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'''李 元翼'''(り げんよく、[[1547年]](明宗2年) - [[1634年]](仁祖12年))は、[[李氏朝鮮]]の重臣。[[字]]は公励、号は梧里、[[諡号]]は文忠。州の
'''李 元翼'''(り げんよく、[[1547年]](明宗2年) - [[1634年]](仁祖12年))は、[[李氏朝鮮]]の重臣。[[字]]は公励、号は梧里、[[諡号]]は文忠。本貫は全で、[[太宗 (朝鮮王)|太宗]]王子益寧君(李袳)の4代の子孫。父は李億戴


1569年(宣祖2年)に科挙に及第して承文院に入り、[[柳成龍]]と知り合う。1573年(宣祖6年)成均典籍に異動し聖節賀正官になり、明への使節である賀使権徳輿に従って明に使いした。その後、礼曹郎、黄海都事を歴任し、1576年(宣祖9年)に[[李珥]]の推薦で正貢となる。1578年(宣祖11年)玉堂に入り、1583年(宣祖16年)承旨となるが、王子師河洛上疏事件により辞任。1587年(宣祖20年)安州牧使となる。更に刑曹参判から1591年(宣祖24年)には大司憲となる。

[[太宗 (朝鮮王)|太宗]]の王子益寧君(李袳)の4代の子孫。父は李億戴。

1569年(宣祖2年)に科挙に及第して承文院に入り、[[柳成龍]]と知り合う。1573年(宣祖6年)成均典籍に異動し聖節賀正官になり、明への使節である賀使権徳輿に従って明に使いした。その後、礼曹郎、黄海都事を歴任し、1576年(宣祖9年)に[[李珥]]の推薦で正貢となる。1578年(宣祖11年)玉堂に入り、1583年(宣祖16年)承旨となるが、王子師河洛上疏事件により辞任。1587年(宣祖20年)安州となる。更に刑曹参判から1591年(宣祖24年)には大司憲となる。


1592年(宣祖25年)に[[文禄・慶長の役]]が起こると吏曹判書と平安道都巡察使を兼ね、先行して敗れたのち定州で兵を募った。正憲を加えられ、観察使となって大同江以西の地を守る。7月には明から来援した[[祖承訓]]が[[小西行長]]の守る平壌城を攻撃し、共にこれを攻めるが敗退した。
1592年(宣祖25年)に[[文禄・慶長の役]]が起こると吏曹判書と平安道都巡察使を兼ね、先行して敗れたのち定州で兵を募った。正憲を加えられ、観察使となって大同江以西の地を守る。7月には明から来援した[[祖承訓]]が[[小西行長]]の守る平壌城を攻撃し、共にこれを攻めるが敗退した。
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1598年(宣祖31年)、[[稷山の戦い]]で日本軍を撃退したと評価した李氏朝鮮は、明軍の経理[[楊鎬]]の功績を本国へ知らせる使節を派遣しようとした。しかし、同じ明の主事の[[丁応泰]]が楊鎬の不正を讒訴する事件が起きており、臨機応変を要求される使者の人選に文官トップの領議政柳成龍をあてる案が浮上した。しかし、これは李氏朝鮮内の派閥抗争であり、北人派である前領議政の[[李山海]]らが敵対派閥を国政から排除するため陰謀であった。この事態に李元翼は自らを使者とすることを申し出て、柳成龍の排撃を防いだ。その後、日本軍の撤退により文禄・慶長の役が終わると李元翼は左議政に任じられ、1604年(宣祖37年)扈聖功臣二等に列せられ完平府院君となる。
1598年(宣祖31年)、[[稷山の戦い]]で日本軍を撃退したと評価した李氏朝鮮は、明軍の経理[[楊鎬]]の功績を本国へ知らせる使節を派遣しようとした。しかし、同じ明の主事の[[丁応泰]]が楊鎬の不正を讒訴する事件が起きており、臨機応変を要求される使者の人選に文官トップの領議政柳成龍をあてる案が浮上した。しかし、これは李氏朝鮮内の派閥抗争であり、北人派である前領議政の[[李山海]]らが敵対派閥を国政から排除するため陰謀であった。この事態に李元翼は自らを使者とすることを申し出て、柳成龍の排撃を防いだ。その後、日本軍の撤退により文禄・慶長の役が終わると李元翼は左議政に任じられ、1604年(宣祖37年)扈聖功臣二等に列せられ完平府院君となる。


