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2012年4月13日 (金) 16:57時点における版

将棋 > 棋士 (将棋)

棋士(きし)は、将棋用語としては俗に「将棋指し」・「プロ棋士」ともいい、本将棋職業(専業)とする人のこと。現代では日本将棋連盟に所属し、棋戦に参加する者を指す(狭義)。女性限定の制度による「女流棋士」(女流のプロ)やアマチュアへの普及・指導を担当する「指導棋士」は(狭義の)棋士ではない。

また、日本将棋連盟は各種アマチュア大会に出場するアマチュア(愛棋家)のことを「アマチュア棋士」ではなく「選手」と呼んでいる。

沿革

新聞棋戦と日本将棋連盟の誕生

前近代の日本において、将棋を生業とする者は「将棋指し」と呼ばれる遊芸師(芸人)であった。江戸幕府の崩壊により家元制度が消滅した後は、安定収入のある専業の将棋指しはほとんどいなくなり、賭け将棋で生計を立てる真剣師や他に生業を持つ者などが多かった。彼らはいくつかの将棋団体や将棋専門紙をつくって将棋の復興を試みたがなかなかうまくいかなかった。

1924年大正13年)9月8日、ついに東京の将棋指し三団体が関根金次郎(十三世名人)の下で合併し、「東京将棋連盟」を結成した。1927年昭和2年)には関西の将棋指しも合流して「日本将棋連盟」となり、1936年(昭和11年)に「将棋大成会」と改称、1947年(昭和22年)に現在の「日本将棋連盟」になる。統一的な将棋連盟が結成されることによって、なおかつ新聞紙上に実戦対局棋譜を掲載することによって、対局料や賞金による安定的な収入が得られるようになっていき、兼業だった将棋指したちがようやく将棋を専業とすることが可能になった。

「棋士」の誕生

将棋連盟結成と新聞棋戦賞金の収入によって専業プロの制度が確立するとともに、「将棋指し」に替わって「専門棋士」という呼称が広まった。当時は専門棋士の社会的地位は低く、特に田舎などではバクチ打ちの様にみなされていた。大山康晴(十五世名人)によれば、彼が少年の頃(昭和初期)には専業プロをすでに「専門棋士」と呼んでいたようであるから、大正頃に「専門棋士」という呼び方ができたと考えられる。実際にプロが「棋士」と自称するのが一般的になるのは大山や戦後のプロからと思われる。現在では、日本将棋連盟の「棋士」がプロの正式名称である。

棋士番号

日本将棋連盟では、棋士(引退棋士を含む)に対して「棋士番号」を付与している(将棋棋士一覧 を参照)。 棋士番号制度が始まったのは1977年4月1日であり、同日の時点での現役棋士と引退棋士に対し、棋士となった日が早い順番に、1番の金易二郎(名誉九段)を筆頭として通し番号としての棋士番号を付与した。このとき、1977年3月までに死去または退会した棋士に対しては棋士番号を付与しなかった。以後、毎年新たに棋士となった者に、順次、棋士番号を付与している。 なお、棋士番号制度導入後に退会・廃業した棋士の棋士番号は欠番として扱っているが、2011年度開始現在欠番となっているのは139番のみ(退会者)。

女流棋士と指導棋士

棋士と同じく日本将棋連盟に所属する者として、女流棋士指導棋士もいる(ただし、日本将棋連盟を退会して現役を続けている女流棋士もいる)。女流棋士は棋士とは異なり女性限定の制度である。彼女らは四段の棋士としてプロ入りしていないため(狭義の)棋士ではない。

棋士が全員、日本将棋連盟の正会員であるのに対し、従来、女流棋士は正会員ではなかった。しかし、2010年11月12日臨時総会で「女流四段以上またはタイトル経験者」という条件付きで女流棋士も正会員とすることが決議された[1]

指導棋士はアマチュアへの普及・指導を担当するが、正会員(棋士)ではない。かつては段位を「準棋士○段」としていたが、現行では「指導棋士○段」となっている。

棋士になるための道

棋士になるための現行の制度について解説する。

通常のコース

詳細は、新進棋士奨励会 を参照。

新進棋士奨励会に入会してプロを目指すのが、通常のコースである。新進棋士奨励会は、単に「奨励会」と呼ばれることが多い。 奨励会に入会するには、棋士の推薦が必要なほか、入会試験に合格しなければいけない[2]。多くの場合、奨励会入会時の段級位は6級である。所定の成績を収めるごとに、1級あるいは1段ずつ昇級昇段していく。三段に上がると、半年に1期(1回)行われる三段リーグに入り、所定の成績を収めると、四段の棋士(プロ)となる。 6級でも都道府県のアマチュアトップクラスか、それに近い棋力があると言われる。そういう少年少女のみが入会し、しのぎを削る奨励会であるが、四段になれるのは、およそ入会者全体の2割ほどである。

