田原の役』(現代語訳)(旧参謀本部編)、『日本戦史13 九州役』(復刻)(参謀本部編)の3点(実質は1点)があげられているものの、記事本文の「九州の役#参照」を御覧いただければわかるように、この記事の執筆は何ら参謀本部の「九州役」にもとづいていません。端的に言えば「Wikipedia:出典を明記する」の方針に違背しており、「九州の役」はそこからスッポリ抜け落ちているのです。したがって、「九州の役」を削除するか、そうでなければ「九州攻め」へのリダイレクトとすべきです。たしかに「九州の役#参照」には<毛利亮太郎「九州役の陣立書」(1997)>という文献が掲げられていますが、「九州役の陣立書」の掲載された新人物往来社『歴史研究434号』は、アマチュアの歴史愛好家が参加する「歴史研究会」の同人誌であり、したがって「九州役の陣立書」も日本史を専門とする学者・研究者の執筆したものではなく、歴史ファンの投稿文にすぎません。残念ながら「信頼できる情報源」とはいえません。記事「九州の役」の冒頭「九州の役(きゅうしゅうのえき)は、天正14年(1586年)7月から同15年(1587年)4月にかけて行われた、羽柴秀吉(1586年9月9日、豊臣賜姓)と島津氏との戦いの総称である」でさえ、実のところ典拠が全く付されておらず、どの書籍のどのページにそんな定義があるのかさえ検証できない状態なのです。こういう状態の記事は、基本的には不要ではないかと思います。さらに、「九州の役」の主筆者としてもう1点指摘するならば、「九州の役」を記事名とする限りは記事の発展は絶対に見込めないと判断されますし、読者の立場からすれば、見つけにくく、わかりにくく、検索しにくいという難点があると考えます。なお、「九州平定」と「九州攻め」は併存可能だと思いますし、記事のボリュームからしても分けるべきと考えますので、現状で何の問題もないと思います。--Chokorin会話2012年4月25日 (水) 10:47 (UTC)[返信]
  • コメント一連の騒動に直接は関わらなかったけど、ここまでゴタゴタした経緯を思うに「九州~」と「小田原~」は特例として並立立項を認めていい思います。特例として「九州征伐」記事と「九州の役」「九州征伐」「九州平定」の4記事並立。他の記事における内部リンクは基本的にはその記事・当該記述の出典にあわせる。4記事の内容は定義文以外は基本的にはあわせる(4記事で違うことが書いてあったらwikipedia的にまずい)、関わっている方々が改名論議に費やしている労力・時間をほかの事に向ければどれほど有効なことだか・・・(私個人は九州平定だろうと前から思っていました。が、あの論議に突撃する勇気はありませんでした)--ぱたごん会話2012年4月25日 (水) 12:57 (UTC)[返信]
    • コメントぱたごんさんは「小田原~」も含めて論じられておられますが、もともと「小田原」の方には新項別立項の提案で合意状況になったことは一度でもありませんし、意見募集依頼者も含めておりません。「小田原」は「九州」とは歴史的事象としての背景も、出典や用語使用や執筆の状況も違っています。「小田原攻め」と「小田原征伐」は山川出版の日本史用語集でも併記されていますし、「役」と「攻め」の場合の相違や差異も別です。さらに言うなら「小田原」の場合は、勃発地元自治体のHPも含め、主題に関する歴史観や博物館の展示会や分野専門家の使用状況や文献として優勢なのは「小田原合戦」です。議論の経過も背景も違うのですから、特例を「認めていただく」ような状況にはありません。記事改名は期限付きではありますが、投票も含め終了しているので、問題を絡めて複雑化させるようなことはないと思います。「平定」「国分」に関して言えば小田原合戦戦後処理を解説する記事として「宇都宮仕置」が既にあります。--ジャムリン会話2012年4月25日 (水) 13:58 (UTC)[返信]

とりあえず、ここでは当事者の方はいちいちコメントしないでもらえないだろうか。ノート:九州の役#第三者の意見募集でも、結局当事者が議論するだけで終わったように、単に議論の場を拡散させるだけなんで。それが嫌なら、こんなところで意見を聞かないで、元の場所でいつまでも議論していればいいでしょうに。--106.170.41.95 2012年4月25日 (水) 14:19 (UTC)[返信]

