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'''巨勢 利和'''(こせ としまさ、[[明和]]4年[[6月20日 (旧暦)|6月20日]]([[1767年]][[7月15日]]) - [[天保]]5年[[3月17日 (旧暦)|3月17日]]([[1834年]][[4月25日]]))は、[[江戸時代]]後期の幕臣、[[国学者]]、[[歌人]]。旗本[[松平信直]]の四男。[[諱]]は「としより」とも読む。 |
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[[巨勢至親]]の養子となり、[[1786年]]([[天明]]6年)至親が没したため家督を継承。[[1789年]]([[寛政]]元年)に[[使番]]として出頭した後、[[小普請組]]、[[小姓組]]、[[書院番]]の[[番頭]]を歴任した。[[加藤千蔭]]や[[清水浜臣]]の元で学んで歌道を習熟し、千蔭の著作の序文を認めるなどしている。浜臣の覚えは良かったらしく、彼の死後、蔵書の管理を委任された。また『[[宇津保物語]]』の考究を推進し、『[[新治抄]]』10巻を認めるなどの業績を残している。 |
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2011年12月3日 (土) 09:30時点における版
巨勢 利和(こせ としまさ、明和4年6月20日(1767年7月15日) - 天保5年3月17日(1834年4月25日))は、江戸時代後期の幕臣、国学者、歌人。旗本松平信直の四男。諱は「としより」とも読む。
巨勢至親の養子となり、1786年(天明6年)至親が没したため家督を継承。1789年(寛政元年)に使番として出頭した後、小普請組、小姓組、書院番の番頭を歴任した。加藤千蔭や清水浜臣の元で学んで歌道を習熟し、千蔭の著作の序文を認めるなどしている。浜臣の覚えは良かったらしく、彼の死後、蔵書の管理を委任された。また『宇津保物語』の考究を推進し、『新治抄』10巻を認めるなどの業績を残している。
関連文献
- 『江戸文人辞典』(東京堂出版)