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== 監督としての近藤 ==
== 監督としての近藤 ==
1993年、大洋から球団名を改称した横浜の監督に就任。生え抜き出身であり、弱小チームを2001年まで3位争いできるチームにした基礎を築いた(ただしチームが優勝した1998年の時点では、彼のこの功績はあまり評価されていなかった)。横浜らしからぬ手堅い野球、1994年の[[駒田徳広]]の移籍金を獲得するために、生え抜き[[屋鋪要]]・[[高木豊]]・[[山崎賢一]]・[[市川和正]]・[[大門和彦]]・[[松本豊]]6選手が大量解雇されたこと<ref>どの程度近藤の意思(負けぐせのついたチームを一新するためにベテランを切る、など)が関与していたかは不明である。</ref>、同年の最下位などが一因と思われる。市川、松本は1993年限りで引退し移籍した4選手は1~3年で引退している。
1993年、大洋から球団名を改称した横浜の監督に就任。生え抜き出身であり、弱小チームを2001年まで3位争いできるチームにした基礎を築いた(ただしチームが優勝した1998年の時点では、彼のこの功績はあまり評価されていなかった)が、ファンからの評価は前任の[[江尻亮]]や後任の[[大矢明彦]]ほどには高くない。横浜らしからぬ手堅い野球、1994年の[[駒田徳広]]の移籍金を獲得するために、生え抜き[[屋鋪要]]・[[高木豊]]・[[山崎賢一]]・[[市川和正]]・[[大門和彦]]・[[松本豊]]6選手が大量解雇されたこと<ref>どの程度近藤の意思(負けぐせのついたチームを一新するためにベテランを切る、など)が関与していたかは不明である。</ref>、同年の最下位などが一因と思われる。市川、松本は1993年限りで引退し移籍した4選手は1~3年で引退している。


投手では[[有働克也]]・[[斎藤隆 (野球)|斎藤隆]]・[[三浦大輔]]など若い先発投手が台頭しているが、小刻みな継投を好み、中継ぎ以降の投手に頼る面も多かった。打撃力も高く投球も信頼できた当時のエース・[[野村弘樹]]を除き、好投している先発投手でも、好機で打順が回れば責任投球回数未満ですら好機に代打を送ることがあった。最下位となった1994年には一人も二桁勝利投手が出ておらず、チーム完投勝利数は13⇒11⇒8と減少、当然継投が裏目に出ることもあったが、勝率は毎年上昇した。それまで「ローテーションの谷間でたまに先発、あとは中継ぎ」といった位置づけの投手であった[[島田直也]]や[[五十嵐英樹]]、[[河原隆一]]などが、ショートリリーフのスペシャリストへと変身している。
投手では[[有働克也]]・[[斎藤隆 (野球)|斎藤隆]]・[[三浦大輔]]など若い先発投手が台頭しているが、小刻みな継投を好み、中継ぎ以降の投手に頼る面も多かった。打撃力も高く投球も信頼できた当時のエース・[[野村弘樹]]を除き、好投している先発投手でも、好機で打順が回れば責任投球回数未満ですら好機に代打を送ることがあった。最下位となった1994年には一人も二桁勝利投手が出ておらず、チーム完投勝利数は13⇒11⇒8と減少、当然継投が裏目に出ることもあったが、勝率は毎年上昇した。それまで「ローテーションの谷間でたまに先発、あとは中継ぎ」といった位置づけの投手であった[[島田直也]]や[[五十嵐英樹]]、[[河原隆一]]などが、ショートリリーフのスペシャリストへと変身している。
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1994年10月8日には[[ナゴヤ球場]]でいわゆる「[[10.8決戦]]」が行われているが、翌10月9日の対ヤクルト最終戦では試合開始前の時点で同率5位に並んでおり、同率首位同士が最終戦で直接雌雄を決すること自体初めてだったが、その翌日に同率最下位同士も最終戦で順位を確定させたシーズンになった。なお、この試合で2アウト2塁で先発の斎藤隆に代打を送らずに次の回に斎藤を即交代させたことが応援団の怨嗟を買い、試合終了後に一部の横浜ファンが暴れ出す騒ぎが発生した。こうした印象的な失敗(と解釈されるような場面)が多かったようである。
1994年10月8日には[[ナゴヤ球場]]でいわゆる「[[10.8決戦]]」が行われているが、翌10月9日の対ヤクルト最終戦では試合開始前の時点で同率5位に並んでおり、同率首位同士が最終戦で直接雌雄を決すること自体初めてだったが、その翌日に同率最下位同士も最終戦で順位を確定させたシーズンになった。なお、この試合で2アウト2塁で先発の斎藤隆に代打を送らずに次の回に斎藤を即交代させたことが応援団の怨嗟を買い、試合終了後に一部の横浜ファンが暴れ出す騒ぎが発生した。こうした印象的な失敗(と解釈されるような場面)が多かったようである。


