「松平張忠」の版間の差分

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また、[[大永]]6年([[1526年]]) - 大永7年([[1527年]])頃作成と思われる三州桑子妙源寺の「松平一門家臣奉加帳写」に「松平右京亮」と署名した人物も張忠であると推定されている<ref>下記参考文献の1、「3 清康期の松平家」257 - 259頁において、この奉加帳の「松平右京亮」の朱書傍注に「親盛」とあるが、[[平野明夫]]は張忠が正しいと結論付けている。この奉加帳に於いて「松平右京亮」は銭千匹(10貫文)を寄進しており、[[桜井松平家|桜井]]の[[松平親房|松平随身斎]](親房)・同[[松平信定|松平与一信定]]と共に宗家の松平道閲(長親)・[[松平信忠|信忠]]の二千匹に次いでいる。</ref>。
また、[[大永]]6年([[1526年]]) - 大永7年([[1527年]])頃作成と思われる三州桑子妙源寺の「松平一門家臣奉加帳写」に「松平右京亮」と署名した人物も張忠であると推定されている<ref>下記参考文献の1、「3 清康期の松平家」257 - 259頁において、この奉加帳の「松平右京亮」の朱書傍注に「親盛」とあるが、[[平野明夫]]は張忠が正しいと結論付けている。この奉加帳に於いて「松平右京亮」は銭千匹(10貫文)を寄進しており、[[桜井松平家|桜井]]の[[松平親房|松平随身斎]](親房)・同[[松平信定|松平与一信定]]と共に宗家の松平道閲(長親)・[[松平信忠|信忠]]の二千匹に次いでいる。</ref>。


[[享禄]]4年10月17日([[1531年]]11月25日)付け[[寄進]]寄進状でその頃までに張忠が得た分領の内、桑子妙源寺に対して在所の宮石名等の妙源寺永代[[不入の権 (日本)|不入]]であった分を改めて寄進したとする内容が伝わる。
[[享禄]]4年10月17日([[1531年]]11月25日)付け[[寄進]]状でその頃までに張忠が得た分領の内、桑子妙源寺に対して在所の宮石名等の妙源寺永代[[不入の権 (日本)|不入]]であった分を改めて寄進したとする内容が伝わる。
同寄進状には嫡子とされる[[松平康忠 (矢田家)|甚六郎康忠]]が連署している。なお、この寄進地は張忠没後も天文19年6月10日(新暦[[1540年]]7月13日)発給[[松平忠吉 (甚次郎)|松平甚次郎忠吉]]寄進状、天正6年9月28日(1578年10月28日)付け[[松平家忠 (東条松平家)|松平甚太郎家忠]]・松平周防守([[松平康親|康親]])連署寄進状にて各々、妙源寺に受け継がれたことが知られる<ref>参考文献の2、936頁、「六四 松平忠吉畠地寄進状」。および同939頁、「七三 松平家忠・同忠次連署田畠寄進状」。</ref>。
同寄進状には嫡子とされる[[松平康忠 (矢田家)|甚六郎康忠]]が連署している。なお、この寄進地は張忠没後も天文19年6月10日(新暦[[1540年]]7月13日)発給[[松平忠吉 (甚次郎)|松平甚次郎忠吉]]寄進状、天正6年9月28日(1578年10月28日)付け[[松平家忠 (東条松平家)|松平甚太郎家忠]]・松平周防守([[松平康親|康親]])連署寄進状にて各々、妙源寺に受け継がれたことが知られる<ref>参考文献の2、936頁、「六四 松平忠吉畠地寄進状」。および同939頁、「七三 松平家忠・同忠次連署田畠寄進状」。</ref>。



2011年12月2日 (金) 12:42時点における版

松平 張忠(まつだいら はるただ、生年不詳 - 没年不詳)は戦国時代西三河地方の武士国人領主松平氏の庶流矢田松平家の初代当主。松平宗家第4代(安城松平家初代)親忠の子。通称は右京亮、助十郎[1]

人物概要

『寛永諸家系図伝』・『寛政重修諸家譜』・『藩翰譜』のいずれにも通称以外に殆ど詳細な記述はない。 しかし、自署のあるものも含め関連する古文書が数点伝わっている。西三河の桑子(岡崎市大和町)妙源寺文書によると、妙源寺にて永正15年(1518年)に開催された連歌の会に宗家5代の松平長親とともに出席し歌2首を詠んでいることが知れる。

また、大永6年(1526年) - 大永7年(1527年)頃作成と思われる三州桑子妙源寺の「松平一門家臣奉加帳写」に「松平右京亮」と署名した人物も張忠であると推定されている[2]

