「琉球の位階」の版間の差分

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[[画像:位階別冠(ハチマチ).JPG|thumb|180px|琉球國の位階別冠(ハチマチ) 首里城で撮影]]
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[[image:Dress_of_Oji_and_Aji.jpg|thumb|王子按司大礼服並通常服着装図。右が大礼服(五色浮織冠に緑袍)、左が通常服。]]
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国王の親族で、[[九品十八階]]のさらに上位に位置し、最高品位の無品とされた。王子や按司は国王の親族のため、公平性を期すために最高職である[[摂政]]を例外とすれば、国政に直接携わる要職などにはつかず、儀典関係や防災の長官職につくことが多かった。王子、按司は一[[間切]](今日の[[市町村]])を采地(領地の意)として与えられ、それぞれ、'''王子地頭'''、'''按司地頭'''と呼ばれた。一般にはこの二つを一括して、按司地頭と呼ぶ。王子、按司は、采地名から、宜野湾王子、本部按司などと称した。また、王子、按司の邸宅は'''[[御殿 (沖縄)|御殿(ウドゥン)]]'''と呼ばれ、これがそのままその家柄の尊称にも使われた。[[宜野湾御殿]]、[[本部御殿]]のごとくである。なお馬氏国頭御殿は王族以外の御殿家としては唯一の例外である。
国王の親族で、九品十八階のさらに上位に位置し、最高品位の無品(むほん)とされた。王子や按司は国王の親族のため、公平性を期すために最高職である[[摂政]]を例外とすれば、国政に直接携わる要職などにはつかず、儀典関係や防災の長官職につくことが多かった。王子、按司は一[[間切]](今日の[[市町村]])を采地(領地の意)として与えられ、それぞれ、'''王子地頭'''、'''按司地頭'''と呼ばれた。一般にはこの二つを一括して、按司地頭と呼ぶ。王子、按司は、采地名から、宜野湾王子、本部按司などと称した。また、王子、按司の邸宅は[[御殿 (沖縄)|御殿(ウドゥン)]]と呼ばれ、これがそのままその家柄の尊称にも使われた。[[宜野湾御殿]]、[[本部御殿]]のごとくである。なお馬氏[[国頭御殿]]は王族以外の御殿家としては唯一の例外である。


*'''王子'''(オージ)
*'''王子'''(オージ)
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:琉球で王子の称号が使われ出したのは、[[明]]の[[冊封]]を受けて、王号が使われ出した頃からと言われている。それ以前は、王や王子、各地の支配者も皆、単に按司と称していた。[[第一尚氏]]王統下でも、王の子はすべて王子を称しているわけではなく、按司や称号なしの人物も見受けられる。
:琉球で王子の称号が使われ出したのは、[[明]]の[[冊封]]を受けて、王号が使われ出した頃からと言われている。それ以前は、王や王子、各地の支配者も皆、単に按司と称していた。[[第一尚氏]]王統下でも、王の子はすべて王子を称しているわけではなく、按司や称号なしの人物も見受けられる。


:古くは王子と書いてアンジと発音し、当初は按司との明確な区別はなかったとされる。[[玉陵の碑文]]([[1501年]])に「中くすくのあんし まにきよたる(中城の按司(王子)・真仁堯樽、後の[[尚清]])などと記されていることからも、この事実は確認できる。
:古くは王子と書いてアンジと発音し、当初は按司との明確な区別はなかったとされる。[[玉陵の碑文]]([[1501年]])に「中くすくのあんし まにきよたる(中城の按司・真仁堯樽、後の[[尚清]])などと記されていることからも、この事実は確認できる。


:王子位は、他に功績のあった按司、[[江戸上り]]の正使に任命された者、摂政に就任した按司なども賜った。この場合は、従王子と呼ばれた。[[羽地王子朝秀]]などがその例である。王子は赤地金入五色浮織冠を戴き、金簪を差した。
:王子位は、他に功績のあった按司、[[江戸上り]]の正使に任命された者、摂政に就任した按司なども賜った。この場合は、従王子と呼ばれた。[[羽地王子朝秀]]などがその例である。王子は赤地金入五色浮織冠を戴き、金簪を差した。
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:王族のうち、王子に次ぐ称号および位階名で、王子や按司の嗣子がなった。つまり、按司は王家の分家当主が賜るもので、日本の[[宮家]]当主に相当する。按司はアジまたはアンジと発音し、主(あるじ)からの転訛とも言われている。それゆえ、按司は当て字である。
:王族のうち、王子に次ぐ称号および位階名で、王子や按司の嗣子がなった。つまり、按司は王家の分家当主が賜るもので、日本の[[宮家]]当主に相当する。按司はアジまたはアンジと発音し、主(あるじ)からの転訛とも言われている。それゆえ、按司は当て字である。


