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1960年代から1970年代にかけて、[[サミュエル・ベケット]]や[[アルベール・カミュ]]の影響を受けたという西部劇やロード・ムービーを多数監督する。執念に取りつかれた主人公や復讐劇などを扱いながら、オフビートで「何もおこらない」淡々としたタッチで描いていくヘルマンの映画は、大半が独立系のプロダクションで製作されたが、[[ジャック・ニコルソン]]や[[ウォーレン・オーツ]]と組んだその作品は、カルトな人気を持つものが多い。
1960年代から1970年代にかけて、[[サミュエル・ベケット]]や[[アルベール・カミュ]]の影響を受けたという西部劇やロード・ムービーを多数監督する。執念に取りつかれた主人公や復讐劇などを扱いながら、オフビートで「何もおこらない」淡々としたタッチで描いていくヘルマンの映画は、大半が独立系のプロダクションで製作されたが、[[ジャック・ニコルソン]]や[[ウォーレン・オーツ]]と組んだその作品は、カルトな人気を持つものが多い。


[[1971年]]には[[ユニヴァーサル]]に招かれ、[[ジェーム・テイラー]]と[[ビーチ・ボーイズ]]の[[デニス・ウィルソン]]主演で『断絶』を監督するが難解な内容のために興業的に惨敗し、以後ヘルマンはハリウッド・メジャーでは監督していない。独立系の作品以外にスペインで2本の映画を監督したのち、[[1989年]]の『ヘルブレイン 血ぬられた頭脳』を最後に長編映画の監督から遠ざかる。自身の監督作品の他に、『アバランチエクスプレス』では監督の[[マーク・ロブソン]]が撮影中に急逝したためにその後継監督をつとめ、[[ポール・バーホーベン]]監督の『[[ロボコップ]]』ではB班監督を担当している。[[1992年]]には[[クエンティン・タランティーノ]]の監督デビュー作『[[レザボア・ドッグス]]』にエグゼクティブ・プロデューサーとして参加しているが、タランティーノは当初ヘルマンに監督してもらうつもりでこの作品の脚本を書いたという。
[[1971年]]には[[ユニヴァーサル]]に招かれ、[[ジェーム・テイラー]]と[[ザ・ビーチ・ボーイズ]]の[[デニス・ウィルソン]]主演で『断絶』を監督するが難解な内容のために興業的に惨敗し、以後ヘルマンはハリウッド・メジャーでは監督していない。独立系の作品以外にスペインで2本の映画を監督したのち、[[1989年]]の『ヘルブレイン 血ぬられた頭脳』を最後に長編映画の監督から遠ざかる。自身の監督作品の他に、『アバランチエクスプレス』では監督の[[マーク・ロブソン]]が撮影中に急逝したためにその後継監督をつとめ、[[ポール・バーホーベン]]監督の『[[ロボコップ]]』ではB班監督を担当している。[[1992年]]には[[クエンティン・タランティーノ]]の監督デビュー作『[[レザボア・ドッグス]]』にエグゼクティブ・プロデューサーとして参加しているが、タランティーノは当初ヘルマンに監督してもらうつもりでこの作品の脚本を書いたという。


[[1989年]]以降、アンソロジー映画の一部である短編を監督する以外は第一線から遠ざかり、近年はカリフォルニア美術学校で講師をつとめていたが、[[2010年]]、映画の撮影現場を舞台にしたミステリー『果てなき路』で21年ぶりに長編映画の監督に復帰。同作品で[[ヴェネツィア国際映画祭]]の金獅子賞と特別賞を受賞した。
[[1989年]]以降、アンソロジー映画の一部である短編を監督する以外は第一線から遠ざかり、近年はカリフォルニア美術学校で講師をつとめていたが、[[2010年]]、映画の撮影現場を舞台にしたミステリー『果てなき路』で21年ぶりに長編映画の監督に復帰。同作品で[[ヴェネツィア国際映画祭]]の金獅子賞と特別賞を受賞した。



