「金沢市」の版間の差分

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== 概要 ==
== 概要 ==
[[江戸時代]]には、[[江戸幕府]](約700万[[石 (単位)|石]]と言われる)を除いて、大名中最大の102万5千石の[[石高]]を領する[[加賀藩]](「'''加賀百万石'''」)の[[城下町]]として栄え、人口規模では[[江戸]]・[[大阪|大坂]]・[[京都|京]]の[[三都]]に次ぎ、[[名古屋市|名古屋]]と並ぶ大都市であった。[[第二次世界大戦]]中、アメリカ軍からの空襲を受けなかったことから市街地に歴史的風情が今なお残っている。空襲の被害者やその遺族が少ない地域という理由から、終戦間もない頃には国際交流を目的として来日するアメリカ市民の滞在先としても選ばれた。また、長年の都市文化に裏打ちされた数々の[[伝統工芸]]、[[日本三名園]]の一つとして知られる[[兼六園]]、[[加賀藩]]の藩祖・[[前田利家]]の金沢入城に因んだ[[金沢百万石まつり|百万石まつり]]、さらに庶民文化([[宝生流|加賀宝生]]や[[郷土料理]]の[[治部煮]]等)などにより、[[観光都市]]として知られる。[[2009年]]には[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[創造都市ネットワーク|創造都市]]に認定された(国内では[[神戸市]]、名古屋市に続く3番目、クラフト&フォークアート部門では[[アジア]]初
[[江戸時代]]には、[[江戸幕府]](約700万[[石 (単位)|石]]と言われる)を除いて、大名中最大の102万5千石の[[石高]]を領する[[加賀藩]](「'''加賀百万石'''」)の[[城下町]]として栄え、人口規模では[[江戸]]・[[大阪|大坂]]・[[京都|京]]の[[三都]]に次ぎ、[[名古屋市|名古屋]]と並ぶ大都市であった。[[第二次世界大戦]]中、アメリカ軍からの空襲を受けなかったことから市街地に歴史的風情が今なお残っている。空襲の被害者やその遺族が少ない地域という理由から、終戦間もない頃には国際交流を目的として来日するアメリカ市民の滞在先としても選ばれた。また、長年の都市文化に裏打ちされた数々の[[伝統工芸]]、[[日本三名園]]の一つとして知られる[[兼六園]]、[[加賀藩]]の藩祖・[[前田利家]]の金沢入城に因んだ[[金沢百万石まつり|百万石まつり]]、さらに庶民文化([[宝生流|加賀宝生]]や[[郷土料理]]の[[治部煮]]等)などにより、[[観光都市]]として知られる。[[2009年]]には[[国際連合教育科学文化機関|ユネスコ]]の[[創造都市ネットワーク|創造都市]]に認定された(国内では[[神戸市]]、名古屋市に続く3番目、クラフト&フォークアート部門では[[アジア]]初)


== 地理 ==
== 地理 ==
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[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[一向一揆]]で[[本願寺]]の拠点が置かれた尾山御坊(金沢御坊)と、その周辺の寺内町を起源とする。天正8年([[1580年]])、[[織田信長]]配下の[[柴田勝家]]の甥[[佐久間盛政]]が尾山御坊を攻め落とし、その地に尾山城を築城した。
[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[一向一揆]]で[[本願寺]]の拠点が置かれた尾山御坊(金沢御坊)と、その周辺の寺内町を起源とする。天正8年([[1580年]])、[[織田信長]]配下の[[柴田勝家]]の甥[[佐久間盛政]]が尾山御坊を攻め落とし、その地に尾山城を築城した。
[[ファイル:Kanazawa Castle Gate.JPG|thumb|240px|right|金沢城址]]
[[ファイル:Kanazawa Castle Gate.JPG|thumb|240px|right|[[金沢城|金沢城址]]
[[賤ヶ岳の戦い]]以降、[[前田利家]]が尾山城(金沢城)を居城とし、[[加賀藩]]の原型が形成された。慶長5年([[1599年]])に利家が死去すると、翌年には[[関ヶ原の戦い]]が起こる。利家の遺領を相続した長男の[[前田利長]]は、東軍の[[徳川家康]]につき、戦後、西軍に属した弟の[[前田利政]]の所領を与えられ、[[加賀国]]、[[能登国]]、[[越中国]]を有する大大名となる。3代目藩主[[前田利常]]の時代には、[[十村制]]や[[改作法]]といった農政改革を進め、支配機構の整備が行われ藩体制が確立した。5代目藩主[[前田綱紀]]は[[名君]]として名高く、[[木下順庵]]や[[室鳩巣]]、[[稲生若水]]といった学者の招聘につとめ学問を振興した。また彼は書物や美術工芸品の収集にも努め、それらは[[尊経閣文庫]]と呼ばれ現在に残る。その後金沢は150余年に渡り、加賀百万石の[[城下町]]として繁栄することとなる。[[参勤交代]]の時、[[前田氏]]は約2,000人の家来を従え、現在の価値で片道約7億円をかけて[[江戸]]との間を往来した。
[[賤ヶ岳の戦い]]以降、[[前田利家]]が尾山城(金沢城)を居城とし、[[加賀藩]]の原型が形成された。慶長5年([[1599年]])に利家が死去すると、翌年には[[関ヶ原の戦い]]が起こる。利家の遺領を相続した長男の[[前田利長]]は、東軍の[[徳川家康]]につき、戦後、西軍に属した弟の[[前田利政]]の所領を与えられ、[[加賀国]]、[[能登国]]、[[越中国]]を有する大大名となる。3代目藩主[[前田利常]]の時代には、[[十村制]]や[[改作法]]といった農政改革を進め、支配機構の整備が行われ藩体制が確立した。5代目藩主[[前田綱紀]]は[[名君]]として名高く、[[木下順庵]]や[[室鳩巣]]、[[稲生若水]]といった学者の招聘につとめ学問を振興した。また彼は書物や美術工芸品の収集にも努め、それらは[[尊経閣文庫]]と呼ばれ現在に残る。その後金沢は150余年に渡り、加賀百万石の[[城下町]]として繁栄することとなる。[[参勤交代]]の時、[[前田氏]]は約2,000人の家来を従え、現在の価値で片道約7億円をかけて[[江戸]]との間を往来した。