3年目の[[1995年]]は、チームとして16年ぶりのシーズン勝ち越しと12年ぶりの勝率5割越えを記録したが、任期満了を理由に球団から契約延長はなく<ref>その際、辞任確定前にマスコミに対して「球団から来季の話を一切されない。もうオレは要らないってことだろ」とフロントや[[大堀隆]]球団社長(当時)への不満をぶちまけ、後になって「辞任を覚悟の上で言った。もうオレが監督をやることはない」と発言。結局これで辞任が決定的になってしまい、球団や横浜ファンの心象を悪くする結果となった。</ref>、次期監督には[[大矢明彦]]が就任した。1994年の最下位は横浜ベイスターズと改称してから初めての最下位、また[[1990年代]]では唯一のシーズン最下位となり、皮肉なことにチームを強くした近藤自身の評価を後々まで下げることになった。
3年目の[[1995年]]は、チームとして16年ぶりのシーズン勝ち越しと12年ぶりの勝率5割越えを記録したが、任期満了を理由に球団から契約延長はなく<ref>その際、辞任確定前にマスコミに対して「球団から来季の話を一切されない。もうオレは要らないってことだろ」とフロントや[[大堀隆]]球団社長(当時)への不満をぶちまけ、後になって「辞任を覚悟の上で言った。もうオレが監督をやることはない」と発言。結局これで辞任が決定的になってしまい、球団や横浜ファンの心象を悪くする結果となった。</ref>、次期監督には大矢明彦が就任した。1994年の最下位は横浜ベイスターズと改称してから初めての最下位、また[[1990年代]]では唯一のシーズン最下位となり、皮肉なことにチームを強くした近藤自身の評価を後々まで下げることになった。


1997年からは、[[中村稔 (投手)|中村稔]]投手コーチ、[[山本功児]]二軍監督などとともにロッテの指揮を執った。当時のロッテは前年の低迷に加え、[[小宮山悟]]に並ぶエースであった[[伊良部秀輝]]と[[エリック・ヒルマン]]が退団しており、戦力的にはかなり厳しい状態であったが、その中で、[[黒木知宏]]、[[小坂誠]]、[[福浦和也]]、[[大村巌]]といった新戦力や[[立川隆史]]などの中堅が台頭したものの、1年目はチームの防御率こそ3点台だったが打線が振るわず最下位。
1997年からは、[[中村稔 (投手)|中村稔]]投手コーチ、[[山本功児]]二軍監督などとともにロッテの指揮を執った。当時のロッテは前年の低迷に加え、[[小宮山悟]]に並ぶエースであった[[伊良部秀輝]]と[[エリック・ヒルマン]]が退団しており、戦力的にはかなり厳しい状態であったが、その中で、[[黒木知宏]]、[[小坂誠]]、[[福浦和也]]、[[大村巌]]といった新戦力や[[立川隆史]]などの中堅が台頭したものの、1年目はチームの防御率こそ3点台だったが打線が振るわず最下位。

