「九州攻め」の版間の差分
[http://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E4%B9%9D%E5%B7%9E%E3%81%AE%E5%BD%B9&oldid=39632539 「九州の役」Chokorin(会話 | 投稿記録) による 2011年10月16日 (日) 08:13 ]を修正、加筆して立項 タグ: サイズの大幅な増減 |
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'''九州攻め'''(きゅうしゅうぜめ)は、[[天正]]14年([[1586年]])7月から同15年([[1587年]])4月にかけて行われた[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]](1586年9月9日、[[豊臣]]賜姓)による[[九州地方]]への進攻戦、秀吉が全国統一の一環としておこなった[[島津氏]]をはじめとする反豊臣勢力に対する平定戦である<ref>[[#日本史辞典|「九州攻め」『角川新版 日本史辞典』(1997)p.274]]</ref><ref name=yamakawa>[[#広辞典|「九州攻め」『日本史広辞典』(1997)p.602]]</ref><ref name=imai>[[#今井|今井「九州攻め」(2005)pp.857-860]]</ref>。[[中国攻め]]・[[四国攻め]]によって中国・四国地方を平定した秀吉が九州地方の制圧に乗り出したことで始まった。「島津攻め」や「九州平定(戦)」、「九州征伐」などの名称で呼ばれることも多い(詳細は「''[[#呼称と開始時期について]]'' 」参照)。 |
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== 呼称と開始時期について == |
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秀吉の九州戦役(九州攻め)については定まった呼称がなく、[[豊臣政権]]による九州 |
秀吉の九州戦役(九州攻め)については定まった呼称がなく、[[豊臣政権]]による九州進攻戦であることを重くみて、「九州攻め」「島津攻め」「九州征伐」「島津征伐」と呼ばれることもあれば、[[織豊政権]]の天下統一事業のなかに位置づけて「豊臣秀吉の九州平定(戦)」と称することもある。なお、[[九州地方]]の各[[県]]・[[市町村]]の公式URLや公刊された県史・市町村史では「(秀吉の)[[九州平定]]」の用語が比較的多く用いられるのに対し、[[1983年]]([[昭和]]58年)刊行の[[吉川弘文館]]『[[国史大辞典 (昭和時代)|国史大辞典]]』では見出し語として「九州征伐」([[今井林太郎]])が使用されている。ただし、[[2005年]]([[平成]]17年)の吉川弘文館『戦国武将・合戦事典』における、今井によるほぼ同一内容の記事の見出し語としては「九州攻め」の語が採用されている<ref name=imai/>。 |
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なお、旧日本陸軍[[参謀本部 (日本)|参謀本部]]([[1889年]]-[[1945年]])編集の[[1903年]]([[明治]]36年)『日本戦史』における呼称は「九州役」であり、これは「九州の戦争」という意味である。ここにおける「役」は、[[賦役]]などと同様、原義としては「人民を公役に用いること」「公用の勤」を意味している。これは、[[戦争]]のために人民を徴発し、人びとが軍事的に[[徴用]]されるところから「戦」の意で「役」の呼称を用いたものである<ref>[[#小百科|『日本史小百科18 戦乱』(1984)p.302]]</ref>。 |
なお、旧日本陸軍[[参謀本部 (日本)|参謀本部]]([[1889年]]-[[1945年]])編集の[[1903年]]([[明治]]36年)『日本戦史』における呼称は「九州役」であり、これは「九州の戦争」という意味である。ここにおける「役」は、[[賦役]]などと同様、原義としては「人民を公役に用いること」「公用の勤」を意味している。これは、[[戦争]]のために人民を徴発し、人びとが軍事的に[[徴用]]されるところから「戦」の意で「役」の呼称を用いたものである<ref>[[#小百科|『日本史小百科18 戦乱』(1984)p.302]]</ref>。 |
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開始時期について、[[小和田哲男]]は、[[年表]]などではこの戦役が天正15年([[1587年]])に入っているのが一般的であり、実際の秀吉の九州出馬が同年[[3月1日 (旧暦)|3月1日]]、[[島津義久]]の降伏が[[4月21日 (旧暦)|4月21日]]なので、そのこと自体は誤りではないと前置きしたうえで、「しかし、秀吉自身の出馬は、いわば最後の総仕上げといった趣があり、本当の意味での九州攻めは、その前年、すなわち1586年からはじまっていた」と述べている<ref name=owada07>[[#小和田3|小和田「秀吉の九州攻めと北九州の城」(2007)pp.129-132]]</ref>。そして、この段階([[1586年]]段階)における秀吉側の立役者は[[黒田孝高]](如水)であったとしている(後述)<ref name=owada07/>。 |
開始時期について、日本史学者の[[小和田哲男]]は、[[年表]]などではこの戦役が天正15年([[1587年]])に入っているのが一般的であり、実際の秀吉の九州出馬が同年[[3月1日 (旧暦)|3月1日]]、[[島津義久]]の降伏が[[4月21日 (旧暦)|4月21日]]なので、そのこと自体は誤りではないと前置きしたうえで、「しかし、秀吉自身の出馬は、いわば最後の総仕上げといった趣があり、本当の意味での九州攻めは、その前年、すなわち1586年からはじまっていた」と述べている<ref name=owada07>[[#小和田3|小和田「秀吉の九州攻めと北九州の城」(2007)pp.129-132]]</ref>。そして、この段階([[1586年]]段階)における秀吉側の立役者は[[黒田孝高]](如水)であったとしている(後述)<ref name=owada07/>。 |
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== 背景 == |
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2012年4月22日 (日) 05:03時点における版