:前項で述べたとおり、元来、[[按司]]は地方の支配者やその家族など、支配者階級にある人物の称号であったが、第二尚氏王統下になると、もっぱら王族の称号および位階名となっていった。当初は按司の子は皆按司を称したが、[[尚貞]]王の治世の[[1692年]]以降、[[嗣子]]のみが称するように改められた。これには王府財政の問題が関わっていたとされる。按司は王子位に陞(のぼ)ることもあったが、歴代当主に功績がなければ、七代で士分に降格となった。赤地五色浮織冠か黄地五色浮織冠を戴き、金簪を差した。
:前項で述べたとおり、元来、[[按司]]は地方の支配者やその家族など、支配者階級にある人物の称号であったが、第二尚氏王統下になると、もっぱら王族の称号および位階名となっていった。当初は按司の子は皆按司を称したが、[[尚貞]]王の治世の[[1692年]]以降、[[嗣子]]のみが称するように改められた。これには王府財政の問題が関わっていたとされる。按司は大功があると王子位に陞(のぼ)ることもあったが、歴代当主に功績がなければ、七代で士分に降格となった。赤地五色浮織冠か黄地五色浮織冠を戴き、金簪を差した。


===上級士族===
===上級士族===

2012年3月19日 (月) 04:09時点における版

位階制度の基本を確立した尚真王

琉球の位階(りゅうきゅうのいかい)とは、沖縄本島を中心に存在した琉球王国身分序列である。第二尚氏王統の第3代・尚真王の治世(在位1476年 - 1526年)に位階制度の基本が確立された。まず、1509年、金銀の(ジーファー、かんざし)によって貴賤の別を定め、次に1524年には、六色の(ハチマチ)によって等級が制定された。

その後、18世紀初頭に程順則らによって「琉球国中山王府官制」(1706年)が制定され、九品十八階の位階制度が確立し、1732年には、蔡温らによって位階昇進の細目を記した「位階定」が制定された。国王、王子、按司などの王族は、九品十八階のさらに上に位置し、平民はその下に位置した。

位階制度表

身分 邸宅 称号 品位 位階 久米村位階 冠(ハチマチ) 地頭職と采地
王族 御殿 王子 無品 王子 金簪 赤地金入
五色浮織冠



王子地頭
(一間切)

按司 按司 赤地五色浮織冠
黄地五色浮織冠
按司地頭
(一間切)
上級
士族
殿内 親方


(脇地頭親方)
正一品 紫地浮織三司官 紫地五色浮織冠

青地五色浮織冠

紫地浮織冠
総地頭

(一間切)

脇地頭

(一村)
従一品 三司官 紫冠
正二品 三司官座敷 三司官座敷
従二品 紫官 紫金大夫 花金
茎銀簪






親雲上

里之子親雲上
(里之子家)

筑登之親雲上
(筑登之家)
(新参平民)

正三品 申口 銀簪 黄冠 脇地頭
(一村)
従三品 申口座 申口座
正四品 吟味役
那覇里主
従四品 座敷 座敷 采地なし
一般
士族
正五品 下庫理当
従五品 当座敷 当座敷
正六品 下庫理勢頭
従六品 勢頭座敷 勢頭座敷
正七品 里之子親雲上 里之子親雲上
従七品 筑登之親雲上 筑登之親雲上
通事親雲上
里之子
(里主)
正八品 下庫理里之子 赤冠
従八品 若里之子 若里之子
通事
筑登之
(里主)
正九品 下庫理筑登之
従九品 筑登之座敷 筑登之座敷
通事
無位 秀才 品外 銅簪 青冠
緑冠
仁屋 仁屋 若秀才
平民 町百姓(町民)、田舎百姓(農民)、筆算人(地方役人)

概要

王族

琉球國の位階別冠(ハチマチ) 首里城で撮影
王子按司大礼服並通常服着装図。右が大礼服(五色浮織冠に緑袍)、左が通常服。

国王の親族で、九品十八階のさらに上位に位置し、最高品位の無品(むほん)とされた。王子や按司は国王の親族のため、公平性を期すために最高職である摂政を例外とすれば、国政に直接携わる要職などにはつかず、儀典関係や防災の長官職につくことが多かった。王子、按司は一間切(今日の市町村)を采地(領地の意)として与えられ、それぞれ、王子地頭按司地頭と呼ばれた。一般にはこの二つを一括して、按司地頭と呼ぶ。王子、按司は、采地名から、宜野湾王子、本部按司などと称した。また、王子、按司の邸宅は御殿(ウドゥン)と呼ばれ、これがそのままその家柄の尊称にも使われた。宜野湾御殿本部御殿のごとくである。なお馬氏国頭御殿は王族以外の御殿家としては唯一の例外である。