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==== 神社 ====
==== 神社 ====
[[ファイル:Kanazawa-C-2860.jpg|thumb|190px|尾山神社神門<br />三層目の窓に五色のステンドグラスがはめ込まれている。]]
[[ファイル:Kanazawa-C-2860.jpg|thumb|190px|尾山神社神門<br />三層目の窓に五色のステンドグラスがはめ込まれている。設置されている[[避雷針]]は日本最古。]]


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2011年8月21日 (日) 16:14時点における版

かなざわし ウィキデータを編集
金沢市
左上:金沢城址、右上:兼六園
左中:近江町市場、右中:ひがし茶屋街
左下:金沢市街、右下:尾山神社
金沢市旗
金沢市旗
日本の旗 日本
地方 中部地方北陸地方
都道府県 石川県
市町村コード 17201-4
法人番号 4000020172014 ウィキデータを編集
面積 468.81km2
総人口 456,531[編集]
推計人口、2024年3月1日)
人口密度 974人/km2
隣接自治体 石川県白山市
石川郡野々市町
河北郡津幡町
内灘町
富山県小矢部市
南砺市
市の木
市の花 花菖蒲
サルビア
四季咲きベゴニア
インパチェンス
ゼラニュウム
(全て推奨花)
金沢市役所
市長 村山卓
所在地 920-8577
石川県金沢市広坂一丁目1番1号
外部リンク いいねっと金沢

金沢市位置図

― 市 / ― 町

ウィキプロジェクト

金沢市(かなざわし)は、石川県のほぼ中央に位置する、石川県の県庁所在地である。旧石川郡及び河北郡。1996年(平成8年)4月1日、中核市に指定された。

概要

江戸時代には、江戸幕府(約700万と言われる)を除いて、大名中最大の102万5千石の石高を領する加賀藩(「加賀百万石」)の城下町として栄え、人口規模では江戸大坂三都に次ぎ、名古屋と並ぶ大都市であった。第二次世界大戦中、アメリカ軍からの空襲を受けなかったことから市街地に歴史的風情が今なお残っている。空襲の被害者やその遺族が少ない地域という理由から、終戦間もない頃には国際交流を目的として来日するアメリカ市民の滞在先としても選ばれた。また、長年の都市文化に裏打ちされた数々の伝統工芸日本三名園の一つとして知られる兼六園加賀藩の藩祖・前田利家の金沢入城に因んだ百万石まつり、さらに庶民文化(加賀宝生郷土料理治部煮等)などにより、観光都市として知られる。2009年にはユネスコ創造都市に認定された(国内では神戸市、名古屋市に続く3番目、クラフト&フォークアート部門ではアジア初)。

地理

金沢市
雨温図説明
123456789101112
 
 
266
 
7
1
 
 
184
 
7
1
 
 
153
 
11
3
 
 
144
 
17
8
 
 
154
 
21
13
 
 
194
 
25
18
 
 
227
 
29
22
 
 
164
 
30
23
 
 
242
 
26
19
 
 
188
 
21
13
 
 
267
 
15
7
 
 
287
 
10
3
気温(°C
総降水量(mm)
出典:気象庁
インペリアル換算
123456789101112
 
 
10
 
44
33
 
 
7.2
 
44
33
 
 
6
 
51
37
 
 
5.7
 
62
46
 
 
6.1
 
71
55
 
 
7.6
 
76
64
 
 
8.9
 
84
72
 
 
6.5
 
87
74
 
 
9.5
 
79
66
 
 
7.4
 
70
55
 
 
11
 
60
45
 
 
11
 
50
38
気温(°F
総降水量(in)

地理区分

地理区分は中部地方北陸地方北信越地方に属する。石川県内の地理区分では、加賀地方に属する。

地形

南東部は山地で、奈良岳 (1,644m、金沢市の最高峰、犀川の水源) をはじめ、見越山 (1,621m) 、大門山 (1,572m) 、医王山(いおうぜん、939m)などがある。平野に近い部分は丘陵地となり、戸室山 (548m) 、キゴ山 (546m) 、野田山 (180m) 、満願寺山 (177m) 、卯辰山 (141m) などがある。戸室山・キゴ山は数十万年に形成された第四紀火山である。北西部は金沢平野で、犀川(別名おとこ川)、浅野川(別名おんな川)、金腐川(かなくさりがわ)、森下川(もりもとがわ)、伏見川高橋川内川などが流れる。犀川とこれに合流する伏見川は日本海へ直接注ぐが、他の川は河北潟へ流れ、大野川を経て日本海へ注ぐ。海岸部は砂丘となっており、河口部分は北向きに曲がっている。犀川上流には犀川ダム内川ダムがあり、上水道・灌漑などに利用されている。犀川と浅野川は市内を平行して流れ、その間の河岸段丘が小立野台地である。小立野台地の西端に金沢城兼六園がある。また、犀川の南側は寺町台地となっている。

気候

日本海側気候で、年中湿度が高く、雲が発生しやすい。特に冬には雨・雪が降る日が多い。比較的好天が多いのは4-5月と10月、夏にはフェーン現象が起きて最高気温が35℃を超えることもある。梅雨の影響は太平洋側と比較して少ない。台風が直撃することもあまりない。11月末から12月にかけてはが多い。ただし、1987年以降の暖冬に加え、平成3年に気象台が市内中心部からより気温が高く雪が積もりにくい海岸部に近い場所へ移転して以降、観測される降雪量は急激に減っており、北陸の他都市はおろか鳥取市よりも積雪量が少なくなった。

降雪の深さ合計は平年で360cm、最深積雪記録は88cm、なお金沢地方気象台が現在の場所に移転する前の最深積雪極値は三八豪雪の1963年1月27日に記録した181cm。ただし、冬季の気温は曇りや雪の日が多く放射冷却が少ないため、全国的にはやや高め(1月平均気温3.7℃)であり、近年は暖冬傾向であること、また、除雪融雪の態勢が発達していることなどから、冬季の都市生活に支障は少ない。