九州攻め | |
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戦争:戦国時代 - 安土桃山時代 | |
年月日:天正14年(1586年)-同15年(1587年) | |
場所:九州全域 | |
結果:島津氏の降伏、豊臣秀吉の九州平定成功 | |
交戦勢力 | |
九州平定軍 | 島津軍 |
指導者・指揮官 | |
豊臣秀吉 豊臣秀長 |
島津義久 島津義弘 島津家久 島津歳久 |
戦力 | |
200,000~220,000 | 20,000~50,000 |
損害 | |
- | - |
九州攻め(きゅうしゅうぜめ)は、天正14年(1586年)7月から同15年(1587年)4月にかけて行われた羽柴秀吉(1586年9月9日、豊臣賜姓)による九州地方への進攻戦、秀吉が全国統一の一環としておこなった島津氏をはじめとする反豊臣勢力に対する平定戦である[1][2][3]。中国攻め・四国攻めによって中国・四国地方を平定した秀吉が九州地方の制圧に乗り出したことで始まった。「島津攻め」や「九州平定(戦)」、「九州征伐」などの名称で呼ばれることも多い(詳細は「#呼称と開始時期について 」参照)。
呼称と開始時期について
秀吉の九州戦役(九州攻め)については定まった呼称がなく、豊臣政権による九州進攻戦であることを重くみて、「九州攻め」「島津攻め」「九州征伐」「島津征伐」と呼ばれることもあれば、織豊政権の天下統一事業のなかに位置づけて「豊臣秀吉の九州平定(戦)」と称することもある。なお、九州地方の各県・市町村の公式URLや公刊された県史・市町村史では「(秀吉の)九州平定」の用語が比較的多く用いられるのに対し、1983年(昭和58年)刊行の吉川弘文館『国史大辞典』では見出し語として「九州征伐」(今井林太郎)が使用されている。ただし、2005年(平成17年)の吉川弘文館『戦国武将・合戦事典』における、今井によるほぼ同一内容の記事の見出し語としては「九州攻め」の語が採用されている[3]。
なお、旧日本陸軍参謀本部(1889年-1945年)編集の1903年(明治36年)『日本戦史』における呼称は「九州役」であり、これは「九州の戦争」という意味である。ここにおける「役」は、賦役などと同様、原義としては「人民を公役に用いること」「公用の勤」を意味している。これは、戦争のために人民を徴発し、人びとが軍事的に徴用されるところから「戦」の意で「役」の呼称を用いたものである[4]。
開始時期について、日本史学者の小和田哲男は、年表などではこの戦役が天正15年(1587年)に入っているのが一般的であり、実際の秀吉の九州出馬が同年3月1日、島津義久の降伏が4月21日なので、そのこと自体は誤りではないと前置きしたうえで、「しかし、秀吉自身の出馬は、いわば最後の総仕上げといった趣があり、本当の意味での九州攻めは、その前年、すなわち1586年からはじまっていた」と述べている[5]。そして、この段階(1586年段階)における秀吉側の立役者は黒田孝高(如水)であったとしている(後述)[5]。
背景
天正年間(1573年-1592年)に入ると、九州地方西部では、それまでの大友義鎮(宗麟)の勢力下にあった肥前国で龍造寺隆信の動きが活発化し、肥前一国をほぼ征服、さらに筑後・肥後方面にも勢力を拡大していった。こうして戦国時代後半の九州では、盛強な戦国大名三者による三つ巴の抗争が展開されるようになったが、これを「大友・龍造寺・島津の三氏鼎立時代」などと呼称することがある[6]。このなかから、薩摩の島津氏が台頭し、日向の伊東氏、肥後の相良氏、阿蘇氏、肥前の有馬氏らを下し、天正12年(1584年)の沖田畷の戦いでは龍造寺隆信をも敗死させた。さらに、天正13年(1585年)には、大友氏の重鎮立花道雪の死により大友氏の支配がゆるんだ筑後の国人衆も傘下に収めて北九州地方への影響力も強めて、九州平定をほぼ目前にした[7]。豊後の大友宗麟は、島津氏の圧迫を回避するため、当時近畿、四国、中国の各地方を平定して天下統一の道を歩んでいた羽柴秀吉に助けを求めた。
天正13年7月に関白となった秀吉は、同年10月2日、島津氏と大友氏に対し、朝廷権威を以て停戦を命令した(九州停戦令)。しかし、大友氏は停戦令をすぐさま受け入れたのに対し、島津氏側は家中で激しい議論となった末に停戦令受諾の方針を決定するとともに家臣鎌田政近を秀吉のもとへ派遣して、島津はかつて織田信長の調停にしたがって停戦を守ろうとしたのにもかかわらず大友氏側が攻撃を仕掛けてきたので防戦したものであると弁明させた[8]。
さらに島津氏の当主島津義久は天正14年(1586年)1月、源頼朝以来の名門島津が秀吉のごとき「由緒なき仁」(成り上がり者)を関白として礼遇しない旨を表明した[8]。3月、秀吉が島津氏の使者鎌田政近に対して占領地の過半を大友氏に返還する国分案を提示した。具体的には、筑前を秀吉の直轄領とし、肥後・豊前の半国および筑後を大友氏に、肥前を毛利氏にあたえ、それ以外は島津氏の本領として安堵するというものであった[3]。回答期限は7月であったが、島津側は「神意」としてこれを拒否[9]、細川藤孝(幽斎)の添状には回答して大友氏攻撃を再開し、九州統一戦を進めたため、秀吉は大友氏の手引きによる九州攻めに踏み切った[10][注釈 1]。
島津氏側としては、すでに九州地方の大半が島津領であるという現状を無視した秀吉の九州国分案は到底受け入れがたいものであった[9][注釈 2]。
それに対し、天正14年4月5日、大坂城に秀吉を直接たずね、島津氏からの脅威を取りのぞいてくれるよう懇願した[11][12][注釈 3]。宗麟を迎えた秀吉は上機嫌で、みずから茶の湯をたてて宗麟に振る舞い、また、みずから天守閣に案内したという[11]。秀吉としては、徳川家康との和議が成立して妹の朝日姫と家康の婚儀もまとまって、10日後には大坂から浜松へうつることとなっていたから、背後の憂いなく九州に出兵できる態勢が整いつつあり、また、宗麟は、秀吉の弟豊臣秀長からも「内々の儀は宗易(千利休)、公儀の事は宰相(秀長)相存じ候、御為にあしき事は、有るべからず候。」(『大友家文書録』)という温かい言葉をかけられた[11]。
秀吉と黒田孝高は、九州攻めにあたって、なるべく豊臣本隊を使うことなく、すでに秀吉に帰服していた毛利輝元・吉川元春などの中国地方の大名、あるいは長宗我部元親・十河存保などの四国地方の大名を用いようとした[5]。秀吉が天正14年4月10日付で毛利輝元にあてた覚書には、城郭の補強、豊前・肥前から人質をとること、西海道にいたる道路の修造、赤間関(山口県下関市)への兵糧蔵の建造を命じている[11]。
経緯
天正14年の戦い(豊薩合戦)
