「中津藩」の版間の差分

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同年、[[播磨国]][[明石藩]]より[[小笠原忠真]]が[[小倉藩]]主として[[小倉城]]に入り、豊前北部15万石を領した。支城であった豊前[[中津城]]には忠真の甥・[[小笠原長次|長次]]が[[播磨国|播磨]][[龍野藩]]より8万石で入封し再び中津城が藩庁となった。[[元禄]]11年([[1698年]])、第3代藩主・[[小笠原長胤|長胤]]は失政・日常の不行跡を咎められ藩領没収、本家の小倉藩・小笠原家へ預かりとなった。しかし「祖先の勤労」(『[[徳川実紀]]』)により弟の[[小笠原高円|高円]]が半減の4万石をもって後を継いだ。[[享保]]元年([[1716年]])、第5代藩主・[[小笠原長邕|長邕]]が7歳で夭逝したため、その弟・[[小笠原長興|長興]]が播磨[[安志藩]](1万石)に移封立藩となった。
同年、[[播磨国]][[明石藩]]より[[小笠原忠真]]が[[小倉藩]]主として[[小倉城]]に入り、豊前北部15万石を領した。支城であった豊前[[中津城]]には忠真の甥・[[小笠原長次|長次]]が[[播磨国|播磨]][[龍野藩]]より8万石で入封し再び中津城が藩庁となった。[[元禄]]11年([[1698年]])、第3代藩主・[[小笠原長胤|長胤]]は失政・日常の不行跡を咎められ藩領没収、本家の小倉藩・小笠原家へ預かりとなった。しかし「祖先の勤労」(『[[徳川実紀]]』)により弟の[[小笠原高円|高円]]が半減の4万石をもって後を継いだ。[[享保]]元年([[1716年]])、第5代藩主・[[小笠原長邕|長邕]]が7歳で夭逝したため、その弟・[[小笠原長興|長興]]が播磨[[安志藩]](1万石)に移封立藩となった。


享保2年([[1717年]])、[[奥平昌成]]が丹後[[宮津藩]]より10万石で入封。以後、[[明治]]4年([[1871年]])の[[廃藩置県]]まで9代・155年間支配するところとなった。廃藩置県の後、中津県・小倉県・[[福岡県]]を経て大分県に編入された。
享保2年([[1717年]])、[[奥平昌成]]が丹後[[宮津藩]]より10万石で入封。以後、[[明治]]4年([[1871年]])の[[廃藩置県]]まで9代・155年間支配するところとなった。廃藩置県の後、中津県・[[小倉県]]・[[福岡県]]を経て大分県に編入された。{{和暦|1844}}、[[藩校]]『[[進脩館]]』に[[小幡篤次郎]]が入門、明治4年に[[福沢諭吉]]の弟子となり、校長に就任。のちに『中津市学校』に改組され門下生らは[[江戸藩邸]]の[[慶應義塾]]へ

奥平時代の同藩の出身者として、藩医であり『[[解体新書]]』を著した[[前野良沢]]、下級藩士出身の[[福澤諭吉]]がよく知られている。また、福沢とは親戚にあたる[[増田宗太郎]]の2名をして、郷土の英雄として位置付けられている。[[西南戦争]]の時には旧中津藩士によって[[中津隊]]が結成され、西郷軍に参加した。


奥平時代の同藩の出身者として、藩医であり『[[解体新書]]』を著した[[前野良沢]]、下級藩士出身の[[福澤諭吉]]がよく知られている。[[西南戦争]]の時には旧中津藩士によって[[中津隊]]が結成され、西郷軍に参加した。
奥平時代の同藩の出身者として、藩医であり『[[解体新書]]』を著した[[前野良沢]]、下級藩士出身の[[福澤諭吉]]がよく知られている。[[西南戦争]]の時には旧中津藩士によって[[中津隊]]が結成され、西郷軍に参加した。
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== 関連事項 ==
== 関連事項 ==
*[[藩の一覧]]
*[[藩の一覧]]
*[[進脩館]] → [[中津市学校]]
*[[慶應義塾]]
*[[中西派一刀流]]
*[[中西派一刀流]]
*[[東軍流]]
*[[東軍流]]

