「三職推任問題」の版間の差分
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* 岩澤愿彦 「三職推任覚書」(『織豊期研究』4号:2002年11月発行) |
* 岩澤愿彦 「三職推任覚書」(『織豊期研究』4号:2002年11月発行) |
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* 桐野作人「信長への三職推任・贈官位の再検討」(『歴史評論』665号:2005年9月号:校倉書房発行) |
* 桐野作人「信長への三職推任・贈官位の再検討」(『歴史評論』665号:2005年9月号:校倉書房発行) |
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* 高澤等 「新・信長公記」ブイツーソリューション、2011年 ISBN 9784434156250 |
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== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
2011年7月7日 (木) 06:07時点における版
三職推任問題(さんしょくすいにんもんだい、さんしきすいにんもんだい)とは、天正10年(1582年)4月25日、5月4日両日付けの勧修寺晴豊の日記『晴豊公記』(天正十年夏記)の記事の解釈を巡る問題と、その論を立脚点とした織田政権の将来構想や本能寺の変の背景に対する考察を含む、日本の歴史学上の論争である。
背景と概要
織田信長は尾張時代には上総介[1]を自称していたものの、直接朝廷より任官を受けることはなかった。これは朝廷に献金を行って備後守や三河守の官を得た父信秀とは対照的である。今川義元を破って後は尾張守を称している。
足利義昭を奉じて上洛した後も弾正少忠や弾正大弼といった比較的低い官に甘んじている。しかし将軍足利義昭の追放後、急激に信長の官位は上昇した。天正2年(1574年)に参議に任官して以降わずか3年で従二位右大臣に昇進している。これは武家としては源実朝以来の右大臣任官であり、彼以前に上位を占めた武家は平清盛・足利義満・義持・義教の4人しかいない。しかし天正6年(1578年)4月に右大臣兼右近衛大将を辞した後、官職に就かず散位のままであった。
この後二度にわたって信長の任官が問題となり、二度目となる天正10年(1582年)、織田家は武田征伐を行い、武田氏を滅ぼし、北条氏との連携を強めた。朝廷では当時、信長が関東を平定したと解釈されていた。
5月には武家伝奏・勧修寺晴豊は京都所司代・村井貞勝の邸を訪れ、ふたりの間で信長の任官について話し合いが持たれた。勧修寺晴豊はこの件について日記に書き記している。
この話し合いのなかで、信長が征夷大将軍・太政大臣・関白のうちどれかに任官することがどちらからか申し出された。任官を申し出たのが朝廷か信長側かをめぐって2つの説が存在している。これが三職推任問題である。
信長の朝廷に対する姿勢を考える上で重要な問題であるが、信長側からの正式な反応が行われる前に本能寺の変が起こったため、信長がどのような考えを持っていたかは不明である。
本文
廿五日(中略) 村井所へ参候。 安土へ女はうしゆ御くたし候て、太政大臣か関白か将軍か、御すいにん候て可然候よし被申候。 その由申入候。
四日(中略) のふなかより御らんと申候こしやうもちて、いかやうの御使のよし申候。 関東打はたされ珎重間、将軍ニなさるへきよしと申候へハ、又御らんもつて御書あかる也。
解釈を巡る論争
信長と朝廷との関係については、対立関係にあったとする説(対立説)と融和的な関係にあったとする説(融和説)がある。谷口克広は、各説を以下のように分類している[2]。
三職推任問題については、対立説(秋田、朝尾、今谷、藤木ら)では、信長が三職推任に明確に反応しなかったのは、朝廷離れの姿勢、もしくは朝廷への圧迫を示したものとする。秋田は、「天皇を自分の権力機構に組み込もうとするため」とみ、朝尾は「官位制度の枠外に立つことで朝廷の枠組みから解放されようとした」とし、今谷は「官職就任を天皇の譲位と交換条件にしたため」としている。融和説(谷口、橋本、堀、脇田ら)では、朝廷離れの姿勢を示したものではないとされる。谷口は、右近衛中将の足利義昭への対抗として右近衛大将[3]に任官した以上、信長にとって官位は不要だったとする。ほか、宮廷儀礼から解放されるため(脇田説)、織田家当主とした信忠の方の官位昇進を望んだため(堀、谷口の説)、非公式に太政大臣就任を了承していた(橋本、脇田[4]説)などの見方がある。高澤は「御湯殿上日記に、信長は二度目の馬揃えの後に誠仁親王の即位の時に官位を受けると明言した記事があることを指摘し、単に時期的なもので問題というほどのものではないとする。
三職推任問題については、双方の説も朝廷主導と見るのが有力であったが、立花京子が信長の意思であるとの新説を提唱し、論争となった(下記)。なお、三職推任問題については、条件提示が本能寺の変直前であったために時間がなくて返答できなかったとも考えられている。