プロ編入制度

制度導入の経緯は、後述のアマチュア選手プロ編入問題 を参照。

瀬川晶司のプロ編入をきっかけに、アマチュア選手が棋士になる新たな道筋が模索された。2006年の棋士総会の決議[3]により、アマチュアからプロへの編入について、以下のような「フリークラス編入試験」が制度化された。

受験資格
  • アマチュアまたは女流棋士であって、プロ公式棋戦にアマチュア枠や女流枠から出場し、最も良いところから見て10勝以上、かつその間の勝率が6割5分以上の成績をおさめること(アマチュア選手にとっては朝日杯将棋オープン戦竜王戦銀河戦新人王戦棋王戦加古川青流戦が公式戦を指せる機会となる)。また、棋士の推薦が必要である。
  • 従来のように奨励会を経る事を必要とせず、プロ棋士となる事が出来る制度である。
編入試験
四段の棋士5人(棋士番号の大きい順、すなわち最近棋士になった順で選ばれる)と対局を行う。この対局に3勝以上すればフリークラスの四段として編入される。

なお、プロ入り後(フリークラス編入後)については、フリークラス を参照。

その他

直接プロになる制度ではないが、奨励会の上位に編入できる制度がある。

  • 三段編入試験
  • 初段受験制度

詳細は、新進棋士奨励会 を参照。

引退

(記事「引退」の将棋 の項も参照。)

棋士は自らの意思で引退や日本将棋連盟からの退会ができるが、引退後も退会しなければ、依然として正会員である(「引退棋士」と呼ばれる)。なお、1977年4月1日の棋士番号制度(上述)の制定以後、退会した例は永作芳也(1988年退会、当時32歳)1名のみである。

自己の意思以外での引退の規定は下記の通りである。

1. フリークラス編入者の場合

フリークラスに編入された棋士(順位戦C級2組からの降格者、もしくは、フリークラス編入試験合格によるプロ昇格者)が、編入後10年以内または満60歳の誕生日を迎えた年度が終了するまでに順位戦C級2組に上がれなかった場合は引退。ただし、以下の表の成績を挙げた場合は、同一棋戦に限って翌年度も出場できる(2010年7月9日改定)[4]
棋戦名 次期の同一棋戦参加条件 備考
竜王戦 4組以上在籍
(5組在籍でも2年間は可)
順位戦
上記以外のタイトル棋戦
王位戦※、王座戦棋王戦棋聖戦王将戦※)
本戦ベスト4以上 ※印の棋戦のベスト4は、
リーグ残留の意。
朝日杯NHK杯戦 本戦ベスト4以上
銀河戦 準優勝以上

2. フリークラス宣言者の場合

自らフリークラス宣言をしてフリークラスへ転出した棋士が、転出後、順位戦在籍可能最短年数(転出の時点から仮に順位戦で全て降級・降級点ばかりを続けた場合のC級2組からの陥落までの年数)に15年を加えた年数が過ぎれば引退。または、満65歳の誕生日を迎えた年度が終了すれば引退。なお、フリークラス宣言者の場合は、上記の表は適用されない。

引退の日付

上記1、2の引退の日付は、引退が決まった年度に勝ち残っていた棋戦の最終対局日で、テレビ棋戦の場合は対局の放映日である(2010年2月24日改定)[5][6]

