「松平家広 (形原松平家)」の版間の差分

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'''松平 家広'''(まつだいら いえひろ、生年不詳 - [[元亀]]2年[[2月29日 (旧暦)|2月29日]]([[1571年]][[4月3日]]))は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[武将]]。[[三河国]]の[[形原城]]([[蒲郡市]]形原町東古城)主。幼名は佐太郎、又七郎。
'''松平 家広'''(まつだいら いえひろ、? - [[元亀]]2年[[2月29日 (旧暦)|2月29日]]([[1571年]][[4月3日]]))は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[武将]]。[[三河国]]の[[形原城]]([[蒲郡市]]形原町東古城)主。幼名は佐太郎、又七郎。


[[15世紀]]末より([[文明_(日本)|文明]]12年とされる)現在の[[蒲郡市]]形原に移った[[形原松平家]]第4代当主である。父は第3代[[松平親忠 (形原松平家)|松平親忠]]。[[於大の方]]の姉、[[於丈の方]]([[於上の方]])を妻とする。[[於丈の方]]との間に[[松平家忠 (形原松平家)|松平家忠]]をもうける。
[[15世紀]]末より([[文明_(日本)|文明]]12年とされる)現在の[[蒲郡市]]形原に移った[[形原松平家]]第4代当主である。父は第3代[[松平親忠 (形原松平家)|松平親忠]]。[[於大の方]]の姉、[[於丈の方]][[於上の方]]を妻とする。[[於丈の方]]との間に[[松平家忠 (形原松平家)|松平家忠]]をもうける。


父親忠は[[松平清康]]に従っていたが、清康の殺害([[1535年]]の[[森山崩れ]])後の[[織田信秀]]の[[安祥城]]([[安城市]]安城町赤塚)攻め([[1540年]])や[[小豆坂の戦い]]([[1542年]])の際の動向は明らかでない。妻の実家である[[水野氏]]が、今川氏から離反し[[織田氏]]に接近すると、主君の広忠と同様に妻を離縁する。
父親忠は[[松平清康]]に従っていたが、清康の殺害([[1535年]]の[[森山崩れ]])後の[[織田信秀]]の[[安祥城]]([[安城市]]安城町赤塚)攻め([[1540年]])や[[小豆坂の戦い]]([[1542年]])の際の動向は明らかでない。妻の実家である[[水野氏]]が、今川氏から離反し[[織田氏]]に接近すると、主君の広忠と同様に妻を離縁する。
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墓所は[[愛知県]][[蒲郡市]]西浦町北馬場の[[光忠寺]]。法名は元忠院殿仁誉孝呈道伯。

== 関連項目 ==
*[[形原松平家]]
*[[松平氏]]


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[[Category:1571年没]]
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2011年12月3日 (土) 09:37時点における版

松平 家広(まつだいら いえひろ、? - 元亀2年2月29日1571年4月3日))は、戦国時代武将三河国形原城蒲郡市形原町東古城)主。幼名は佐太郎、又七郎。

15世紀末より(文明12年とされる)現在の蒲郡市形原に移った形原松平家第4代当主である。父は第3代松平親忠於大の方の姉、於丈の方於上の方)を妻とする。於丈の方との間に松平家忠をもうける。

父親忠は松平清康に従っていたが、清康の殺害(1535年森山崩れ)後の織田信秀安祥城安城市安城町赤塚)攻め(1540年)や小豆坂の戦い1542年)の際の動向は明らかでない。妻の実家である水野氏が、今川氏から離反し織田氏に接近すると、主君の広忠と同様に妻を離縁する。

桶狭間の戦いを経て、永禄5年(1562年織田氏松平氏の和睦の後に今川氏と敵対することとなった。同年に家督を継ぎ、薩摩守となる。

娘は石川数正の妻。子は同家5代当主の松平家忠。孫の松平家信(紀伊守)は摂津国高槻藩を経て下総国佐倉藩主となる。

墓所は愛知県蒲郡市西浦町北馬場の光忠寺。法名は元忠院殿仁誉孝呈道伯。