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'''由良 国繁'''(ゆら くにしげ、[[天文 (元号)|天文]]19年([[1550年]]) - [[慶長]]16年[[1月3日 (旧暦)|1月3日]]([[1611年]][[2月15日]]))は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[江戸時代]]前期にかけての[[武将]]。[[由良成繁]]と[[赤井重秀]]の娘[[妙印尼]]の嫡男。[[渡瀬繁詮]]と[[長尾顕長]]の兄に当たる。正妻は[[結城晴朝]]の娘。[[由良貞繁|貞繁]]、[[由良忠繁|忠繁]]、女子([[長尾宣景]]室)の父。幼名は国寿丸。通称は六郎、新六郎、官位は[[式部省|式部大輔]]、[[信濃国|信濃守]]。
'''由良 国繁'''(ゆら くにしげ、[[天文 (元号)|天文]]19年([[1550年]]) - [[慶長]]16年[[1月3日 (旧暦)|1月3日]]([[1611年]][[2月15日]]))は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[江戸時代]]前期にかけての[[武将]]。[[由良成繁]]と[[赤井重秀]]の娘[[妙印尼]]の嫡男。[[渡瀬繁詮]]と[[長尾顕長]]の兄に当たる。正妻は[[結城晴朝]]の娘。[[由良貞繁|貞繁]]、[[由良忠繁|忠繁]]、女子([[長尾宣景]]室)の父。幼名は国寿丸。通称は六郎、新六郎、官位は[[式部省|式部大輔]]、[[信濃国|信濃守]]。


[[横瀬氏|由良氏]]の第9代当主で、[[天正]]6年([[1578年]])の父の死の前後くらいから家督を継いでいたという天正10[[関東]]に派遣された[[織田信長]]の重臣・[[滝川一益]]に仕えたが、一益が[[神流川の戦い]]敗れ関東を去る[[後北条氏]]に仕え天正12([[1584年]])北条氏の命り、[[上野国|上野]][[新金山城|金山城]]から[[柄杓山城]](桐生城)に移ることとなった。
[[横瀬氏|由良氏]]の第9代当主で、[[天正]]6年([[1578年]])の父の死の前後くらいから家督を継いでいた。[[御館の乱]]により[[北条氏政]][[武田勝頼]]が敵対すると佐竹氏、里見氏なども武田と同盟を結び、上州はそ場となった。由良氏は父・成繁の代上杉方から北条方に転じおり、国繁弟・長尾顕長は北条と誼を通じていが、天正711月には佐竹方とも連絡をとり<ref>紀伊国藩中古文書十二</ref>、北条氏北条家滅亡を危惧させた<ref>木村孫平氏所蔵文書</ref>。しかしながら国繁と顕長は最終的には北条方に留まり、天正8年9月には武勢、佐竹勢から攻撃を受け<ref>上杉家文書</ref>


天正10年、甲斐の武田家が滅ぼされると国繁、顕長兄弟は、他の上野国衆と同様に[[織田信長]]の重臣・[[滝川一益]]に仕えたが、[[神流川の戦い]]では北条方となり一益と敵対した<ref>松平義行氏所蔵文書</ref>。
天正18年([[1590年]])の[[豊臣秀吉]]の[[小田原の役|小田原攻め]]で国繁豊臣側に与しようとしたが、後北条氏に脅迫されて[[小田原城]]に籠もることを余儀なくされた。しかし、嫡男の貞繁と母妙印尼が秀吉に与して功を挙げたことにより、後北条氏滅亡後は罪を問われず、秀吉の家臣として仕えた。戦後、妙印尼は秀吉から[[常陸国|常陸]]牛久において5400石余の所領(堪忍分)を安堵され、国繁が跡を継いだ。

天正11年9月、[[北条高広]]が守る[[厩橋城]]が落城すると、国繁、顕長兄弟は祝辞の為に厩橋城の[[北条氏直]]に出仕した。氏直は佐竹を攻める為、[[新田金山城|金山城]]と[[館林城]]の借用を申し出、兄弟はこれを承知したが、家臣は国繁と顕長の母・妙印尼を擁立して籠城した為、兄弟は[[小田原城]]に幽閉されてしまう<ref>石川忠総留書</ref>。篭城勢は[[佐竹義重]]、[[佐野宗綱]]と結び、北条方であった[[小泉城]]の[[富岡秀長]]を攻め立てるが、同年冬の北条方の攻勢により落城した。

天正13年正月、金山城、館林城は当初の予定通り、[[北条氏照]]に明け渡されたが兄弟の知行は安堵され、国繁は[[柄杓山城]](桐生城)、顕長は[[足利城]]に本拠を移した。但し北条方についた黒熊中城の阿久沢氏などには独立されてしまい、実質の領土は減少した。