2011年10月21日 (金) 14:05時点における版

中津藩(なかつはん)は、豊前国下毛郡中津(現在の大分県中津市)周辺を領有した。藩庁は中津城に置かれた(一時、藩庁は小倉城に移る)。

藩史

天正15年(1587年)の豊臣秀吉による九州征伐後、黒田孝高が入部し、12万3000石(一説には16万石)を領有した。その後、関ヶ原の戦いで戦功のあった子の長政慶長5年(1600年)、筑前福岡藩に52万石で加増移封された。

代わって同年、同じく関ヶ原の戦いで東軍方に付いた細川忠興丹後宮津より39万9000石で入封し、江戸期の中津藩が成立した。忠興は慶長7年(1602年)、藩庁を小倉城に移して小倉藩となる。中津城は支城となり城代が置かれた。寛永9年(1632年)、第2代藩主忠利肥後熊本藩に移封となった。

同年、播磨国明石藩より小笠原忠真小倉藩主として小倉城に入り、豊前北部15万石を領した。支城であった豊前中津城には忠真の甥・長次播磨龍野藩より8万石で入封し再び中津城が藩庁となった。元禄11年(1698年)、第3代藩主・長胤は失政・日常の不行跡を咎められ藩領没収、本家の小倉藩・小笠原家へ預かりとなった。しかし「祖先の勤労」(『徳川実紀』)により弟の高円が半減の4万石をもって後を継いだ。享保元年(1716年)、第5代藩主・長邕が7歳で夭逝したため、その弟・長興が播磨安志藩(1万石)に移封立藩となった。

享保2年(1717年)、奥平昌成が丹後宮津藩より10万石で入封。以後、明治4年(1871年)の廃藩置県まで9代・155年間支配するところとなった。廃藩置県の後、中津県・小倉県福岡県を経て大分県に編入された。1844年(弘化元年)、藩校進脩館』に小幡篤次郎が入門、明治4年に福沢諭吉の弟子となり、校長に就任。のちに『中津市学校』に改組され門下生らは江戸藩邸慶應義塾へ。

奥平時代の同藩の出身者として、藩医であり『解体新書』を著した前野良沢、下級藩士出身の福澤諭吉がよく知られている。また、福沢とは親戚にあたる増田宗太郎の2名をして、郷土の英雄として位置付けられている。西南戦争の時には旧中津藩士によって中津隊が結成され、西郷軍に参加した。

奥平時代の同藩の出身者として、藩医であり『解体新書』を著した前野良沢、下級藩士出身の福澤諭吉がよく知られている。西南戦争の時には旧中津藩士によって中津隊が結成され、西郷軍に参加した。

歴代藩主

細川(ほそかわ)家

外様 39万9千石 (1600年 - 1632年)

  1. 忠興(ただおき)
  2. 忠利(ただとし)〈小倉藩〉

小笠原(おがさわら)家

譜代 8万石→4万石 (1632年 - 1716年)

  1. 長次(ながつぐ)
  2. 長勝(ながかつ)
  3. 長胤(ながたね)
  4. 長円(ながのぶ) 4万石に減知
  5. 長邕(ながさと)

奥平(おくだいら)家

譜代 10万石 (1717年 - 1871年)

  1. 昌成(まさしげ)
  2. 昌敦(まさあつ)
  3. 昌鹿(まさか)
  4. 昌男(まさお)
  5. 昌高(まさたか)
  6. 昌暢(まさのぶ)
  7. 昌猷(まさみち)
  8. 昌服(まさもと)
  9. 昌邁(まさゆき)

幕末の領地

参考文献

関連事項

外部リンク

先代
豊前国
行政区の変遷
1600年 - 1871年
(中津藩→中津県)
次代
小倉県