発言者の特定と立花説
従来伝承されていた『晴豊公記』は、天正10年4月分から同年9月分が欠けていたが、1968年(昭和43年)岩沢愿彦が内閣文庫(現国立公文書館)にあった『天正十年夏記』が『晴豊公記』断簡であることを発表した[5]。岩沢の解釈では、「太政大臣、関白、将軍の三職いずれかに推任するのがよい」と言った主体を(正親町天皇の意向を受けた)晴豊としており、以後もこの解釈を受け、信長はこの天皇の意向を突っぱねたとする説が通説化していた。
ところが、歴史研究家の立花京子が晴豊の日記全体の「被申候」使用例を分析した結果、村井貞勝の言葉と解釈[6]し、独断専行を嫌う信長に無断で貞勝が発言するはずがないとし、信長の将軍任官の意向を踏まえたものであったと主張したことにより、歴史学者の間で賛否両論の論争となった。また立花説では、5月4日付けの記事にある「将軍になるべき」との晴豊の言葉を朝廷公式の意向であったとし、「御らん」(森蘭丸)を派遣した信長の意図を真意を隠しわざと当惑して見せたものとする。立花はこの解釈に基づき、三職推任を信長の勝利と位置づけ、朝廷が拒めなかったものとした。
今谷明は立花説の解釈に立脚しながら、信長は朝廷の権威に屈服し中世的権力関係を指向せざるをえなかったとしている[7]。
また、橋本政宣は、信長が就任を受けたのは征夷大将軍ではなく、太政大臣であったとする見解を出している。これは、2月に太政大臣に就任したばかりである近衛前久が5月に突如辞任していること、本能寺の変後の7月17日に羽柴秀吉から毛利輝元に宛てられた手紙において、秀吉が信長のことを「大相国」と呼んでいるが、信長に対する太政大臣贈官が宮中で論じられたのは同年10月の事であること、加えてその結果出された贈官の宣命には「重而太政大臣」の語句があり、これを太政大臣の辞令が出されたのが2度目であると解釈して、1度目の辞令を三職推任問題の時に既に太政大臣就任の内諾を信長から得たことにより、非公式な内定が出されていたと解している[8]。
しかしながら堀新から出された反論[9]では、同日記の5月4日付けの記事や、『誠仁親王消息』などの資料から、三職いずれかなどという曖昧な推任をしたのは誰も信長の真意を理解していなかったための行動であり、貞勝と信長との間にこの件に関する打ち合わせをした形跡がないことなどから、三職推任は信長の意向とは言えず、5月4日の晴豊の言葉も晴豊個人の見解であるとした。堀説では、信長は天下統一まで任官できないとして右大臣兼右近衛大将を辞官しており統一前に任官する理由が立たないことを指摘し、信長には任官の意思はなく、律令体制に留まらず中華皇帝を指向していたと推察できるともしている[10]。
小和田哲男は堀と同様の解釈をとりながら、5月4日以降に将軍任官を考えたのではないかとの見解を示している[11]。
この論争は現在も継続しており、いまだ定説と見なされる見解は確定していない。
参考文献
- 今谷明 『信長と天皇』 講談社 1992年 ISBN 406159561X
- 小和田哲男 『明智光秀』 PHP研究所 1998年 ISBN 456960109X
- 今谷明 『戦国大名と天皇』 講談社 2001年 ISBN 4061594710
- 橋本政宣 『近世公家社会の研究』 吉川弘文館 2002年 ISBN 4642033785
- 岩澤愿彦 「三職推任覚書」(『織豊期研究』4号:2002年11月発行)
- 桐野作人「信長への三職推任・贈官位の再検討」(『歴史評論』665号:2005年9月号:校倉書房発行)
- 高澤等 「新・信長公記」ブイツーソリューション、2011年 ISBN 9784434156250
関連項目
脚注
- ^ 当初は上総守を自称していたが、上総国は親王任国であり人臣が上総守に就くことはない。そのため改称したと見られている。
- ^ 以降、出典:谷口克広 『検証本能寺の変』 138-139頁、ISBN 978-4642056328
- ^ 右近衛大将は源頼朝ゆかりの官職である。
- ^ 本能寺の変直後の7月17日に出された羽柴秀吉から毛利輝元に宛てられた手紙には信長を「大相国」と呼んでいるが、太政大臣贈官が宮中で論じられたのは3ヵ月後の事であり、さらにその贈官の宣命には「重而太政大臣」の一文があり二度太政大臣の辞令が出されたと解される事、変の直前の近衛前久の太政大臣辞任が急に決まった事を根拠としている。
- ^ 岩沢愿彦「本能寺の変拾遺」(『歴史地理』第91巻第4号所収)1968年、『織田政権の研究 戦国大名論集17』吉川弘文館 1985年 収録
- ^ 立花京子「信長への三職推任について」(『歴史評論』497号所収)1991年、『信長権力と朝廷』岩田書院 2000年 ISBN 487294187X 収録
- ^ 今谷明 1992年
- ^ 橋本政宣 2002年
- ^ 堀新「織田信長と三職推任」(『戦国史研究』34号)1997年
- ^ 堀新「織豊期王権論」(『人民の歴史学』145号)2000年
- ^ 小和田哲男 1998年