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== 歴史 ==
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日本の歴史上、初めて艦載砲による陸上施設への攻撃が行われたのは[[16世紀]]、[[戦国時代]]の[[門司城の戦い]]で、[[ポルトガル]]船が[[大友義鎮]]からの支援要請により、[[門司城]]に対して艦砲射撃を行っている。[[織田信長]]の[[長島一向一揆]]討伐では織田艦隊が艦砲射撃を行った。
日本の歴史上、初めて艦載砲による陸上施設への攻撃が行われたのは[[16世紀]]、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[門司城の戦い]]で、[[ポルトガル]]船が[[大友義鎮]]からの支援要請により、[[門司城]]に対して艦砲射撃を行っている。[[織田信長]]の[[長島一向一揆]]討伐では織田艦隊が艦砲射撃を行った。


時代が下って[[19世紀]]、[[1853年]](嘉永6年)の[[アメリカ合衆国]]の[[マシュー・ペリー|マシュー・C・ペリー]]提督の[[黒船来航]]以降、艦砲射撃対策が国防上の重要な課題となり日本国内の各所に沿岸[[砲台]]が築かれた。有名なのが[[東京臨海副都心]]で地名として残っている[[お台場]]である。しかし、この当時の日本は、大砲の運用を想定した築城技術が未成熟だった事と、大砲技術の違いから、[[1863年]](文久3年)7月の[[薩英戦争]]では[[薩摩藩]]が、翌[[1864年]](元治元年)9月の[[下関戦争]]では[[長州藩]]が、いずれも艦砲射撃で大きな損害を受け、[[攘夷]]の不可能を悟ったほどである。このように重量のある大砲を多数積み、速く自由に移動できる軍艦による艦砲射撃は、海岸線が長い日本にとっては脅威となった。
時代が下って[[19世紀]]、[[1853年]](嘉永6年)の[[アメリカ合衆国]]の[[マシュー・ペリー|マシュー・C・ペリー]]提督の[[黒船来航]]以降、艦砲射撃対策が国防上の重要な課題となり日本国内の各所に沿岸[[砲台]]が築かれた。有名なのが[[東京臨海副都心]]で地名として残っている[[お台場]]である。しかし、この当時の日本は、大砲の運用を想定した築城技術が未成熟だった事と、大砲技術の違いから、[[1863年]](文久3年)7月の[[薩英戦争]]では[[薩摩藩]]が、翌[[1864年]](元治元年)9月の[[下関戦争]]では[[長州藩]]が、いずれも艦砲射撃で大きな損害を受け、[[攘夷]]の不可能を悟ったほどである。このように重量のある大砲を多数積み、速く自由に移動できる軍艦による艦砲射撃は、海岸線が長い日本にとっては脅威となった。

2011年4月9日 (土) 00:08時点における版

朝鮮戦争において北朝鮮に対して艦砲射撃を行う戦艦アイオワ1952年

艦砲射撃(かんぽうしゃげき)は、軍艦浮き砲台として使用し、搭載された大砲で陸上の目標を海上から攻撃する方法である。上陸前支援や沿岸部での戦闘における支援射撃に活用された。

概要

戦艦主砲など、陸上の野砲などと比べ口径の大きな大威力の大砲が使用できるため、支援射撃としてはかなりの効果があり、一説には「戦艦の主砲は4個師団に匹敵する」と言われたほどであった。2006年に戦艦アイオワを最後に世界の戦艦が全て退役したため、第二次世界大戦時における戦艦の主砲で行ったような大打撃力の艦砲射撃はできなくなった。

第二次世界大戦で有名なものではドイツ海軍ポーランド侵攻時に準弩級戦艦「シュレスヴィヒ・ホルシュタイン」で行ったのが同大戦最初の艦砲射撃である。有力な敵勢力に対し行ったものであればフランス海軍が行った「ジェノヴァ砲撃」が世界初である。続いてアメリカ海軍太平洋戦争朝鮮戦争ベトナム戦争及び湾岸戦争で戦艦を利用し、アメリカ海兵隊の上陸前支援として行ったものなどが挙げられる。沖縄戦では艦砲射撃で地形が変わったとも言われ、また生き残った沖縄の人間は、戦後自分たちのことを「カンポーヌクェーヌクサー(艦砲射撃の喰い残し)」と呼んだ例がある。

第二次世界大戦後は、各種ミサイルの発展により、地対艦ミサイルによる沿岸防御、巡航ミサイルという攻撃手段の獲得により水上艦艇による艦砲射撃は終焉を迎えようとしていたが、1982年フォークランド紛争で上陸部隊の支援の為に艦砲射撃が何度か行われている。その戦訓を取り入れてイギリス海軍は艦砲を搭載していなかった22型フリゲートの後期建造艦へ114mm砲を搭載している。 アメリカ海軍でもベトナム戦争で地上部隊支援のため艦砲射撃を実施したほか、湾岸戦争においても再就役したアイオワ級戦艦が陽動の意味も込めて艦砲射撃を行っている。これらの作戦では、戦艦の主砲が持つ大火力を天候に左右されず長時間にわたって投射し続ける能力や、航空機を用いた作戦と比較してコストパフォーマンスが良いことが注目されたが、戦艦自体のコストパフォーマンスの悪さもあり、戦艦が再び主力となることはなかった。

