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== 人物 ==
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寛永18年8月に[[徳川家綱]]の側近として中奥[[小姓]]、[[小姓組番頭]]、寛文7年正月には御側などを務めたほか、延宝7年に若年寄、天和2年い[[奏者番]]、貞享4年に大坂城代、元禄3年に京都所司代などの要職も歴任した。長らく[[雑兵物語]]の作者に擬せられてきたが、実際の作者は不詳である。元禄4年(1691年)没、後を養子の輝貞が継いだ。
寛永18年8月に[[徳川家綱]]の側近として中奥[[小姓]]、[[小姓組番頭]]、寛文7年正月には御側などを務めたほか、延宝7年に若年寄、天和2年い[[奏者番]]、貞享4年に大坂城代、元禄3年に京都所司代などの要職も歴任した。長らく[[雑兵物語]]の作者に擬せられてきたが、実際の作者は不詳である。元禄4年(1691年)没、後を養子の輝貞が継いだ。


信興には実子がなく家督は兄輝綱六男の輝定が継ぎ、最終的には[[上野国]][[高崎藩]]主として幕末を迎える。
信興には実子がなく家督は兄輝綱六男の輝定が継ぎ、最終的には[[上野国]][[高崎藩]]主として幕末を迎える。
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== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
* [[山本助]]:「山本菅助」は[[市河文書]]や真下家文書に見られる戦国期の武田家臣で、『[[甲陽軍鑑]]』に登場する山本勘助に比定される可能性が考えられている。江戸時代には「菅助」を襲名した[[武田遺臣]]の山本家子孫がいる。「菅助」子孫は『甲陽軍鑑』における山本勘助を先祖と位置づけ徳川家に仕官し、信興家中には淀藩主[[永井氏]]から転身した「菅助」子孫がおり、軍学者として兵法指南や城郭改修などを行っている。
* [[山本助]]:家には[[淀藩]]主[[永井氏]]から転身した武田家臣山本菅助」子孫がおり、軍学者として兵法指南や城郭改修などを行っている。


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2011年4月3日 (日) 03:40時点における版

 
松平信興
時代 江戸時代前期
生誕 寛永7年8月11日1630年9月17日
死没 元禄4年閏8月12日1691年10月3日
改名 釆女(幼名)、治綱、基綱、信衡、興衡、信興
官位 従四位下、侍従、美濃守、因幡
幕府 江戸幕府 若年寄大坂城代京都所司代
常陸国土浦藩主→摂津・河内国内
氏族 大河内松平家
父母 父:松平信綱、母:井上正就の長女
兄弟 輝綱吉綱信定信興堅綱
正室:青山幸利の娘
養子:斐章輝貞
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松平 信興(まつだいら のぶおき)は、江戸時代大名常陸国土浦藩など)、若年寄大坂城代京都所司代高崎藩系大河内松平家初代。松平信綱の五男、母は井上正就の長女。はじめ治綱、基綱、信衡、興衡などと名乗った。

人物

寛永18年8月に徳川家綱の側近として中奥小姓小姓組番頭、寛文7年正月には御側などを務めたほか、延宝7年に若年寄、天和2年い奏者番、貞享4年に大坂城代、元禄3年に京都所司代などの要職も歴任した。長らく『雑兵物語』の作者に擬せられてきたが、実際の作者は不詳である。元禄4年(1691年)没、後を養子の輝貞が継いだ。

信興には実子がなく家督は兄輝綱六男の輝定が継ぎ、最終的には上野国高崎藩主として幕末を迎える。

経歴

  • 寛文2年(1662年)4月18日、兄輝綱より、父信綱の遺領武蔵国埼玉郡のうち新田五千石を分与される。
  • 延宝7年(1679年)7月10日、若年寄に任ぜられる。1万2千石を領し、大名に列する。
  • 天和2年(1682年)2月19日、2万2千石をもって土浦藩主となる。
  • 貞享4年(1687年)10月13日、1万石を加増され大坂城代となり、摂津国河内国内へ移封。
  • 元禄3年(1690年)12月26日、従四位下・侍従となり、京都所司代に転ずる。

関連項目

  • 山本勘助:家中には淀藩永井氏から転身した武田家臣「山本菅助」の子孫がおり、軍学者として兵法指南や城郭改修などを行っている。