島津氏は九州統一の総仕上げとして、大友氏の所領であった豊前、豊後、および筑前への侵攻を開始した。島津氏のこの軍事行動について、日本史学者の池上裕子は「島津は自力で九州のほとんどを平定し、その実績を秀吉に認めさせようと考えた」ものであると指摘している[13]。天正14年(1586年)3月、上述のように秀吉は、島津氏の使者鎌田政近に対し、島津氏が占領した領地のほとんどを大友氏に返還する国分案を提示する一方、4月には毛利輝元に対し、九州攻めのための人員・城郭・兵糧などの準備を指示した。また、仙石秀久と長宗我部元親らを豊後に派遣して大友氏に加勢させ、8月には大友宗麟・義統の父子と立花宗茂に書状を送り、黒田孝高・宮木豊盛らの豊前出陣を伝えた[14]。
筑前の戦い
秀吉の到着前に九州統一を成し遂げたい島津軍は天正14年6月、筑前への侵攻を開始した。6月18日、島津義久みずから鹿児島を出発し、7月2日には肥後国八代(熊本県八代市)に到着した[6]。そして、島津忠長・伊集院忠棟が先陣をつとめ、これに、島津忠隣・新納忠元・北郷忠虎・川上忠堅らがつづくかたちで大友方の筑紫広門が守る肥前国勝尾城(佐賀県鳥栖市河内町)を攻めた。7月6日、筑後川をはさんだ筑後国高良山(福岡県久留米市)に本陣をおいた島津勢は、勝尾城の支城を攻略し、筑紫晴門の守る肥前鷹取城(鳥栖市山浦町中原)を陥落させて晴門を討ち取った。7月10日には勝尾城も開城したが、同じ日、秀吉は島津氏に対し、討伐の軍をさしむけることを決定した[6]。
秀吉は九州国分令を受け入れた大友宗麟と毛利輝元とに対し、国分令の執行を命令し、その検使として黒田孝高と宮城堅甫、安国寺恵瓊を任じた。ただし、秀吉は国分令の執行が順調に進まない場合も想定して、輝元・吉川元春・小早川隆景の毛利勢のほか讃岐国高松城主の仙石秀久、土佐国岡豊城主の長宗我部元親にも軍勢を率いての九州渡海を命じている[6]。一方、島津軍は7月12日に本陣を筑前天拝山(福岡県筑紫野市)に移し、高橋紹運の守る筑前岩屋城(福岡県太宰府市太宰府)、紹運長男で19歳の立花宗茂の守る立花城(福岡県糟屋郡新宮町立花)、紹運次男で13歳の高橋統増(のちの立花直次)の守る宝満山城(太宰府市北谷)を攻撃目標に定めた。
7月13日以降、3万以上の大軍で岩屋城を攻めた島津軍だったが、高橋紹運の強い抵抗によって攻めあぐねた。立花宗茂は立花城への合流を勧めたが、父紹運はわずか700名の兵によって島津勢をひきつけ、これを持ちこたえて秀吉の援軍を待つべしと主張した。島津軍は、7月27日にようやく岩屋城を陥落させたものの、上井覚兼は負傷、死者数千名の損害を出すという大誤算であった。大友方は、紹運が自刃、千余名にふえた城兵はすべて討死という壮絶な戦いであった[6]。
島津勢は8月6日には宝満山城も陥落させたものの、立花城については立花宗茂の守りが堅固でなかなか攻め落とせなかった。攻め手の将である島津忠長と伊集院忠棟は宗茂を寝返らせるよう降伏勧告をおこなったが、宗茂がこれを断り調略が奏功しないなか、毛利軍が長門国赤間関(山口県下関市)まで進軍したとの報に接した[6]。そこで8月24日、島津勢は、立花城攻めをあきらめて包囲を解き、立花城近くの高鳥居城(福岡県糟屋郡須恵町上須恵)に星野鎮胤・星野鎮元はじめ押さえの兵を割いて撤退を開始した。こののち、宗茂は翌8月25日に高鳥居城を奪取、8月末までには毛利先遣軍とも連携して島津軍を追い、岩屋城、宝満山城を奪還した[5]。
豊前・豊後の戦い
天正14年4月15日に毛利輝元に対して九州への先導役を命じた秀吉は、8月6日には吉田郡山城(広島県安芸高田市)へ使いを送り、輝元に九州出陣を促した。8月16日には輝元自身が安芸国より、月末には小早川隆景が伊予国より、吉川元春が出雲国よりそれぞれ九州に向けて進発した。
8月26日、神田元忠率いる3,000の毛利先遣軍は、豊前門司城(北九州市門司区)を出て島津方の高橋元種の支城豊前小倉城(北九州市小倉北区)を攻略しようとして進軍したが、大里(北九州市門司区)周辺で高橋勢の伏兵に苦しみ、秋月種実の攻撃もあって門司城に引き返した。これは、秀吉方と島津方の最初の交戦であった。この毛利軍の到着により、西方から筑前を攻略して大友方の城を一つずつ落とすことによって自領を拡大していこうとしていた島津側のもくろみは、見直しをせまられた[6]。
9月、秀吉の命によって十河・長宗我部の両氏も豊後に出陣して大友氏と合流した。9月9日、秀吉は朝廷より豊臣姓を賜ったが、このころ、秀吉陣営は豊前国の花尾城(北九州市八幡西区)・広津城(福岡県筑上郡吉富町)・時枝城(大分県宇佐市)・宇佐城(宇佐市)、筑前国の龍ヶ岳城(福岡県宮若市)を帰服させた。10月初め、毛利輝元は軍監黒田孝高、叔父の吉川元春・小早川隆景をともなってようやく九州に上陸し、高橋元種の小倉城、賀来氏が守る豊前宇留津城(福岡県築上郡築上町宇留津)を攻撃した。小倉城攻めは当主輝元みずから指揮にあたり、元春・隆景も攻め手に加わった。隠居して元長に家督を譲った吉川元春にとっては久しぶりの合戦であった。10月4日、小倉城の城兵は元種の本城である豊前香春岳城(福岡県田川郡香春町)へと逃亡して陥落、また、豊前馬ヶ岳城(福岡県行橋市大谷字馬ヶ岳)、豊前浅川城(北九州市八幡西区浅川)、筑前剣ヶ岳城がそれぞれ落城して毛利勢に帰服した。ここにいたり、島津義久は、東九州に進軍して大友宗麟の本国である豊後を直接攻撃し、そのことによって雌雄を決するという方針に転じた[6]。
九州に乗り込んだ黒田官兵衛孝高は、翌年に予定されている秀吉本隊の出馬に先だって敵対勢力を除去するため、豊前および筑前地方の島津方武将に対し、寝返りの調略をおこなった。ただし、このときの孝高の調略を仔細に検討した場合、武将が完全に豊臣方に寝返って旗幟を鮮明にした事例はむしろ乏しいという[5]。これについては、秀吉軍進軍の際、秀吉に味方すれば本領を安堵するが、敵対すれば攻撃するという降誘文書を送付することによって前もって各自の決断を迫っていたといわれており[6]、日本史学者の小和田哲男は、「これは、秀吉本隊が九州の地に足を踏みいれたとき、秀吉の威に恐れて帰服してくる形にしたからだと思われる。(中略) 秀吉に花をもたせるための、官兵衛苦心の演出だったのではないだろうか」と推測している[5]。
10月22日、島津氏当主義久は、すぐ下の弟の島津義弘を大将とする兵三万余の大軍で肥後国の阿蘇から九州山地を越えて豊後に侵攻させた。義弘軍は24日には豊後津賀牟礼城(大分県竹田市入田)を落とし、その城主だった入田宗和に案内させて岡城(竹田市竹田)を攻めた。小松尾城(竹田市神原)、一万田城(大分県豊後大野市朝地町池田)などは島津氏にしたがったが、岡城の城主志賀親次の激しい抵抗には苦戦し、島津氏は停滞を余儀なくされた。
