「流行歌」の版間の差分

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近現代日本での大衆歌謡の発祥は、明治維新直後までさかのぼることが出来る。
近現代日本での大衆歌謡の発祥は、明治維新直後までさかのぼることが出来る。


江戸時代の節をつけた瓦版売り「読売」の伝統が、自由民権運動の政治批判・宣伝に用いられ、[[川上音二郎]]の「[[オッペケペー節]]」をきっかけに[[壮士演歌]]として発展、社会問題を扱った「ダイナマイト節」「東雲節」、条約改正問題の「ノルマントン号沈没」、社会風刺の「のんき節」、文芸物の「不如帰」などが添田唖蝉坊らによって作られた。日露戦争前後から、庶民の心情がテーマになり、演歌が艶歌とも言われるようになった。これらの歌はすべて自然発生的なもので、「商業性」を旨とする昭和流行歌の性質には程遠いものであったが、神長瞭月ら演歌師と呼ばれる人々がバイオリンの伴奏で歌って人気を集め、書生節の隆盛による大衆歌謡の基礎が作られていった。
江戸時代の節をつけた瓦版売り「読売」の伝統が、自由民権運動の政治批判・宣伝に用いられ、[[川上音二郎]]の「[[オッペケペー節]]」をきっかけに[[壮士演歌]]として発展、社会問題を扱った「ダイナマイト節」「東雲節」、条約改正問題の「ノルマントン号沈没」、社会風刺の「のんき節」、文芸物の「不如帰」などが[[添田唖蝉坊]]らによって作られた。日露戦争前後から、庶民の心情がテーマになり、演歌が艶歌とも言われるようになった。これらの歌はすべて自然発生的なもので、「商業性」を旨とする昭和流行歌の性質には程遠いものであったが、神長瞭月ら演歌師と呼ばれる人々がバイオリンの伴奏で歌って人気を集め、書生節の隆盛による大衆歌謡の基礎が作られていった。


大正期には中山晋平が西洋音楽の手法で劇中歌とはいえ、流行歌を作ったことは画期的であった。「[[カチューシャの唄]]」「[[ゴンドラの唄]]」などの洋風の旋律は新鮮なイメージをあたえ、インテリ層に受けた。また「[[船頭小唄]]」はヨナ抜き短音階で作られ、昭和演歌の基本になっている。これらの歌は「流行り唄」として、演歌師たちが歌い広めた。ヨーロッパのオペラはすでに明治時代から紹介されており、帝劇歌劇部が誕生している。同歌劇部からは、[[原信子]]、[[清水金太郎]]らがイタリア人音楽家ヴィットリオ・ローシーの下でオペラ活動に従事した。それが、[[浅草オペラ]]として花が咲き、[[田谷力三]]・[[藤原義江]]ら声楽家が育った、東京の浅草を拠点にした浅草オペラが人気を集めた。人々は「[[カルメン (オペラ)|カルメン]]」の「闘牛士の唄」、「[[リゴレット]]」の「女心の唄」などを歌い、演歌師もアメリカの軍歌から「パイノパイ節」、インド民謡から「ジンジロゲ」などを創作、陸海軍軍楽隊や「ジンタ」と呼ばれる宣伝用の音楽隊の活動、ピアノ、ハーモニカの普及などの動きで、日本に海外の音楽が根付き流行歌の母体が生まれていく。また1925(大正14)年のラジオ放送も、音楽普及のメディアとして大きな役割を果たした。
大正期には中山晋平が西洋音楽の手法で劇中歌とはいえ、流行歌を作ったことは画期的であった。「[[カチューシャの唄]]」「[[ゴンドラの唄]]」などの洋風の旋律は新鮮なイメージをあたえ、インテリ層に受けた。また「[[船頭小唄]]」はヨナ抜き短音階で作られ、昭和演歌の基本になっている。これらの歌は「流行り唄」として、演歌師たちが歌い広めた。ヨーロッパのオペラはすでに明治時代から紹介されており、帝劇歌劇部が誕生している。同歌劇部からは、[[原信子]]、[[清水金太郎]]らがイタリア人音楽家ヴィットリオ・ローシーの下でオペラ活動に従事した。それが、[[浅草オペラ]]として花が咲き、[[田谷力三]]・[[藤原義江]]ら声楽家が育った、東京の浅草を拠点にした浅草オペラが人気を集めた。人々は「[[カルメン (オペラ)|カルメン]]」の「闘牛士の唄」、「[[リゴレット]]」の「女心の唄」などを歌い、演歌師もアメリカの軍歌から「[[パイノパイノパイ|パイノパイ節]]」、インド民謡から「ジンジロゲ」などを創作、陸海軍軍楽隊や「ジンタ」と呼ばれる宣伝用の音楽隊の活動、ピアノ、ハーモニカの普及などの動きで、日本に海外の音楽が根付き流行歌の母体が生まれていく。また1925(大正14)年のラジオ放送も、音楽普及のメディアとして大きな役割を果たした。


一方、1890年代に録音媒体として[[レコード]]技術が移入され、音楽の録音とその発売という商業活動が始まることになったが、それをもってしてもまだ商業性に乗じた歌は生まれなかった。この頃のレコード吹き込みの内容が講談・落語・浪曲・邦楽などそもそも音楽以外のものが圧倒的であったこと、大正時代に入ると、「流行り唄」は書生節レコードとして、オリエント、帝国蓄音器(後のテイチクとは異なる)ニットーレコードなどから、演歌師たちのレコードが発売されている。また大衆歌謡のレコード制作の態度そのものも「あくまで流行している歌を吹き込んだだけ」、つまりは演歌師たちの歌を聞きつけてレコードにするというもので、レコード会社が能動的に歌を企画・製作するわけではなかった。大正初期、[[松井須磨子]]による「カチューシャの唄」や、[[鳥取春陽]]の「籠の鳥」「船頭小唄」などは映画主題歌として商業的に成功した例外的な存在であった。
一方、1890年代に録音媒体として[[レコード]]技術が移入され、音楽の録音とその発売という商業活動が始まることになったが、それをもってしてもまだ商業性に乗じた歌は生まれなかった。この頃のレコード吹き込みの内容が講談・落語・浪曲・邦楽などそもそも音楽以外のものが圧倒的であったこと、大正時代に入ると、「流行り唄」は書生節レコードとして、オリエント、帝国蓄音器(後のテイチクとは異なる)ニットーレコードなどから、演歌師たちのレコードが発売されている。また大衆歌謡のレコード制作の態度そのものも「あくまで流行している歌を吹き込んだだけ」、つまりは演歌師たちの歌を聞きつけてレコードにするというもので、レコード会社が能動的に歌を企画・製作するわけではなかった。大正初期、[[松井須磨子]]による「[[カチューシャの唄]]」や、[[鳥取春陽]]の「籠の鳥」「[[船頭小唄]]」などは映画主題歌として商業的に成功した例外的な存在であった。


なお、この時期の大衆歌謡を流行歌と区別して「'''流行り唄'''」「'''はやり唄'''」と呼ぶことが多い。
なお、この時期の大衆歌謡を流行歌と区別して「'''流行り唄'''」「'''はやり唄'''」と呼ぶことが多い。
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===二村定一と佐藤千夜子===
===二村定一と佐藤千夜子===


「流行り唄」から、流行歌への移行の胎動が見られ始めるのは、昭和3(1928)年のことである。外資系レコード産業の成立によって、電気吹込みによるレコード歌謡が誕生し、その中で[[浅草オペラ]]の出身の[[二村定一]]が流行歌への先鞭を付けたのである。二村は芸の一部として歌を用い、大正末期からジャズ・ソングをニッポノホンで吹込み、その他にナンセンスなコミックソングを多く歌っていたが、昭和3年に出したジャズ(現在の[[イージーリスニング]]にあたる軽音楽の総称)に日本語詞をつけた「[[あお空|私の青空]]」「[[アラビの唄]]」のヒットにより、井田一郎のバンドでジャズ歌手としての活動も開始する。
「流行り唄」から、流行歌への移行の胎動が見られ始めるのは、昭和3(1928)年のことである。外資系レコード産業の成立によって、電気吹込みによるレコード歌謡が誕生し、その中で[[浅草オペラ]]の出身の[[二村定一]]が流行歌への先鞭を付けたのである。二村は芸の一部として歌を用い、大正末期からジャズ・ソングをニッポノホンで吹込み、その他にナンセンスなコミックソングを多く歌っていたが、昭和3年に出したジャズ(現在の[[イージーリスニング]]にあたる軽音楽の総称)に日本語詞をつけた「[[私の青空 (歌)|あお空]]」「[[アラビの唄]]」のヒットにより、井田一郎のバンドでジャズ歌手としての活動も開始する。


一方、声楽家であった[[佐藤千夜子]]は、ビクターで昭和3年発売の「波浮の港」を吹込み本格的な流行歌手として登場した。藤原義江が米国ビクターで吹込んだ赤盤と併せてかなりのレコード売り上げをしめした。昭和4(1929)年に「東京行進曲」をヒットさせ歌謡界の女王として「日本最初のレコード歌手」の栄誉を手にすることになる。彼女を昭和流行歌の嚆矢とする説があるゆえんである。
一方、声楽家であった[[佐藤千夜子]]は、ビクターで昭和3年発売の「[[波浮の港]]」を吹込み本格的な流行歌手として登場した。藤原義江が米国ビクターで吹込んだ赤盤と併せてかなりのレコード売り上げをしめした。昭和4(1929)年に「[[東京行進曲]]」をヒットさせ歌謡界の女王として「日本最初のレコード歌手」の栄誉を手にすることになる。彼女を昭和流行歌の嚆矢とする説があるゆえんである。