2011年10月7日 (金) 11:13時点における版

近藤 昭仁
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 香川県高松市
生年月日 (1938-04-01) 1938年4月1日(86歳)
身長
体重
168 cm
65 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 二塁手
プロ入り 1960年
初出場 1960年4月2日
最終出場 1973年10月24日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴

近藤 昭仁(こんどう あきひと、1938年4月1日 - )は、香川県高松市出身の元プロ野球選手プロ野球監督野球解説者野球評論家

経歴

高松一高から早稲田大学第二商学部へ進学[1]東京六大学野球では二塁手でベストナイン2度選ばれた。リーグ通算75試合出場し285打数72安打、0本塁打、23打点、打率.253。1960年に大洋へ入団。背番号1。同郷の先輩でもある三原脩新監督のもと、大洋は球団創設以来初の優勝を果たし、近藤もルーキーで日本シリーズMVPを受賞。

現役時代の主な守備位置は二塁。典型的な「2番・セカンド」タイプで、小技を得意としいぶし銀の活躍を見せた。近藤は小柄ながら非常に気が強く、入団時の監督であった三原はこの性格を逆に利用し、近藤を散々にけなし闘争心を煽りたてる事によって能力を引き出していった。また近藤は1という背番号に非常にこだわりを持ち、大学・プロでも「背番号は絶対1番」だと頑として譲らなかったという。近藤の背番号1は後に山下大輔谷繁元信進藤達哉波留敏夫金城龍彦に引き継がれた。

1973年のシーズンをもって現役を引退した後はコーチとして経験を積み、1974年~1978年大洋、1979年~1981年ヤクルト、1982年~1986年西武、1989年~1991年巨人。監督業は1993年~1995年横浜、1997年~1998年ロッテ。なお横浜・ロッテ監督はいずれも早稲田の後輩江尻亮から引き継いでいる。2006年は15年ぶりに巨人のヘッドコーチを務めたが、健康上の問題と成績不振から二年契約の一年を残して現場から退き、統括ディレクターとしてフロント業務を務め、松本哲也の育成枠登録などを助言した。解説者時代はTBSで野球解説、野球評論をスポーツ報知で行っていた。

目標とする監督は三原脩、広岡達朗藤田元司の3人。

1962年11月13日、女優北沢典子と結婚。次女は同じく女優の近藤典子プロレスラー中西学は元娘婿。

監督としての近藤

1993年、大洋から球団名を改称した横浜の監督に就任。生え抜き出身であり、弱小チームを2001年まで3位争いできるチームにした基礎を築いた(ただしチームが優勝した1998年の時点では、彼のこの功績はあまり評価されていなかった)が、ファンからの評価は前任の江尻亮や後任の大矢明彦ほどには高くない。横浜らしからぬ手堅い野球、1994年の駒田徳広の移籍金を獲得するために、生え抜き屋鋪要高木豊山崎賢一市川和正大門和彦松本豊6選手が大量解雇されたこと[2]、同年の最下位などが一因と思われる。市川、松本は1993年限りで引退し移籍した4選手は1~3年で引退している。

投手では有働克也斎藤隆三浦大輔など若い先発投手が台頭しているが、小刻みな継投を好み、中継ぎ以降の投手に頼る面も多かった。打撃力も高く投球も信頼できた当時のエース・野村弘樹を除き、好投している先発投手でも、好機で打順が回れば責任投球回数未満ですら好機に代打を送ることがあった。最下位となった1994年には一人も二桁勝利投手が出ておらず、チーム完投勝利数は13⇒11⇒8と減少、当然継投が裏目に出ることもあったが、勝率は毎年上昇した。それまで「ローテーションの谷間でたまに先発、あとは中継ぎ」といった位置づけの投手であった島田直也五十嵐英樹河原隆一などが、ショートリリーフのスペシャリストへと変身している。