湿度が高いため、伝統工芸の漆塗りや金箔製造に適している。

隣接自治体

北側に内灘町津幡町、東側に倶利伽羅峠医王山などの山地を挟んで富山県小矢部市南砺市、南側に白山市(旧松任市、旧鶴来町)、石川郡野々市町と接する。

歴史

第二次世界大戦以前

「金沢」という都市名は、昔、山科の地(現:金沢市郊外)に住んでいた芋掘り藤五郎が山芋を洗っていたところ、砂金が出たため、「金洗いの沢」と呼ばれたという伝説による。

金洗いの沢」は、兼六園内の金沢神社の隣りにあり、現在は「金城霊沢」と呼ばれている。

戦国時代一向一揆本願寺の拠点が置かれた尾山御坊(金沢御坊)と、その周辺の寺内町を起源とする。天正8年(1580年)、織田信長配下の柴田勝家の甥佐久間盛政が尾山御坊を攻め落とし、その地に尾山城を築城した。 [[ファイル:Kanazawa Castle Gate.JPG|thumb|240px|right|金沢城址 賤ヶ岳の戦い以降、前田利家が尾山城(金沢城)を居城とし、加賀藩の原型が形成された。慶長5年(1599年)に利家が死去すると、翌年には関ヶ原の戦いが起こる。利家の遺領を相続した長男の前田利長は、東軍の徳川家康につき、戦後、西軍に属した弟の前田利政の所領を与えられ、加賀国能登国越中国を有する大大名となる。3代目藩主前田利常の時代には、十村制改作法といった農政改革を進め、支配機構の整備が行われ藩体制が確立した。5代目藩主前田綱紀名君として名高く、木下順庵室鳩巣稲生若水といった学者の招聘につとめ学問を振興した。また彼は書物や美術工芸品の収集にも努め、それらは尊経閣文庫と呼ばれ現在に残る。その後金沢は150余年に渡り、加賀百万石の城下町として繁栄することとなる。参勤交代の時、前田氏は約2,000人の家来を従え、現在の価値で片道約7億円をかけて江戸との間を往来した。

以下江戸時代の藩政史料や地図、明治初期の統計書に記録されている金沢町の人口をまとめる。但しその多くが町奉行支配場(本町、地子町、旧門前地、大工地)の町方人口に関するものであり、主に寺社奉行支配地(門前地)に居住した僧侶・神職ほか、武家屋敷や一部町方・寺社方に居住した士分・武家奉公人については人口に関する資料がほとんど残っていない。

江戸時代~明治初期の金沢の人口[1][2][3][4]
元号 西暦 家数 人口 備考 出典
寛文4年 1664年 9,868 55,106 本町2532戸1万9845人、地子町7336戸3万5261人 『越登賀三州志』
寛文5年 1665年 7,350 地子町のみ 『改作所旧記』
寛文7年6月 1667年 8,667 59,101 本町1332軒1万9840人、地子町7335軒3万9261人 『稿本金沢市史』
延宝年中 1675年頃 9,927 本町2186軒、地子町7081軒 『金沢古蹟志』
3,959 武家屋敷分。士分1677軒、足軽1953軒、小者305軒 『延宝金沢図』
貞享2年 1685年 8,448 地子町のみ 『国事雑抄』
貞享3年 1686年 8,326 地子町のみ 『国事雑抄』
元禄3年 1690年 13,601 寺社奉行支配地を含む。寺社243戸、山伏65戸、
百姓85戸、非人4戸、穢多4戸、町其外遊民1万3209戸
『加賀藩史料』
17,601 金府家数凡1万3601戸、外に士家奉公人分家4000戸の合計
元禄9年 1696年 11,927 本町2536戸、地子町9391戸 『金沢古蹟志』
元禄10年春 1697年 12,085 68,636 本町2285戸1万8949人、旧門前地大工地354戸2630人、
地子町9446戸4万7057人
『加賀藩史料』
宝永7年6月21日 1710年 12,558 64,987 『国事雑抄』
宝暦5年 1755年 13,443 外に侍屋敷1365軒(但し知行持のみ) 『稿本金沢市史』
文化7年8月 1810年 13,792 56,355 本町2540戸、旧門前地384戸、地子町1万0754戸、大工胆煎等114戸 『越登賀三州志』
14,909 町奉行支配地1万3792戸、寺社奉行支配地1117戸の合計
文化8年 1811年 11,070 本町2112戸、地子町8958戸。
但し本町4胆煎、地子町3胆煎分戸数不足
『城下町金沢』
天保9年閏4月 1838年 15,273 35,841 町方・寺社方合計、人口は15歳以上のみ 『金沢町数人口調』
安政4年2月 1857年 13,485 58,506 町方・寺社方合計、他支配2186軒を除く。
本町2650軒1万2019人、地子町9478軒4万0803人 、門前地1351軒5684人
『金沢町家数人数高』
15,671 町方・寺社方合計、他支配2186軒を含む。
本町2784軒、地子町1万1281軒、門前地大工地1600軒
文久3年5月以降 1863年 15,720 町方・寺社方合計、他支配を含む。
本町3049軒、地子町1万1342軒、大工胆煎等127軒、門前地1202軒
『町役人名帳』
明治2年8月 1869年 15,715 1胆煎分戸数不足 『町役人名帳』
13,562 60,789 町方・寺社方合計、支配違2634軒を除く 『金沢町家教調』
16,196 町方・寺社方合計、支配違2634軒を含む
明治3年閏10月10日 1870年 17,222 56,295 居住制限撤廃後、家数は集計不完全、人口は町方人別之者のみ。
東郷3253軒1万2093人、西郷2263軒7943人、
南郷6600軒1万8960人、北郷5106軒1万7294人
『稿本金沢市史』
20,200 61,670 華族1戸11人、士7797戸2万8683人、卒9703戸2万7038人、
仲間・小者2699戸5938人の合計。但し戸数は成人男性数(名数)
『石川県史』
明治4年2月 1871年 24,744 123,363 全身分合計。士族4932戸2万6028人、
卒4607戸2万6888人、平民1万4907戸6万8810人、
元神官39戸139人、寺院259戸1032人、御預人466人
『金沢名数』
明治4年8月 24,146 123,453 第1区3253戸、第2区3635戸、
第3区882戸、第4区1836戸、第5区4068戸、第6区3369戸、第7区4103戸
『石川県史料』
明治5年1月29日 1872年 37,880 壬申戸籍による本籍戸数・人口。第1区5610戸、第2区5411戸、
第3区6026戸、第4区2717戸、第5区6272戸、第6区5080戸、第7区6763戸
『石川県史料』
明治6月1月1日 1873年 35,788 109,685 本籍戸数・人口[5] 『金沢市統計書』
34,580 『日本地誌提要』
34,883 『明治八年共武政表』
明治9年11月1日 1876年 23,995 108,758 本籍家数・人口 『石川県史料』
明治11年12月9日 1878年 23,937 108,263 本籍家数・人口 『石川県史料』
明治12年1月1日 1879年 23,915 107,878 本籍家数・人口 『明治十一年共武政表』
107,876 本籍人口 『日本全国郡区分人口表』

