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[[フェラーラ]]に生まれる。地元フェラーラで、有名な[[作曲家]]で[[オルガニスト]]の[[ルッツァスコ・ルッツァスキ]]に学ぶ。当時フェラーラに滞在中の[[カルロ・ジェズアルド|ジェズアルド]]にも影響されたかもしれない。庇護者エンツォ・ベンティヴォーリョの援助で、[[1607年]]春に、[[ローマ]]のサンタ・マリア・イン・トラステヴェーレ教会の[[オルガニスト]]の座を射止める。[[1608年]]にはベンティヴォーリョと[[ネーデルラント]]地方を旅し、[[ローマ]]に戻ってから聖ペテロ教会の終身オルガニストに就任した。[[1628年]]から[[1634年]]まで[[フィレンツェ]]の[[メディチ家]]宮廷オルガニストも務める。
[[フェラーラ]]に生まれる。地元フェラーラで、有名な[[作曲家]]で[[オルガニスト]]の[[ルッツァスコ・ルッツァスキ]]に学ぶ。当時フェラーラに滞在中の[[カルロ・ジェズアルド|ジェズアルド]]にも影響されたかもしれない。庇護者エンツォ・ベンティヴォーリョの援助で、[[1607年]]春に、[[ローマ]]のサンタ・マリア・イン・トラステヴェーレ教会の[[オルガニスト]]の座を射止める。[[1608年]]にはベンティヴォーリョと[[ネーデルラント]]地方を旅し、[[ローマ]]に戻ってから聖ペテロ教会の終身オルガニストに就任した。[[1628年]]から[[1634年]]まで[[フィレンツェ]]の[[メディチ家]]宮廷オルガニストも務める。


フレスコバルディの大多数の作品は、[[オルガン]]や[[チェンバロ]]のために作曲され、[[トッカータ]]、[[奇想曲|カプリッチョ]]、[[幻想曲|ファンタジア]]、[[カンツォーナ]]、[[リチェルカーレ]]、[[舞曲]]、[[変奏曲]]などがある。最も有名な曲集が《'''音楽の花束''Fiori musicali''''' 》([[1635年]])であり、これはミサ奉献中に演奏さるべく企図されている。《トッカータ集》の第1巻は[[1615年]]、第2巻は[[1627年]]に出版された。フレスコバルディの最も技巧がかった、最も実験的な作品《100の[[パルティータ]]''Cento Partite'' 》は《トッカータ集 第1巻》の改訂版に収録されている。[[ミサ曲]]や[[モテット]]、[[マドリガーレ]]などを含んだ声楽曲や、鍵盤楽曲以外の器楽曲は、あまり有名ではない。《いかなる楽器によっても演奏可能なカンツォーナ集 第1巻》は[[1628年]]に出版された。
フレスコバルディの大多数の作品は、[[オルガン]]や[[チェンバロ]]のために作曲され、[[トッカータ]]、[[奇想曲|カプリッチョ]]、[[幻想曲|ファンタジア]]、[[カンツォーナ]]、[[リチェルカーレ]]、[[舞曲]]、[[変奏曲]]などがある。最も有名な曲集が《'''音楽の花束''Fiori musicali''''' 》([[1635年]])であり、これはミサ奉献中に演奏さるべく企図されている。《トッカータ集》の第1巻は[[1615年]]、第2巻は[[1627年]]に出版された。フレスコバルディの最も技巧がかった、最も実験的な作品《パッサカリアに基づく100のパルティータ''Cento Partite sopra Passacagli'' 》は《トッカータ集 第1巻》の改訂版に収録されている。[[ミサ曲]]や[[モテット]]、[[マドリガーレ]]などを含んだ声楽曲や、鍵盤楽曲以外の器楽曲は、あまり有名ではない。《いかなる楽器によっても演奏可能なカンツォーナ集 第1巻》は[[1628年]]に出版された。


フレスコバルディは、[[テンポ]](速度)について近代的な考え方をした革新者の一人であり、厳格な[[タクトゥス]]による[[メンスーラ|白譜定量記譜法]]と、作品中での加速と減速によって特徴付けられるテンポという近代的な概念の、いわば中間の考え方をした。
フレスコバルディは、[[テンポ]](速度)について近代的な考え方をした革新者の一人であり、厳格な[[タクトゥス]]による[[メンスーラ|白譜定量記譜法]]と、作品中での加速と減速によって特徴付けられるテンポという近代的な概念の、いわば中間の考え方をした。

2011年6月7日 (火) 06:02時点における版

ジローラモ・フレスコバルディ

ジローラモ・フレスコバルディGirolamo Frescobaldi, 1583年9月 - 1643年3月1日)は、初期バロック音楽作曲家。声楽曲も遺しているが、とりわけ鍵盤楽曲作曲家として重要。

フェラーラに生まれる。地元フェラーラで、有名な作曲家オルガニストルッツァスコ・ルッツァスキに学ぶ。当時フェラーラに滞在中のジェズアルドにも影響されたかもしれない。庇護者エンツォ・ベンティヴォーリョの援助で、1607年春に、ローマのサンタ・マリア・イン・トラステヴェーレ教会のオルガニストの座を射止める。1608年にはベンティヴォーリョとネーデルラント地方を旅し、ローマに戻ってから聖ペテロ教会の終身オルガニストに就任した。1628年から1634年までフィレンツェメディチ家宮廷オルガニストも務める。

フレスコバルディの大多数の作品は、オルガンチェンバロのために作曲され、トッカータカプリッチョファンタジアカンツォーナリチェルカーレ舞曲変奏曲などがある。最も有名な曲集が《音楽の花束Fiori musicali 》(1635年)であり、これはミサ奉献中に演奏さるべく企図されている。《トッカータ集》の第1巻は1615年、第2巻は1627年に出版された。フレスコバルディの最も技巧がかった、最も実験的な作品《パッサカリアに基づく100のパルティータCento Partite sopra Passacagli 》は《トッカータ集 第1巻》の改訂版に収録されている。ミサ曲モテットマドリガーレなどを含んだ声楽曲や、鍵盤楽曲以外の器楽曲は、あまり有名ではない。《いかなる楽器によっても演奏可能なカンツォーナ集 第1巻》は1628年に出版された。

フレスコバルディは、テンポ(速度)について近代的な考え方をした革新者の一人であり、厳格なタクトゥスによる白譜定量記譜法と、作品中での加速と減速によって特徴付けられるテンポという近代的な概念の、いわば中間の考え方をした。

フレスコバルディの作品は後年の作曲家に非常に重要な影響を及ぼした。門人のフローベルガーを通じて、フランスドイツの両方のバロック・オルガン楽派に影響を与えており、中でもヨハン・ゼバスティアン・バッハは、精巧かつ入念で凝った対位法様式という点でフレスコバルディの影響を大きく受けている。バッハがフレスコバルディのオルガン曲集《音楽の花束》の写譜を蔵書していたことは有名である。


関連項目

外部リンク