巨人戦によく野村弘樹や斎藤隆などの主戦級投手をぶつけた。この時期の横浜は巨人に対して互角、もしくはそれ以上の成績を残したが、一方で1993年は優勝したヤクルトに4勝22敗、1994年はヤクルトと同率4位の阪神に7勝19敗と、特定の球団に大きく負け越す事態が続いた。

攻撃面では藤田監督のヘッドコーチ時代からバントやエンドランなどを多用し定石から動かずに采配を進める「硬い野球」「緻密野球」を主張していた。しかし巨人時代は選手の能力の高さに頼っていた面もあり、特にスクイズプレイを相手に見破られることも多かった。

1年目の1993年は最多勝(野村)・打点王(ロバート・ローズ)・盗塁王(石井琢朗)の3人のタイトルホルダーを輩出し、夏前には一時的に2位まで上昇しながら前述の通りヤクルトに大きく負け越し、後半戦でグレン・ブラッグス佐々木主浩など故障者が続出して5位に終わり、シーズン終了後駒田徳広が加入、生え抜き野手が大量解雇される。

2年目の1994年は駒田、鈴木尚典佐伯貴弘波留敏夫などの若手選手が台頭したが、先発投手陣が総崩れとなったため5年ぶりの最下位。この年優勝した巨人(70勝60敗)とは9ゲーム差の61勝70敗という混戦であり、勝率は前年を上回ったものの、「総得点が総失点を上回りながら最下位となった初めてのチームの監督」という屈辱を味わった。

1994年10月8日にはナゴヤ球場でいわゆる「10.8決戦」が行われているが、翌10月9日の対ヤクルト最終戦では試合開始前の時点で同率5位に並んでおり、同率首位同士が最終戦で直接雌雄を決すること自体初めてだったが、その翌日に同率最下位同士も最終戦で順位を確定させたシーズンになった。なお、この試合で2アウト2塁で先発の斎藤隆に代打を送らずに次の回に斎藤を即交代させたことが応援団の怨嗟を買い、試合終了後に一部の横浜ファンが暴れ出す騒ぎが発生した。こうした印象的な失敗(と解釈されるような場面)が多かったようである。

3年目の1995年は、チームとして16年ぶりのシーズン勝ち越しと12年ぶりの勝率5割越えを記録したが、任期満了を理由に球団から契約延長はなく[3]、次期監督には大矢明彦が就任した。1994年の最下位は横浜ベイスターズと改称してから初めての最下位、また1990年代では唯一のシーズン最下位となり、皮肉なことにチームを強くした近藤自身の評価を後々まで下げることになった。

1997年からは、中村稔投手コーチ、山本功児二軍監督などとともにロッテの指揮を執った。当時のロッテは前年の低迷に加え、小宮山悟に並ぶエースであった伊良部秀輝エリック・ヒルマンが退団しており、戦力的にはかなり厳しい状態であったが、その中で、黒木知宏小坂誠福浦和也大村巌といった新戦力や立川隆史などの中堅が台頭したものの、1年目はチームの防御率こそ3点台だったが打線が振るわず最下位。

2年目は現在もプロ野球記録である公式戦18連敗を記録したことが響き、最下位となった。この年も優勝チームは70勝61敗、ロッテの勝率は61勝71敗という混戦ぶりだったこともあったが、「チーム総得点が総失点を上回ったチームにも関わらず最下位」という史上2度目の事態が同一監督のもとで起こった。チーム打率1位、チーム防御率2位の成績を残したものの最下位と、「選手個々の能力を引き出せないことが最下位に結びついた」などといった評価が多いが、大型連敗がすべてとなった。

1年契約は残っていたが、横浜時代と異なり18連敗を理由に近藤は引責辞任となった。その辞任会見の席で「もっと強いチームで監督をやりたかった」という舌禍発言をし、ロッテファンの批判を浴びた。この発言は弱いチームはすぐ結果を求めることへのフロントへの批判で、選手を馬鹿にした発言ではなかったという解釈がある。ロッテは後任に山本二軍監督を昇格させた。