義久は一方では弟島津家久に兵一万余をつけて、日向表から北上して豊後に侵攻する計画を立てた。家久軍は10月、豊後松尾城(豊後大野市大野町宮迫)、豊後小牧城(豊後大野市緒方町野尻)を落とし、10月23日、大友氏の有力家臣である豊後の栂牟礼城(大分県佐伯市弥生)の佐伯惟定に使者を送ったが、惟定は多数の支城をきずいたほか、佐伯湾の海上警備もおこなうなど徹底して防備につとめ、11月4日には栂牟礼城を出て堅田(佐伯市堅田)で交戦、島津勢の侵攻を阻止した。
吉川元春は島津方の宮山城を攻略したのち、小早川隆景とともに高橋元種の支城豊前松山城(福岡県京都郡苅田町)を攻め、11月7日に賀来専慶の守る宇留津城、15日にはさらに元種の支城障子岳城(福岡県京都郡みやこ町)を攻撃した。元春はこの陣のなかで病没したが、吉川勢は元種の本城香春岳城(香春町)を20日間にわたって猛攻を加え、12月上旬、元種を降伏させた。これにより、豊前はそのほとんどが秀吉方の制するところとなり、豊後での戦線がのこされた。
いっぽう、家康は朝日姫との婚礼がなされたあとも上方にのぼることがなかった。秀吉は 朝日姫の見舞いに赴くという名目で母の大政所を家康のもとに送ることを決意、それにより家康は 11月27日、大坂城にのぼり、関白秀吉の前に進んで居並ぶ諸大名の前で礼を尽くしての謁見を済ませた[11]。これにより、秀吉自身もようやく九州攻めに完全に専念できる態勢が整った[11]。12月1日、秀吉は諸国に対し、翌年3月を期してみずから島津征討にあたることを伝え、畿内および北陸道・東山道・東海道・山陰道・山陽道などの約37か国に対し、計20万の兵を大坂に集めるよう命令を発した[3]。また、小西隆佐・建部寿徳・吉田清右衛門尉・宮木長次の4名に軍勢30万人の1年分の兵糧米と軍馬2万疋の飼料の調達を命じ、秀吉家臣石田三成・大谷吉継・長束正家の3名を兵糧奉行に任じて、その出納や輸送にあたらせた[3]。また、小西隆佐には、諸国の船舶を徴発して兵糧10万石分の赤間関への輸送も命じた[15]。
豊後鶴賀城(大分市上戸次)は、宗麟の重臣利光宗魚の居城であり、宗麟の2つの居城、すなわち府内の上原館(大分市上野丘西)と丹生島城(大分県臼杵市臼杵)を連繋する要衝であった[12]。11月、家久は宗魚の嫡子利光統久の守る鶴賀城を攻めたが、当時、宗魚は肥前に向けて出陣しており手勢は700ほどにすぎなかったため、統久は講和して父と連絡をとった。報せを受けた宗魚は兵を引き返し、11月25日、鶴賀城に戻って家久本陣に夜襲をかけた[12]。12月6日、島津家久は鶴賀城攻撃を開始し、その日のうちに三の曲輪、二の曲輪を攻め、本曲輪1つをのこすのみとなった。利光の軍はよく守り、府内を守る宗麟嫡男大友義統に対し、後詰の兵として援軍を差し向けるよう要請した[6]。しかし、家久は鶴賀城を府内攻めの拠点にすべく昼夜を分かたず攻めつづけ、途中宗魚は流れ矢にあたって戦死した。
このとき、府内城には、土佐の長宗我部元親・信親父子、讃岐の十河存保、そして軍監の立場で讃岐高松城主仙石秀久らの四国勢およそ六千が詰めていた。四国勢は、持久戦により島津軍を食い止めておくよう指示されていたが、利光宗魚の死によって、府内が家久・義弘双方から挟撃される危険が出てきたため、家久軍を戸次川(大野川)で食い止める必要にせまられ、12月11日急遽出陣することとなった[6]。
翌12月12日、戸次川の戦いがはじまった。家久は鶴賀城の囲みを解いて撤退し、坂原山に本陣をおいたが、その軍勢は1万8,000にふくれあがっていた[6]。ここで軍監仙石秀久は、長宗我部元親の制止も聞かず、また十河存保も秀久に同調したため、戸次川の強行渡河作戦が採用された。島津勢は身を伏せて川を渡り切るのをみはからって急襲、虚を衝かれた秀久が敗走、兵の少なくなったところを家久軍主力が寄せた。この戦いで豊臣方は四国勢6,000のうち2,000を失い、元親の嫡子長宗我部信親、十河存保などの有力武将を失う大敗を喫した[注釈 4]。
12月13日、勢いづいた島津軍は大友義統が放棄した府内城を陥落させて、隠居した大友宗麟の守る丹生島城(臼杵城)を包囲した。丹生島城は、宗麟がポルトガルより輸入して「国崩し」と名付けた仏郎機砲(フランキほう、石火矢)の射撃もあり、なんとか持ちこたえた[注釈 5]。その後北上する島津軍は杵築城(大分県杵築市)を攻めたが木付鎮直の激しい抵抗を受け失敗、豊後南部では大友家臣佐伯惟定がいったん島津方に奪われた諸城を奪回して後方を遮断した。また、志賀親次が島津義弘軍を数度にわたって破る戦いを展開した。
肥後の阿蘇から豊後に攻め込んでいた島津義弘の軍勢は12月14日、豊後朽網城(竹田市久住)に移動して、そこで冬を越した。家久は豊後の府内城で、当主島津義久は日向国塩見城(宮崎県日向市塩見)で、それぞれ越年した。
天正15年の戦い(秀吉・秀長の九州出兵)
大友宗麟は秀吉に出馬を何度も願った。天正15年(1587年)元旦、秀吉は年賀祝儀の席で、九州侵攻の部署を諸大名に伝え、軍令を下した。以後、正月25日の宇喜多秀家を第一陣として順次九州に進発し、第二陣以下5日ごとに逐次秀吉より出陣が命じられた[15]。2月10日には弟秀長が出発した[16]。秀吉は前田利家に留守を託し、3月1日に浅野長政・佐々成政をともなって京都を進発した[3][注釈 6]。留守をあずかったのは、前田利家、甥の豊臣秀次のほか中村一氏、堀尾吉晴、山内一豊ら約3万であった[15]。
出陣に際しては、勅使・公家衆・織田信雄などが秀吉を見送っている[16]。秀吉軍の行装の美観は古今随一という評判をとった[15][17]。秀吉は、出陣の際に黒田孝高あてに送った朱印状には「やせ城どもの事は風に木の葉の散るごとくなすべく候」と書き記した[18]。こうして、肥後方面軍を秀吉自身が、日向方面軍を豊臣秀長が率い、合わせて20万を数える圧倒的な人員と物量で進軍した。なお、豊臣軍の陣立は、以下の通りである。
- 肥後表陣立((天正15年)三月二十五日付秀吉朱印状より)
- 一番隊 毛利吉成、高橋元種、城井朝房
- 二番隊 前野長康、赤松広英、明石則実、別所重宗
- 三番隊 中川秀政、福島正則、高山長房
- 四番隊 細川忠興、岡本宗憲
- 五番隊 丹羽長重、生駒親正
- 六番隊 池田輝政、林為忠、稲葉貞通
- 七番隊 長谷川秀一、青山忠元、木村重茲、太田一吉
- 八番隊 堀秀政、村上義明
- 九番隊 蒲生氏郷
- 十番隊 前田利家
- 十一番隊 豊臣秀勝
- (総大将 豊臣秀吉)
- 日向表陣立((天正15年)三月二十一日付秀吉朱印状より)
- 一番隊 黒田孝高、蜂須賀家政
- 二番隊 小早川隆景、吉川元長
- 三番隊 毛利輝元
- 四番隊 宇喜多秀家、因幡衆(宮部継潤、亀井茲矩、木下重堅、垣屋光成、南条元続)
- 五番隊 小早川秀秋
- (番外 筒井定次、溝口秀勝、森忠政、大友義統、脇坂安治、加藤嘉明、九鬼嘉隆、長宗我部元親)
- (総大将 豊臣秀長)