  • 王子(オージ)
基本的に国王の子、王叔、王弟の称号および位階名である。正室の子を直王子、側室の子は脇王子といった。また世子(世継ぎ)は中城(ナカグスク)間切を采地としたため、特に中城王子と呼ばれた。王子は一代限りで、王子の子は按司となった。
琉球で王子の称号が使われ出したのは、冊封を受けて、王号が使われ出した頃からと言われている。それ以前は、王や王子、各地の支配者も皆、単に按司と称していた。第一尚氏王統下でも、王の子はすべて王子を称しているわけではなく、按司や称号なしの人物も見受けられる。
古くは王子と書いてアンジと発音し、当初は按司との明確な区別はなかったとされる。玉陵の碑文1501年)に「中くすくのあんし まにきよたる(中城の按司・真仁堯樽、後の尚清王)などと記されていることからも、この事実は確認できる。
王子位は、他に功績のあった按司、江戸上りの正使に任命された者、摂政に就任した按司なども賜った。この場合は、従王子と呼ばれた。羽地王子朝秀などがその例である。王子は赤地金入五色浮織冠を戴き、金簪を差した。
  • 按司(アジもしくはアンジ)
王族のうち、王子に次ぐ称号および位階名で、王子や按司の嗣子がなった。つまり、按司は王家の分家当主が賜るもので、日本の宮家当主に相当する。按司はアジまたはアンジと発音し、主(あるじ)からの転訛とも言われている。それゆえ、按司は当て字である。
前項で述べたとおり、元来、按司は地方の支配者やその家族など、支配者階級にある人物の称号であったが、第二尚氏王統下になると、もっぱら王族の称号および位階名となっていった。当初は按司の子は皆按司を称したが、尚貞王の治世の1692年以降、嗣子のみが称するように改められた。これには王府財政の問題が関わっていたとされる。按司は大功があると王子位に陞(のぼ)ることもあったが、歴代当主に功績がなければ、七代で士分に降格となった。赤地五色浮織冠か黄地五色浮織冠を戴き、金簪を差した。

上級士族

正一品から従四品までの士族は上級士族に相当する。士族のエリートで国政の要職を司った。琉球では士族のことを士(サムレー)と言い、俗にユカッチュ(良かる人、の意)と言った。ただし日本の侍と違って、士は帯刀が禁じられていた。それゆえ、士は戦争を目的とした階級ではなく、概念的には官吏に近い。

親方になると、原則として一間切を采地として賜り、総地頭と呼ばれた。しかし、これは建前で実際は采地の不足から、親方位であっても脇地頭にとどまる場合が多かった。脇地頭とは、間切内の一村を采地として賜る地頭職のことである。この場合は脇地頭親方と呼ばれた。『琉球藩雑記』(明治6年)によれば、王朝末期の時点で総地頭職にある親方が14名であるのに対して、脇地頭親方は38名と実に2倍以上に上っている。

親雲上(ペークミー)は、一村を采地として賜り、脇地頭の職についた。黄冠を戴いた。親方、親雲上(ペークミー)とも、普通はその采地名から、それぞれ浦添親方、知花親雲上などと称するが、采地名が王子領と一致をする場合は同一の呼称をさけた。具体例で言えば佐敷間切の地頭が森山と、中城間切の場合は伊舎堂と称したごとくである。親方と地頭職にある親雲上の邸宅は殿内(トゥンチ)と呼ばれ、その家柄を言う場合には、一般に豊見城殿内(とみぐすくどぅんち)や儀間殿内(ぎまどぅんち)という言い方をした。