[[光海君]]の代となり更に領議政となって悪政を正そうとするも洪川へ左遷されたが、[[仁祖反正]]により再び領議政に返り咲いた。引退後は衿陽に隠居して1634年(仁祖12)1月29日に死去。仁祖廟庭に祭られて顕彰されている。
[[光海君]]の代となり更に領議政となって悪政を正そうとするも洪川へされたが、[[仁祖反正]]により再び領議政に返り咲いた。引退後は衿陽に隠居して1634年(仁祖12)1月29日に死去。仁祖廟庭に祭られて顕彰されている。





2011年5月30日 (月) 21:48時点における版

李 元翼(り げんよく、1547年(明宗2年) - 1634年(仁祖12年))は、李氏朝鮮の重臣。は公励、号は梧里、諡号は文忠。本貫は全州で、太宗の王子益寧君(李袳)の4代の子孫。父は李億戴。

1569年(宣祖2年)に科挙に及第して承文院に入り、柳成龍と知り合う。1573年(宣祖6年)成均典籍に異動し聖節賀正官になり、明への使節である賀使権徳輿に従って明に使いした。その後、礼曹郎、黄海都事を歴任し、1576年(宣祖9年)に李珥の推薦で正貢となる。1578年(宣祖11年)玉堂に入り、1583年(宣祖16年)承旨となるが、王子師傅河洛上疏事件により辞任。1587年(宣祖20年)安州牧使となる。更に刑曹参判から1591年(宣祖24年)には大司憲となる。

1592年(宣祖25年)に文禄・慶長の役が起こると吏曹判書と平安道都巡察使を兼ね、先行して敗れたのち定州で兵を募った。正憲を加えられ、観察使となって大同江以西の地を守る。7月には明から来援した祖承訓小西行長の守る平壌城を攻撃し、共にこれを攻めるが敗退した。

翌1593年(宣祖26年)1月に明の総兵官である李如松の平壌城攻撃に参加して平壌城を回復した。2月にはこの功績により崇政大夫(従一品)を加えられた。1595年(宣祖28年)、李恒福の後任として右議政となり四道都体察使を兼ね。嶺南に布陣して日本軍への対応に当たると共に食料調達などの明軍支援を実施した。8月に綱紀の乱れを正すために部下を処罰した全羅道兵馬節度使の李福男を讒言により革職して笞刑に処し、後任に朴晋を任じた。(その後、李福男は南原の戦いで戦死)

1598年(宣祖31年)、稷山の戦いで日本軍を撃退したと評価した李氏朝鮮は、明軍の経理楊鎬の功績を本国へ知らせる使節を派遣しようとした。しかし、同じ明の主事の丁応泰が楊鎬の不正を讒訴する事件が起きており、臨機応変を要求される使者の人選に文官トップの領議政柳成龍をあてる案が浮上した。しかし、これは李氏朝鮮内の派閥抗争であり、北人派である前領議政の李山海らが敵対派閥を国政から排除するため陰謀であった。この事態に李元翼は自らを使者とすることを申し出て、柳成龍の排撃を防いだ。その後、日本軍の撤退により文禄・慶長の役が終わると李元翼は左議政に任じられ、1604年(宣祖37年)扈聖功臣二等に列せられ完平府院君となる。

光海君の代となり更に領議政となって悪政を正そうとするも洪川へ流されたが、仁祖反正により再び領議政に返り咲いた。引退後は衿陽に隠居して1634年(仁祖12)1月29日に死去。仁祖廟庭に祭られて顕彰されている。


参考文献

  • 李烱錫『壬辰戦乱史(文禄・慶長の役) 上巻』1977年、東洋図書出版
  • 「李元翼」項、『縮版東洋歴史大辞典上巻』昭和12年平凡社初版、平成四年臨川書店縮版