上述のごとく、石田三成、大谷吉継、長束正家が兵糧奉行として兵糧の確保や輸送にあたったが、上方からの輸送に際しては摂津尼崎港(兵庫県尼崎市)が主に用いられた。
大坂を出陣した秀吉は、途中安芸の厳島に参詣、歌会をひらいて行軍の疲れを癒したり、赤間関では阿弥陀寺を参詣して治承・寿永の戦いの史跡を弔うなど悠然と歩を進めた[15]
秀吉と秀長の九州同時侵攻を察知した島津軍は北部九州を半ば放棄したため、豊臣軍は瞬く間に島津氏方に属していた城の多くを陥落させた。島津氏は、領国薩摩・大隅・日向の守りを固める方針に変更した。
日向の戦い
秀長は3月上旬には小倉に達した。このころ、島津家久が豊後松尾城(大分県豊後大野市松尾)にうつり、府内城には島津義弘が入っていたが、豊臣方はすぐに豊後を攻めるのではなく、高野山の僧木食応其を使者として府内城に送って秀吉との講和を勧めた[6]。しかし、義弘がこれを拒否したため3月18日には豊後・日向国境で小競り合いとなった(梓越の戦い)。19日、義弘は高城(宮崎県児湯郡木城町高城)にうつり、3月20日には家久とともに日向の都於郡城(宮崎県西都市都於郡)に退いて、義久も含めて兄弟3人はこの城で軍議をおこなった[6]。
いっぽう秀吉は3月1日に京を進発し、大坂を経て山陽道を悠然と下り、途中安芸国の厳島神社(広島県廿日市市宮島町)を参詣、3月25日に赤間関に到着した[3][19]。赤間関では秀長と九州攻めに関する協議をおこなった。このとき、上述のとおり、秀長が東九州の豊後・日向をへて薩摩に進軍すること、秀吉が西九州の筑前・肥後をへて薩摩に向かうことが約された。
秀長軍は先着していた毛利輝元や宇喜多秀家、宮部継潤ら中国勢と合流し、豊後より日向へ入って縣(宮崎県延岡市)を経て3月29日には日向松尾城(延岡市松山)を落とし、さらに4月6日には耳川を渡って山田有信の守る高城(木城町)を包囲した。秀長は城を十重、二十重に囲んで兵糧攻めにし、都於郡城から後詰の援軍が出てくることを予想して根白坂(児湯郡木城町根白坂)に城塞を築いた。
高城が孤立する形勢となったことに対し、4月17日、島津義久・義弘・家久が2万の大軍を率いて救援に向かった[6]。砦の守将は宮部継潤であったが、逆に包囲される形勢となり、義久は義弘・家久を先鋒として宮部の営を襲撃した[17]。このとき、秀長に藤堂高虎、黒田孝高、小早川隆景が後詰として加勢し、後世「根白坂の戦い」と称される激しい戦闘となった。その結果、島津方は根白坂を突破できなかったのみならず、島津忠隣が戦死するなどの大敗を喫した[17]。義久・義弘は都於郡城に退却し、家久も佐土原城(宮崎市佐土原町)に兵を退却させた。この戦いは、島津氏をして、ようやく講和の必要性を知らせるに至った初めての決定的敗北であった [17]。さらに、豊臣秀次が都於郡城を攻略し、三ツ山(宮崎県小林市)・野尻(小林市)の境界にある岩牟礼城(小林市)まで侵攻した。義弘はこれに対し、飯野城(宮崎県えびの市飯野)に籠った。
筑前・肥後の戦い
秀吉は、赤間関での秀長との軍議のあと、そこから船で九州に渡り、3月28日、豊前小倉城に到着した[3]。翌29日には豊前馬ヶ岳(行橋市大谷)まで進軍し、島津方の秋月種実が本拠とする筑前古処山城(福岡県朝倉市秋月)・豊前巌石城(福岡県田川郡添田町枡田)を攻めることとなった。
3月29日の軍議では、秀吉は巌石(がんじゃく)城が堅固とみて、豊臣秀勝・蒲生氏郷・前田利長らを押さえとしてとどめ、細川忠興・中川秀政・堀秀政を古処山城攻めにあてようとした。しかし、氏郷・利長は巌石城攻めを主張し、みずから攻城担当をかって出たので、秀吉は豊臣秀勝を大将に先鋒の蒲生氏郷・前田利長隊に命じて巖石城を攻撃させた。戦いは4月1日にはじまり、蒲生軍が大手口から、前田軍が搦手口から巌石城を力攻めし、一日で攻略した。城兵3,000のうち約400が討死するという激しい戦闘であった[6]。
秋月種実は、この戦闘のようすを筑前益富城(福岡県嘉麻市大隈)からうかがっていたが、敗色濃厚とみて益富城を放棄、兵を集中させるため本拠の古処山城に撤退した。秀吉は、古処山城攻めに5万の軍勢を送り込み、夜中に農民に松明を持たせて周囲を威嚇、さらに、翌日には破却した益富城の城壁を奉書紙を用いて1日で改修したように見せかけて秋月方の戦意を喪失させることに成功した[16]。4月3日、秋月種実は剃髪し、子の秋月種長とともに降伏した。このとき種実は、茶器「楢柴肩衝」と「国俊の刀」および娘の一人を秀吉に差し出している。
巌石城が1日で陥落し、秋月種実が3日にして降伏したことは、抜群の宣伝効果をともなって戦況に決定的な影響をあたえることとなった。これ以降、それまで秀吉に敵対の構えを示していた島津方の将は戦わずして続々と秀吉に臣従したのである。豊前国の彦山(ひこのやま)の衆徒もまた秀吉に降った[17]。
事前の黒田孝高の地ならしが功を奏したとはいえ、想像を超えた秀吉の大軍にほとんどの武将は強烈な印象を受け、戦意を喪失してしまったものと考えられる[6]。
4月10日、秀吉は筑後高良山、16日には肥後熊本(熊本県熊本市)、19日には肥後八代(熊本県八代市)に到着した。このとき、肥前の龍造寺氏にあっては鍋島直茂が秀吉と早くから内通していたこともあって豊臣軍に帰参した。また、島原方面では有馬晴信の調略に成功した。
秀吉の大軍の到来に対し、高田(八代市高田)に在陣していた島津忠辰はこれを放棄して薩摩国の出水(鹿児島県出水市)にまで撤退した。
薩摩の戦い
秀吉は4月25日に肥後佐敷(熊本県葦北郡芦北町)、26日に肥後水俣(熊本県水俣市)と進み、4月27日には島津方の予想を上回る速さで秀吉が薩摩国内に進軍すると、出水城(出水市)の城主島津忠辰、宮之城(鹿児島県薩摩郡さつま町)の城主島津忠長らが降伏した。先鋒の小西行長、脇坂安治、九鬼嘉隆らは海路24日出水に、25日には川内(鹿児島県薩摩川内市)に入っていた。
秀吉は、薩摩の浄土真宗勢力を利用するために石山本願寺#本願寺(当時は摂津国天満に本拠を移転)の顕如をともなっていた。これにより獅子島(鹿児島県出水郡長島町)の一向門徒の協力を得て、島津方の意表を突く迅速さで出水・川内の地に達したのである[17]。
4月28日、小西・脇坂・九鬼勢は平佐城(薩摩川内市平佐)に攻撃を仕掛けたが、ここで城主桂忠詮の反撃にあった(平佐城の戦い)。このとき、平佐城の井穴口を守る原田帯刀が寄手大将小出大隅守の弟九鬼八郎を弓で射とめ、また、城内の女たちや子どもたちも懸命にはたらくなど善戦して、双方、相当数の犠牲者を出した。これが島津方の最後の抵抗となった。
講和の成立
天正14年末より水面下で足利義昭や木食応其が豊臣秀長の意向をうけて和平工作をすすめており、義久も天正15年4月12日には義昭の使者に会って講和受諾の意思はそのなかで表明していた[13]。天正15年4月17日からの日向高城の戦い、およびそれにつづく根白坂の戦いの敗北によって島津氏の組織的抵抗は最後となった。4月21日、ついに島津義久は伊集院忠棟と平田増宗を人質として秀長に和睦を申し入れた。26日には高城を差し出すこととなり、最後まで抵抗していた山田有信も開城に同意して、4月29日、有信は高城を出た。