  • コメント この改名議論は延々と年単位で続いてきて、これからも続くかもしれません。その中で、本来執筆に向けられるはずの各位のエネルギー・モチベーションはどうしてもそちらに振り向けざるを得ない状況が続いてきました。たしかに、WP:NOTに重複記事は作らないと示されています。しかし、これまで改名で延々ともめ続けて、これからも改名でもめ続けるぐらいなら内容が重複しても各記事名称を押される各位が各記事を執筆される方がよほどWikipediaのためになるはずです。各記事で重複になる部分はありますが、WP:IARの精神に則り、例外的に重複(に近い)記事を認めた方が手っ取り早いと思います(ある程度の長期間時期を置き、それから統合なりを考えていけばいいでしょう)。Jaszmarsさん、WP:NOTを厳守するがために、延々とこれからも記事内容の充実そっちのけで改名議論を続けた方がいいとお考えですか? その結果、本来必要がないはずの不毛なコメント依頼やブロック依頼が出たとしてもかまわないのでしょうか。最後に、「ウィキペディア本来の目的は何なのか」という点を思惟すれば、自ずと答えは見えてくるのではないでしょうか。--かげろん会話2012年4月25日 (水) 14:46 (UTC)[返信]
  • コメントわたしは、本項目の改名議論の激しさと重要度については疎いのですが、天井桟敷からのコメントとして受け止めて頂ければ幸いです。まず、九州平定という羽柴秀吉の諸国統一の九州における一連の諸事象を扱った記事があります。その一部に焦点を当てた記事について、九州の役九州攻め又は九州征伐といった呼称をめぐり、統一した正式名称がなく、「Wikipedia:記事名の付け方#記事名を付けるには」の各基準などに照らし合わせても執筆者同士で見解が異なり、互いに譲らないまま九州の役から九州攻めの記事が作成されるに至った、ということと認識します。その上で、現状の記事は重複記事であるのは明白であるが、履歴継承で新規作成してから間もない故にこれは当然の事であると考えます。今後定義及び記事内容に大きな相違がみられない場合は統合または削除すべきと考えます。また、歴史観に違いによる相違であれば、Wikipedia:中立的な観点の趣旨から判断するに、同一記事内において両論併記がなされるべきです。併存していく道としては、互いの記事の定義及び内容が峻別でき、「曖昧さ回避」によって読者がどちらを読んだらよいか区別できるよう編集を努力すべきです。定義や記事内容において双方に大きな相違がなく、記事名の正当性を最重要課題とした重複項目の立項にとどまるのであれば、記事名を「九州の役・九州攻め」などとして、九州の役九州攻め双方をリダイレクトページにするのも一案かと存じます(語順で争うほど意固地な論争であれば、馬鹿馬鹿しすぎてわたしには関知できません)。ここで、重複記事ではない、と言えると思われる一例を紹介させていただきます。イエス・キリスト(キリスト教で言われているところのイエスの人物記事)とナザレのイエス(福音書簡はイエスの言行録ではなく宣教文書であって実在のイエス像を描いておらず、史料を検証及び復元しないと実在のイエス像には迫れない、とする立場からのイエスの人物記事)という記事があります。独立した記事の要件としては、少なくともこれくらいの明確な内容の差が必要であると考えます。--ジャコウネズミ会話2012年4月25日 (水) 16:40 (UTC)[返信]
  • 重複記事である Wikipedia:コメント依頼/Chokorin 二回目20120315利用者名にコメントしたことがあるくらいです。導入部を見る限り将来的にも差異を出すことができるとも思えないです。改名議論に参加していない読者と将来的な編集者のことを第一に考えて対処してほしいです。今の状態は読者と将来的な編集者にとって非常によろしくないです。新しいほうの記事をいったんリダイレクトページに戻して、放置することをお勧めします。読者にとってはそれが一番便利です。南京大虐殺の改名議論は今そのような状態になっています。あと、当事者の方はここでは付いたコメントにいちいち反論しないほうが有意義な結果が得られると思います。--Bugandhoney会話2012年4月25日 (水) 17:38 (UTC)[返信]
コメント「重複記事である」とするならば、私は新しい記事ではなく既存の「九州の役」の方をリダイレクトページにするのが、読者にとって一番便利だと思います。これは当事者というよりは、「将来的な編集者のひとり」として申し上げます。この記事は、大半が小和田哲男の『戦争の日本史15 秀吉の天下統一戦争』や『名城と合戦の日本史』など「九州攻め」の語を用いた出典を参照して加筆されたものですが、その一方で、「九州の役#参照」を御覧いただければわかるように、参謀本部編集の『九州役』を参照して書かれた箇所は一切ありません。したがって、このコメント([38])のなかの「私としては、この記事のテーマ・構成・内容で質量共に最も詳しい出典が『九州の役』であり、記事本文も「九州の役」の呼称で扱っている出典群に比重を置いて記事が生み出されている以上、この記事と最も適合する呼称は「九州の役」であるという結論は動かせません」の部分はまさにデタラメもいいところです。そして、仮に、このロジックを記事内容・記事名にあてはめるならば、
  • 記事の中身はこのままにして、記事名を「九州攻め」にする
か、あるいは、
  • 記事名は「九州の役」のままにして、「九州攻め」を出典に加筆された箇所は除去する
かのどちらかでしょう。個人的にはどちらでもいいです。しかし、「改名議論に参加していない読者と将来的な編集者のことを第一に考える」というのなら、答えはおのずから定まっていると思います。一番よいのは、「九州の役」を推す人たちが「九州役」だけを出典にして「九州の役」を立項してみることです。それでどれだけ記事が発展させることができるのか、まずは御自分が体験・検証してみてはどうなのかと思います。--Chokorin会話2012年4月26日 (木) 10:48 (UTC)[返信]