享禄4年10月17日(1531年11月25日)付け寄進状でその頃までに張忠が得た分領の内、桑子妙源寺に対して在所の宮石名等の妙源寺永代不入であった分を改めて寄進したとする内容が伝わる。 同寄進状には嫡子とされる甚六郎康忠が連署している。なお、この寄進地は張忠没後も天文19年6月10日(新暦1540年7月13日)発給松平甚次郎忠吉寄進状、天正6年9月28日(1578年10月28日)付け松平甚太郎家忠・松平周防守(康親)連署寄進状にて各々、妙源寺に受け継がれたことが知られる[3]

家名の矢田は明確な由来の記述は未詳であるが、天文9年(1540年)に安城合戦で戦死した伝承がある嫡子の甚六郎康忠は幡豆郡吉良庄上矢田(現在の愛知県幡豆郡吉良町上矢田)の桂岩寺の中興開基とされる。同寺前に康忠の墳墓と伝える矢田地蔵もあったとされ、由緒を窺わせる[4]

天文7年(1538年)3月には嫡子康忠のみの署名で前記妙源寺に平岩氏より買徳(得)した在所宮石名中の畑地を新寄進している。これには康忠の父・張忠の連署は無く、以後の張忠自署文書も知られない。また、張忠の兄である知恩院第25世の超譽存牛が天文18年(1549年)12月20日死去で享年81とされることからも、天文7年3月迄には張忠から康忠へと既に世代交代していたことが考えられる。

張忠没後と思われる永禄4年(1561年)4月、松平元康が発給した都筑右京進への判物(写)[5]は「東条の儀忠節」により、「張忠本給」および「中野宗八郎名」から出し置くというものである[6]

張忠の菩提寺は三河国幡豆郡寺津村(現在の愛知県西尾市寺津)の剣光院養國寺であり、同寺に埋葬されたという[7]

脚注

  1. ^ 寛永諸家系図伝』によれば親忠の八男。通称も同譜による。
  2. ^ 下記参考文献の1、「3 清康期の松平家」257 - 259頁において、この奉加帳の「松平右京亮」の朱書傍注に「親盛」とあるが、平野明夫は張忠が正しいと結論付けている。この奉加帳に於いて「松平右京亮」は銭千匹(10貫文)を寄進しており、桜井松平随身斎(親房)・同松平与一信定と共に宗家の松平道閲(長親)・信忠の二千匹に次いでいる。
  3. ^ 参考文献の2、936頁、「六四 松平忠吉畠地寄進状」。および同939頁、「七三 松平家忠・同忠次連署田畠寄進状」。
  4. ^ 下記参考文献の3、吉良町「上矢田桂岩寺」の項。
  5. ^ 下記参考文献の2、1140 - 1141頁 「三十九、都筑右京進宛松平元康判物写」および「四十、都筑右京進宛酒井正家副状写」(符牒余録・巻第三十六)。
  6. ^ 下記参考文献の1の153頁で著者平野明夫は、張忠より宛行われたものを元康が都筑右京進に安堵したものとして、都筑右京進を張忠の被官であるとしている。
  7. ^ 同寺伝によれば、同寺5代住職・洞順上人の時である、延徳2年(1490年)2月に対織田信秀との井田の合戦で傷を負った張忠を家臣で寺津の住人朝岡甚八郎が背負って自邸に運び入れ介抱したがその甲斐なく死去したのち同寺に葬ったものという。 同寺伝中の「井田の合戦」は松平親忠在世時の「井田野合戦」(「三州八代記古伝集」では明応2年(1493年))を指すとも考えられるが、当時の対戦相手は衣城中条氏の勢力であり織田氏ではない(参考文献の1、「明応の井田野合戦」134 - 139頁)。また延徳2年の死去年月日に関しては前掲の張忠寄進状の発給年月日よりも以前となり、両者の附合がせず関連性は不明(下記外部リンク参照)。なお、織田信秀軍との「井田野合戦」は宗家第7代松平清康死没直後の天文4年(1535年)12月12日に行われている(→参考文献の1、「森山崩れ後」265 - 266頁)。

参考文献

  1. 平野明夫 『三河松平一族』 新人物往来社 2002年、ISBN 4-404-02961-6 C0021。
  2. 「譜牒余録」所収文書/『新編 岡崎市史6 史料編古代中世』 岡崎市、1983年。
  3. 『日本歴史地名大系 23 - 愛知県の地名 』 平凡社、1981年、ISBN 4-582-49023-9

関連項目

外部リンク