以下に2人の研究者による江戸時代~明治初期の金沢の推定総人口を列挙する。なお土屋敦夫の推計人口には寺社仏閣数と僧侶・神官人口(明治4年2月の時点で298箇所1171人)が加算されていない[1]。また斎藤誠治が明治11年調として『明治十一年共武政表』より引用している人口は、正確には明治12年1月1日調のものである。[6]

江戸時代~明治初期の金沢の推計総人口
年号 西暦 土屋敦夫 (1980)[1][2] 斎藤誠治
(1984)

[6]

城下町
合計
武士町
居住
町人町
居住
慶安3年 1650年 114,000
寛文4年 1664年 86,300 31,200 55,100
貞享2年 1685年 62,200
元禄10年 1697年 111,200 42,600 68,600
宝永7年 1710年 70,600
寛延3年 1750年 128,000
宝暦5年 1755年 116,600 44,900 71,700
文化7年 1810年 68,900
文政4年 1821年 114,600 46,500 68,100
天保9年 1838年 73,500
嘉永3年 1850年 118,000
文久3年 1863年 73,600
明治4年 1871年 122,900 48,100 74,800
明治11年 1878年 107,878

江戸時代の金沢の人口は17世紀後半には10万人を超え、江戸、大坂、京の三都には及ばないものの、名古屋と並ぶ日本第4~5位の都市として発達し、美術工芸など現在に受け継がれる都市文化が花開いた。幕末から明治維新の頃の金沢は人口において東京、大阪、京都、名古屋に次ぐ日本第5位の都市であったが、明治時代に入ると産業・交通発達の基軸から離れ、明治20年頃には六大都市を形成することになる神戸横浜にも人口で抜かされる。しかしながら金沢には旧制第四高等学校金沢大学の前身)や日露戦争旅順攻囲戦で知られる陸軍第九師団が置かれ、学都・軍都として栄えた。

第二次世界大戦中は空襲を免れ、戦後古い町並みが残った。

地名の移り変わり

現在の金沢市中心部は、古くは石浦村と呼ばれていた。尾山御坊が置かれたことで寺内町として発展し、南町、西町、松原町、安江町、近江町、堤町、金屋町、材木町といった町が成立した。これを総じて尾山八町、或いは単に「尾山」と呼んだ。なお、尾山という地名は、「二つの川に挟まれた台地の先端」という意味を持つ。後に、前述の芋掘り藤五郎の伝説から「金沢」と称するようになるが、前田利家が城主になると一度「尾山」に戻され、家督を長男の前田利長が継いだ後に再び「金沢」となった。

旧町名の復活運動

金沢市は、1962年(昭和37年)に「住居表示に関する法律」の実験都市に指定され、500余りの町名が消滅してしまった。しかし、長年慣れ親しんだ旧町名の復活を望む声が多く、主計町を皮切りに次々と旧町名が復活した。これを受けて長崎市など全国へ旧町名復活運動が広がっていった。

沿革

  • 1889年(明治22年)4月1日 - 市制施行。10.40km²。
  • 1924年(大正13年)1月1日 - 野村の一部を編入。10.61km²。
  • 1925年(大正14年)4月1日 - 野村を編入。16.82km²。
  • 1925年(大正14年)4月10日 - 弓取村を編入。20.05km²。
  • 1935年(昭和10年)12月16日 - 大野町粟崎村鞍月村富樫村・潟津村・米丸村を編入。51.55km²。
  • 1936年(昭和11年)4月1日 - 小坂村三馬村崎浦村を編入。90.71km²。
  • 1943年(昭和18年)10月1日 - 戸板村を編入。96.21km²。
  • 1943年(昭和18年)12月1日 - 金石町大野村二塚村を編入。111.09km²。
  • 1947年(昭和22年)5月3日- 三谷村の字釣部を編入。114.16km²。
  • 1949年(昭和24年)6月1日 - 川北村を編入。122.10km²。
  • 1954年(昭和29年)7月1日 - 内川村犀川村額村安原村湯涌谷村を編入。303.76km²。
  • 1956年(昭和31年)1月1日 - 押野村を編入。309.79km²。
  • 1957年(昭和32年)4月5日 - 浅川村を編入。393.40km²。
  • 1957年(昭和32年)4月10日 - 押野地区の一部を野々市町へ編出。391.34km²。
  • 1962年(昭和37年)6月1日 - 森本町を編入。458.78km²。
  • 1965年(昭和40年)7月30日 - 河北潟の一部埋め立てにより面積増加。458.90km²。
  • 1967年(昭和42年)10月27日 - 河北潟の一部埋め立てにより面積増加。459.18km²。
  • 1968年(昭和43年)4月1日 - 野々市町との境界を変更。459.19km²。
  • 1969年(昭和44年)3月1日 - 野々市町との境界を変更。459.21km²。
  • 1971年(昭和46年)3月2日 - 河北潟埋め立てに伴う面積増加。459.31km²。
  • 1980年(昭和55年)2月1日 - 野々市町との境界を変更。459.31km²。
  • 1980年(昭和55年)5月13日 - 埋め立てにより面積増加。460.20km²。
  • 1980年(昭和55年)9月1日 - 野々市町との境界を変更。460.20km²。
  • 1981年(昭和56年)10月1日 - 河北潟干拓地の境界を決定。468.09km²。
  • 1988年(昭和63年)10月1日 - 国土地理院の測定方法変更により面積修正。467.77km²。
  • 1992年(平成4年)3月1日 - 松任市との境界を変更。467.77km²。
  • 1996年(平成8年)6月1日 - 津幡町との境界を変更。 467.77km²。
  • 1999年(平成11年)5月1日 - 野々市町との境界を変更。 467.77km²。

