「ヴェルナー・メルダース」の版間の差分
Luckas-bot (会話 | 投稿記録) m r2.7.1) (ロボットによる 追加: uk:Вернер Мельдерс |
m 画像位置微修正など |
||
1行目: | 1行目: | ||
[[ファイル:Bundesarchiv Bild 183-L09694, Werner Mölders.jpg|thumb| |
[[ファイル:Bundesarchiv Bild 183-L09694, Werner Mölders.jpg|thumb|220px|ヴェルナー・メルダース(1940年10月)]] |
||
'''ヴェルナー・メルダース'''(''Werner Mölders'' 、[[1913年]][[3月18日]]-[[1941年]][[11月22日]])は[[スペイン内戦]]、[[第二次世界大戦]]で活躍した[[ドイツ空軍]]の[[エース・パイロット]]。最終階級は[[大佐]]。[[鉄十字|ダイヤモンド剣柏葉付騎士鉄十字章]]受章。115機撃墜。 |
'''ヴェルナー・メルダース'''(''Werner Mölders'' 、[[1913年]][[3月18日]]-[[1941年]][[11月22日]])は[[スペイン内戦]]、[[第二次世界大戦]]で活躍した[[ドイツ空軍]]の[[エース・パイロット]]。最終階級は[[大佐]]。[[鉄十字|ダイヤモンド剣柏葉付騎士鉄十字章]]受章。115機撃墜。 |
||
5行目: | 5行目: | ||
[[プロイセン王国]][[ヴェストファーレン|ヴェストファーレン州]]の[[ゲルゼンキルヒェン]]生まれ。父は歩兵中尉として[[西部戦線 (第一次世界大戦)|西部戦線]]に従軍し、1915年3月に[[ヴァレンヌ=アン=アルゴンヌ|アルゴンヌの森]]の戦いで戦死した。のちに母は両親を頼って[[ブランデンブルク・アン・デア・ハーフェル]]に移住した。学齢期の時は水上スポーツに勤しんでいたが、[[1931年]]のはじめ、[[ギムナジウム]]を卒業し[[アビトゥア]]を取得する頃には飛行士に憧れた。1931年4月、アレンシュタイン(現 [[オルシュティン]])の[[ヴァイマル共和国軍]]の歩兵第二連隊へ入隊。[[1931年]]10月、[[ドレスデン]]の[[陸軍士官学校]]に入校し、この間に少尉に進級した、[[1933年]]6月に卒業し、引き続いて[[ミュンヘン]]の歩兵第二連隊第一プロイセン工兵大隊の工兵養成課程に入ったが、パイロット志願を表明していた。ドイツ航空輸送学校に転科を志願し、[[1934年]]2月から12月の間にかけて在籍した<ref name=ober>Page 10 ,11 ,32 ,64 , Obermaier, Ernst and Werner Held. 『Jagdflieger Oberst Werner Mölders – Bilder und Dokumente』 (ドイツ語). Stuttgart: Motorbuch Verlag , 4. Edition, 1996. ISBN 3-87943-869-2. (popular science) </ref>。 |
[[プロイセン王国]][[ヴェストファーレン|ヴェストファーレン州]]の[[ゲルゼンキルヒェン]]生まれ。父は歩兵中尉として[[西部戦線 (第一次世界大戦)|西部戦線]]に従軍し、1915年3月に[[ヴァレンヌ=アン=アルゴンヌ|アルゴンヌの森]]の戦いで戦死した。のちに母は両親を頼って[[ブランデンブルク・アン・デア・ハーフェル]]に移住した。学齢期の時は水上スポーツに勤しんでいたが、[[1931年]]のはじめ、[[ギムナジウム]]を卒業し[[アビトゥア]]を取得する頃には飛行士に憧れた。1931年4月、アレンシュタイン(現 [[オルシュティン]])の[[ヴァイマル共和国軍]]の歩兵第二連隊へ入隊。[[1931年]]10月、[[ドレスデン]]の[[陸軍士官学校]]に入校し、この間に少尉に進級した、[[1933年]]6月に卒業し、引き続いて[[ミュンヘン]]の歩兵第二連隊第一プロイセン工兵大隊の工兵養成課程に入ったが、パイロット志願を表明していた。ドイツ航空輸送学校に転科を志願し、[[1934年]]2月から12月の間にかけて在籍した<ref name=ober>Page 10 ,11 ,32 ,64 , Obermaier, Ernst and Werner Held. 『Jagdflieger Oberst Werner Mölders – Bilder und Dokumente』 (ドイツ語). Stuttgart: Motorbuch Verlag , 4. Edition, 1996. ISBN 3-87943-869-2. (popular science) </ref>。 |