  • 親方(ウェーカタ)
士族が賜る最高の称号で、国政の要職についた。親方は世襲ではなく、功績のある士族が昇るものであったので、親方の子が必ず親方になるとは限らなかった。とはいえ、その大半はやはり首里を中心とした門閥によって世襲されていた。親方は紫冠を戴き、花金茎銀簪を差した。正二品以上に昇ると、金簪を差した。
親方の称号は古くはなく、17世紀頃から使われ始めたようである。それ以前は、かなぞめ親雲上(紫の親雲上)と称した。これは紫冠に由来するものと思われる。親方は、『琉球国由来記』(1713年)の「官爵列品」の項目に、「この官爵(親方)、下種の極官なり」と説明があるように、士族が昇ることのできる最上位であった。功績のある黄冠の士族に、特別に紫冠を賜ったのが親方の始まりとされる。
王族が儀典関係の閑職につくのに対して、親方は政治の実務を担当し、投票で選ばれれば三司官に就任した。王子から親方までは、それぞれ一間切の領主とされていたので、琉球では大名(デーミョー)と呼ばれた。しかし、前述したように、現実には脇地頭職に留まる「小名級」の親方の方が多かった。
  • 親雲上(ペークミー・ペーチン)
琉球の士族は、一般に親雲上(ペーチン)と呼ばれたが、その中でも采地を賜ったもの、すなわち地頭職にあるものは親雲上(ペークミー)と発音して区別された。古くは「大やくもい」と称し、役職に就いた者を指していたようである。「もい」とは一種の敬称である。それゆえ、親雲上とは「大やくもい」の当て字であると言われている。
親雲上(ペークミー)も世襲ではなく、努力次第でなることができた。さらに功績を積めば、親方位に昇格した。なお采地ではなく、名島(采地の名のみ)を賜った場合はペーチンと発音した。黄冠を戴き、銀簪を差した。

一般士族

『婚姻風俗図』(比嘉華山、1868-1939)。赤冠を戴いた士族の新郎が花嫁のところへ向かう様子を描いたもの。

正五品以下の士族は一般士族に相当する。五品、六品に昇るのにも大変な努力が必要であったが、さらに四品以上の上級士族に昇格するのは、困難を極めた。

一般士族には、里之子家(里之子筋目)と筑登之家(筑登之筋目)という二つの家格があった。里之子家は中級士族、筑登之家は下級士族に相当する。里之子家では、里之子里之子親雲上親雲上と出世していくのに対して、筑登之家では筑登之筑登之親雲上親雲上と出世していった。初位はいずれも子である。

里之子家と筑登之家の家格は固定したものではなく、筑登之家出身であっても功績を積めば親方位まで昇ることができた。その場合、里之子家に昇格した。また里之子家も功績がなければ、筑登之家へと降格した。譜代とは古くからの士族の家柄、新参とは新たに士族になった家柄のことを言う。

  • 里之子親雲上(サトゥヌシペーチン)
里之子家の者が正七品に昇格すると、里之子親雲上を称した。黄冠を戴き、銀簪を差した。地頭職に任じられると、親雲上(ペークミー)を称した。
  • 筑登之親雲上(チクドゥンペーチン)
筑登之家の者が従七品に昇格すると、筑登之親雲上を称した。黄冠を戴き、銀簪を差した。地頭職に任じられると、親雲上(ペークミー)を称した。
  • 里主(サトゥヌシ)
里之子と同じ発音であるが意味は異なる。里主とは総地頭家や脇地頭家の嗣子で、家督を継いだがいまだ黄冠以下の位階(正従八・九品)の低い者を指す。例えば、親方家や親雲上家など、采地を有する名家を継いだが、当主はいまだ若年であるような場合に、里主と称したようである。里主とは、元来は領主の意である。
琉球の位階制度は、昇進速度が年限によって決められていたので、名家の家督を継いでも直ちに特進するわけではなかった。按司の嗣子は初位から按司に陞るが、これは例外である。
  • 里之子(サトゥヌシ)
里之子家の者が八品に昇格すると、里之子を称した。赤冠を戴き、銀簪を差した。
  • 筑登之(チクドゥン)
筑登之家の者が九品に昇格すると、筑登之を称した。赤冠を戴き、銀簪を差した。
  • (シー)
譜代の子弟で、無位の者を子と称した。カタカシラを結う(元服)と赤冠を戴き、銀簪を差した。
  • 仁屋(ニヤ)
新参士族の子弟で、無位の者を仁屋と称した。銅簪を差した。カタカシラを結う(元服)と緑冠を戴いた。上級平民(村役人など)の子弟で無位の者も同じく仁屋と称した。

平民

  • 百姓(ヒャクショウ)
琉球では、平民一般を百姓と呼んだ。首里・那覇・久米村・泊村に居住する者を町百姓、それ以外は田舎百姓というふうに呼ばれた。地方百姓のうち、地方役人に取り立てられた者は筆算人と呼ばれた。系図を持たないことから無系とも呼ばれた。真鍮の簪を差した。

関連項目

参考文献

  • 真境名安興『沖縄一千年史』(真境名安興全集第一巻)琉球新報社
  • 東恩納寛惇『南島風土記』沖縄文化協会・沖縄財団
  • 『沖縄門中大事典』那覇出版社 ISBN 4890951016
  • 又吉真三『琉球歴史総合年表』那覇出版社