人口


金沢市(に相当する地域)の人口の推移
総務省統計局 国勢調査より


市政

市長

2010年12月10日~。現在1期目(第35代~)

副市長

  • 森 源二

歴代市長

官選

氏名 就任日
1 稲垣義方 1889年(明治22年)5月1日
2 長谷川準也 1893年(明治26年)6月24日
3 奥村栄滋 1898年(明治31年)1月17日
4・5 渡瀬政礼 1902年(明治35年)6月15日
6・7 山森隆 1909年(明治42年)12月15日
8 飯尾次郎三郎 1919年(大正8年)5月28日
9・10 相良歩 1922年(大正11年)9月10日
11 吉川一太郎 1930年(昭和5年)6月9日
12 片岡安 1934年(昭和9年)7月13日
13-15 沢野外茂次 1936年(昭和11年)7月30日
16 武谷甚太郎 1945年(昭和20年)10月18日

公選

氏名 就任日
17・18 井村重雄 1947年(昭和22年)4月5日
19・20 土井登 1955年(昭和30年)5月2日
21-23 徳田與吉郎 1963年(昭和38年)2月11日
24・25 岡良一 1972年(昭和47年)8月6日
26-28 江川昇 1978年(昭和53年)12月10日
29-34 山出保 1990年(平成2年)12月10日
35- 山野之義 2010年(平成22年)12月10日

議会

役員

  • 議長 - 上田章
  • 副議長 - 黒沢和規

定数・会派

会派 議員数 所属議員
自由民主党金沢市議員会 13 高村佳伸 上田章 田中展郎 横越徹 福田太郎
黒沢和規 宮崎雅人 久保洋子 野本正人 高岩勝人
下沢広伸 前誠一 高誠
会派みらい 8 苗代明彦 田中仁 森一敏 粟森慨 清水邦彦
山本由起子 高芳晴 麦田徹
金沢保守議員会 7 井沢義武 安達前 中西利雄 新村誠一 松村理治
小林誠 長坂星児
公明党金沢市議員会 4 松井純一 秋島太 角野恵美子 源野和清
日本共産党金沢市議員団 3 升きよみ 森尾嘉昭 中西美代
清風金沢 3 小阪栄進 喜多浩一 玉野道
自民クラブ 1 澤飯英樹
自由民主党議員会 1 木下和吉
40

委員会

金沢市の行政組織

  • 金沢市役所
    • 総務局
    • 市民局
      • 市民センター(森本、金石、犀川、安原、額、押野、浅川、泉野、元町、新神田、駅西)
      • 市民サービスコーナー(近江町、本町、湊)
    • 産業局
      • 金沢市中央卸売市場
      • 公設花き地方卸売市場
    • 都市政策局
    • 福祉健康局
      • 健康推進部
      • 金沢市保健所
    • 都市整備局
      • 土木部
      • 定住促進部
    • 環境局
      • 戸室新保埋立場
      • 西部クリーンセンター
      • 東部クリーンセンター
  • 企業局
  • 消防局
  • 金沢市立病院
  • 市議会
  • 教育委員会

石川県の機関

主な国の機関

総務省
北陸総合通信局
石川行政評価事務所
法務省
金沢刑務所
金沢少年鑑別所
金沢保護観察所
金沢地方法務局
金沢地方検察庁
名古屋高等検察庁金沢支部
公安調査庁
金沢公安調査事務所
財務省
北陸財務局
国税庁
金沢国税局
金沢税務署


特別の機関

国税庁
金沢国税不服審判所
防衛省
近畿中部防衛局金沢防衛事務所
陸上自衛隊金沢駐屯地第14普通科連隊

司法機関

裁判所
名古屋高等裁判所金沢支部
金沢地方裁判所
金沢家庭裁判所
金沢簡易裁判所

独立行政法人

国際機関

領事館

  • アルバニアの旗 在金沢アルバニア名誉領事館

国連機関

提携都市

姉妹都市

海外の姉妹都市


姉妹都市の多くは、その地方の中心的都市であったり歴史的遺産を持つ古都である。

経済

農林水産業

市内から周辺市町村へ広がる金沢平野は、低温であるものの水利がよく適湿で、江戸時代から良質の農地であった。明治時代中期には、他地方に先駆けて近代的な耕地整理が行われ、生産性が飛躍的に向上した。現在でも、単作の稲作中心の農業が継承されており、北陸地方の他地域と並んでコシヒカリの主要な産地の一つである。

稲作だけでは採算が望めない農地については、小規模でも生産でき付加価値の高い作物、さつまいも蓮根などの加賀野菜などの果実の生産に移行する動きがみられる。

また、北前船の寄港地であった大野港や金石港から金沢港が整備され、ここを拠点とした水産業も盛んである。

製造業

伝統製造業・工芸品

金箔

江戸時代に金沢を治めた加賀藩は、石高は高いものの外様大名であったため、幕府や周囲に警戒されないよう内向きの産業や工芸を奨励した。そのため、当時から絹織物の主要な産地であった。また、藩の財政に余裕があったため、京都などから職人を招聘し、加賀友禅などの染織工芸を育成することができた。これらを基盤として、明治時代には繊維工業や染織加工業が発達した。ただし現在では、中国などから安価な製品が輸入されるようになったため、高機能商品の生産に特化する動きがみられる。現在でも金箔の製造は全国シェアの98%、銀箔は100%、市民1人当たりの和菓子購入額全国第1位である。 また、大野地区では醤油の製造が昔から盛んで、現在も直源が製造している「直っぺ」などがある。

近代製造業・工業

繊維製品の生産に必要な織機の製造は現在でも衰退しておらず、ジェット・ルーム(高速の気流や水流で横糸を飛ばす方式の織機)を生産する津田駒工業本社工場は、世界最大の織機製造工場と言われている。また、こうした高速制御が可能な複合的な機械製造技術は他分野にも転用され、ボトリング・システム(瓶詰め機械)で世界一の澁谷工業や、自動給茶装置付き回転寿司コンベア機でトップシェアを持つ石野製作所など、一風変わった機械の製造に結びついている。