アメリカ海軍アーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦の後期建造艦(DDG-81以降)ではロケットモーターを使用し射程を100キロ以上に延長する対地攻撃用誘導砲弾(ERGM)の使用が可能な127mm(5インチ)砲(Mk45 Mod4)を搭載していて、2010年頃から就役予定のズムウォルト級ミサイル駆逐艦CG(X)では新型の155mm砲の搭載が計画されている。ズムウォルト級ミサイル駆逐艦に搭載される155mm砲の誘導砲弾では精度の高い長距離射撃ができるようになり、艦砲射撃の精密性が向上した。 低強度紛争や武装組織に対抗するために、安価で過剰な破壊力を持たない艦砲の存在意義が再評価されるようになってきている最近の風潮がその背景としてあると言われている。

有名な艦砲射撃

歴史

日本の歴史上、初めて艦載砲による陸上施設への攻撃が行われたのは16世紀戦国時代門司城の戦いで、ポルトガル船が大友義鎮からの支援要請により、門司城に対して艦砲射撃を行っている。織田信長長島一向一揆討伐では織田艦隊が艦砲射撃を行った。

時代が下って19世紀1853年(嘉永6年)のアメリカ合衆国マシュー・C・ペリー提督の黒船来航以降、艦砲射撃対策が国防上の重要な課題となり日本国内の各所に沿岸砲台が築かれた。有名なのが東京臨海副都心で地名として残っているお台場である。しかし、この当時の日本は、大砲の運用を想定した築城技術が未成熟だった事と、大砲技術の違いから、1863年(文久3年)7月の薩英戦争では薩摩藩が、翌1864年(元治元年)9月の下関戦争では長州藩が、いずれも艦砲射撃で大きな損害を受け、攘夷の不可能を悟ったほどである。このように重量のある大砲を多数積み、速く自由に移動できる軍艦による艦砲射撃は、海岸線が長い日本にとっては脅威となった。

しかし、さらに時代が下り、20世紀にはいると艦砲射撃の価値が低下した。日露戦争では203高地を占領した日本軍からの28cm榴弾砲を中心とした陸上からの砲撃で旅順港にいたロシア第1太平洋艦隊(旅順艦隊)に壊滅的な打撃を与えた事で、沿岸砲台とその射程距離内において撃ち合うことは、頑強な要塞で保護され、海面の軍艦をより高い位置から狙い撃ちでき、しかも絶対に沈まない沿岸砲台に軍艦は移動できるメリットを差し引いても勝てないとして戦術上のタブーとなった。

太平洋戦争では島嶼の争奪戦という性格上、多数の上陸作戦が日米双方によって行われた。それに伴い、艦砲射撃も頻繁に行われた。この頃になると軍艦の大砲の射程よりも遥か遠方から航空機による空襲が待ち構えており、制空権無しでの艦砲射撃は無謀とされた。実際にミッドウェー海戦では空母機動部隊が先行し、遥か後方に戦艦部隊が配置されていた。アメリカ軍もまず空襲で制空権を確保してから艦砲射撃を行っていた。戦争後期の島嶼での戦いにおいて、アメリカ軍は海兵隊の上陸前に徹底的な艦砲射撃を行った。ほとんどの守備隊が伝統的な水際撃退戦法を用いていた日本軍は、艦砲射撃に対して有効的な対策を編み出すことが出来ず、島嶼攻防戦での一方的敗北に繋がった。ただし、日本軍守備隊が強固な地下陣地を敷いていた硫黄島の場合は、艦砲射撃も十分な効果を発揮することはできなかった[1]。太平洋戦争では、上陸支援以外にも艦砲射撃が行われた。特に有名なのは、1942年に日本海軍によって行われたヘンダーソン飛行場への艦砲射撃である。また、戦争末期には、アメリカ軍は日本沿岸の制海権・制空権も確保し、室蘭室蘭艦砲射撃の項を参照)や日立浜松釜石(釜石艦砲射撃)などに直接艦砲射撃を行った。

日本における鉄道建設と艦砲射撃

明治時代の鉄道建設黎明期、日本では海岸沿いよりも内陸を経由する鉄道の建設を優先する傾向があった。この原因について「艦砲射撃を危惧して日本陸軍が内陸回りにさせた」と指摘されることがあるが、実際のところは、当時はまだ海運が大きな役割を担っており、むしろ内陸部の輸送改善が急務だったこと、また海岸部は当時の技術で建設困難な箇所が多かったことが主因とされる。

八代駅以南の鹿児島本線はまず現在の肥薩線ルートで建設され[2]、また東京・京都を結ぶ幹線も、当初は東海道ルートではなく中山道ルートで計画されていた。

一方山陰本線を建設するに際しては、海岸のすぐそばに余部橋梁という艦砲射撃に弱い構造物を設置した。これは日露戦争の後という時代であるために、日本海側には敵は来ないという前提であったのではないかと指摘されている[3]

参考文献

脚注

  1. ^ 硫黄島への艦砲射撃は特に激しかったことが知られており、その威力は島の沿岸部の地形を変えるほどであった。
  2. ^ 1927年に海岸回りを鹿児島本線とし、旧ルートは肥薩線と改称。それまでは海岸回りが肥薩線・川内本線と呼ばれていた。
  3. ^ 佐々木冨泰・網谷りょういち『続事故の鉄道史』日本経済評論社、1999年2月10日、p.267頁。ISBN 978-4-8188-0819-5