それまで歌手といえば書生節の街頭演歌師であり、洋楽系歌手の登場は昭和の新しい流行歌手の誕生でもあった。しかし多くの歌手は母音に響きだけのビブラートを使って声を張り上げて歌うことが多く、当時の録音技術の未熟さも相まって歌唱が不明瞭になってしまっていた。佐藤千夜子はオペラ調、二村は日本語が明瞭であり、二人の歌唱は非常に画期的であった。のち二村は舞台に専念し佐藤はイタリアへ留学してそれぞれ流行歌の世界から身を引いてしまう。しかしその後佐藤千夜子に刺激を受け、声楽家が流行歌やレコード歌謡に進出するなど、残した影響は大きかった。
それまで歌手といえば書生節の街頭演歌師であり、洋楽系歌手の登場は昭和の新しい流行歌手の誕生でもあった。しかし多くの歌手は母音に響きだけのビブラートを使って声を張り上げて歌うことが多く、当時の録音技術の未熟さも相まって歌唱が不明瞭になってしまっていた。佐藤千夜子はオペラ調、二村は日本語が明瞭であり、二人の歌唱は非常に画期的であった。のち二村は舞台に専念し佐藤はイタリアへ留学してそれぞれ流行歌の世界から身を引いてしまう。しかしその後佐藤千夜子に刺激を受け、声楽家が流行歌やレコード歌謡に進出するなど、残した影響は大きかった。


これにより2人のレコードを制作していた[[ビクターエンタテインメント|ビクター]]は、作曲家に中山晋平・佐々紅華。作詞家には[[時雨音羽]]・[[堀内敬三]]を擁し、他社を押さえて大きく躍進することになった。
これにより2人のレコードを制作していた[[ビクターエンタテインメント|ビクター]]は、作曲家に[[中山晋平]][[佐々紅華]]。作詞家には[[時雨音羽]]・[[堀内敬三]]を擁し、他社を押さえて大きく躍進することになった。


===藤山一郎の登場と第一世代===
===藤山一郎の登場と第一世代===
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:[[東海林太郎]]
:[[東海林太郎]]


この他にも大手といえる規模の会社として、[[ビクターエンタテインメント|ビクター]]と[[キングレコード|キング]]があった。しかしビクターはかつて主力としていた作曲家の[[中山晋平]]が流行歌向きでなかったために時流に乗り遅れたこと、昭和8(1933)年ビクターに入社した[[藤山一郎]]は流行歌も歌うが本名の増永丈夫でクラシックを歌う関係上本格的でなく、[[徳山璉]]、[[四家文子]]らもクラシックの声楽家としての活動が主体であり、「涙の渡り鳥」「島の娘」「無情の夢」を作曲した[[佐々木俊一]]の台頭、日本調の[[小唄勝太郎]]らがビクターを支えていた。昭和15年以後は[[灰田勝彦]]の人気が全国的となり、戦前のビクターの看板歌手を代表した。
この他にも大手といえる規模の会社として、[[ビクターエンタテインメント|ビクター]]と[[キングレコード|キング]]があった。しかしビクターはかつて主力としていた作曲家の[[中山晋平]]が流行歌向きでなかったために時流に乗り遅れたこと、昭和8(1933)年ビクターに入社した[[藤山一郎]]は流行歌も歌うが本名の増永丈夫でクラシックを歌う関係上本格的でなく、[[徳山璉]]、[[四家文子]]らもクラシックの声楽家としての活動が主体であり、「[[涙の渡り鳥]]」「[[島の娘]]」「無情の夢」を作曲した[[佐々木俊一]]の台頭、日本調の[[小唄勝太郎]]らがビクターを支えていた。昭和15年以後は[[灰田勝彦]]の人気が全国的となり、戦前のビクターの看板歌手を代表した。


キングは既に流行歌手として実績を持っていた[[東海林太郎]]と専属契約をしたものの、ポリドールに借り出した際に「赤城の子守唄」でヒットを飛ばされ、そのままポリドールと二重契約を認めざるを得なくなったばかりか、相手方でばかりヒットを飛ばされるという目に遭い、結局戦前は中堅以上になれないまま終わった。
キングは既に流行歌手として実績を持っていた[[東海林太郎]]と専属契約をしたものの、ポリドールに借り出した際に「赤城の子守唄」でヒットを飛ばされ、そのままポリドールと二重契約を認めざるを得なくなったばかりか、相手方でばかりヒットを飛ばされるという目に遭い、結局戦前は中堅以上になれないまま終わった。


またこれにともない、流行歌の作詞・作曲を専門とする作詞家や作曲家が多数出現した。作曲家では[[古賀政男]]・[[江口夜詩]]・[[古関裕而]]・[[服部良一]]らを筆頭に、竹岡信幸、阿部武雄などが、作詞家では[[西條八十]]・[[佐藤惣之助]]を筆頭に、[[サトウ・ハチロー]]、藤田まさとらが活躍するようになった。
またこれにともない、流行歌の作詞・作曲を専門とする作詞家や作曲家が多数出現した。作曲家では[[古賀政男]]・[[江口夜詩]]・[[古関裕而]]・[[服部良一]]らを筆頭に、[[竹岡信幸]][[阿部武雄]]などが、作詞家では[[西條八十]]・[[佐藤惣之助]]を筆頭に、[[サトウ・ハチロー]]、[[藤田まさと]]らが活躍するようになった。


このような状況の中で、流行歌は庶民の生活に寄り添う形でその制作数を増し続けた。まず、当時の第一の娯楽であった映画とリンクしたことが、普及に大いに役立つことになった。「沓掛小唄」・「旅の夜風」などの主題歌、さらに映画俳優による歌の吹き込みや人気歌手の映画出演、「百万人の合唱」「裏まち交響樂」「鴛鴦歌合戦」などの音楽映画制作が好例である。
このような状況の中で、流行歌は庶民の生活に寄り添う形でその制作数を増し続けた。まず、当時の第一の娯楽であった映画とリンクしたことが、普及に大いに役立つことになった。「沓掛小唄」・「[[旅の夜風]]」などの主題歌、さらに映画俳優による歌の吹き込みや人気歌手の映画出演、「百万人の合唱」「裏まち交響樂」「鴛鴦歌合戦」などの音楽映画制作が好例である。


また「赤城の子守唄」・「妻恋道中」・「裏町人生」などの正統派の演歌も多く作られ現在も歌い継がれている曲が多い。
また「[[赤城の子守唄]]」・「妻恋道中」・「裏町人生」などの正統派の演歌も多く作られ現在も歌い継がれている曲が多い。


さらに「天国に結ぶ恋」・「肉弾三勇士」などの時事問題、「ハイキングの唄」・「波浮の港」・「スキーの唄」などピクニックブームや大島ブーム、スキーブームといった流行を取り入れた作品も発表された。
さらに「[[坂田山心中事件|天国に結ぶ恋]]」・「[[爆弾三勇士|肉弾三勇士]]」などの時事問題、「ハイキングの唄」・「[[波浮の港]]」・「スキーの唄」などピクニックブームや大島ブーム、スキーブームといった流行を取り入れた作品も発表された。


「祇園小唄」・「[[ちゃっきり節|茶切節]]」・「[[東京音頭]]」といった「新民謡」という形で地方の風物を歌ったり、時には小唄勝太郎・[[市丸]]・[[美ち奴]]・[[新橋喜代三]]など芸者を歌手として起用して(芸者歌手)、「島の娘」「明治一代女」を代表作とする邦楽の要素を強く持った曲を打ち出した。また、ディックミネ・淡谷のり子らによる「ダイナ」・「酒が飲みたい」・「別れのブルース」など欧米のポピュラー音楽をベースにした作品は、戦後、[[笠置シヅ子]]、[[江利チエミ]]、[[雪村いづみ]]らに受け継がれポップス歌謡の源流を生み出した。
「祇園小唄」・「[[ちゃっきり節|茶切節]]」・「[[東京音頭]]」といった「[[新民謡]]」という形で地方の風物を歌ったり、時には小唄勝太郎・[[市丸]]・[[美ち奴]]・[[新橋喜代三]]など芸者を歌手として起用して(芸者歌手)、「島の娘」「明治一代女」を代表作とする邦楽の要素を強く持った曲を打ち出した。また、ディックミネ・淡谷のり子らによる「[[ダイナ (曲)|ダイナ]]」・「酒が飲みたい」・「[[別れのブルース]]」など欧米のポピュラー音楽をベースにした作品は、戦後、[[笠置シヅ子]]、[[江利チエミ]]、[[雪村いづみ]]らに受け継がれポップス歌謡の源流を生み出した。


時代が満州事変から日中戦争へと軍国主義化に進むと、それに呼応して、当時「新天地」とされた[[満州]]や中国大陸への憧れを「上海の花売娘」・「満州娘」など「大陸歌謡」という一ジャンルに仕立て上げたりと、さまざまな側面からその世界を拡大し、各々の個性を競い合ったのである。
時代が満州事変から日中戦争へと軍国主義化に進むと、それに呼応して、当時「新天地」とされた[[満州]]や中国大陸への憧れを「上海の花売娘」・「満州娘」など「大陸歌謡」という一ジャンルに仕立て上げたりと、さまざまな側面からその世界を拡大し、各々の個性を競い合ったのである。
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===戦時中の暗黒時代===
===戦時中の暗黒時代===