近年では、パソコン周辺機器に関する企業群が急速に成長している。市内で創業したパソコン周辺機器大手のアイ・オー・データ機器は、当地の小規模な繊維工場では手が届かなかったメインフレームではなく、マイコンを利用した工場制御用の周辺機器開発からスタートした企業であり、コンピュータ関連の大手企業が手がけなかった需要に応えて成長の軌道に乗った。また、織物用の柄を修正するディスプレイ装置の開発といった細かな需要の発掘でも、繊維工業が周辺産業へ影響を与えたことがうかがえる。

卸売・小売業

金沢市は北陸3県で最も大きな卸、小売業販売額をあげる商業都市であり[7]百貨店・大型ショッピングセンター・や多数のブランドショップなどの集積がある。

中心部にある市内最大の繁華街香林坊片町地区には、百貨店大和本店をキーテナントとした香林坊アトリオや若い女性向けのブランド・ショップが入居するKOHRINBO109、アパレルなど多数の路面店が軒を連ねる竪町通りがある。 また、香林坊に隣接する片町地区は、約1500もの飲食店がある北陸最大の歓楽街となっている。 中心部の主な商店街は香林坊商店街、竪町商店街、広坂振興会(商店街)、柿木畠振興会(商店街)、片町商店街(5TOWN'S=ファイブタウンズと称する)である。その他木倉町商店街なども5TOWN'Sに属する。

一方、もう一つの繁華街である武蔵地区には名古屋鉄道系の百貨店めいてつエムザ近江町市場がある。なかでも近江町市場は、市場独特の風情が味わえることから訪れる観光客も多く、金沢市内の観光地のひとつとしても有名。2009年4月16日には市街地再開発事業により、近江町いちば館が開業した。

金沢駅周辺では北陸新幹線開業を控え、駅東口横にイオン系列のファッションビルである金沢フォーラスが開業、金沢百番街では2007年5月26日にくつろぎ館がオープン、2011年3月3日にはトレンド館を大幅に改装したRintoがオープンするなど、駅ビル駅ナカの商業施設の集積が進んでいる。また、都市型マンションやビジネスホテルの集積も顕著である。そのため、駅周辺の商業地としての地位が向上し、テナントビルの空室率は駅周辺ビルを中心に大幅に改善している。それに伴い、商圏は香林坊・片町地区、武蔵地区、金沢駅前地区と三極化し始めている。 また、金沢大学石川県庁などの公共施設が市街地から郊外へ移転したことや、イオン金沢示野ショッピングセンターアピタタウン金沢ベイ、ラパーク金沢(メガ・ドン・キホーテ)などのショッピングセンターロードサイドショップが国道8号線沿いや山側環状道路及び海側環状道路周辺などの郊外が著しく発展していることから、中心街の空洞化、購買客の流失が懸念されている。

本社を置く企業

上場企業


主な非上場企業


支社・支店・事業所を置く企業

ほか


工場

支店を置く主な金融機関

中央銀行

政策金融機関


系統中央機関



都市銀行地銀第二地銀


信用金庫信用組合労働金庫


ゆうちょ銀行

教育

高等教育機関

大学

国立

公立


短期大学
専修学校


高等専門学校

高等学校

国立
県立


市立
私立


中学校

国立
県立
公立
  • 金沢市立泉中学校
  • 金沢市立野田中学校
  • 金沢市立城南中学校
  • 金沢市立紫錦台中学校
  • 金沢市立兼六中学校
  • 金沢市立小将町中学校
  • 金沢市立小将町中学校特学分校
  • 金沢市立高岡中学校
  • 金沢市立鳴和中学校
  • 金沢市立長田中学校
  • 金沢市立浅野川中学校
  • 金沢市立金石中学校
  • 金沢市立芝原中学校
  • 金沢市立西南部中学校
  • 金沢市立内川中学校
  • 金沢市立犀生中学校
  • 金沢市立医王山中学校
  • 金沢市立森本中学校
  • 金沢市立額中学校
  • 金沢市立高尾台中学校
  • 金沢市立緑中学校
  • 金沢市立港中学校
  • 金沢市立北鳴中学校
  • 金沢市立大徳中学校
  • 金沢市立清泉中学校


私立

小学校

国立

公立

  • 金沢市立野町小学校
  • 金沢市立弥生小学校
  • 金沢市立中村町小学校
  • 金沢市立十一屋小学校
  • 金沢市立泉野小学校
  • 金沢市立新竪町小学校
  • 金沢市立菊川町小学校
  • 金沢市立小立野小学校
  • 金沢市立材木町小学校
  • 金沢市立味噌蔵町小学校
  • 金沢市立中央小学校
  • 金沢市立中央小学校芳斎分校
  • 金沢市立長田町小学校
  • 金沢市立明成小学校
  • 金沢市立諸江町小学校
  • 金沢市立馬場小学校
  • 金沢市立森山町小学校
  • 金沢市立浅野町小学校
  • 金沢市立小坂小学校
  • 金沢市立千坂小学校
  • 金沢市立夕日寺小学校
  • 金沢市立大浦小学校
  • 金沢市立浅野川小学校
  • 金沢市立鞍月小学校
  • 金沢市立粟崎小学校
  • 金沢市立大野町小学校
  • 金沢市立金石町小学校
  • 金沢市立大徳小学校
  • 金沢市立戸板小学校
  • 金沢市立緑小学校


私立

特別支援学校

養護学校


施設

警察

消防

金沢市消防局が管轄する。

  • 中央消防署
    • 高尾台出張所
    • 泉野出張所
    • 味噌蔵出張所
    • 小立野出張所
  • 駅西消防署
    • 玉川出張所
    • 鳴和出張所
    • 森本出張所
  • 金石消防署
    • 三和出張所
    • 臨港出張所

主な医療機関

※病床数200以上の医療機関のみ記述する。

図書館

市立、県立
財団法人の図書館
  • 県国際情報ライブラリー
    財団法人石川県国際交流協会)
学外者の館外貸出し利用が可能な大学
  • 金沢大学
  • 金沢星稜大学
  • 北陸大学
  • 北陸学院短期大学
  • 金沢美術工芸大学


美術館・博物館・記念館


ホール・劇場・その他の文化施設

  • いしかわ子ども交流センター
  • 銀河の里キゴ山
    • 金沢市キゴ山天体観察センター
    • 金沢市キゴ山少年自然の家
  • 石川県青少年総合研修センター
  • 九谷光仙窯