いっぽう4月28日夕刻、平佐城で抵抗していた桂忠詮のもとに当主義久からの書状がとどいた。秀吉勢が川内川の対岸にもどった後のことであった。書状は、義久はすでに降伏しており、これ以上島津家臣団が戦うことは島津氏の戦後の処遇で不利益をこうむる怖れがあるため降伏するように、という内容であった[20]。山田有信が高城を出たのと同日の4月29日、林忠詮は義久の命にしたがって脇坂安治の陣に小姓の海老原市十郎、大田兵部左衛門両名を人質として出頭させ、降伏の意思を伝えた[20]。
秀吉は、林忠詮降伏の報せをうけた翌日の5月1日には出水より阿久根(鹿児島県阿久根市)へ移動し、3日には平佐城の川向かいにあたる川内の泰平寺(薩摩川内市)に本陣を置いた。忠詮は泰平寺で秀吉に拝謁してその武勇を賞され、名刀宝寿を下賜された[20]。
根白坂の敗戦で戦意を喪失した島津家の当主義久は、一色昭秀と木食応其の和議勧告を受けいれ、降伏を決意した[3]。義久はいったん鹿児島にもどり、5月6日には同地を出発して途中伊集院(鹿児島県日置市)の雪窓院で剃髪して名を「龍伯」と改めて出家し[注釈 7]、天正15年5月8日、泰平寺に滞留していた秀吉のもとを訪れて降伏した[6]。秀吉は、義久の降伏の意思をすでに聞いており、義久もまた墨染の衣によって俗界を離れる姿勢を示したため、「一命を捨てて走り入ってきたので赦免する」として赦免の措置をとった。その条件は、義久の娘の亀寿を人質として差し出すこととと義久本人の在京であった[3]。
秀吉はその後もしばらく泰平寺に滞在し、5月18日には同寺をはなれて筑前にむかった。
戦後処理
義久が降った後も、飯野城に籠った島津義弘、婿養子忠隣を失った島津歳久らの抵抗が続いた。5月22日、義弘は義久の説得により子息島津久保を人質として差し出すことを条件に降伏した。
川内の泰平寺から北に向かった秀吉本隊は6月7日、筑前筥崎(福岡市東区箱崎)に到着、筥崎八幡宮で九州国分令を発した。
島津氏に関しての沙汰は、筥崎での九州仕置発表に先立つ5月中にすでになされていた。島津氏は、最終的に、九州地方において新たに獲得した地域の大部分を没収されたが、石田三成と伊集院忠棟による戦後処理の結果、薩摩・大隅の2国に日向の諸県郡が安堵された。義久(龍伯)に薩摩一国、義弘に大隅と日向諸県郡、義弘の子島津久保には諸県郡のうち真幸院があたえられた。家久は佐土原城を明け渡し、秀長とともに上方へのぼろうという矢先の6月5日に急死した。毒殺といわれている[16]が、家久の嫡子島津豊久には日向の都於郡(西都市)と佐土原が安堵された。
秀吉は秀長に、大友宗麟に日向一国を与えて伊東祐兵をその与力とし、伊集院忠棟に大隅一郡を与え、残る全ての大隅領を戸次川の戦いで嫡男信親を失った長宗我部元親に与える計画を伝えた。これは、秀吉が秀長に充てた天正15年5月13日付の書状に残されているが、宗麟と元親はともに固辞したため実行にうつされなかった[21]。なお、宗麟はこの年の5月23日、隠居の地とした豊後津久見(大分県津久見市)において死去している。
肥後国は大半が佐々成政に与えられ、肥後国人衆がその家臣団として旧領を安堵された[2]。肥後人吉(人吉市)は相良氏家臣深水長智の交渉により相良頼房に安堵された。そして、小早川隆景には筑前・筑後・肥前1郡の約37万石、黒田孝高には豊前国のうち6郡(京都・仲津・築城・上毛・下毛・宇佐)の約12万5,000石、森吉成には豊前企救郡・田川郡の約6万石、立花宗茂には筑後柳川城(福岡県柳川市)に13万2,000石、毛利勝信には豊前小倉(福岡県北九州市)約6万石をそれぞれあたえた[3]。小早川隆景は、みずからにあたえられた領地のうち筑後3郡を毛利秀包に割いた。宗麟の子大友義統には豊後一国が安堵された。龍造寺政家、純忠の子大村喜前、松浦鎮信は、それぞれ肥前国内の所領が、宗氏には対馬国が安堵された。さらに、大規模な蔵入地も設定されたが、これには九州地方を「唐入り」の前進基地とする意図がこめられていた[22]。
その他、島津氏と結んでいた筑前の秋月種実が日向の櫛間(串間市)と財部(高鍋町)に移封され[注釈 8]、種実二男の高橋元種には縣(延岡市)と宮崎(宮崎市)が与えられた。さらに、案内役を務めた伊東祐兵には日向の飫肥(宮崎県日南市)・曾井(宮崎市曾井)・清武(宮崎市清武町)が与えられたが、飫肥城に入っていた島津家の上原尚近は城の明け渡しを拒んだ(尚近は、約一年後の翌年6月に義久に説得され、ようやく退去している)[21]。
上方への帰途、秀吉は廃墟と化した博多(福岡市博多区)の復興に着手して、その直轄化をすすめた。十町四方を区画して町割をおこない、石田三成・滝川雄利・小西行長・長束正家・山崎片家の5名を博多の町割奉行に任命し、その配下として下奉行30名を任じ、博多の豪商神屋宗堪・島井宗室に対して町割協力を要請、さらに、町衆に対しては問丸・座の廃止して営業の自由を保障し、地子諸役を免除する一方、博多商船への違乱を取り締まることを告知した[3][23] 。こうした施策は功を奏し、離散した商人も博多にもどり、町は再び活況を呈した[3]。
また、キリスト教徒によってポルトガル領のようになっていた肥前長崎港(長崎県長崎市)を視察し、6月19日、博多でバテレン追放令を出し、翌20日にはガスパール・コエリョにそれを通知してキリスト教制禁をおこなった[23] 。秀吉の禁教の姿勢は、キリスト教信仰のさかんであった九州の実情を見聞して何か危険なものを察知したためであろうと推察される[3]。また、大村氏との対立関係から長崎港を襲撃したり、南蛮船から通行料徴収を強要していた深堀純賢を海賊停止令違反として所領没収にするという処分が下された。
影響
豊臣秀吉は西国平定を果たし、朝鮮や琉球に対し服属を求めた接触を始めることとなった。また、目標を東国平定に定め、関東の北条氏、奥州の伊達氏へと矛先を移した。
佐々成政は肥後の領国化を急ぐあまり、領地を与えられたその翌月に検地を推し進める。そのために国人衆の反発を招き肥後国人一揆をもたらした。結果、成政は失策を咎められ切腹、国人らもほとんどが処刑された。その後は肥後の北半分を加藤清正、人吉を除く南半分を小西行長が領することとなった。
日向高千穂(宮崎県西臼杵郡高千穂町)の領主である三田井氏には秀吉から領地を安堵するとも没収するとも沙汰がなく、そのため高橋元種は三田井氏を従わせようと欲して進軍、これを攻め滅ぼした。