しかし戦争の影は否応なく流行歌の世界にも影を落とし始めた。軍歌は兵士を鼓舞させるために軍隊が作ったものや兵士の間で歌われたものをさす。軍国歌謡は新聞社やレコード会社が企画し、国民の戦意高揚を図ったものである。戦時歌謡は、戦争の時期の流行歌と軍国歌謡を合わせた意味をもつジャンルの名称である。。昭和12(1937)年の「露営の歌」の成功に伴い、このような戦争賛美・国威発揚を目的とした歌が徐々に増え、流行歌の音楽世界を蚕食し始めたのである。「忘れちゃいやよ」・「裏町人生」などのヒット曲が[[発禁|発売禁止]]になり統制が厳しくなった。昭和15年の「皇紀二千六百年記念」による国を挙げた記念事業も、それに拍車をかけ、人気歌手は戦地に慰問に行くことが多くなった。
しかし戦争の影は否応なく流行歌の世界にも影を落とし始めた。軍歌は兵士を鼓舞させるために軍隊が作ったものや兵士の間で歌われたものをさす。軍国歌謡は新聞社やレコード会社が企画し、国民の戦意高揚を図ったものである。戦時歌謡は、戦争の時期の流行歌と軍国歌謡を合わせた意味をもつジャンルの名称である。。昭和12(1937)年の「[[露営の歌]]」の成功に伴い、このような戦争賛美・国威発揚を目的とした歌が徐々に増え、流行歌の音楽世界を蚕食し始めたのである。「忘れちゃいやよ」・「裏町人生」などのヒット曲が[[発禁|発売禁止]]になり統制が厳しくなった。昭和15年の「[[紀元二千六百年記念行事|皇紀二千六百年記念]]」による国を挙げた記念事業も、それに拍車をかけ、人気歌手は戦地に慰問に行くことが多くなった。


戦時歌謡の優勢が決定的となったのが、昭和16(1941)年の[[太平洋戦争]]勃発である。これにより国内は戦争一色の状態となり、流行歌も戦時歌謡だらけとなって、それまで何の問題もなかった抒情歌が「女々しい」と発禁処分になる状況となった<ref>[[高峰三枝子]]の「湖畔の宿」が有名。ただし実際には前線の兵士の間でも支持を得てヒット曲となった。</ref>。昭和18(1943)年頃になると、戦況の厳しさに比例するかのように戦時歌謡も凄惨な内容のものに変わって行き、完全に音楽性が崩壊することになる。そんな状態であったが、「新雪」・「高原の月」・「勘太郎月夜唄」などがわずかながらも作られ、戦時歌謡よりも支持を得た。
戦時歌謡の優勢が決定的となったのが、昭和16(1941)年の[[太平洋戦争]]勃発である。これにより国内は戦争一色の状態となり、流行歌も戦時歌謡だらけとなって、それまで何の問題もなかった抒情歌が「女々しい」と発禁処分になる状況となった<ref>[[高峰三枝子]]の「湖畔の宿」が有名。ただし実際には前線の兵士の間でも支持を得てヒット曲となった。</ref>。昭和18(1943)年頃になると、戦況の厳しさに比例するかのように戦時歌謡も凄惨な内容のものに変わって行き、完全に音楽性が崩壊することになる。そんな状態であったが、「新雪」・「高原の月」・「勘太郎月夜唄」などがわずかながらも作られ、戦時歌謡よりも支持を得た。
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昭和20(1945)年8月14日、日本は[[ポツダム宣言]]受諾を決定した。これにより戦争という桎梏のなくなったレコード業界は、さっそく復活の狼煙を上げ、各地に従軍や疎開していた歌手や作曲家・作詞家を呼び戻し始めた。そして翌年から早くも活動を再開したのである。
昭和20(1945)年8月14日、日本は[[ポツダム宣言]]受諾を決定した。これにより戦争という桎梏のなくなったレコード業界は、さっそく復活の狼煙を上げ、各地に従軍や疎開していた歌手や作曲家・作詞家を呼び戻し始めた。そして翌年から早くも活動を再開したのである。


この時、レコード会社は新人歌手の開拓に腐心した。この活動によりデビューしたのが、[[美空ひばり]]や[[並木路子]]など、「第三世代」とでも呼ぶべき歌手である。特に並木と[[霧島昇]]がデュエットした「リンゴの唄」は戦後の自由な雰囲気を謳歌する曲として有名である。
この時、レコード会社は新人歌手の開拓に腐心した。この活動によりデビューしたのが、[[美空ひばり]]や[[並木路子]]など、「第三世代」とでも呼ぶべき歌手である。特に並木と[[霧島昇]]がデュエットした「[[リンゴの唄]]」は戦後の自由な雰囲気を謳歌する曲として有名である。


だがこのことが、戦前からの歌手にとっては明暗を分けることになった。特にあおりを大きく受けたのが初期の歌手である。昭和一桁の時代から歌い続けている彼らは、古いイメージから脱却しようとするレコード会社の意向にそぐわない存在であった。このため自然と冷や飯食いの待遇となり、多くの歌手が引退を余儀なくされた。移籍して活動を続ける者もあったが、戦前のようなヒットが飛ばせず苦しむことが多かった。戦後も変わらずヒットを飛ばすことが出来たのは[[藤山一郎]]などごくわずかな歌手のみである。
だがこのことが、戦前からの歌手にとっては明暗を分けることになった。特にあおりを大きく受けたのが初期の歌手である。昭和一桁の時代から歌い続けている彼らは、古いイメージから脱却しようとするレコード会社の意向にそぐわない存在であった。このため自然と冷や飯食いの待遇となり、多くの歌手が引退を余儀なくされた。移籍して活動を続ける者もあったが、戦前のようなヒットが飛ばせず苦しむことが多かった。戦後も変わらずヒットを飛ばすことが出来たのは[[藤山一郎]]などごくわずかな歌手のみである。
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:[[岡晴夫]]、[[小畑実 (歌手)|小畑実]]、[[津村謙]]、[[松島詩子]]
:[[岡晴夫]]、[[小畑実 (歌手)|小畑実]]、[[津村謙]]、[[松島詩子]]


この新旧相交ざった状態が昭和20年代中頃まで続き、その中で藤山一郎と[[奈良光枝]]のデュエットによる「青い山脈」など、戦後流行歌が数多く生まれた。
この新旧相交ざった状態が昭和20年代中頃まで続き、その中で藤山一郎と[[奈良光枝]]のデュエットによる「[[青い山脈 (歌)|青い山脈]]」など、戦後流行歌が数多く生まれた。


===藤山一郎のレコード歌手引退===
===藤山一郎のレコード歌手引退===
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戦前派の撤退を横目に、新人歌手の開拓は続いていた。ビクターは[[鶴田浩二]]、[[三浦洸一]]、テイチクは[[三波春夫]]、コロムビアは[[島倉千代子]]、[[村田英雄]]がそれぞれデビュー。特に[[キングレコード|キング]]は昭和20年代末から30年代にかけて、[[春日八郎]]や[[三橋美智也]]をデビューさせ、戦前とは比べ物にならない勢いを誇った。また[[石原裕次郎]]や[[ザ・ピーナッツ]]など、新しいタイプの歌手も次々登場した。特にザ・ピーナッツは日本では事実上「演歌か洋楽か」の二者択一しかなかった日本の歌謡界に和製ポップスを持ち込んで話題となり、以後の日本歌謡における多ジャンル化への契機ともなった。
戦前派の撤退を横目に、新人歌手の開拓は続いていた。ビクターは[[鶴田浩二]]、[[三浦洸一]]、テイチクは[[三波春夫]]、コロムビアは[[島倉千代子]]、[[村田英雄]]がそれぞれデビュー。特に[[キングレコード|キング]]は昭和20年代末から30年代にかけて、[[春日八郎]]や[[三橋美智也]]をデビューさせ、戦前とは比べ物にならない勢いを誇った。また[[石原裕次郎]]や[[ザ・ピーナッツ]]など、新しいタイプの歌手も次々登場した。特にザ・ピーナッツは日本では事実上「演歌か洋楽か」の二者択一しかなかった日本の歌謡界に和製ポップスを持ち込んで話題となり、以後の日本歌謡における多ジャンル化への契機ともなった。


このように戦後派が天下を取る状況となったことにより、流行歌の音楽性は大きく変容した。器楽的な部分はなりを潜め、のちの「演歌」や「歌謡曲」に通じるような曲が多く生まれた。このため、この時期の「第四世代」ともいうべき歌手を「流行歌歌手」として認めない意見も多い。
このように戦後派が天下を取る状況となったことにより、流行歌の音楽性は大きく変容した。器楽的な部分はなりを潜め、のちの「[[演歌]]」や「[[歌謡曲]]」に通じるような曲が多く生まれた。このため、この時期の「第四世代」ともいうべき歌手を「流行歌歌手」として認めない意見も多い。


===演歌の分離と終焉===
===演歌の分離と終焉===
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===概要===
===概要===


「士気高揚」ということで極めて勇ましいイメージがあるが、その一方で開戦前までは上原敏の「上海だより」「声なき凱旋」・近衛八郎の「ああ我が戦友」・音丸の「皇国の母」など兵士の望郷の念や戦友への思い、留守家族の気持ちを歌った叙情的な曲も多かった。また[[塩まさる]]の「九段の母」のように、一見すると戦時体制を讃美する内容であるが実は違う、というギミックが入っている歌もあった<ref>地方から老母が戦死した息子を弔いに招魂社(靖国神社)に来る姿を描いた歌で、招魂社讃美の歌。しかしこの老母が都会や戦時体制にすれていない姿に描かれており、当時の戦時体制がそれまでの常識に外れた異常なものであることを風刺した歌とも読める。</ref>。
「士気高揚」ということで極めて勇ましいイメージがあるが、その一方で開戦前までは上原敏の「上海だより」「声なき凱旋」・近衛八郎の「[[ああ我が戦友]]」・音丸の「皇国の母」など兵士の望郷の念や戦友への思い、留守家族の気持ちを歌った叙情的な曲も多かった。また[[塩まさる]]の「九段の母」のように、一見すると戦時体制を讃美する内容であるが実は違う、というギミックが入っている歌もあった<ref>地方から老母が戦死した息子を弔いに招魂社(靖国神社)に来る姿を描いた歌で、招魂社讃美の歌。しかしこの老母が都会や戦時体制にすれていない姿に描かれており、当時の戦時体制がそれまでの常識に外れた異常なものであることを風刺した歌とも読める。</ref>。


