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==自転車競技での戦績==
==自転車競技での戦績==
学生時代から自転車競技を始め、[[青森県立三戸高等学校]]を経て[[日本大学]]に進学し、在学中に出場した[[1984年]]の[[ロサンゼルスオリンピック (1984年)|ロサンゼルスオリンピック]]では、[[自転車競技]]の1000mタイムトライアルで出場権を掴んだが、共産圏諸国のボイコットのため追加で出場権を得たスプリント種目において、敗者復活戦から勝ち上がり、3位決定戦でフィリップ・ヴェルネを下して銅メダルを獲得。ヨーロッパでは「スポーツの王様」といわれる自転車競技で日本人が初めてメダルを獲得するという快挙を成し遂げた。前回モスクワオリンピックは兄がボイコットにより出場を阻まれており、その無念を晴らす以上の活躍であった。
学生時代から自転車競技を始め、[[青森県立三戸高等学校]]を経て[[日本大学]]に進学し、在学中に出場した[[1984年]]の[[ロサンゼルスオリンピック (1984年)|ロサンゼルスオリンピック]]では、[[自転車競技]]の1000mタイムトライアルで出場権を掴んだが、共産圏諸国のボイコットのため追加で出場権を得たスプリント種目において、敗者復活戦から勝ち上がり、3位決定戦で[[フィリップ・ヴェルネ]]を下して銅メダルを獲得。ヨーロッパでは「スポーツの王様」といわれる自転車競技で日本人が初めてメダルを獲得するという快挙を成し遂げた。前回モスクワオリンピックは兄がボイコットにより出場を阻まれており、その無念を晴らす以上の活躍であった。


当時学生(アマチュア)だった坂本がメダルを取った後は、プロ選手の参加が解禁された[[アトランタオリンピック]]で[[十文字貴信]]が銅メダルを獲得するまで、日本人はメダルには届かなかった。
当時学生(アマチュア)だった坂本がメダルを取った後は、プロ選手の参加が解禁された[[アトランタオリンピック]]で[[十文字貴信]]が銅メダルを獲得するまで、日本人はメダルには届かなかった。

2011年4月24日 (日) 03:01時点における版

オリンピック
男子 自転車競技トラック
1984 スプリント

坂本勉さかもと つとむ 1962年8月3日- )は、日本の競輪選手自転車競技選手である。現在の青森県三戸郡南部町出身。日本競輪学校第57期卒業。日本競輪選手会青森支部所属。師匠は実兄の坂本典男。初出走は1986年5月10日青森競輪場で初勝利も同日。血液型はO型。

同県所属94期生の坂本貴史の実父であり師匠。同県所属91期生の坂本昌宏は甥(典男の子息)。

自転車競技での戦績

学生時代から自転車競技を始め、青森県立三戸高等学校を経て日本大学に進学し、在学中に出場した1984年ロサンゼルスオリンピックでは、自転車競技の1000mタイムトライアルで出場権を掴んだが、共産圏諸国のボイコットのため追加で出場権を得たスプリント種目において、敗者復活戦から勝ち上がり、3位決定戦でフィリップ・ヴェルネを下して銅メダルを獲得。ヨーロッパでは「スポーツの王様」といわれる自転車競技で日本人が初めてメダルを獲得するという快挙を成し遂げた。前回モスクワオリンピックは兄がボイコットにより出場を阻まれており、その無念を晴らす以上の活躍であった。

当時学生(アマチュア)だった坂本がメダルを取った後は、プロ選手の参加が解禁されたアトランタオリンピック十文字貴信が銅メダルを獲得するまで、日本人はメダルには届かなかった。

競輪選手としての戦績

大学卒業後は日本競輪学校へ入学。デビュー後暫くは、当時の制度による卒業同期選手のみで行われた新人リーグ競走で圧倒的な力を示し、リーグ終了後も含めて35連勝を記録を樹立した[1]

そしてトップクラスのS級でも実力を遺憾なく発揮し、1989年にはオールスター競輪で特別競輪(現在のGI)初優勝を果たす。そして1990年にはKEIRINグランプリを制して2年連続の賞金王となり競輪の頂点に上り詰めたが、このしばらく後から持病の腰痛に悩まされるようになり、そのため自らの時代を築き上げる所までには至らなかった。

しかし40歳を越した現在でもGIに出場するなど息の長い活躍を続けており、2010年には実子である坂本貴史がS級に昇格したことから史上2組目となる親子同時S級在籍を達成し、同年9月のオールスター競輪においては史上初となる親子同時GI出場も達成した。

主な獲得タイトルと記録

競走スタイル

圧倒的な先行力は『ロスの超特急』とあだ名されたほどで、当時の中野浩一が番手で追走して追い込んでも届かなかったことがある程の実力を誇っていた。

しかし腰痛により成績が低迷してからは、一時期自在や追込への戦法転換を図ったこともあったが、元通りの先行に戻してからは復調したため、同じ地区に大勢の若手先行選手がいながら自ら先行主体で戦い続けた。現在は年齢的な面から追い込み主体となったが、重鎮的存在であっても年齢を感じさせないことから、選手仲間からも尊敬を受けている。

脚注

  1. ^ 特別進級(特進)制度が設けられるようになってからの最多連勝記録保持者。特進制度がなかった時代を含めると、1962年に須田一二三がデビュー戦以降、37連勝を記録している。

関連項目