||
最初は飛行機酔いのため飛行任務には適さないと診断されたが、卒業時は首席だった。その間、中尉に進級し、また[[ドイツ国防軍]]によって[[ドイツ空軍]](ルフトヴァッフェ)が設立された時期にあたる。[[1935年]]1月から5月にかけて空軍戦闘機搭乗員養成課程に在籍し、卒業後の同年7月、シュベリン急降下爆撃隊に配属された。[[ラインラント進駐]]時には[[ルール地方]]を飛び[[デュッセルドルフ]]に到着一番乗りを果たした<ref name=ober />。[[1936年]]からの[[スペイン内戦]]では、[[1938年]]に[[コンドル軍団]]へ志願し、[[アドルフ・ガーランド]]から第88戦闘飛行隊第3中隊長を引き継いで、新型戦闘機[[メッサーシュミット Bf109]]の高速性能を生かした[[ロッテ戦法]]、さらにそれを発展させ、ロッテ2組戦闘機4機からなるシュヴァルム戦法(編隊が4本の指に似ているのでフィンガーフォーとも言う)を編み出した<ref name=wern>Page 9, 10 ,11 ,12 , Obermaier, Ernst and Werner Held. 『Jagdflieger Oberst Werner Mölders – Bilder und Dokumente』 (ドイツ語). Stuttgart: Motorbuch Verlag , 4. Edition, 1996. (popular science) </ref>。 |
最初は飛行機酔いのため飛行任務には適さないと診断されたが、卒業時は首席だった。その間、中尉に進級し、また[[ドイツ国防軍]]によって[[ドイツ空軍]](ルフトヴァッフェ)が設立された時期にあたる。[[1935年]]1月から5月にかけて空軍戦闘機搭乗員養成課程に在籍し、卒業後の同年7月、シュベリン急降下爆撃隊に配属された。[[ラインラント進駐]]時には[[ルール地方]]を飛び[[デュッセルドルフ]]に到着一番乗りを果たした<ref name=ober />。[[1936年]]からの[[スペイン内戦]]では、[[1938年]]に[[コンドル軍団]]へ志願し、[[アドルフ・ガーランド]]から第88戦闘飛行隊第3中隊長を引き継いで、新型戦闘機[[メッサーシュミット Bf109]]の高速性能を生かした[[ロッテ戦法]]、さらにそれを発展させ、ロッテ2組戦闘機4機からなるシュヴァルム戦法(編隊が4本の指に似ているのでフィンガーフォーとも言う)を編み出した<ref name=wern>Page 9, 10 ,11 ,12 , Obermaier, Ernst and Werner Held. 『Jagdflieger Oberst Werner Mölders – Bilder und Dokumente』 (ドイツ語). Stuttgart: Motorbuch Verlag , 4. Edition, 1996. (popular science) </ref>。そしてメルダース自身は14機を撃墜し、コンドル軍団のトップ・エースとなった<ref name=wern />。 |
||
<!-- 以上の 一粒 2011年5月14日 (土) 10:25、2011年5月14日 (土) 10:55、2011年5月14日 (土) 13:34 の英語版の脚注と引用は、 en: Werner Mölders 08:11, 10 May 2011 の版より引用。 --> |
<!-- 以上の 一粒 2011年5月14日 (土) 10:25、2011年5月14日 (土) 10:55、2011年5月14日 (土) 13:34 の英語版の脚注と引用は、 en: Werner Mölders 08:11, 10 May 2011 の版より引用。 --> |
||
⚫ | |||
[[1939年]]9月の第二次世界大戦開戦時には[[大尉]]の第53戦闘航空団第1飛行隊第1[[中隊長 (第二次世界大戦ドイツ空軍)|中隊長]](1./JG53)で、翌10月に同航空団第III[[飛行隊長]](III./JG53)となり、[[1940年]]3月にドイツ空軍で最初に20機撃墜を達成して[[騎士鉄十字章]]を受章した。同年6月5日、フランス軍戦闘機に撃墜され捕虜となったが、2週間後にフランスが降伏して釈放された。 |
[[1939年]]9月の第二次世界大戦開戦時には[[大尉]]の第53戦闘航空団第1飛行隊第1[[中隊長 (第二次世界大戦ドイツ空軍)|中隊長]](1./JG53)で、翌10月に同航空団第III[[飛行隊長]](III./JG53)となり、[[1940年]]3月にドイツ空軍で最初に20機撃墜を達成して[[騎士鉄十字章]]を受章した。同年6月5日、フランス軍戦闘機に撃墜され捕虜となったが、2週間後にフランスが降伏して釈放された。 |