しかし昭和16(1941)年の太平洋戦争開戦後、このような叙情的な戦時歌謡は「女々しい」と歌唱が禁止された<ref>この禁止は戦時歌謡だけでなく、明治時代に作られた軍歌にまで及ぶというかなりヒステリックなものであった。</ref>。さらに当時流行歌の大半が戦時歌謡と化していたため、流行歌の世界に「前線の戦い」と「銃後の守り」、そしてプロパガンダを叫ぶ歌ばかりがあふれることになる。末期になると残酷な歌詞も平気で使われるようになり、結果的に音楽としての価値を損なう結果となった。
しかし昭和16(1941)年の太平洋戦争開戦後、このような叙情的な戦時歌謡は「女々しい」と歌唱が禁止された<ref>この禁止は戦時歌謡だけでなく、明治時代に作られた軍歌にまで及ぶというかなりヒステリックなものであった。</ref>。さらに当時流行歌の大半が戦時歌謡と化していたため、流行歌の世界に「前線の戦い」と「銃後の守り」、そしてプロパガンダを叫ぶ歌ばかりがあふれることになる。末期になると残酷な歌詞も平気で使われるようになり、結果的に音楽としての価値を損なう結果となった。


戦時歌謡は戦争の産物であるため戦中の作がほとんどであるが、戦後も[[シベリア抑留]]に遭い境遇と生還の思いを現地で歌った「異国の丘」やシベリア抑留からの復員の喜びを描いた「ハバロフスク小唄」<ref>ただしこの曲は収容所で覚えた歌を書き起こしたものであったため、発売後に、昭和15年林伊佐緒による『東京パレード』の替え歌だったとわかり発売中止になった。</ref>、異国の戦犯裁判の悲劇を歌った「ああモンテンルパのは更けて」、引き上げ船を歌った「かえり船」など少数ながら作例がある。また、ジャワの民謡「ブンガワンソロ」が戦後藤山一郎、松田トシによって歌われるなど、日本軍占領地の唄が逆輸入されたことも見逃せない。
戦時歌謡は戦争の産物であるため戦中の作がほとんどであるが、戦後も[[シベリア抑留]]に遭い境遇と生還の思いを現地で歌った「[[異国の丘]]」やシベリア抑留からの復員の喜びを描いた「ハバロフスク小唄」<ref>ただしこの曲は収容所で覚えた歌を書き起こしたものであったため、発売後に、昭和15年林伊佐緒による『東京パレード』の替え歌だったとわかり発売中止になった。</ref>、異国の戦犯裁判の悲劇を歌った「[[ああモンテンルパのは更けて]]」、引き上げ船を歌った「かえり船」など少数ながら作例がある。また、ジャワの民謡「ブンガワンソロ」が戦後藤山一郎、松田トシによって歌われるなど、日本軍占領地の唄が逆輸入されたことも見逃せない。


これらの戦時歌謡はほとんどの場合、他の流行歌と共通の作詞家・作曲家によって作られている。ただし誰でもよいわけではなく、勇ましい作風を持つ作曲家が選ばれ、[[古関裕而]]や[[江口夜詩]]がその代表格となった。一方、[[服部良一]]のようにモダンな作風の作曲家は不遇な目に遭わされることになった。
これらの戦時歌謡はほとんどの場合、他の流行歌と共通の作詞家・作曲家によって作られている。ただし誰でもよいわけではなく、勇ましい作風を持つ作曲家が選ばれ、[[古関裕而]]や[[江口夜詩]]がその代表格となった。一方、[[服部良一]]のようにモダンな作風の作曲家は不遇な目に遭わされることになった。
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しかし戦後、これらの作詞家・作曲家の中には戦争賛美に加担したことを悔い、罪悪感にさいなまれた者も少なくない。たとえば、古関裕而は大戦末期に作曲した『比島決戦の唄』について、'''「……私にとっていやな歌で、終戦後戦犯だなどとさわがれた。いまさら歌詞も楽譜もさがす気になれないし、幻の戦時歌謡としてソッとしてある。」'''と証言している(古関裕而『鐘よ鳴り響けー古関裕而自伝』主婦の友社 1980年)。
しかし戦後、これらの作詞家・作曲家の中には戦争賛美に加担したことを悔い、罪悪感にさいなまれた者も少なくない。たとえば、古関裕而は大戦末期に作曲した『比島決戦の唄』について、'''「……私にとっていやな歌で、終戦後戦犯だなどとさわがれた。いまさら歌詞も楽譜もさがす気になれないし、幻の戦時歌謡としてソッとしてある。」'''と証言している(古関裕而『鐘よ鳴り響けー古関裕而自伝』主婦の友社 1980年)。


戦時歌謡はメディアによる制作も行われた。1936年6月1日「国民歌謡」がNHKで開始された。人気曲はレコード化されて大ヒットした。それには、「朝」・「椰子の実」・「春の唄」など今日も愛唱されている作品があるが、「愛国の花」・「隣組の唄」・「めんこい仔馬」・「国民進軍歌」など明らかにプロパガンダ的要素の強い作品も多い。
戦時歌謡はメディアによる制作も行われた。1936年6月1日「[[国民歌謡]]」がNHKで開始された。人気曲はレコード化されて大ヒットした。それには、「朝」・「[[椰子の実]]」・「春の唄」など今日も愛唱されている作品があるが、「[[愛国の花]]」・「隣組の唄」・「[[めんこい仔馬]]」・「[[国民進軍歌]]」など明らかにプロパガンダ的要素の強い作品も多い。


===「大陸歌謡」との関係===
===「大陸歌謡」との関係===
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戦時歌謡は一般的に「[[軍歌]]」とも呼ばれることが多い。しかし「軍歌」の定義は本来は「軍隊の中で作られて歌われた歌」のことなので、商業的に外部で作られた戦時歌謡は本来的にはあてはまらず、単に戦争関係だからと十把一からげにして呼ばれているだけに過ぎない。
戦時歌謡は一般的に「[[軍歌]]」とも呼ばれることが多い。しかし「軍歌」の定義は本来は「軍隊の中で作られて歌われた歌」のことなので、商業的に外部で作られた戦時歌謡は本来的にはあてはまらず、単に戦争関係だからと十把一からげにして呼ばれているだけに過ぎない。


この「軍歌」呼ばわりにより、流行歌の知識が不足している人よりあらぬ誤解を受けることも多いことから不快感を示すファンも多く、歌手でも[[東海林太郎]]は自分の「麦と兵隊」が「軍歌」呼ばわりされるのを嫌い「あれは戦時歌謡で軍歌ではない」とわざわざコメントしたほどである。
この「軍歌」呼ばわりにより、流行歌の知識が不足している人よりあらぬ誤解を受けることも多いことから不快感を示すファンも多く、歌手でも[[東海林太郎]]は自分の「[[麦と兵隊]]」が「軍歌」呼ばわりされるのを嫌い「あれは戦時歌謡で軍歌ではない」とわざわざコメントしたほどである。


==音源復刻==
==音源復刻==

2011年3月16日 (水) 14:38時点における版

流行歌(りゅうこうか)とは一時期広く世間に流布し、多くの人に好まれ歌われた

  1. 最広義には有史以来流行した歌のこと。流行歌を「流行(はやり)の歌」として概念的に捉えた場合の考え方で、その系譜は文献上でもおよそ平安時代にまで遡ることができる。今様などがその代表例。その観点から考えると、本項目でも本来的には江戸時代以前のものについても歴史的に検証されるべきであるが、通常「流行歌」といった場合この意味で使われることはきわめて稀であるため、ここでは言及を避ける。
  2. 広義には日本の大衆歌謡一般のうちレコードが発売されるようになってからの、商業的に「流行」つまりヒットさせることを目的に作られた、独唱または重唱の演奏時間が数分以内の歌曲のこと。どの世代にも愛好される「国民的歌謡」を指すイメージが強い言葉である。日本国外の大衆歌謡についても、同様の傾向を持つものを「流行歌」と呼ぶことがある。
    ただし大衆歌謡の分野が多様化して久しい現在では、そもそも総括して述べようとすると極めて広範多岐にわたってしまう上、世代間での断絶が著しくなって「国民的歌謡」という概念が崩壊、子供向けテレビ番組のテーマソングなど一部の例外を除いて成り立たなくなっていることから、実質死語と化してしまっている。
  3. 狭義には日本の商業制作による大衆歌謡のうち、欧米のフォークソングなど新しい音楽が流入して分野が多岐に分かれる以前、昭和初期~30年代初頭までのもののこと。

名称

「流行歌」の名称は現在の音楽分野名と違い、2の総称的な意味からの派生によるもので、最初から「流行歌」という分野が存在したわけではない。当時のレコードなどに「流行歌」と書いてあるのもすべて2の意味である。3の意味で使われ始めた時期については詳らかでないが、戦後「流行歌」の時代が終焉を迎え分野が多岐に分かれた後、この時代の大衆歌謡にも分野名をつける必要性が出て来たことから便宜的に使われていたものが定着したと考えられる[1]

また流行歌と同義で使われることがある言葉に「懐メロ」(仮名で「ナツメロ」「なつめろ」とも)がある。しかし「懐かしい歌」という曖昧な定義があだとなって年々指す範囲が広くなっていること、レコード会社が異なる定義の「懐メロ」を安易に乱発したりしていることから、定義が人によってばらばらの状態になっている。このため現在では、流行歌同好会の名称などの限られた用途以外では、多くの場合敬遠される傾向がある。

特徴

流行歌は日本のポピュラー音楽の嚆矢をなす存在である。明治以降の西洋音楽の浸透とレコード技術の移入、そして大正時代から昭和初期にかけての大衆文化の発達に伴い、庶民の娯楽として登場した。

流行歌の「流行」たるゆえん、あるいはこの現象に先鞭もしくは弾みをつけた背景には、それまでの口伝えによる歌の伝播から飛躍して、録音再生技術の定着と共にラジオ放送の開始(大正14年・東京放送局本放送~15年・日本放送協会設立)という新しいメディアの作用が大きく影響していると考えられる。

