「ハンス・ブルクマイアー」の版間の差分

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2011年9月13日 (火) 03:12時点における版

ハンス・ブルクマイアーと妻アンナ(Lukas Furtenage画、1529年)

ハンス・ブルクマイアー(父)Hans Burgkmair der Ältere, 1473年 - 1531年)は、ドイツ画家版画家

生涯

ブルクマイアーはアウクスブルクに画家トマス・ブルクマイアーの子として生まれた[1]。ちなみに、ブルクマイアーの同名の息子も画家である(Hans Burgkmair dem Jüngere、1500年 - 1562年)。1488年コルマールマルティン・ションガウアーMartin Schongauer)の弟子となるが、ブルクマイアーが通常の修行期間を終える前にションガウアーが亡くなってしまった(1491年)。その後、アウクスブルクで仕事をし、1498年には親方となり自分の工房を開いた。1507年にはイタリアを訪れ、そのスタイルに影響を受けた。

ブルクマイア画の『Theuerdank』の挿絵

ホルスタインはブルクマイアーの手になる木版画が全部で834、そのほとんどは本の挿絵で、そうでないものは100ちょっとしかない、とした。その中でとくに優れたものは構成が際だっていて、完全にとはいかないまでもイタリア・ルネサンスのスタイルとブルクマイアーの根底にあるドイツのスタイルがブレンドされている。1508年頃からは神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世のために木版画制作に多くの時間を費やし、それは皇帝の亡くなる1519年まで続いた。『マクシミリアン1世の凱旋』と題された135の木版画のほぼ半分は人物を画面いっぱいに描いていて、高い評価を受けた。他には『Weißkunig』と『Theuerdank』の挿絵のほとんどを手掛けた。

ブルクマイアーはキアロスクーロ版画の発明者としても重要な人物である。1508年に最初に1つのトーンブロック(色版)を使った[2]。『"死"に驚く恋人たち』(1510年)では3つの版木を用いた[3]。ラインブロック(線描画の主版)では満足な仕上がりにならなかったので、最初に色のみで印刷するように設計した。ハンス・バルドゥングルーカス・クラナッハによる以降のキアロスクーロ版画ではラインブロックも使われるようになった[4]

ブルクマイアーは成功した画家で、アウクスブルク市民や皇帝の宮廷のメンバーのために宗教画も制作した。それらの多くはミュンヘンウィーンなどのギャラリーにある。肖像画は宗教画より現代的な感覚のものである。

ブルクマイアー画の祭壇画
ブルクマイアー画のフリードリヒ3世の肖像

ブルクマイアーは1531年にアウクスブルクで亡くなった。

脚注

  1. ^ Hans Burckmairカトリック百科事典
  2. ^ Emperor Maximilian on Horseback
  3. ^ Lovers Surprised by Death
  4. ^ The Renaissance Print, David Landau & Peter Parshall, Yale, 1996, ISBN 0300068832

外部リンク