||
ドイツへ帰還すると[[少佐]]に昇進して第51[[戦闘航空団司令]]となり、[[バトル・オブ・ブリテン]]に参加。7月28日の戦闘で[[アドルフ・マラン]]と対戦して被弾負傷し、約1ヶ月間の戦線離脱を余儀なくされたものの、[[アドルフ・ガーランド]]、[[ヘルムート・ヴィック]]とトップ・エースの座を争った。この競争では1940年[[11月6日]]にトップとなったヴィック(56機撃墜)が同月28日に戦死、ガーランドは[[西部戦線 (第二次世界大戦)|西部戦線]]に留まったのに対し、メルダースは[[独ソ戦]]開戦で[[東部戦線]]に転じ、一気にスコアを伸ば |
ドイツへ帰還すると[[少佐]]に昇進して第51[[戦闘航空団司令]]となり、[[バトル・オブ・ブリテン]]に参加。7月28日の戦闘で[[アドルフ・マラン]]と対戦して被弾負傷し、約1ヶ月間の戦線離脱を余儀なくされたものの、[[アドルフ・ガーランド]]、[[ヘルムート・ヴィック]]とトップ・エースの座を争った。この競争では1940年[[11月6日]]にトップとなったヴィック(56機撃墜)が同月28日に戦死、ガーランドは[[西部戦線 (第二次世界大戦)|西部戦線]]に留まったのに対し、メルダースは[[独ソ戦]]開戦で[[東部戦線]]に転じ、一気にスコアを伸ばした。 |
||
メルダースは[[1941年]][[7月15日]]には101機撃墜と史上初の100機撃墜を果たし、全軍初の宝剣付柏葉騎士鉄十字章を受章した。 |
|||
⚫ | |||
[[ファイル:Bundesarchiv Bild 183-B12003, Werner Mölders.jpg|thumb|150px|ヴェルナー・メルダース(1941年)]] |
|||
国民的英雄の戦死を恐れた上層部はメルダースを大佐に昇進させて[[戦闘機隊総監]]に任命した。しかし[[第一次世界大戦]]で62機を撃墜した空軍技術局長[[エルンスト・ウーデット]]が自殺して、その国葬に参列するため本国へ向かうメルダースの乗ったハインケル[[ハインケル He111|He111]]が[[1941年]][[11月22日]]、悪天候のためドイツ東部の[[ヴロツワフ|ブレスラウ]]付近で墜落、事故死した。 |
国民的英雄の戦死を恐れた上層部はメルダースを大佐に昇進させて[[戦闘機隊総監]]に任命した。しかし[[第一次世界大戦]]で62機を撃墜した空軍技術局長[[エルンスト・ウーデット]]が自殺して、その国葬に参列するため本国へ向かうメルダースの乗ったハインケル[[ハインケル He111|He111]]が[[1941年]][[11月22日]]、悪天候のためドイツ東部の[[ヴロツワフ|ブレスラウ]]付近で墜落、事故死した。 |
||
== 顕彰 == |
== 顕彰 == |
||
その名は第二次世界大戦におけるJG51、戦後のドイツ連邦軍 |
その名は第二次世界大戦におけるJG51、戦後の[[ドイツ空軍 (ドイツ連邦軍)|西ドイツ空軍]]{{仮リンク|第74戦闘航空団|en|Jagdgeschwader 74}}('''J'''agd'''g'''eschwader '''74''':'''JG74''')の部隊名に継承された。また、戦後の[[ドイツ海軍 (ドイツ連邦軍) |西ドイツ海軍]][[リュッチェンス級駆逐艦]]3隻の2番艦の名として、海軍の[[ギュンター・リュッチェンス|リュッチェンス]]、陸軍の[[エルヴィン・ロンメル|ロンメル]]とともに採用されている。 |
||
2005年、1998年に制定された[[コンドル軍団]]参加者の名誉剥奪法に基づき[[ペーター・シュトルック]]国防相が過去メルダースに与えられた全ての名誉を剥奪し、それに伴ってJG74の部隊名からメルダースの名は抹消された。 |
2005年、1998年に制定された[[コンドル軍団]]参加者の名誉剥奪法に基づき[[ペーター・シュトルック]]国防相が過去メルダースに与えられた全ての名誉を剥奪し、それに伴ってJG74の部隊名からメルダースの名は抹消された。 |
2012年3月1日 (木) 06:59時点における版
ヴェルナー・メルダース(Werner Mölders 、1913年3月18日-1941年11月22日)はスペイン内戦、第二次世界大戦で活躍したドイツ空軍のエース・パイロット。最終階級は大佐。ダイヤモンド剣柏葉付騎士鉄十字章受章。115機撃墜。
経歴