「流行歌」の特徴を述べると以下のようになる。

音楽性

クラシック音楽を基礎とし、極めて器楽的である。使用楽器も室内楽のものに準じることが多い。ギターが使用されることもあるが、クラシックギターである。譜割りも現在のポピュラー音楽と違い一定の規則を守っており、その中で個性を出すことに作曲家の才能が試されていた。

後世からは「演歌」と混同されることが多いが、音楽性の面から見ても大きな誤りである。流行歌の音楽性は現在の演歌・歌謡曲に加え、クラシックの声楽曲などさまざまな分野の要素が渾然一体となった様相を呈しており、演歌以前の独立的な音楽性が認められるからである。

制作

現在のように固定した1人のプロデューサーや制作集団がいるわけではなく、レコード会社の「文芸部」と呼ばれる部署が制作指揮を執った。これに応えて作詞家・作曲家が曲を作り、歌手が歌うという体制であった。

なお当時は作詞家・作曲家・歌手の地位や権利を保護する仕組みがなかったこともあり、「専属契約」という形でレコード会社の「社員」として扱われていた。このため作詞家・作曲家・歌手が移籍する際には「入社」「退社」と表現することが多い。

発表

全てSPレコードによる。音声は当時まだステレオ録音がなかったためモノーラルである。SPレコードの録音可能時間が4分程度と短いため、アルバム形式での発表はなく、すべてシングルでの発表であった(アンソロジー形式のものもあるが途中で曲が切られる)。

また両面で歌手が異なる場合がほとんどである(映画の主題歌や企画盤ではこの限りではない)。ただし組み合わせについては全く不規則というわけではなく、この歌手の裏にはこの歌手、という規則性がある程度成り立っている。

なお、発表に当たっては変名を使うのが普通であった。後述するように流行歌の地位は低いものであり、歌うことに対し体裁が悪いという思いがあったためである。特に新人歌手は会社を掛け持ちすることが多かったため、掛け持ちが露見しないようさまざまな名前を使うことが多かった。楠木繁夫が本名の「黒田進」も含めて55個もの名前を使用していたのは有名である。いずれにせよ正体を隠すための習慣であり、「芸名」ではなく「変名」と称するゆえんである[2]

地位

発生以来、庶民の娯楽として圧倒的な支持を受け「唄は世に連れ、世は唄に連れ」ということわざまででき、流行歌はその時代の世相を映す鑑として、多くの人々に愛され口ずさまれるようになった。

しかし一方で音楽愛好家の間にはクラシック音楽を至上として考え、大衆の中から生まれて来た流行歌を卑俗なものとして蔑む傾向が強くあり、時に過剰な排斥や誹謗中傷が行われることもあった。だが、電気吹込み時代の昭和流行歌はクラシック・洋楽系演奏家による歌唱が主流となり、当時の中間層の娯楽である歓楽街、家庭でも聴けるような流行歌も作られている。

ただし、音楽学校出身者やオペラ歌手が流行歌をレコードに吹き込む時代とはいえ、音楽学校卒業前に流行歌をレコードに吹き込むことは禁止された。特に音楽学校は流行歌でのアルバイトを禁じ、事実東京音楽学校(現・東京藝術大学音楽学部)に通っていた藤山一郎は一時活動休止を余儀なくされ、その後輩である松平晃は同様のアルバイト発覚により退学している。

それ以外にも安易に身を売る女性などをテーマにした唄もあることから、風紀上好ましくないと言う意見も多かった。このため学校などで児童・生徒が唄うことは禁止されていた。

戦後もその傾向は続き、昭和24(1949)年にまだ12歳に過ぎない美空ひばりがデビューした時にも「あんなに幼い少女に流行歌を歌わせるとは何事か」という批判も少なからずあったという。

流行歌がその価値を正当に認められるようになるのは、流行歌の時代が終わってから10年ほど経ち、テレビが家庭に普及して「懐メロ番組」が組まれ、ブームとなって以降のことである。

歴史

流行歌の歴史は戦前・戦中・戦後を通しておよそ30年間に及ぶが、どこを始めとしどこを終わりとするか、その範囲については人によって説が異なる。この項では、その判断については触れずに解説する。

流行歌以前

近現代日本での大衆歌謡の発祥は、明治維新直後までさかのぼることが出来る。

江戸時代の節をつけた瓦版売り「読売」の伝統が、自由民権運動の政治批判・宣伝に用いられ、川上音二郎の「オッペケペー節」をきっかけに壮士演歌として発展、社会問題を扱った「ダイナマイト節」「東雲節」、条約改正問題の「ノルマントン号沈没」、社会風刺の「のんき節」、文芸物の「不如帰」などが添田唖蝉坊らによって作られた。日露戦争前後から、庶民の心情がテーマになり、演歌が艶歌とも言われるようになった。これらの歌はすべて自然発生的なもので、「商業性」を旨とする昭和流行歌の性質には程遠いものであったが、神長瞭月ら演歌師と呼ばれる人々がバイオリンの伴奏で歌って人気を集め、書生節の隆盛による大衆歌謡の基礎が作られていった。

大正期には中山晋平が西洋音楽の手法で劇中歌とはいえ、流行歌を作ったことは画期的であった。「カチューシャの唄」「ゴンドラの唄」などの洋風の旋律は新鮮なイメージをあたえ、インテリ層に受けた。また「船頭小唄」はヨナ抜き短音階で作られ、昭和演歌の基本になっている。これらの歌は「流行り唄」として、演歌師たちが歌い広めた。ヨーロッパのオペラはすでに明治時代から紹介されており、帝劇歌劇部が誕生している。同歌劇部からは、原信子清水金太郎らがイタリア人音楽家ヴィットリオ・ローシーの下でオペラ活動に従事した。それが、浅草オペラとして花が咲き、田谷力三藤原義江ら声楽家が育った、東京の浅草を拠点にした浅草オペラが人気を集めた。人々は「カルメン」の「闘牛士の唄」、「リゴレット」の「女心の唄」などを歌い、演歌師もアメリカの軍歌から「パイノパイ節」、インド民謡から「ジンジロゲ」などを創作、陸海軍軍楽隊や「ジンタ」と呼ばれる宣伝用の音楽隊の活動、ピアノ、ハーモニカの普及などの動きで、日本に海外の音楽が根付き流行歌の母体が生まれていく。また1925(大正14)年のラジオ放送も、音楽普及のメディアとして大きな役割を果たした。

一方、1890年代に録音媒体としてレコード技術が移入され、音楽の録音とその発売という商業活動が始まることになったが、それをもってしてもまだ商業性に乗じた歌は生まれなかった。この頃のレコード吹き込みの内容が講談・落語・浪曲・邦楽などそもそも音楽以外のものが圧倒的であったこと、大正時代に入ると、「流行り唄」は書生節レコードとして、オリエント、帝国蓄音器(後のテイチクとは異なる)ニットーレコードなどから、演歌師たちのレコードが発売されている。また大衆歌謡のレコード制作の態度そのものも「あくまで流行している歌を吹き込んだだけ」、つまりは演歌師たちの歌を聞きつけてレコードにするというもので、レコード会社が能動的に歌を企画・製作するわけではなかった。大正初期、松井須磨子による「カチューシャの唄」や、鳥取春陽の「籠の鳥」「船頭小唄」などは映画主題歌として商業的に成功した例外的な存在であった。

なお、この時期の大衆歌謡を流行歌と区別して「流行り唄」「はやり唄」と呼ぶことが多い。

二村定一と佐藤千夜子

「流行り唄」から、流行歌への移行の胎動が見られ始めるのは、昭和3(1928)年のことである。外資系レコード産業の成立によって、電気吹込みによるレコード歌謡が誕生し、その中で浅草オペラの出身の二村定一が流行歌への先鞭を付けたのである。二村は芸の一部として歌を用い、大正末期からジャズ・ソングをニッポノホンで吹込み、その他にナンセンスなコミックソングを多く歌っていたが、昭和3年に出したジャズ(現在のイージーリスニングにあたる軽音楽の総称)に日本語詞をつけた「あお空」「アラビヤの唄」のヒットにより、井田一郎のバンドでジャズ歌手としての活動も開始する。

一方、声楽家であった佐藤千夜子は、ビクターで昭和3年発売の「波浮の港」を吹込み本格的な流行歌手として登場した。藤原義江が米国ビクターで吹込んだ赤盤と併せてかなりのレコード売り上げをしめした。昭和4(1929)年に「東京行進曲」をヒットさせ歌謡界の女王として「日本最初のレコード歌手」の栄誉を手にすることになる。彼女を昭和流行歌の嚆矢とする説があるゆえんである。

それまで歌手といえば書生節の街頭演歌師であり、洋楽系歌手の登場は昭和の新しい流行歌手の誕生でもあった。しかし多くの歌手は母音に響きだけのビブラートを使って声を張り上げて歌うことが多く、当時の録音技術の未熟さも相まって歌唱が不明瞭になってしまっていた。佐藤千夜子はオペラ調、二村は日本語が明瞭であり、二人の歌唱は非常に画期的であった。のち二村は舞台に専念し佐藤はイタリアへ留学してそれぞれ流行歌の世界から身を引いてしまう。しかしその後佐藤千夜子に刺激を受け、声楽家が流行歌やレコード歌謡に進出するなど、残した影響は大きかった。