将棋史上の代表的な棋士

タイトル経験者

下記を参照。

各時期に最強とされた棋士

  • 六代大橋宗英 - 九世名人。通称「」。「宗英以前に宗英無く宗英以後にも宗英無し」と言われた。江戸時代後半に活躍。
  • 天野宗歩 - 名人(家元)とはならなかったものの、「棋聖」と呼ばれる。幕末に活躍。
  • 木村義雄 - 初の実力制名人(通算8期)。十四世名人。通称「常勝将軍」。第二次世界大戦の前後に活躍。大山(後述)に名人位を奪われたときに引退。
  • 升田幸三 - 初の三冠独占者。通算獲得タイトル7期(うち名人2期)。独創的な序盤戦術の開発のことを、自ら「新手一生」と呼称。
  • 大山康晴 - 升田から三冠すべてを奪い独占。また、初の四冠・五冠独占者。全タイトル戦に渡る連続19獲得の記録を保持(当時の年6回のタイトル戦すべてを3年間以上制する)。通算獲得タイトル80期(うち名人18期)。十五世名人。昭和期に活躍。通称「巨人」。なお、66歳でのタイトル挑戦も最年長記録。
  • 中原誠 - 五冠達成(六冠独占をかけて加藤一二三棋王に挑戦するも、阻まれる)。通算獲得タイトル64期(うち名人15期)。十六世名人。大山から次々とタイトルを奪うなど昭和後期から平成初期に活躍し、「中原時代」を築く。通称「棋界の太陽」。
  • 米長邦雄 - 四冠達成。通算獲得タイトル19期(うち名人1期)。49歳で中原から名人位を奪い、50歳で名人在位。中原との対局数187局は同一カード対局数1位(百番指し を参照)。
  • 谷川浩司 - 四冠達成。2003年度までに通算獲得タイトル27期。十七世名人の資格を保持。21歳名人は史上最年少。終盤の収束は「光速の寄せ」と呼ばれる。
  • 羽生善治 - 初の七冠独占者。十九世名人を含む「永世六冠」の資格を保持(初)。通算獲得タイトル80期。
アマチュア選手
  • 小池重明 - 第34、35回全日本アマチュア名人戦 アマ名人。第6回読売アマ実力日本一優勝。「新宿の殺し屋」「プロ殺し」の異名を持つ。

史上最強の棋士に関する論議

宗英・宗歩に関しては現代の棋士に比べて知名度が圧倒的に劣るので議論になることは少ない。また日進月歩の定跡の進化の中で情報戦の様相を呈している現代将棋との棋譜からの比較は困難である。しかし天野宗歩は伝説的な棋士で、棋譜も多数残されている。当時の将棋界では傑出した実力者であったため、現存する棋譜は駒落ちの手合割のものが多いが、その実力は十分に窺うことが出来る。内藤國雄など現代の棋士の多くが宗歩の将棋を絶賛している。一方宗英も、「天野宗歩は強い。しかし一番強いのは宗英だ」と升田幸三がよく言っていたと伝えられるほどの存在である(なお宗英・宗歩と七世名人三代伊藤宗看を加えた三者は、「三英傑」とも呼ばれる)。[要出典]

木村は名人になってから10年の間、平手で負けたのは1局のみ。当時の強さは驚異的で現在では考えられないほどの国民的ヒーローでもあった。今に残る木村定跡をはじめ将棋界のレベルの向上に大きく貢献し名人の権威を高めた。[要出典]

升田は史上初の三冠を達成し、主に序盤の戦い方に革命をもたらし「将棋というゲームに寿命があるなら、その寿命を300年縮めた男」と評された。健康に問題があったこともあり、実績面では大山に大きく遅れをとってしまったが人気は高く、その現代的な感覚で今でもファンが多い。[要出典]休場は多いものの1979年に引退するまでA級以上に連続31期とどまった。

実力制名人になった昭和以降で最も長期にわたってタイトル戦で活躍した棋士は大山である。当時は今よりはるかに棋士数も少なくタイトルや対局数が少ない時代であり現在と単純に比較はできないが(初タイトル獲得時は二冠しかなく、全盛期に入った1963年にようやく五冠になった)、通算獲得タイトル数80期、棋戦優勝124回、通算勝数1433勝は歴代1位。59年から71年までのタイトル戦70期のうち8割の56期を獲得している。最年長防衛(王将戦、59歳)、最年長挑戦(棋王戦、66歳)の記録をもつ。69歳で死去するまで連続45年44期A級に居続けた。羽生は著作『決断力』で「将棋史上最強の棋士が十五世名人の大山康晴先生であることは、誰もが認めるであろう」と語っている。

中原は大山より24歳ほど年下であるが直接対決では大山を圧倒した(中原107-55大山)。1968年には歴代1位となる年度最高勝率.855を達成し10年連続で勝率7割を超えた。2007年9月には史上2人目となる通算1300勝を達成している。獲得タイトル数64は大山、羽生に次いで歴代3位であるが全冠制覇は達成していない(上述の通り、六冠独占のチャンスが一度あったが逃している)。