天正14年正月、長尾顕長は佐野宗綱を討ち取り佐野領の拝領を北条氏に求めたが、佐野領には[[北条氏忠]]が婿養子として入った。

天正15年、国繁、顕長兄弟はついに佐竹義重に通じ、北条氏直に叛旗を翻したが天正16年には降伏、桐生城と足利城は破却され、兄弟は小田原に移された。

天正18年([[1590年]])の[[豊臣秀吉]]の[[小田原の役|小田原攻め]]で兄弟は[[小田原城]]に籠もることを余儀なくされてい、嫡男の貞繁と母妙印尼が秀吉に与して功を挙げたことにより、後北条氏滅亡後は罪を問われず、秀吉の家臣として仕えた。戦後、妙印尼は秀吉から[[常陸国|常陸]]牛久において5400石余の所領(堪忍分)を安堵され、国繁が跡を継いだ。


秀吉の死後は[[徳川家康]]に仕えた。[[関ヶ原の戦い]]に際しては[[江戸城]]の守備を命じられた。戦後、[[下総国|下総]]相馬郡内1600石余を加えられて、合計7000石余を知行した。慶長16年に61歳で死去、貞繁が後を継いだ。貞繁と次男忠繁の他に3女があり、うち1人は養女である。
秀吉の死後は[[徳川家康]]に仕えた。[[関ヶ原の戦い]]に際しては[[江戸城]]の守備を命じられた。戦後、[[下総国|下総]]相馬郡内1600石余を加えられて、合計7000石余を知行した。慶長16年に61歳で死去、貞繁が後を継いだ。貞繁と次男忠繁の他に3女があり、うち1人は養女である。

== 脚注 ==
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2011年10月15日 (土) 14:05時点における版

由良 国繁(ゆら くにしげ、天文19年(1550年) - 慶長16年1月3日1611年2月15日))は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将由良成繁赤井重秀の娘妙印尼の嫡男。渡瀬繁詮長尾顕長の兄に当たる。正妻は結城晴朝の娘。貞繁忠繁、女子(長尾宣景室)の父。幼名は国寿丸。通称は六郎、新六郎、官位は式部大輔信濃守

由良氏の第9代当主で、天正6年(1578年)の父の死の前後くらいから家督を継いでいた。同年、御館の乱により北条氏政武田勝頼が敵対すると、佐竹氏、里見氏なども武田と同盟を結び、上州はその主戦場となった。由良氏は父・成繁の代に上杉方から北条方に転じており、国繁と弟・長尾顕長は北条と誼を通じていたが、天正7年11月には佐竹方とも連絡をとり[1]、北条氏政に北条家滅亡を危惧させた[2]。しかしながら国繁と顕長は最終的には北条方に留まり、天正8年9月には武田勢、佐竹勢から攻撃を受けた[3]

天正10年、甲斐の武田家が滅ぼされると国繁、顕長兄弟は、他の上野国衆と同様に織田信長の重臣・滝川一益に仕えたが、神流川の戦いでは北条方となり一益と敵対した[4]

天正11年9月、北条高広が守る厩橋城が落城すると、国繁、顕長兄弟は祝辞の為に厩橋城の北条氏直に出仕した。氏直は佐竹を攻める為、金山城館林城の借用を申し出、兄弟はこれを承知したが、家臣は国繁と顕長の母・妙印尼を擁立して籠城した為、兄弟は小田原城に幽閉されてしまう[5]。篭城勢は佐竹義重佐野宗綱と結び、北条方であった小泉城富岡秀長を攻め立てるが、同年冬の北条方の攻勢により落城した。

天正13年正月、金山城、館林城は当初の予定通り、北条氏照に明け渡されたが兄弟の知行は安堵され、国繁は柄杓山城(桐生城)、顕長は足利城に本拠を移した。但し北条方についた黒熊中城の阿久沢氏などには独立されてしまい、実質の領土は減少した。

天正14年正月、長尾顕長は佐野宗綱を討ち取り佐野領の拝領を北条氏に求めたが、佐野領には北条氏忠が婿養子として入った。

天正15年、国繁、顕長兄弟はついに佐竹義重に通じ、北条氏直に叛旗を翻したが天正16年には降伏、桐生城と足利城は破却され、兄弟は小田原に移された。

天正18年(1590年)の豊臣秀吉小田原攻めでも、兄弟は小田原城に籠もることを余儀なくされていたが、嫡男の貞繁と母・妙印尼が秀吉に与して功を挙げたことにより、後北条氏滅亡後は罪を問われず、秀吉の家臣として仕えた。戦後、妙印尼は秀吉から常陸牛久において5400石余の所領(堪忍分)を安堵され、国繁が跡を継いだ。

秀吉の死後は徳川家康に仕えた。関ヶ原の戦いに際しては江戸城の守備を命じられた。戦後、下総相馬郡内1600石余を加えられて、合計7000石余を知行した。慶長16年に61歳で死去、貞繁が後を継いだ。貞繁と次男忠繁の他に3女があり、うち1人は養女である。

脚注

  1. ^ 紀伊国藩中古文書十二
  2. ^ 木村孫平氏所蔵文書
  3. ^ 上杉家文書
  4. ^ 松平義行氏所蔵文書
  5. ^ 石川忠総留書
先代
由良成繁
高家由良家初代当主
? - 1611年
次代
由良貞繁