これにより2人のレコードを制作していたビクターは、作曲家に中山晋平佐々紅華。作詞家には時雨音羽堀内敬三を擁し、他社を押さえて大きく躍進することになった。

藤山一郎の登場と第一世代

佐藤のヒットから2年後の昭和6(1931)年、コロムビアでアルバイトとして流行歌の制作に携わっていた古賀政男は、同じくアルバイトであった東京音楽学校の学生・藤山一郎と組んで「酒は涙か溜息か」を発表した。ごく短い歌であったが、それまでの大衆歌謡と全く異なる音楽性、そして電気マイクの特質を利用した「クルーン唱法」による情感あふれる歌唱に人々は魅了され、同曲は大きなヒットを飛ばした。藤山は本名増永丈夫といって音楽学校が将来を期待するクラシック音楽生だった。声楽技術の正統な解釈による歌唱は日本語の質感を高め、古賀政男のギター曲の魅力を広めることになった。

これがきっかけとなり、同様の手法による歌が各レコード会社で制作されるようになり、歌手も次々とデビューした。当初「流行小唄」と言われたが一時的なもので、やがて「流行歌」の名称が定着、世間に瞬く間に広がることとなった。

初期の頃は新興分野ということもありレコード会社の勢力も歌手の人気もはっきりしなかったが、昭和11年頃になると大体の勢力範囲が決まり始め、以下の3社が大手の中でも特に大きな勢力として天下を三分することになる。

  • コロムビア
松平晃中野忠晴伊藤久男関種子ミス・コロムビア淡谷のり子
藤山一郎ディック・ミネ楠木繁夫
東海林太郎

この他にも大手といえる規模の会社として、ビクターキングがあった。しかしビクターはかつて主力としていた作曲家の中山晋平が流行歌向きでなかったために時流に乗り遅れたこと、昭和8(1933)年ビクターに入社した藤山一郎は流行歌も歌うが本名の増永丈夫でクラシックを歌う関係上本格的でなく、徳山璉四家文子らもクラシックの声楽家としての活動が主体であり、「涙の渡り鳥」「島の娘」「無情の夢」を作曲した佐々木俊一の台頭、日本調の小唄勝太郎らがビクターを支えていた。昭和15年以後は灰田勝彦の人気が全国的となり、戦前のビクターの看板歌手を代表した。

キングは既に流行歌手として実績を持っていた東海林太郎と専属契約をしたものの、ポリドールに借り出した際に「赤城の子守唄」でヒットを飛ばされ、そのままポリドールと二重契約を認めざるを得なくなったばかりか、相手方でばかりヒットを飛ばされるという目に遭い、結局戦前は中堅以上になれないまま終わった。

またこれにともない、流行歌の作詞・作曲を専門とする作詞家や作曲家が多数出現した。作曲家では古賀政男江口夜詩古関裕而服部良一らを筆頭に、竹岡信幸阿部武雄などが、作詞家では西條八十佐藤惣之助を筆頭に、サトウ・ハチロー藤田まさとらが活躍するようになった。

このような状況の中で、流行歌は庶民の生活に寄り添う形でその制作数を増し続けた。まず、当時の第一の娯楽であった映画とリンクしたことが、普及に大いに役立つことになった。「沓掛小唄」・「旅の夜風」などの主題歌、さらに映画俳優による歌の吹き込みや人気歌手の映画出演、「百万人の合唱」「裏まち交響樂」「鴛鴦歌合戦」などの音楽映画制作が好例である。

また「赤城の子守唄」・「妻恋道中」・「裏町人生」などの正統派の演歌も多く作られ現在も歌い継がれている曲が多い。

さらに「天国に結ぶ恋」・「肉弾三勇士」などの時事問題、「ハイキングの唄」・「波浮の港」・「スキーの唄」などピクニックブームや大島ブーム、スキーブームといった流行を取り入れた作品も発表された。

「祇園小唄」・「茶切節」・「東京音頭」といった「新民謡」という形で地方の風物を歌ったり、時には小唄勝太郎・市丸美ち奴新橋喜代三など芸者を歌手として起用して(芸者歌手)、「島の娘」「明治一代女」を代表作とする邦楽の要素を強く持った曲を打ち出した。また、ディックミネ・淡谷のり子らによる「ダイナ」・「酒が飲みたい」・「別れのブルース」など欧米のポピュラー音楽をベースにした作品は、戦後、笠置シヅ子江利チエミ雪村いづみらに受け継がれポップス歌謡の源流を生み出した。

時代が満州事変から日中戦争へと軍国主義化に進むと、それに呼応して、当時「新天地」とされた満州や中国大陸への憧れを「上海の花売娘」・「満州娘」など「大陸歌謡」という一ジャンルに仕立て上げたりと、さまざまな側面からその世界を拡大し、各々の個性を競い合ったのである。

第二世代の出現・台頭

流行歌の繁栄に伴い、新人歌手の起用も次第に増加してきた。特に昭和10(1935)年以降、それまでのスターダムに続く歌手が相次いで起用され、「第二世代」とでも呼ぶべき一団を作り出した。この時期は藤山一郎・東海林太郎を頂点にし、ディック・ミネ、伊藤久男、灰田勝彦、霧島昇、淡谷のり子、渡辺はま子、二葉あき子らが外国ポピュラーソング、映画主題歌、軍国歌謡などを歌ってヒットを飛ばし戦前の流行歌を豊かにしている。デビューした歌手としてコロムビア霧島昇ポリドール上原敏田端義夫キング岡晴夫などがいる。この時代から登場する歌手は、音楽学校出身者が多かった時代、それとは無縁なところから出てきたことになる。これが演歌系歌謡曲歌手の基本となる。彼らはクラシック・洋楽系の先輩歌手たちと共存、もしくは先輩歌手にとって代わり、流行歌の戦前における最盛期を盛り立てることに貢献した。

この時期の3社の陣容を以下に示す。

  • コロムビア
霧島昇松平晃中野忠晴伊藤久男ミス・コロムビア二葉あき子淡谷のり子渡辺はま子李香蘭(山口淑子)
(コロムビアは当時としては非常に女性歌手の数が多かった)
藤山一郎ディック・ミネ楠木繁夫
(藤山一郎は昭和14年コロムビアへ移籍、楠木繁夫はビクターへ移籍)
  • ポリドール
東海林太郎上原敏関種子青葉笙子田端義夫

この時は戦前で最も流行歌が栄えた時期であった。政治的には日中戦争の勃発、治安維持法制定や検閲基準の改訂を初めとする国民統制の強化など暗い話題が相次いでいるが、社会自体にはまだ余裕があり、庶民は華やかな生活を謳歌することが出来た。

戦時中の暗黒時代

しかし戦争の影は否応なく流行歌の世界にも影を落とし始めた。軍歌は兵士を鼓舞させるために軍隊が作ったものや兵士の間で歌われたものをさす。軍国歌謡は新聞社やレコード会社が企画し、国民の戦意高揚を図ったものである。戦時歌謡は、戦争の時期の流行歌と軍国歌謡を合わせた意味をもつジャンルの名称である。。昭和12(1937)年の「露営の歌」の成功に伴い、このような戦争賛美・国威発揚を目的とした歌が徐々に増え、流行歌の音楽世界を蚕食し始めたのである。「忘れちゃいやよ」・「裏町人生」などのヒット曲が発売禁止になり統制が厳しくなった。昭和15年の「皇紀二千六百年記念」による国を挙げた記念事業も、それに拍車をかけ、人気歌手は戦地に慰問に行くことが多くなった。

戦時歌謡の優勢が決定的となったのが、昭和16(1941)年の太平洋戦争勃発である。これにより国内は戦争一色の状態となり、流行歌も戦時歌謡だらけとなって、それまで何の問題もなかった抒情歌が「女々しい」と発禁処分になる状況となった[3]。昭和18(1943)年頃になると、戦況の厳しさに比例するかのように戦時歌謡も凄惨な内容のものに変わって行き、完全に音楽性が崩壊することになる。そんな状態であったが、「新雪」・「高原の月」・「勘太郎月夜唄」などがわずかながらも作られ、戦時歌謡よりも支持を得た。

レコード産業自体にも統制の手が及び、敵性語追放の名の下にレーベル名や社名を強制変更されたり(「コロムビア」→「ニッチク」、「キングレコード」→「富士音盤」など)、強制合併させられたり、挙句の果てには「不要不急産業」として工場を無理矢理軍需工場に転換されたりと、事実上まともな活動の出来る状態ではなくなってしまった。昭和19(1944)年には「月夜船」以外流行歌は発表されなくなり、この年の7月には人気歌手であった上原敏がニューギニアで戦没、戦前の流行歌はさまざまな形で戦争の被害を受けた。

そして昭和20(1945)年になり、東京大空襲によって東京が壊滅的な打撃を受けると、4月新譜をもってレコードの製造も停止し、完全に休眠状態になった。

戦後の躍進と第三世代

昭和20(1945)年8月14日、日本はポツダム宣言受諾を決定した。これにより戦争という桎梏のなくなったレコード業界は、さっそく復活の狼煙を上げ、各地に従軍や疎開していた歌手や作曲家・作詞家を呼び戻し始めた。そして翌年から早くも活動を再開したのである。

この時、レコード会社は新人歌手の開拓に腐心した。この活動によりデビューしたのが、美空ひばり並木路子など、「第三世代」とでも呼ぶべき歌手である。特に並木と霧島昇がデュエットした「リンゴの唄」は戦後の自由な雰囲気を謳歌する曲として有名である。

だがこのことが、戦前からの歌手にとっては明暗を分けることになった。特にあおりを大きく受けたのが初期の歌手である。昭和一桁の時代から歌い続けている彼らは、古いイメージから脱却しようとするレコード会社の意向にそぐわない存在であった。このため自然と冷や飯食いの待遇となり、多くの歌手が引退を余儀なくされた。移籍して活動を続ける者もあったが、戦前のようなヒットが飛ばせず苦しむことが多かった。戦後も変わらずヒットを飛ばすことが出来たのは藤山一郎などごくわずかな歌手のみである。

一方、第二世代の歌手には逆に好機となった。昭和10年代中盤デビューの彼らは、まだ若い上に充分に活躍する前に戦争に突入しており、力が有り余っていた。これが正の方向に働き、新時代でも活躍が可能になったのである。