公園・緑地・運動場・野球場・グラウンド

体育館・アリーナ

  • 金沢市総合体育館
  • 中央市民体育館
  • 城北市民体育館
  • 城南市民体育館
  • 城東市民体育館
  • 城西市民体育館
  • 西部市民体育館
  • 森本市民体育館
  • 浅野川市民体育館
  • 額谷ふれあい体育館
  • 鳴和台市民体育館
  • 医王山スポーツセンター

プール

  • 総合プール
  • 西部プール
  • 鳴和台プール
  • 健民海浜プール

テニスコート

  • 城北市民テニスコート
  • 東金沢スポーツ広場
  • 西金沢テニスコート
  • 大徳テニスコート
  • 城東テニスコート

ゲレンデ

  • 医王山スキー場

交通

鉄道路線

JR

私鉄

※北陸鉄道の両線は連絡していない。石川線は西金沢駅で、浅野川線は金沢駅で、JR線に乗り換えできる(両JR駅間の運賃は180円)。なお、北鉄金沢駅は東口地下広場に位置するため、地下に降りると行くことができる。

隣接市町村への連絡
  • 内灘町へ:北陸鉄道浅野川線
  • 津幡町、野々市町、白山市(旧松任市・旧美川町)へ:JR西日本・北陸線
  • 野々市町、白山市(旧鶴来町)へ:北陸鉄道石川線

広範囲な連絡

特急急行列車

金沢駅にはJR西日本の以下の在来線特急急行寝台列車が発着し、県外13の都府県へ直通している。さらに、トワイライトエクスプレスも発着するため、上りの場合、北海道、下りの場合は大阪へのアクセスも容易である。


新幹線への連絡

2014年度を目途に北陸新幹線の金沢 - 長野間が開業予定。

航空路線

IATA都市コードはQKWがあてられている。金沢駅から特急バスで約40分の小松空港(空港コードKMQ)から、東京・羽田便12便、成田便1便、札幌便1便、仙台便1便、福岡便2便、沖縄便1便、ソウル便週4便、上海便週3便台北便週4便が就航。

路線バス

金沢市街地に高頻度の路線網を持つ。周辺他県に比べバリアフリー対応のノンステップ、ワンステップバスが多いことが特徴の他、LED型方向幕の普及も進んでいる。観光用には特製のボンネットバスを配した城下まち金沢周遊バスが12分間隔一律200円で走り、観光客に好評。市内定期観光バスのガイド出身の女性運転手が乗務につく事が多い。さらに、金沢駅 - 兼六園下までの往復バス「兼六園シャトル」があり、こちらも一律200円で提供されている。
小松空港能登方面などといった、県内各地を結ぶ特急バス・急行バスも多数運行。
高速バスは、東京(渋谷)・大阪(梅田)・名古屋横浜鎌倉藤沢)・八王子仙台山形)・新潟富山高岡砺波)・高山白川郷)と、各主要都市との路線がある。
近年は人件費圧縮のため、事業所ごとの分社化を進めている。2004年12月にICカード乗車券「ICa」を導入。金沢市内に在籍する営業所および分社に関しては「金沢ナンバー」への切り替えが急速に進んでいる。
金沢駅 - 森本駅 - 福光駅間など、市北部から富山県南砺市への系統を持つ。過去には福光以遠名古屋駅までの名金線があった。現在は高速バスの東京(新宿池袋・東京駅)・大阪(大阪駅)・京都・名古屋路線にも参入している。
金沢駅 - 森本駅 - 福光駅 - 砺波市役所前間を1日2便運行。このうち、金沢駅 - 福光駅間は西日本JRバスと競合している。また、北鉄金沢中央バスとの共同運行で高岡・砺波とを結ぶ高速バスも運行。
青い車体が特徴。金沢駅を起終点に、市内中心部の商店街を20分ないしは30分間隔100円で周回している(土曜日・日曜日および祝日のみ運行)。運営は金沢商業活性化センター(金沢市出資の第3セクター)であるが、西日本JRバスに委託している。
金沢市が運営し、民間に委託運行しているコミュニティバス。「此花ルート」、「菊川ルート」、「材木ルート」および「長町ルート」の4ルートがある。いずれのルートも旧市街の裏通りが経路として含まれており、そこへ走り得る小型の車体と100円均一の低運賃が特徴。


道路

高速道路
一般国道
一般県道
国道・県道以外の主要幹線・バイパス

その他、市道を含む、金沢市内の道路には、さまざまな通称名がつけられている。詳しくは金沢市内の通りを参照のこと。

港湾

マスメディア

新聞
テレビ
ラジオ
タウン情報誌
フリーペーパー

全国紙では、朝日新聞毎日新聞産経新聞日本経済新聞の四紙は大阪本社で発行された物が、読売新聞北陸支社富山県高岡市読売新聞東京本社の支社)で発行された物が販売されている。読売新聞については夕刊も発行されている。

観光

主な観光地

兼六園
長町武家屋敷跡
茶屋街(東山ひがし)
茶屋街(主計町)

江戸時代に金沢城の庭園として作られた兼六園は、水戸偕楽園岡山後楽園とともに日本三名園とされる。名称「兼六」の由来は、宋代の洛陽名園記が指摘する、庭園にとって両立しがたい六つの特性、宏大と幽邃、人力と蒼古、水泉と眺望を兼ね備えていることによる。

この兼六園から百間堀を隔てた金沢城跡には、当時の建造物のうち一部である石川門や三十間長屋などが現存している。この跡地には城の中の大学として金沢大学のキャンパスがあったが、郊外(角間)へ移転した。その後一部の櫓が当時の技術のままに復元され、一般に公開されている。

市内中心部の長町には石畳に整備された路地に並ぶ武家屋敷跡に野村家庭園があり、加賀友禅の長町友禅館(旧彩筆庵)と並んで内部を見学することができる。中には小さい滝があり、立体的な配置のため街中とは思えない奥行きがある風景を楽しめる。