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1960 大洋 117 425 389 38 88 17 5 4 127 40 17 7 10 1 25 2 0 82 6 .226 .272 .326 .598
1961 125 484 436 44 98 12 3 6 134 19 15 13 11 0 36 2 1 96 5 .225 .285 .307 .592
1962 131 509 462 45 111 21 7 4 158 27 11 5 15 0 29 1 3 79 5 .240 .289 .342 .631
1963 115 267 226 20 36 4 2 1 47 12 8 2 16 2 22 1 1 32 9 .159 .235 .208 .443
1964 134 401 353 41 94 9 2 4 119 28 20 4 32 1 15 0 0 23 8 .266 .295 .337 .632
1965 135 531 466 47 133 22 1 7 178 40 25 7 41 1 19 0 4 35 9 .285 .318 .382 .700
1966 127 416 381 38 96 20 4 6 142 27 16 7 17 3 14 0 1 38 9 .252 .278 .373 .651
1967 128 438 398 38 99 19 1 7 141 27 8 9 20 1 19 1 0 52 8 .249 .282 .354 .636
1968 117 412 376 35 97 15 4 6 138 32 8 5 8 2 25 0 1 35 9 .258 .304 .367 .671
1969 130 489 432 51 109 15 4 7 153 32 9 11 13 4 40 1 0 55 5 .252 .313 .354 .667
1970 124 404 360 25 93 16 2 4 125 36 2 7 21 2 21 2 0 48 5 .258 .298 .347 .645
1971 123 421 363 28 79 6 1 7 108 22 6 8 20 3 33 2 2 46 10 .218 .284 .298 .582
1972 81 211 175 19 41 4 0 2 51 16 2 1 9 1 26 0 0 24 4 .234 .332 .291 .623
1973 32 54 45 4 9 0 0 0 9 2 1 0 6 0 3 0 0 4 1 .200 .250 .200 .450
通算:14年 1619 5462 4862 473 1183 180 36 65 1630 360 148 86 239 21 327 12 13 649 93 .243 .292 .335 .627
  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別監督成績

年度 チーム 順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率 ゲーム差 チーム
本塁打
チーム
打率
チーム
防御率
年齢
1993 横浜 5位 130 57 73 0 .438 23 87 .249 3.83 55歳
1994 6位 130 61 69 0 .469 9 107 .261 3.76 56歳
1995 4位 130 66 64 0 .508 16 114 .261 4.37 57歳
1997 ロッテ 6位 135 57 76 2 .429 19.5 75 .249 3.84 59歳
1998 6位 135 61 71 3 .462 9.5 102 .271 3.70 60歳
通算:5年 660 302 353 5 .461 Bクラス5回
※1 1993年から1996年までは130試合制
※2 1997年から2000年までは135試合制

表彰

記録

背番号

  • 1 (1960年 - 1974年)
  • 72 (1975年 - 1978年、1989年 - 1991年)
  • 75 (1979年 - 1981年)
  • 83 (1982年 - 1986年)
  • 60 (1993年 - 1995年)
  • 81 (1997年 - 1998年)
  • 80 (2006年)

関連情報

出演

脚注

  1. ^ 早大第二商学部時代の同級生に後に首相となる森喜朗がおり、同じく一年後輩に元Jリーグチェアマン、日本サッカー協会会長の川淵三郎がいる。
  2. ^ どの程度近藤の意思(負けぐせのついたチームを一新するためにベテランを切る、など)が関与していたかは不明である。
  3. ^ その際、辞任確定前にマスコミに対して「球団から来季の話を一切されない。もうオレは要らないってことだろ」とフロントや大堀隆球団社長(当時)への不満をぶちまけ、後になって「辞任を覚悟の上で言った。もうオレが監督をやることはない」と発言。結局これで辞任が決定的になってしまい、球団や横浜ファンの心象を悪くする結果となった。

関連項目