また、レコード会社の陣容も変化した。コロムビアテイチクの強さは変わらなかったが、ポリドール東海林太郎の移籍と上原敏の戦病死により大きな柱を失い沈下してしまう。代わりに岡晴夫など第二世代の歌手を多く擁していたキングが台頭し始めた。この時期の3社の陣容は以下の通りである。

  • コロムビア
藤山一郎霧島昇伊藤久男近江俊郎美空ひばり二葉あき子山口淑子(旧李香蘭)
渡辺はま子ビクターへ移籍)
  • テイチク
田端義夫ディック・ミネ淡谷のり子菅原都々子
  • キング
岡晴夫小畑実津村謙松島詩子

この新旧相交ざった状態が昭和20年代中頃まで続き、その中で藤山一郎と奈良光枝のデュエットによる「青い山脈」など、戦後流行歌が数多く生まれた。

藤山一郎のレコード歌手引退

このように当初は比較的融和的であった戦前派と戦後派であったが、次第に若い戦後派の勢力が増し、音楽性も戦後の明るさを強調する目的から戦前とは違う発展を遂げ始めた。

これに戸惑ったのが戦前派の歌手である。彼らの多くは昭和28(1953)年を過ぎる頃からヒットが出にくくなってきた。

特に流行歌界に衝撃を与えたのが、藤山一郎のレコード専属歌手としての引退宣言である。初期デビューの歌手の中で唯一最前線に立っていた藤山も、昭和28年以降なかなか目立ったヒットが出づらくなっていた。さらに彼自身、今の流行歌界の現状に強い不信感をおぼえ「今の唄はパチンコ・ソングが多い」と批判していた。このようなことから昭和29(1954)年に引退を決意し、23年間のレコード専属歌手生活に終止符を打ったのである。そして、本来の藤山一郎の音楽に戻り、NHKの音楽放送を通じてクラシックの小品、内外の歌曲、ホームソング、家庭歌謡の普及に努めた。また、紅白歌合戦では東京放送管弦楽団の指揮者として出場し、社歌、校歌などの作曲を手掛け、指揮者・作曲家としても活躍した。

これにより戦前派の歌手は昭和30年代半ばまで紅白歌合戦に出場していたとはいえ、ヒットの表舞台からほぼ去り、流行歌界は演歌系歌手の戦後派の天下となった。

音楽性の変容

戦前派の撤退を横目に、新人歌手の開拓は続いていた。ビクターは鶴田浩二三浦洸一、テイチクは三波春夫、コロムビアは島倉千代子村田英雄がそれぞれデビュー。特にキングは昭和20年代末から30年代にかけて、春日八郎三橋美智也をデビューさせ、戦前とは比べ物にならない勢いを誇った。また石原裕次郎ザ・ピーナッツなど、新しいタイプの歌手も次々登場した。特にザ・ピーナッツは日本では事実上「演歌か洋楽か」の二者択一しかなかった日本の歌謡界に和製ポップスを持ち込んで話題となり、以後の日本歌謡における多ジャンル化への契機ともなった。

このように戦後派が天下を取る状況となったことにより、流行歌の音楽性は大きく変容した。器楽的な部分はなりを潜め、のちの「演歌」や「歌謡曲」に通じるような曲が多く生まれた。このため、この時期の「第四世代」ともいうべき歌手を「流行歌歌手」として認めない意見も多い。

演歌の分離と終焉

流行歌の変容は昭和35(1960)年頃に差しかかると完全に歯止めが利かなくなり、なし崩し的に解体が始まった。そして昭和38(1963)年、コロムビアの一レーベルであったクラウンが「日本クラウン」として分離独立し「演歌」を専門とするようになる。流行歌が分裂した瞬間であった。

またその前年、昭和37(1962)年にはSPレコードの生産が打ち切られた。昭和30年代に入って急激に生産量が増えたLPレコードにSPレコードは圧倒されていたが、ここに至ってついに駆逐されるに至ったのである。現象としては新旧技術の交替であり偶然時期が一致したにすぎないが、SPレコードは長らく流行歌の担い手であっただけに、流行歌の命脈が尽きかけていることを暗示する出来事となった。

そして分裂と媒体消滅に追い打ちをかけるように、それと同時進行的に英米からザ・ビートルズに代表される新しい音楽が大量に流入し、音楽界は一気に多様化することになる。

流行歌の終焉後

その後1960年代にデビューした弘田三枝子がザ・ピーナッツの和製ポップスに続いてリズム・アンド・ブルースのジャンルを日本に持ち込み、日本歌謡界における楽曲ジャンルの多ジャンル化に拍車が掛かり、以後1990年代J-POPやラップなどのジャンルが誕生するなどし、現在に至るまで日本の楽曲は多種多彩なジャンルが生まれている。

このようなことからもはや日本の大衆音楽は流行歌時代のようにひとくくりに出来るものではなくなり、1980年代後半頃をもって事実上「流行歌」は終焉を迎えた。

そして流行歌にたずさわった歌手や作詞家・作曲家たちも、演歌歌手に転向したり歌謡曲と違う分野に転身したりと散り散りになり、やがて多様化する音楽分野の波の中に埋没して行った。

戦時歌謡

軍歌の項も参照のこと

流行歌に特徴的なこととして、上述した通り太平洋戦争の時代を通ったために、戦争と密接に関わり合ったということがある。その具体的な産物が戦争自体や軍の進撃を讃美したり、戦時体制などのプロパガンダを歌ったりして、士気高揚を狙う「戦時歌謡」である。昭和12(1937)年頃から姿を現し、16年の太平洋戦争開戦後一気に流行歌の世界を乗っ取った。

概要

「士気高揚」ということで極めて勇ましいイメージがあるが、その一方で開戦前までは上原敏の「上海だより」「声なき凱旋」・近衛八郎の「ああ我が戦友」・音丸の「皇国の母」など兵士の望郷の念や戦友への思い、留守家族の気持ちを歌った叙情的な曲も多かった。また塩まさるの「九段の母」のように、一見すると戦時体制を讃美する内容であるが実は違う、というギミックが入っている歌もあった[4]

しかし昭和16(1941)年の太平洋戦争開戦後、このような叙情的な戦時歌謡は「女々しい」と歌唱が禁止された[5]。さらに当時流行歌の大半が戦時歌謡と化していたため、流行歌の世界に「前線の戦い」と「銃後の守り」、そしてプロパガンダを叫ぶ歌ばかりがあふれることになる。末期になると残酷な歌詞も平気で使われるようになり、結果的に音楽としての価値を損なう結果となった。

戦時歌謡は戦争の産物であるため戦中の作がほとんどであるが、戦後もシベリア抑留に遭い境遇と生還の思いを現地で歌った「異国の丘」やシベリア抑留からの復員の喜びを描いた「ハバロフスク小唄」[6]、異国の戦犯裁判の悲劇を歌った「ああモンテンルパの夜は更けて」、引き上げ船を歌った「かえり船」など少数ながら作例がある。また、ジャワの民謡「ブンガワンソロ」が戦後藤山一郎、松田トシによって歌われるなど、日本軍占領地の唄が逆輸入されたことも見逃せない。

これらの戦時歌謡はほとんどの場合、他の流行歌と共通の作詞家・作曲家によって作られている。ただし誰でもよいわけではなく、勇ましい作風を持つ作曲家が選ばれ、古関裕而江口夜詩がその代表格となった。一方、服部良一のようにモダンな作風の作曲家は不遇な目に遭わされることになった。

しかし戦後、これらの作詞家・作曲家の中には戦争賛美に加担したことを悔い、罪悪感にさいなまれた者も少なくない。たとえば、古関裕而は大戦末期に作曲した『比島決戦の唄』について、「……私にとっていやな歌で、終戦後戦犯だなどとさわがれた。いまさら歌詞も楽譜もさがす気になれないし、幻の戦時歌謡としてソッとしてある。」と証言している(古関裕而『鐘よ鳴り響けー古関裕而自伝』主婦の友社 1980年)。

戦時歌謡はメディアによる制作も行われた。1936年6月1日「国民歌謡」がNHKで開始された。人気曲はレコード化されて大ヒットした。それには、「朝」・「椰子の実」・「春の唄」など今日も愛唱されている作品があるが、「愛国の花」・「隣組の唄」・「めんこい仔馬」・「国民進軍歌」など明らかにプロパガンダ的要素の強い作品も多い。

「大陸歌謡」との関係

戦後一時期、「大陸歌謡」と呼ばれる歌謡群が戦時歌謡と同一視されていたことがある。大陸歌謡とは、日本が戦争中に直接もしくは間接的に占領した満州上海など中国大陸を舞台にした歌で、地名や文物を交えながら、新天地を求めてさすらう旅人の哀愁や望郷の念、また男女の別れや慕情を歌った叙情歌である。舞台から「満州物」「上海物」、この分野を打ち立てた松平晃の「急げ幌馬車」の影響でよく幌馬車がアイテムとして使われたため「幌馬車物」とも呼ばれる。

この大陸歌謡は戦争で日本が大陸進出をしなければ、およそ作られることもなかった歌であることも確かであるが、戦時歌謡と違って戦争に関する明確な描写が存在せず、またそれが歌の目的でもないことに留意すべきであろう。ただ単に舞台が日本の占領地であるというだけで、本質的には純粋な叙情歌・恋愛歌なのである。

事実昭和9(1934)年の発生時から一定の数を保って来た大陸歌謡は、開戦で戦時歌謡が優勢となる16年前後から急激に数を減らし、敗戦を待たずに消滅している。このことは当時から大陸歌謡が戦時歌謡と別物と見なされていたことを物語っている。

また大陸歌謡の叙情は、戦後発生した演歌の大きな主題の一つである「北へのさすらい」の原形であるとも言われる。この点も戦後その痕跡を残さなかった(残せなかった)戦時歌謡と大きく異なる。