現在もタイトル数を増やしており特に熱い期待がもたれているのは羽生である[要出典]。1996年2月から7月まで史上初となる七冠独占を成し遂げた。2011年には獲得タイトル数を80期とし、大山の記録に並んだ。

中学生棋士

中学生で棋士に昇格した者を、俗に「中学生棋士」と呼ぶ。第二次大戦後、次の4名が中学生棋士となっている。

  1. 加藤一二三(1954年)
  2. 谷川浩司(1976年)
  3. 羽生善治(1985年)
  4. 渡辺明(2000年)(正確には、四段昇段を決めたのが中学3年のときで、中学卒業直後の4月から四段)

谷川のみが中学2年でプロデビューしており、他は中学3年である。ただし、最年少デビューは加藤であり、谷川よりも1か月半若くプロになっている(加藤は1月の早生れ、谷川は4月生れであるため)。

アマチュアおよびコンピュータとの棋力差

アマチュアとプロの棋力差

昭和末期までは、アマの強豪に位置する四段・五段ですら、プロ棋士養成機関である奨励会の最底辺である6級と同等とされていた。花村元司小池重明など、プロ級のアマが現れたことはあったものの、ごく稀な例外として扱われていた。しかし、情報技術の発達により、アマチュアも最新の棋譜や研究などの情報が手に入りやすくなったこと、また奨励会三段リーグ経験者が、退会後アマチュアとして活躍する事例が増えたこと、プロとアマが平手で対局する機会が増えたことなどの影響により、今日ではアマチュアの最強豪が公式棋戦で実力下位のプロに勝つことは珍しくない。[要出典]

アマチュア選手プロ編入問題

2005年2月28日、アマチュア選手強豪の瀬川晶司が日本将棋連盟にプロ編入の嘆願書を提出した。瀬川は1996年に奨励会の三段リーグを26歳の年齢制限によって退会したが、その後アマチュア選手としてプロの公式戦でも活躍し、銀河戦で当時A級八段の久保利明らを破るなど、対プロ戦で勝率7割を超える戦績をあげていた。

この嘆願書に対し、プロ(棋士)の間でも意見が分かれ、プロに伍する実力があるのだから瀬川のプロ編入を認めるべきだという立場と、三段リーグを勝ち抜けなかったのだから編入を認めるべきでないという立場に二分されていた。この問題は将棋界のみならず広く世間の耳目を集めた。

過去にアマチュアのプロ編入は、1944年(昭和19年)に真剣師の花村元司が五段への編入試験を受けて合格し、プロ入りした例がある。ただし花村は奨励会を経験していないため、奨励会を退会した元会員がプロ編入するとなるのは前例がないことになる。

2005年5月26日、棋士総会が行われ、特例として瀬川のフリークラス編入試験を実施することに決定した。 6月16日、試験要項が発表され、六番勝負にて瀬川3勝でフリークラス四段を認めることとなった。瀬川は11月6日の第5局に勝利して3勝目を挙げ、プロ入りが決定して同日付で四段になった(瀬川晶司氏のプロ入りについて)。記事「瀬川晶司」内、プロ入りまでの軌跡編入試験の経過 も参照。

コンピュータとプロの棋力差

詳細は、記事「コンピュータ将棋」のコンピュータ対人間 の節を参照。

コンピュータ将棋は、すでにプロ棋士と接戦を演じている。橋本崇載飯田弘之らが開発した「TACOS」と2005年に、渡辺明(当時竜王)は保木邦仁が開発した「Bonanza」と2007年にそれぞれ対戦し、いずれも勝利はしたものの接戦に持ち込まれた。女流棋士の清水市代は2010年に「あから2010」(4つのソフトの多数決方式)に敗れている。

脚注

  1. ^ 臨時総会について(日本将棋連盟)2010年11月12日閲覧
  2. ^ 後に名人となった丸山忠久でも、奨励会の入会試験で2度落ちている。
  3. ^ 「第57回通常総会の報告」(日本将棋連盟)
  4. ^ フリークラス棋士の引退について(日本将棋連盟)
  5. ^ 改定前は、引退が決まった年度の末日(3月31日)とされていた。この規定改定は、引退間際に翌年度のNHK杯戦の予選を通過した有吉道夫の引退予定変更とともに発表された(「引退規定の変更について」(日本将棋連盟)
  6. ^ 小阪昇は、この改定により、引退日が2010年7月14日まで延びた。

関連項目

外部リンク