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系譜
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5世紀頃に勢力を有した[[葛城氏]]の末裔。系譜ははっきりしないが、[[葛城葦田宿禰]]の子である蟻([[顕宗天皇]]の外祖父)の後裔とする系図がある<ref>中田憲信『皇胤志』(宝賀寿男『古代氏族系譜集成』古代氏族研究会、1986年 による)</ref>。
5世紀頃に勢力を有した[[葛城氏]]の末裔。系譜ははっきりしないが、[[葛城葦田宿禰]]の子である蟻([[顕宗天皇]]の外祖父)の後裔とする系図がある<ref>中田憲信『皇胤志』(宝賀寿男『古代氏族系譜集成』古代氏族研究会、1986年 による)</ref>。


[[蘇我馬子]]が[[物部守屋]]を討った際、[[泊瀬部皇子]]・厩戸皇子らとともに参陣した。
[[蘇我馬子]]が[[物部守屋]]を討った際、泊瀬部皇子(後の[[崇峻天皇]]・厩戸皇子らとともに参陣した。崇峻天皇4年([[590年]])11月[[新羅]]討伐大将軍の一人として諸氏の臣・連を率いて稗将部隊2万余を領し、[[筑紫国|筑紫]]に在陣した(ただし実際に渡海はしていない)
[[崇峻天皇]]4年([[590年]])11月[[新羅]]討伐大将軍の一人として諸氏の臣・連を率いて稗将部隊2万余を領し、[[筑紫]]に在陣した(ただし実際に渡海はしていない)。


厩戸皇子が[[伊予国]]の温泉(いよのゆ、現在の[[道後温泉]]か)に行啓した折には、同じく側近の僧・[[恵慈]]とともに同行した。
厩戸皇子が[[伊予国]]の温泉(いよのゆ、現在の[[道後温泉]]か)に行啓した折には、同じく側近の僧・[[恵慈]]とともに同行した。

2012年1月28日 (土) 17:06時点における版

葛城 烏那羅(かつらぎ/ かずらき の おなら、生没年不明)は、飛鳥時代豪族。名は烏奈良小楢とも表記する。厩戸皇子(聖徳太子)の側近。

5世紀頃に勢力を有した葛城氏の末裔。系譜ははっきりしないが、葛城葦田宿禰の子である蟻(顕宗天皇の外祖父)の後裔とする系図がある[1]

蘇我馬子物部守屋を討った際、泊瀬部皇子(後の崇峻天皇)・厩戸皇子らとともに参陣した。崇峻天皇4年(590年)11月新羅討伐大将軍の一人として諸氏の臣・連を率いて稗将部隊2万余を領し、筑紫に在陣した(ただし実際に渡海はしていない)。

厩戸皇子が伊予国の温泉(いよのゆ、現在の道後温泉か)に行啓した折には、同じく側近の僧・恵慈とともに同行した。

脚注

  1. ^ 中田憲信『皇胤志』(宝賀寿男『古代氏族系譜集成』古代氏族研究会、1986年 による)