「軍歌」

戦時歌謡は一般的に「軍歌」とも呼ばれることが多い。しかし「軍歌」の定義は本来は「軍隊の中で作られて歌われた歌」のことなので、商業的に外部で作られた戦時歌謡は本来的にはあてはまらず、単に戦争関係だからと十把一からげにして呼ばれているだけに過ぎない。

この「軍歌」呼ばわりにより、流行歌の知識が不足している人よりあらぬ誤解を受けることも多いことから不快感を示すファンも多く、歌手でも東海林太郎は自分の「麦と兵隊」が「軍歌」呼ばわりされるのを嫌い「あれは戦時歌謡で軍歌ではない」とわざわざコメントしたほどである。

音源復刻

流行歌ではSP盤を直接聴く以外に「音源復刻」の形で音源を聴くことが出来る。SP盤は骨董品で高価である上に普通のレコードプレーヤでは聴くことが出来ないため、 LP・EP盤、またはCDが普及した現状にあって「復刻」の形で媒体変換することが求められるのである。

CD全盛期の現在においてLP・EP盤を媒体変換してCD化するのと同じ感覚であるが、これに対し「高音域がカットされて味がない」との批判があるように、SP盤からの変換にも「ディレイをかけすぎている」などの批判が少なからずある。

各社の復刻状況

音源復刻に関しては現存するどのレコード会社も行っているが、その状況については会社によって大きく異なる。

  • 年代別

 昭和40年代

第一次懐メロブームの時期でもあり、またレコード購入層が当時“リアルタイム”だった世代でもある。ステレオ音源に似せたいわゆる疑似ステレオ化されたものが多く、歴史資料的にみると音は醜いものが大半である。また、復刻された曲はヒット曲がメインである。

 昭和50年代

昭和初期創業した各社が創業50周年の節目を迎え、歴史的資料(ノン・ヒット曲を多く収録)としての復刻をしたものが各社から発売された。特にコロムビアから発売された30枚組がレコード大賞特別賞を受賞した。他にビクターから戦前10枚・戦後8枚(のちさらに30枚組)、ポリドールから戦前・戦後それぞれ10枚組、キングから25枚組、テイチクから10枚組、ニットー・タイヘイ・マーキュリーから24枚組(通販のみ、元々25枚組だったが最後の1枚は諸般の理由によりカット)と組み物として発売されている

 昭和60年代~平成初期

21世紀を迎えさらに20世紀の遺産としての位置づけで未復刻のものを中心にCDとして発売されている。

 

  • コロムビア
最も積極的に復刻を行っている。昭和30年代に既に復刻を行った実績があり、昭和40年代頃から次々と自社の持つ大量のSP音源を利用して歌手別の復刻を行った。特にごく一時期しか在籍しなかった楠木繁夫津村謙など、会社内ではマイナーな存在である歌手の音源を大量に復刻したのは他社に例がない。CD時代になっても定期的にSP音源を復刻し続け、最近では「音聴盤」と称する廉価の復刻盤も販売している。
  • テイチク
流行歌時代からある会社の中でも特に消極的。「流行歌」そのものの復刻には積極的であるものの、その音源は後述のステレオ音源に頼っており、楠木繁夫などステレオ音源がない歌手以外、SP音源はほとんど復刻された実績がない。同社を大手にのし上げた藤山一郎のものですら過去数えるほどしか復刻されていない。ようやく平成期に、デイック・ミネ、古賀政男の作品集上下二巻、ジャズソング全集が出た程度である。
  • ポリドール
復刻には比較的積極的であるが、東海林太郎上原敏に大きく比重が偏っている。同社の流行歌時代はこの2人が牽引したと言っても過言ではなく、また現在でも根強い人気があることから集中的に復刻が行われていると考えられる。ただし、CD全集になると東海林は出ているが上原のはまだ出ていない。また、田端義夫・北廉太郎など他の歌手については、何度か個人で復刻された実績のある歌手もいればオムニバスなどで思い出したようにしか復刻されない程度の歌手もいるなど、各々の歌手間で差が大きく不均一で、その点ではコロムビアに劣る。
  • キング
復刻には積極的。同社の勢力が大きかったのが戦後であるため戦後の曲が中心であるが、歌手別の復刻盤を出すなど他社に負けていない。全集類では戦前の曲や会社設立期の曲も積極的に復刻し、非常に貴重な音源を提供する。
  • ビクター
昭和の終わり頃まで金属原盤をほぼ完全な形で保管していたこともあって他社と異なり戦前の曲は“原盤”から、戦後の曲は他社同様“盤起こし”でほぼ流行歌時代全てに渡って復刻を行っている。歌手別の復刻盤も出しており、特に藤山一郎については熱を入れて何度も復刻。コロムビアとテイチクにはさまれて影が薄れがちなビクター時代の貴重な音源を提供している。

このほか、会社同士の協力による横断復刻が行われた例がいくつかあるが、そもそも流行歌の復刻自体が「需要が少ない」と軽視されている面があるため、どの会社も相互協力には腰が重く、大部なものしか発売されたことがなかった。しかし2008(平成20)年1月、上記の大手5社の協力で「青春歌年鑑」シリーズの姉妹盤として「青春歌年譜」シリーズがCD2枚組・全10巻という比較的手に入れやすい形で発売され、会社をまたいだ流行歌の鑑賞が楽に行えるようになった。

ステレオ音源

昭和40年代の「懐メロブーム」により、当時存命であった流行歌手はテレビに出演するだけでなく、新たに過去の曲を録音し直した。これは当時実用化されて間もないステレオ録音によるものであり、一般的に「ステレオ音源」と呼ばれてSP原盤の音源と区別する。

しかし再録音する際にたいていの場合編曲し直しているため、ファンの受け止め方はさまざまで、ステレオ音源の編曲をさかしらとして嫌悪感を持つ者も少なくない。また復刻をSP原盤ではなくステレオ音源主体で行うこともあり、原盤を聴きたいと願うファンから顰蹙を買っている[7]

その他

  • マイナーレーベル
流行歌の発生以後、雨後の竹の子のごとくレコード会社が乱立した。しかしメジャーになれたのはごく一握りで、あとは非常に弱体で泡沫的な零細会社であった。このような会社を総称して「マイナーレーベル」と呼ぶ。
これらの会社の中には後のスター歌手の踏み台として使われたものもあったが、多くはどこの誰とも知れない人物の歌を出し続け、数年で潰れる場合が多かった。ひどい場合には大手レコード会社の盤から無理矢理型を取って偽物を作るものもあったといわれ、当時のレコード産業の実態を垣間見ることが出来る。なおテイチクも元はマイナーレーベルであったが、古賀政男藤山一郎を引き抜いたことで一気に大手にのし上がっている。
  • 夜店でのレコード販売
現在では考えられないことであるが、戦前にはレコード店以外に夜店で流行歌のレコードが売られることがあった。その多くは上述のマイナーレーベルのもので、その非常に軽い扱いは当時の流行歌の地位の低さを象徴的に示す事象ともいえる。なお霧島昇はこの夜店販売のレコードに吹き込んだ歌がコロムビアの社員に注目され、メジャーデビューした経歴を持つ。
  • 廉価盤・普及盤・大衆盤
初期の流行歌では、しばしば以前のヒット曲を「廉価盤」「普及盤」「大衆盤」と称して再発することがあった。多くは盤のカップリングを変える程度であったが、まだ零細会社であった頃のテイチクは、松平晃がコロムビアでメジャーデビューした直後、過去「松平不二夫」名義で自社で出した曲を曲名を変更した上「松平晃」名義で再発するという大胆な行動に出たことがある。この件についてコロムビアから何らかの抗議がなかったのかは不明である。
なお終戦直後の混乱期に、各社で戦前の曲で戦時色のないものが再発されている。これは名目上は一連のシリーズ物であったが、実態は戦前の再発盤と変わらないものであった[8]

注釈

  1. ^ 元が総称であるがゆえに混同・誤解されやすく、人によってはわざわざ「戦前流行歌」と時代を強調する場合もある(もっとも流行歌には戦後の曲も入るため適切な表現ではない)。
  2. ^ 実際には東海林太郎のように本名で歌うケースや、違う会社でありながら同じ名前を使用するケースがあったりと、はたから見ると正体を隠す気がないのではないかと思われる例が多々見られる。一種の形骸化した習慣と見るべきであろう。
  3. ^ 高峰三枝子の「湖畔の宿」が有名。ただし実際には前線の兵士の間でも支持を得てヒット曲となった。
  4. ^ 地方から老母が戦死した息子を弔いに招魂社(靖国神社)に来る姿を描いた歌で、招魂社讃美の歌。しかしこの老母が都会や戦時体制にすれていない姿に描かれており、当時の戦時体制がそれまでの常識に外れた異常なものであることを風刺した歌とも読める。
  5. ^ この禁止は戦時歌謡だけでなく、明治時代に作られた軍歌にまで及ぶというかなりヒステリックなものであった。
  6. ^ ただしこの曲は収容所で覚えた歌を書き起こしたものであったため、発売後に、昭和15年林伊佐緒による『東京パレード』の替え歌だったとわかり発売中止になった。
  7. ^ 他にも本人が既に死亡している場合、別の歌手に歌わせて無理矢理にステレオ音源として収録し復刻にあてる例もある。こうなるともはやカヴァーであって「復刻」ですらないが、レコード会社はこの矛盾について一切触れることなく販売している。
  8. ^ ただ戦争直後ということもあって混乱していたのか、松山時夫の「片瀬波」を誤って松平晃の曲として再発してしまい、後世ファンを混乱させるなど問題のあるシリーズでもあった。この「松山時夫」=「松平晃」については「片瀬波」作詞者の高橋掬太郎が真っ向から否定しているが、今も一部の楽譜集には誤って松平晃の曲のまま掲載されている。