== 主な監督作品 ==
== 主な監督作品 ==

2011年11月24日 (木) 01:12時点における版

モンテ・ヘルマン
Monte Hellman
本名 Robert Jonathan Demme
生年月日 (1932-07-12) 1932年7月12日(91歳)
出生地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
ニューヨーク市
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モンテ・ヘルマンMonte Hellman、本名:Monte Jay Himmelman、1932年7月12日 - )は、アメリカ合衆国映画監督映画プロデューサー。独特なタッチを持つ映画で知られ、寡作であるために、しばしば「伝説の映画監督」と呼ばれている。

来歴

ニューヨーク市出身。スタンフォード大学で演劇を、カリフォルニア大学ロサンゼルス校で映画を学び、カリフォルニア州グリーンウェルの地方劇団で舞台演出家となる。『ゴドーを待ちながら』を西部劇風にアレンジした舞台演出がロジャー・コーマンの目に止まり、そのスタッフとなって、1959年に、ロジャーの弟ジーン・コーマンが製作した低予算のモンスター映画『魔の谷』で映画監督デビューした。

1960年代から1970年代にかけて、サミュエル・ベケットアルベール・カミュの影響を受けたという西部劇やロード・ムービーを多数監督する。執念に取りつかれた主人公や復讐劇などを扱いながら、オフビートで「何もおこらない」淡々としたタッチで描いていくヘルマンの映画は、大半が独立系のプロダクションで製作されたが、ジャック・ニコルソンウォーレン・オーツと組んだその作品は、カルトな人気を持つものが多い。

1971年にはユニヴァーサルに招かれ、ジェームス・テイラーザ・ビーチ・ボーイズデニス・ウィルソン主演で『断絶』を監督するが難解な内容のために興業的に惨敗し、以後ヘルマンはハリウッド・メジャーでは監督していない。独立系の作品以外にスペインで2本の映画を監督したのち、1989年の『ヘルブレイン 血ぬられた頭脳』を最後に長編映画の監督から遠ざかる。自身の監督作品の他に、『アバランチエクスプレス』では監督のマーク・ロブソンが撮影中に急逝したためにその後継監督をつとめ、ポール・バーホーベン監督の『ロボコップ』ではB班監督を担当している。1992年にはクエンティン・タランティーノの監督デビュー作『レザボア・ドッグス』にエグゼクティブ・プロデューサーとして参加しているが、タランティーノは当初ヘルマンに監督してもらうつもりでこの作品の脚本を書いたという。

1989年以降、アンソロジー映画の一部である短編を監督する以外は第一線から遠ざかり、近年はカリフォルニア美術学校で講師をつとめていたが、2010年、映画の撮影現場を舞台にしたミステリー『果てなき路』で21年ぶりに長編映画の監督に復帰。同作品でヴェネツィア国際映画祭の金獅子賞と特別賞を受賞した。

主な監督作品

  • 魔の谷 Beast from Haunted Cave(1959)
  • バックドア・トゥ・ヘル 情報攻防戦 Back Door to Hell(1964)
  • 旋風の中に馬を進めろ Ride in the Whirlwind (1965)
  • 銃撃 The Shooting (1966)
  • 断絶 Two-Lane Blacktop (1971)
  • コックファイター Stop Making Sense (1974)
  • The Greatest(1977) ※トム・グリースと共同監督。
  • China 9,Liberty 37 (1978)
  • アバランチエクスプレス Avalanche Express (1979) ※マーク・ロブソンと共同監督。
  • イグアナ 愛と野望の果て Iguana (1988)
  • ヘルブレイン 血塗られた頭脳 Silent Night, Deadly Night 3: Better Watch Out! (1988)
  • Stanrey's Girlfriend (2006) ※アンソロジー映画Trapped Ashesの1エピソード。
  • 果てなき路 Road to Nowhere (2010)

外部リンク