島津氏では所領を失ったことによる財政問題が生じ、伊集院久治、上井覚兼ら給地を失った家臣らへの補填がかなわず、京都市中の商人や過船からの借銀、蔵入地の入質および売買によってこれを克服しようと試みている[24]。また、この財政の窮乏は公儀からも難詰されている[24]。この財政難の克服のため検地が行われるが、これらの施策に対する不満がのちの梅北一揆へと繋がったものと考えられる[24]。
九州攻めと惣無事令
日本史学者の藤木久志は、豊臣秀吉の進めた天下統一事業とは、結局のところ、中世戦国社会を貫いてきた自力救済の原理とそれに根拠を置く戦国大名の交戦権の否定を目指したものであり、戦争の主因たるべき領土紛争に関しては、豊臣政権が中央政権として裁判権を行使することで「平和」(惣無事)に解決することを基調としたものであると主張した[25]。
池上裕子は、これに加え、秀吉の朝廷接近策を重視している。つまり、秀吉が従来の関白職に武家の性格を付与した新しい関白像(「武家関白」)を創出したことを指摘し、九州攻めに先だつ島津義久に対する停戦命令は、天皇の命令であることを前面に出したものだとしている[26]。すなわち、天皇は日本全土の支配権をもつものと理解され、関白である秀吉は天皇から土地・人民に対する実際の支配を委任されたという論法を用いて、いわば天皇の代官として、これに従わない者を「逆徒」として「征伐」する根拠としたものであることを指摘したのである[26]。このような見方を採用すれば、秀吉は、天皇や朝廷の権威を利用した点で主君織田信長の「天下布武」とは、その姿勢において好対照をなすこととなる。
秀吉は九州攻めののち、「惣無事令」を根拠に関東や奥羽の支配に乗り出していくが、池上はこうした秀吉の行為を「地域権力に中央の論理をもって屈服を迫った」ものにほかならないと延べ、そこで生じた後北条氏や奥羽の諸大名の抵抗については「勅命と尊大で中央の論理をふりかざすものへ反抗し、国家防衛の論理を対置したこと自体は評価してよい」との見方を示している[26]。
これらに対し、藤田達生は「惣無事令」の存在自体に対して懐疑的な立場を示している。すなわち、「豊臣平和令」なるものは存在せず、秀吉が発したのは単なる「停戦令」であったというのである。藤田は、北陸・九州・奥羽などの「平定」に関しても「いずれも秀吉が境界紛争の一方の当事者として関与しただけにすぎず、軍事力を背景に相手方を従属させた」ものだと主張し、実際には、藤木久志が提起した平和(「惣無事」)を基調した国分とは「まったく異なるものであった」としている[27]。
史料
九州攻めを取り扱った記録には、『九州御動座記』があり、筆者は、従来秀吉に近仕し、『天正記』の作者としても知られる大村由己と考えられてきたが、最近では由己によるものではなく、筆者不詳とされている[3]。戦役そのものには参加しなかったが、このとき秀吉とともに九州に赴いた細川幽斎の紀行文に『九州道之記』がある[3]。紀行文には他に、松永久秀・織田信長・秀吉の右筆であった楠木正虎(楠長諳)の『九州陣道之記』があるが、正虎は病気のため赤間関より京に引き返しているため九州攻めそのものについては記されておらず、狂歌や狂句をまじえた道中記として、里程を記した交通資料として価値が高い。
『小早川家文書』・『吉川家文書』には秀吉発給の文書はじめ、九州攻め関連の文献資料が比較的多く収載されており、島津側史料としては『薩摩旧記雑録』後編がある[注釈 9]。
在地武士による記録としては、島津義久の重臣で天正8年(1580年)以降は日向国宮崎城(宮崎県宮崎市)城主となった上井覚兼の日記がある。覚兼は、主君義久の降伏後、天正17年(1589年)に伊集院(鹿児島県日置市)の地で没するが、天正13年の豊後出陣のその日に終わる彼の日記は中世末期の地方武士がみずからの日常を記したものとして貴重な史料となっている[28]。
略年表
月日は旧暦を示す。
- 天正13年(1585年)
- 天正14年(1586年)
- 1月 - 義久、頼朝以来の名門島津が秀吉のごとき「成り上がり者」を関白として礼遇しない旨を表明[8]。
- 3月 - 秀吉、島津氏の使者鎌田政近に対して占領地の過半を大友氏に返還する国分案を提示。
- 4月5日 - 秀吉、大坂城で大友義鎮(宗麟)の謁見を受ける。
- 4月10日 - 秀吉、毛利輝元に対し、九州出陣のための人員・城郭・兵糧などの準備を指示。
- 6月 - 島津軍、筑前・筑後に侵攻。秀吉、諸大名に「逆徒」島津の「征伐」を命令(九州攻撃令)。
- 7月6日 - 肥前勝尾城の戦い(佐賀県鳥栖市)
- 7月27日 - 筑前岩屋城の戦い(福岡県太宰府市)
- 8月 - 秀吉、毛利輝元に出陣を命令。
- 8月24日 - 筑前立花城の戦い(福岡県糟屋郡新宮町)
- 8月25日 - 筑前高鳥居城の戦い(福岡県糟屋郡須恵町)
- 8月26日 - 毛利先鋒隊が豊前で島津方と交戦開始。
- 9月9日 - 朝廷、秀吉に「豊臣」を賜姓。
- 10月 - 毛利輝元が軍監黒田孝高、一族の小早川隆景・吉川元春をともない九州上陸。豊前小倉城(福岡県北九州市)陥落。
- 11月4日 - 豊後栂牟礼城の戦い(大分県佐伯市)
- 12月初旬 - 豊前香春岳城の戦い(福岡県田川郡香春町)
- 12月12日 - 豊後戸次川の戦い(大分市)
- 12月13日 - 豊後丹生島城の戦い(大分県臼杵市)
- 天正15年(1587年)
- 1月1日 - 秀吉、石田三成・大谷吉継・長束正家に兵25万人、兵糧30万人分、馬飼料2万頭分の準備を命令。
- 1月25日 - 秀吉、宇喜多秀家を自身の先陣として出発させる。
- 3月1日 - 秀吉、2万5,000余の大軍を率いて大坂城を出発。
- 3月28日 - 秀吉、九州に上陸。小倉入城。
- 3月15日 - 豊後府内城の戦い(大分県大分市)
- 3月18日 - 豊後梓越の戦い(大分県佐伯市(旧南海部郡宇目町))
- 4月1日 - 豊前岩石城の戦い(福岡県田川郡添田町)
- 4月3日 - 秋月種実、秀吉に降伏。
- 4月17-20日 - 日向根白坂の戦い(宮崎県児湯郡木城町)
- 4月18日 - 大村純忠、肥前大村の坂口館(長崎県大村市)で死去[注釈 10]。
- 4月21日 - 根白坂の敗戦を受けて島津義久が豊臣秀長に謝罪。
- 4月27日 - 秀吉、海路より出水に入る。
- 4月28日 - 薩摩平佐城の戦い(鹿児島県薩摩川内市)
- 5月3日 - 秀吉、川内の泰平寺に入る。
- 5月6日 - 島津義久、剃髪し「龍伯」と号する。
- 5月8日 - 島津義久が泰平寺に赴き、正式に降伏して和平が成立。秀吉、義久を赦免する。
- 5月23日 - 豊後津久見で大友義鎮(宗麟)死去。
- 5月25日 - 秀吉が大隅を島津義弘に、日向の一部を島津久保にあたえる。
- 5月30日 - 秀吉、佐々成政に肥後の大部分をあたえる。
- 6月5日 - 島津家久の急死。
- 6月7日 - 筑前筥崎(福岡市東区)にて戦後の論功行賞を加味して九州国分を決定。
