「酒井忠休」の版間の差分

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'''酒井 忠休'''(さかい ただよし)は、[[庄内藩#出羽松山藩|出羽松山藩]]3代藩主。左衛門尉酒井家分家3代。宗家初代・[[酒井家次]]の三男・酒井忠重の子孫で、庄内藩士・[[酒井直隆]]の子。母は[[本多氏]]。
'''酒井 忠休'''(さかい ただよし)は、[[出羽国|出羽]][[庄内藩#出羽松山藩|松山藩]]3代藩主。左衛門尉酒井家分家3代。宗家初代・[[酒井家次]]の三男・酒井忠重の子孫で、庄内藩士・[[酒井直隆]]の子。母は[[本多氏]]。


== 経歴 ==
== 経歴 ==
[[享保]]17年([[1732年]])7月に先代藩主の[[酒井忠予]]の実子である[[酒井忠英]]が廃嫡されたため、同年8月29日にその養嗣子となり、同年11月25日の忠予の[[隠居]]で跡を継いだ。藩政改革で借上制を行なったが、養子として入った忠予に対して家臣団が反発したために失敗し、幕府から3000両を借りて窮状を凌いでいる。[[宝暦]]10年([[1760年]])8月、[[若年寄]]に任じられ、[[安永]]8年([[1779年]])12月15日に[[上野国]]内で5000石を加増され、出羽松山藩は2万5000石となった。天明7年(1787年)4月18日、74歳で死去し、後を次男・忠崇が継いだ。忠英の子・忠郷、忠起を養子としていたが、いずれも夭折している。
[[享保]]17年([[1732年]])7月に先代藩主の[[酒井忠予]]の実子である[[酒井忠英]]が廃嫡されたため、同年8月29日にその養嗣子となり、同年11月25日の忠予の[[隠居]]で跡を継いだ。藩政改革で借上制を行なったが、養子として入った忠予に対して家臣団が反発したために失敗し、幕府から3000両を借りて窮状を凌いでいる。[[宝暦]]10年([[1760年]])8月、[[若年寄]]に任じられ、[[安永]]8年([[1779年]])12月15日に[[上野国]]内で5,000石を加増され、出羽松山藩は2万5,000石となった。天明7年(1787年)4月18日、74歳で死去し、後を次男・忠崇が継いだ。忠英の子・忠郷、忠起を養子としていたが、いずれも夭折している。


[[将棋]]の名人だったといわれている。
[[将棋]]の名人だったといわれている。

2011年6月24日 (金) 00:19時点における版

 
酒井忠休
時代 江戸時代中期
生誕 正徳4年8月16日1714年9月24日
死没 天明7年4月18日1787年6月3日
改名 平次郎(幼名)、忠休
戒名 光照院殿泰誉豊刹慧仁大居士
墓所 東京都新宿区袋町光照寺
官位 従五位下、山城守、石見守
幕府 江戸幕府
出羽松山藩3代藩主
氏族 左衛門尉酒井家分家
父母 父:酒井直隆、母:本多氏
兄弟 忠休忠英忠寄、娘(遠藤胤親正室)
正室:なし、側室:皆如院
水野忠体忠崇
娘(小堀政芳正室のち小堀政明正室)
養子:酒井忠郷酒井忠起
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酒井 忠休(さかい ただよし)は、出羽松山藩3代藩主。左衛門尉酒井家分家3代。宗家初代・酒井家次の三男・酒井忠重の子孫で、庄内藩士・酒井直隆の子。母は本多氏

経歴

享保17年(1732年)7月に先代藩主の酒井忠予の実子である酒井忠英が廃嫡されたため、同年8月29日にその養嗣子となり、同年11月25日の忠予の隠居で跡を継いだ。藩政改革で借上制を行なったが、養子として入った忠予に対して家臣団が反発したために失敗し、幕府から3000両を借りて窮状を凌いでいる。宝暦10年(1760年)8月、若年寄に任じられ、安永8年(1779年)12月15日に上野国内で5,000石を加増され、出羽松山藩は2万5,000石となった。天明7年(1787年)4月18日、74歳で死去し、後を次男・忠崇が継いだ。忠英の子・忠郷、忠起を養子としていたが、いずれも夭折している。

将棋の名人だったといわれている。