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フランスは、[[清仏戦争]](1884 - 1885)の後にアンナンとトンキンの主権を得た。インドシナは1887年10月に、アンナン、トンキン、コーチシナおよびクメール共和国から形成された。ラオスは1893年に加えられ、連合は1954年まで続いた。インドシナの首都は[[ハノイ]]で、一連の傀儡皇帝が即位した。
フランスは、[[清仏戦争]](1884 - 1885)の後にアンナンとトンキンの主権を得た。インドシナは1887年10月に、アンナン、トンキン、コーチシナおよびクメール共和国から形成された。ラオスは1893年に加えられ、連合は1954年まで続いた。インドシナの首都は[[ハノイ]]で、一連の傀儡皇帝が即位した。


[[第二次大戦]]中の1940年9月に、[[ビシー政権]]は[[日本]]のトンキンへの軍事アクセスの要求を認めた。これは直ちに[[日中戦争]]において[[蒋介石]]軍に対する日本に[[中国]]へのよりよいアクセスを与えた。それは日本の太平洋支配戦略の一部で、同盟国[[ドイツ]]が太平洋の[[オランダ]]およびフランス軍を破る際に大きな助けとなった。日本はインドシナ経営のためにフランスの官僚政治および首脳部を維持した。
[[第二次大戦]]中の1940年9月に、[[ビシー政権]]は[[日本]]のトンキンへの軍事アクセスの要求を認めた。これは直ちに[[日中戦争]]において[[蒋介石]]軍に対する日本に[[中国]]へのよりよいアクセスを与えた。それは日本の太平洋支配戦略の一部で、同盟国[[ドイツ]]が太平洋の[[オランダ]]およびフランス軍を破る際に大きな助けとなった。日本はインドシナ経営のためにフランスの官僚政治および首脳部を維持した。

1945年3月9日連合軍の堅固な支配下でのフランスでドイツ軍は退却し、太平洋においては[[アメリカ軍]]が優勢な下に、日本はインドシナを完全に管理することを決定した。[[原子爆弾]]が8月に[[広島]]と[[長崎]]に落とされた後無条件降伏するまで、日本はその力を維持した。



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2004年5月17日 (月) 22:00時点における版


インドシナまたはフランス領インドシナは、東南アジアフランス植民地および保護国、フランス植民地帝国の一部の連合。それは、コーチシナトンキンアンナン(それらは現在のベトナムの一部)、ラオスおよびクメール共和国(今のカンボジア)から成る。地理的な用語として、インドシナはさらにタイビルマを含む。

フランスは、清仏戦争(1884 - 1885)の後にアンナンとトンキンの主権を得た。インドシナは1887年10月に、アンナン、トンキン、コーチシナおよびクメール共和国から形成された。ラオスは1893年に加えられ、連合は1954年まで続いた。インドシナの首都はハノイで、一連の傀儡皇帝が即位した。

第二次大戦中の1940年9月に、ビシー政権日本のトンキンへの軍事アクセスの要求を認めた。これは直ちに日中戦争において蒋介石軍に対する日本に中国へのよりよいアクセスを与えた。それは日本の太平洋支配戦略の一部で、同盟国ドイツが太平洋のオランダおよびフランス軍を破る際に大きな助けとなった。日本はインドシナ経営のためにフランスの官僚政治および首脳部を維持した。

1945年3月9日連合軍の堅固な支配下でのフランスでドイツ軍は退却し、太平洋においてはアメリカ軍が優勢な下に、日本はインドシナを完全に管理することを決定した。原子爆弾が8月に広島長崎に落とされた後無条件降伏するまで、日本はその力を維持した。