- 6月19日 - バテレン追放令を発布する。
脚注
注釈
- ^ 義久の兄弟のうち、義弘も家久もこのとき主戦派であったが、ただ歳久のみは対豊臣和平を主張していた。しかし、最後まで秀吉に抵抗の姿勢を示したのも歳久であった。
- ^ 藤木久志は、この戦役について秀吉側が「征伐」と呼称しているのは、いったんは停戦令を受諾して使者を派遣しておきながら、最後に島津側が秀吉の国分案を拒否したことが許せないということによるものであろうとしている。藤木(2001)pp.153-154
- ^ 大友宗麟が秀吉に救援を求めたのは、これが初めてではなく、天正12年(1584年)以来のことであった。岡本「九州の情勢」(1969)p.269
- ^ 仙石秀久はいったん豊前小倉城に退却して淡路洲本城(兵庫県洲本市)に逃亡し、長宗我部元親も沖ノ浜から伊予日振島に逃れている。元親は戦場では嫡子を失ったことに衝撃を受け、単騎島津勢に向かおうとして家臣に制止されている。この大敗により仙石秀久は所領を没収され、高野山で謹慎することとなった。小林(2005)p.392
- ^ 島津家久としては、府内城から大友義統を逐ったことで当初の目的は達したため丹生島城の力攻めは避けたという見解がある。小和田(2006)p.199
- ^ 秀吉は、小田原攻めや朝鮮出兵の際にも3月1日を自らの出陣日と決めている(ただし、文禄元年の自身の朝鮮出陣は実現していない)。なお、3月1日は、天正13年には秀吉が正親町天皇から太刀を賜り、上洛した織田信雄に対して秀吉の仲介で従三位大納言の任官が決定した日であった。藤田達生は、この日を秀吉は織田に対して優位に立った記念日のように考えていた証左ではないかとしている。藤田(2006)p.199
- ^ 雪窓院は現在廃寺となっており、義久剃髪石は「座禅石」と呼称されている。
- ^ ただし、櫛間地頭の伊集院久治は国割りに納得せず、翌年の2月まで櫛間城から退去しなかった。
- ^ 『薩摩旧記雑録』は、島津義久から島津光久(薩摩藩2代君主)に至る間の文書・古記録を年代順に配列した史料。今井「九州攻め」(2005)p.860
- ^ 4月17日、5月18日に没したとの説もある。『クロニック戦国全史』(1995)p.502
参照
- ^ 「九州攻め」『角川新版 日本史辞典』(1997)p.274
- ^ a b 「九州攻め」『日本史広辞典』(1997)p.602
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 今井「九州攻め」(2005)pp.857-860
- ^ 『日本史小百科18 戦乱』(1984)p.302
- ^ a b c d e f 小和田「秀吉の九州攻めと北九州の城」(2007)pp.129-132
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 小和田「九州停戦令と九州攻め」(2006)pp.187-214
- ^ 熱田(1992)p.243
- ^ a b c 池「九州征服」(2003)pp.62-65
- ^ a b 藤木(2001)pp.153-154
- ^ 林屋(1974)pp.369-371
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参考文献
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- 安田元久編 編『日本史小百科18 戦乱』近藤出版社、1984年6月。ASIN B000J74SHA。
- 熱田公『日本の歴史11 天下一統』集英社、1992年4月。ISBN 4-08-195011-3。
- 池上裕子・池享・小和田哲男・小林清治・峰岸純夫ら編 編『クロニック戦国全史』講談社、1995年12月。ISBN 4-06-206016-7。
- 池享「天下統一と太閤政治」『クロニック戦国全史』講談社、1995年12月。ISBN 4-06-206016-7。
- 三木靖「平佐城の戦い」『別冊歴史読本21巻35号 豊臣秀吉合戦総覧』新人物往来社、1996年8月。ISBN 4-404-02407-X。
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- 日本史広辞典編集委員会編 編「九州攻め」『日本史広辞典』山川出版社、1997年10月。ISBN 4-634-62010-3。
- 大賀郁夫 著「豊臣秀吉の九州侵攻と日向」、大賀・坂上康俊・福島金治ほか共著 編『宮崎県の歴史』山川出版社〈県史45〉、1999年9月。ISBN 4-634-32450-4。
- 藤木久志『飢餓と戦争の戦国を行く』朝日新聞社〈朝日選書〉、2001年11月。ISBN 4-02-259787-9。
- 池上裕子「九州出兵」『日本の歴史14 織豊政権と江戸幕府』講談社、2002年1月。ISBN 4-06-268915-4。
- 池享 著「九州征服」、池享編 編『日本の時代史13 天下統一と朝鮮侵略』吉川弘文館、2003年6月。ISBN 4-642-00813-6。
- 今井林太郎 著「九州攻め」、峰岸純夫・片桐昭彦編 編『戦国武将・合戦事典』吉川弘文館、2005年2月。ISBN 4-642-01343-1。
- 小林計一郎 著「仙石秀久」、峰岸・片桐編 編『戦国武将・合戦事典』吉川弘文館、2005年2月。ISBN 4-642-01343-1。
- 藤木久志『刀狩り-武器を封印した民衆』岩波書店〈岩波新書〉、2005年8月。ISBN 4004309654。
- 小和田哲男「九州停戦令と九州攻め」『戦争の日本史15 秀吉の天下統一戦争』吉川弘文館、2006年9月。ISBN 4-642-06325-0。
- 小和田哲男「戸次川の戦いと鶴賀城」『名城と合戦の日本史』新潮社〈新潮選書〉、2007年5月。ISBN 978-4-10-603580-7。
- 小和田哲男「秀吉の九州攻めと北九州の城」『名城と合戦の日本史』新潮社〈新潮選書〉、2007年5月。ISBN 978-4-10-603580-7。
- 藤田達生『秀吉神話をくつがえす』講談社〈講談社現代新書〉、2007年9月。ISBN 4062879077。
- 山田邦明「島津の領国拡大と挫折」『日本の歴史八 戦国の活力』小学館、2008年7月。ISBN 978-4-09-622108-2。
関連文献
- 小瀬甫庵『太閤記』、1626年頃。
- 山本正誼編『島津国史』、1802年。
- 長林樵隠『豊薩軍記』(『史籍集覧』 所収)、1885年。
- 長林樵隠『豊薩軍記』(『史籍集覧(改訂版)』七 所収)歴史図書社、1980年。
- 参謀本部編『日本戦史 九州役』元真社、1903年。
- 旧参謀本部編『小牧・九州・小田原の役』徳間書店、1965年(上記の復刻・現代語訳版)。