市内には、犀川浅野川の二つの川が流れている。浅野川沿いの東山周辺、東の茶屋街(旧東の郭)には江戸時代の遊郭に由来する古い町並みが残る。内部を改装して飲食店などに利用されている家もある。東山ひがし地区主計町重要伝統的建造物群保存地区として選定されている。背後にある卯辰山からは市街地から遠く日本海までを見渡すことができる。 一方犀川沿いには、にし茶屋街(旧西の郭)がある。

犀川からほど近い寺町妙立寺は、内部に外敵を避けるための隠し通路や階段などの工夫が施されていることから「忍者寺」と呼ばれ人気がある。海外のガイドブックにも紹介されている。

この他、2010年10月に東山に移転オープンした安江金箔工芸館では金箔の製造工程や箔打ちなどの実演を観ることができる。

2004年に開館した金沢21世紀美術館は市街地の中心部に立地し、現代美術をテーマとした展示をおこなっている。 開館1年で地方都市の公立美術館としては驚異的な157万人の入館者を集め、5周年にあたる2009年には累計入館者数700万人を突破し[8]、兼六園と並ぶ新たな観光資源として注目されている。

金沢市の海に面した地域に大野地区醤油の産地で、今でも醤油蔵が立ち並んでいる。 町並保存地区として独特の風情を楽しむことができる、商業の町である。

近年、台湾を始めとした日本国外からの観光客も増えており、仏ミシュランの2009年3月発行の「ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン2009」では、兼六園が3ツ星、金沢21世紀美術館と長町武家屋敷跡の野村家が2ツ星を獲得している[9]

行事・イベント

金沢百万石まつりが有名。毎年6月に前田利家の金沢入城を模した行列が街の中を練り歩く。利家役には男性有名人が選ばれている。友禅灯籠流しや百万石踊り流しなどの協賛・関連行事も多く催される。

湯涌地区では、毎年6月30日に氷室開きと呼ばれる藩政期より伝わる伝統行事が行なわれる。

イベントでは、毎年2月初旬に石川県中央公園で行われるフードピア金沢、毎年5月初旬にクラシック音楽祭ラ・フォル・ジュルネ金沢、8月には香林坊から武蔵が辻が歩行者天国となる金沢ゆめ街道が開催される。

寺社

市内には、神社が330余り、仏教寺院が390余りある。仏教寺院を宗派別に見ると、他宗派が17世紀からほぼ横ばいなのに対して浄土真宗の寺院のみが3倍あまりに増加し、寺院全体の半数を超える210寺が立つ。その内の192寺が真宗大谷派である。

神社

[[ファイル:Kanazawa-C-2860.jpg|thumb|190px|尾山神社神門
三層目の窓に五色のステンドグラスがはめ込まれている。設置されている避雷針は日本最古。]]

金沢五社

  • 宇多須神社
  • 小坂神社
  • 神明宮
  • 椿原天満宮
  • 安江八幡宮

その他の主な神社


寺院


教会

名産品

ゴリのから揚げ

菓子

金沢では加賀藩が茶菓子作りを奨励したため高度な菓子文化が育まれ、京都市松江市などと並ぶ「日本三大菓子処」として知られてきた。正月に食べる福梅辻占や、初夏に食べる氷室饅頭婚姻の際に振舞われる五色生菓子金花糖などのいわゆる縁起菓子は、菓子文化の成果の一つといえよう。

市内には今でも「森八」、「諸江屋」、「俵屋」、「柴舟小出」、「村上」といった和菓子の老舗がいたる所にある。特に森八で作られている長生殿日本三名菓 の一つである。


日本酒

  • 加賀鳶(福光屋
  • 黒帯(福光屋)
  • 福正宗(福光屋)


海産物


農作物

  • 加賀野菜
    • 打木赤皮甘栗かぼちゃ
    • 源助だいこん
    • さつまいも(五郎島金時)
    • 二塚からしな
    • せり
    • 加賀太きゅうり
    • 加賀つるまめ
    • ヘタ紫なす


その他

伝統工芸

金沢市では数多くの伝統産業が継承されている。



伝統芸能

温泉

金沢温泉郷
その他


金沢市を舞台とした作品

唱歌
  • 鉄道唱歌第四集北陸篇』(1900年10月)
    • 作者の大和田建樹は、上野から米原まで移動する過程において、北陸の都会として栄えた金沢には新潟とともに重点をおき、4番を割いて歌っている。
56.津幡にかえり乗り換えて ゆけば金沢ステーション 百万石の城下とて さすが賑う町のさま
57.名も兼六の公園水戸岡山と諸共に かぞえられたる吾(わが)国の 三公園の其(その)一つ
58.柳みどりに花赤く おちくる滝の水白し 雲にそびゆる銅像は 西南役の記念碑よ
59.第九師団も県庁も 皆此(この)町にあつまりて 海の外(ほか)までひびきたる その名物は九谷焼
歌謡曲


テレビドラマ
文学


映画演劇


漫画
アニメ

金沢市出身の有名人

政財界


学界


芸術


芸能・マスコミ


スポーツ

その他

関連項目

脚注

  1. ^ a b c 土屋敦夫, 「金沢の人口変遷―その1 藩政期人戸数と人口―」, 『金沢工業大学研究紀要A』, 11号, pp. 125–155 (1979).
  2. ^ a b 土屋敦夫, 「金沢の人口変遷―その2 藩政期武士戸数と人口―」, 『金沢工業大学研究紀要A』, 14号, pp. 145–177 (1980).
  3. ^ 土屋敦夫, 「金沢の人口変遷―その3 戸籍による人口戸籍統計 (明治5年~大正8年)―」, 『金沢工業大学研究紀要A』, 18号, pp. 99–148 (1982).
  4. ^ 金沢市史編さん委員会, 『金沢市史 資料編6 近世四 町政と城下』, 金沢市, 2000.
  5. ^ 『金沢市統計書』では明治5年12月末とある。
  6. ^ a b 斎藤誠治, 「江戸時代の都市人口」, 『地域開発』, (9月号), pp. 48–63 (1984).
  7. ^ 統計局ホームページ/統計でみる市区町村のすがた2011
  8. ^ 金沢21世紀美術館、5周年で記念式典-累計入館者数は700万人超に - 金沢経済新聞
  9. ^ 日本に関するフランス語の観光ガイド「ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン」2009掲載内容(中部地域抜粋)

外部リンク

行政
観光

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その他