プロイセン王国ヴェストファーレン州のゲルゼンキルヒェン生まれ。父は歩兵中尉として西部戦線に従軍し、1915年3月にアルゴンヌの森の戦いで戦死した。のちに母は両親を頼ってブランデンブルク・アン・デア・ハーフェルに移住した。学齢期の時は水上スポーツに勤しんでいたが、1931年のはじめ、ギムナジウムを卒業しアビトゥアを取得する頃には飛行士に憧れた。1931年4月、アレンシュタイン(現 オルシュティン)のヴァイマル共和国軍の歩兵第二連隊へ入隊。1931年10月、ドレスデンの陸軍士官学校に入校し、この間に少尉に進級した、1933年6月に卒業し、引き続いてミュンヘンの歩兵第二連隊第一プロイセン工兵大隊の工兵養成課程に入ったが、パイロット志願を表明していた。ドイツ航空輸送学校に転科を志願し、1934年2月から12月の間にかけて在籍した[1]。
最初は飛行機酔いのため飛行任務には適さないと診断されたが、卒業時は首席だった。その間、中尉に進級し、またドイツ国防軍によってドイツ空軍(ルフトヴァッフェ)が設立された時期にあたる。1935年1月から5月にかけて空軍戦闘機搭乗員養成課程に在籍し、卒業後の同年7月、シュベリン急降下爆撃隊に配属された。ラインラント進駐時にはルール地方を飛びデュッセルドルフに到着一番乗りを果たした[1]。1936年からのスペイン内戦では、1938年にコンドル軍団へ志願し、アドルフ・ガーランドから第88戦闘飛行隊第3中隊長を引き継いで、新型戦闘機メッサーシュミット Bf109の高速性能を生かしたロッテ戦法、さらにそれを発展させ、ロッテ2組戦闘機4機からなるシュヴァルム戦法(編隊が4本の指に似ているのでフィンガーフォーとも言う)を編み出した[2]。そしてメルダース自身は14機を撃墜し、コンドル軍団のトップ・エースとなった[2]。
1939年9月の第二次世界大戦開戦時には大尉の第53戦闘航空団第1飛行隊第1中隊長(1./JG53)で、翌10月に同航空団第III飛行隊長(III./JG53)となり、1940年3月にドイツ空軍で最初に20機撃墜を達成して騎士鉄十字章を受章した。同年6月5日、フランス軍戦闘機に撃墜され捕虜となったが、2週間後にフランスが降伏して釈放された。
ドイツへ帰還すると少佐に昇進して第51戦闘航空団司令となり、バトル・オブ・ブリテンに参加。7月28日の戦闘でアドルフ・マランと対戦して被弾負傷し、約1ヶ月間の戦線離脱を余儀なくされたものの、アドルフ・ガーランド、ヘルムート・ヴィックとトップ・エースの座を争った。この競争では1940年11月6日にトップとなったヴィック(56機撃墜)が同月28日に戦死、ガーランドは西部戦線に留まったのに対し、メルダースは独ソ戦開戦で東部戦線に転じ、一気にスコアを伸ばした。
メルダースは1941年7月15日には101機撃墜と史上初の100機撃墜を果たし、全軍初の宝剣付柏葉騎士鉄十字章を受章した。
国民的英雄の戦死を恐れた上層部はメルダースを大佐に昇進させて戦闘機隊総監に任命した。しかし第一次世界大戦で62機を撃墜した空軍技術局長エルンスト・ウーデットが自殺して、その国葬に参列するため本国へ向かうメルダースの乗ったハインケルHe111が1941年11月22日、悪天候のためドイツ東部のブレスラウ付近で墜落、事故死した。
顕彰
その名は第二次世界大戦におけるJG51、戦後の西ドイツ空軍第74戦闘航空団(Jagdgeschwader 74:JG74)の部隊名に継承された。また、戦後の西ドイツ海軍リュッチェンス級駆逐艦3隻の2番艦の名として、海軍のリュッチェンス、陸軍のロンメルとともに採用されている。
2005年、1998年に制定されたコンドル軍団参加者の名誉剥奪法に基づきペーター・シュトルック国防相が過去メルダースに与えられた全ての名誉を剥奪し、それに伴ってJG74の部隊名からメルダースの名は抹消された。
脚注
- ^ a b Page 10 ,11 ,32 ,64 , Obermaier, Ernst and Werner Held. 『Jagdflieger Oberst Werner Mölders – Bilder und Dokumente』 (ドイツ語). Stuttgart: Motorbuch Verlag , 4. Edition, 1996. ISBN 3-87943-869-2. (popular science)
- ^ a b Page 9, 10 ,11 ,12 , Obermaier, Ernst and Werner Held. 『Jagdflieger Oberst Werner Mölders – Bilder und Dokumente』 (ドイツ語). Stuttgart: Motorbuch Verlag , 4. Edition, 1996. (popular science)