日本語版Wikipediaの永久ブロック設置案

最近、ブロック中の利用者を見る限り、ソックパペットアカウントや荒らしアカウントが急増してるので無期限ブロックだと解除の可能性があるため解除の可能性のない永久ブロックを設置するのはどうでしょうか?--ASD123会話2012年4月26日 (木) 09:20 (UTC)[返信]

  • 反対します。単純な永久ブロック導入は、WikipediaがWikipediaたる精神を否定する可能性があります。Wikipediaの精神を担保するためには裁定委員会の存在が大前提となります。しかし、日本語版の現状では、裁定委員会を設置するには、越えなくてはならないハードルが大きすぎるようです。--アイザール会話2012年4月26日 (木) 09:33 (UTC)[返信]
  • 反対 現状のままでは反対です。ブロックとバンは違いますので。例え解除を当面認めない合意がなされたブロックであっても、それは技術的なアクセス制限であって、バン(追放)とは異なります。永久にしても有効かどうかは疑問ですし。裁定委員会の設置を先にする必要と現状分析についてはアイザールさんと同意見です。--ろう(Law soma) D C 2012年4月26日 (木) 09:39 (UTC)[返信]
  • コメント 単純な話ですが「間違えて永久ブロック」してしまう可能性についてはどうお考えなのでしょうか。At least, この可能性については提案者が先回りで書かなければならないくらいの次元かと思うのですが。突っ込まれてから考える/応えようとしてますか?--にの会話2012年4月26日 (木) 09:44 (UTC)[返信]
  • 反対 反対します。ブロックされた理由を真に理解して反省し、wikipediaが事典を作るプロジェクトだと理解し、同じことを二度と繰り返さない、と確信できるならば誰であれブロックは解除されるべきものです。刑法の死刑ではないのです。ただ、例えば、Aという行為でブロックされ、「今後は2度とA行為は行わない」と誓って解除されたのに、解除後にA行為を繰り返して再ブロックされたような場合は再解除は極めて難しいだろうとは思いますが、最初から永久という設定は必要有りません。--ぱたごん会話2012年4月26日 (木) 10:09 (UTC)[返信]