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新羅三郎義光の子[[平賀盛義|盛義]]が[[佐久郡]]平賀邑を有したことに始まり、子の[[平賀義信]]の代に、源氏[[御門葉]]として、また[[御家人]]筆頭として平賀氏は隆盛を誇ることになる。
新羅三郎義光の子[[平賀盛義|盛義]]が[[佐久郡]]平賀邑を有したことに始まり、子の[[平賀義信]]の代に、源氏[[御門葉]]として、また[[御家人]]筆頭として平賀氏は隆盛を誇ることになる。


義の子[[平賀惟義|惟義]]は建久6年(1195年)には父義信の後を継ぐ形で武蔵守となる。その後は京に戻り、幕府から伊勢・伊賀・越前・美濃・丹波・摂津という近畿6ヶ国の守護を任され、更に朝廷から駿河守にも任ぜられている。
の子[[平賀惟義|惟義]]は建久6年(1195年)には父義信の後を継ぐ形で武蔵守となる。その後は京に戻り、幕府から伊勢・伊賀・越前・美濃・丹波・摂津という近畿6ヶ国の守護を任され、更に朝廷から駿河守にも任ぜられている。


惟義の弟[[平賀朝雅|朝雅]]は[[北条時政]]の娘を妻としたが、義父時政の寵愛が災いし、[[元久]]2年([[1205年]])牧の方が朝雅を将軍にしようとした陰謀([[牧氏事件]])が発覚、朝雅は京都で誅された。
惟義の弟[[平賀朝雅|朝雅]]は[[北条時政]]の娘を妻としたが、義父時政の寵愛が災いし、[[元久]]2年([[1205年]])牧の方が朝雅を将軍にしようとした陰謀([[牧氏事件]])が発覚、朝雅は京都で誅された。

2011年2月5日 (土) 13:44時点における版

平賀氏(ひらがし)は、日本の氏族。

信濃平賀氏

概要

新羅三郎義光の子盛義佐久郡平賀邑を有したことに始まり、子の平賀義信の代に、源氏御門葉として、また御家人筆頭として平賀氏は隆盛を誇ることになる。

義信の子惟義は建久6年(1195年)には父義信の後を継ぐ形で武蔵守となる。その後は京に戻り、幕府から伊勢・伊賀・越前・美濃・丹波・摂津という近畿6ヶ国の守護を任され、更に朝廷から駿河守にも任ぜられている。

惟義の弟朝雅北条時政の娘を妻としたが、義父時政の寵愛が災いし、元久2年(1205年)牧の方が朝雅を将軍にしようとした陰謀(牧氏事件)が発覚、朝雅は京都で誅された。

朝雅の死後(北条時政の失脚後)も惟義の権威は揺らがなかったが、鎌倉幕府内では執権北条氏の権威が確立し、当初は御家人筆頭であった席次も北条氏の下座に着くようになる。また惟義の後を継いだ惟信は、承久3年(1221年)の承久の乱で京方に付き、平賀氏は没落する。

その後は、平賀郷の在地豪族などが平賀姓を名乗っていたが、信濃源氏小笠原氏の庶流大井氏の勢力下となり、庶流の岩村田大井氏出身の平賀玄信が記録に残されている(江戸時代の平賀源内は、この岩村田大井氏系平賀氏の子孫を名乗った)。

平賀玄信の滅亡後、一族は奥州の白石に移り伊達氏に仕え、名字を白石に改めた。明治維新後は平賀家に復姓した。

家系

安芸平賀氏

概要

安芸平賀氏は太政大臣であった藤原良房の後裔を称し、松葉資宗を始祖としている。資宗は源頼朝に協力して源平合戦で数多くの功を挙げ、出羽平鹿郡安芸高屋保、上総桜尾郷、越中油田条を与えられた。松葉資宗の子、松葉惟泰の頃に出羽平鹿郡に下向、在所の名を取って平鹿氏(平賀氏)を称した。文永11年(1274年)頃に平賀氏の一族が元軍の攻撃に備えて、大陸や半島に近い他の御家人らと共に西国に下向。そのまま所領の安芸高屋保に御薗宇城を築いて居城とした。

鎌倉幕府が滅亡すると、高屋保を領していた平賀共兼足利尊氏に従って活躍した。しかし、庶長子であった共兼は平賀氏の惣領であった弟の平賀直宗と家督相続で対立。この抗争に直宗が勝利した結果、直宗が高屋保に下向して高屋保の支配にあたった。これより平賀氏の本拠は安芸高屋保となり、出羽平鹿郡等は徐々に失われていった。

安芸国人領主となった平賀氏は勢力の拡大に腐心し、近隣の国人との連携を深めていった。応永の安芸国人一揆でも指導的役割を果たし、毛利氏の家督を巡る内紛にも介入して、毛利宗家と庶家の和解に尽力した。戦国時代に入ると、当主の平賀弘保文亀3年(1503年)に白山城を新たに築いた。永正5年(1508年)、周防長門大内義興足利義稙を奉じて上洛した際には、弘保も他の安芸国人と共に上洛して、船岡山の戦い等でもで活躍した。

その後、大内氏尼子氏両者の争いが激化した。大永3年(1523年)6月、大内方の鏡山城が落城すると、平賀弘保は居城であった白山城の防備に不安を感じ、近隣の頭崎山に頭崎城を築城。嫡男の興貞を城主とした。ところが、興貞は父の意向を無視して尼子氏に属し、大内方に味方した弘保と孫の隆宗新九郎(後の広相)兄弟で争いを繰り広げることとなった。

天文9年(1540年)、大内義隆の命を受けた毛利元就が高屋保へと進出、頭崎城を攻略した。敗れた興貞は出家して、平賀氏の家督は興貞の嫡子である隆宗が相続した。隆宗は大内方として活躍するが、天文18年(1549年)に備後神辺城を攻撃中に死去した。弘保は家督を新九郎に継がせようと考えたが、大内義隆の策謀によって平賀氏の家督は小早川氏庶流の義隆の寵童が改名して相続し、平賀隆保と名乗った。

天文20年(1551年)に大寧寺の変で大内義隆が陶隆房によって殺害されると、陶方に味方していた毛利元就は、大内方であった頭崎城の隆保を攻めて自殺させ、家督を新九郎に継がせた。新九郎は広相と改名、毛利氏との関係強化に努め、近隣の小早川氏に養子に入った小早川隆景と義兄弟の仲となり、国人としての自律性を有しながらも毛利氏への従属を深めていった。永禄10年(1567年)に広相が死去すると家督は嫡男の元相が継いだ。

毛利氏が最大勢力を築いていた頃には、平賀氏の所領も最大となり1万8,000石を領する規模まで成長していた。しかし、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、毛利氏が防長移封となると、平賀氏もそれに随行して移住し、所領も4,000石と大幅な厳封となった。所領が大幅に減ったため、元相はそれに苦悩して翌年の慶長6年(1601年)に家禄を返上して上洛。京都での隠棲生活に入った。

後に嫡男の元忠が300石の毛利家臣として復帰。なおも京都に住み続けた元相であったが、寛永13年(1636年)に孫の就忠からの要請を受けて萩に戻り、99歳で大往生を遂げた。平賀氏はその後も毛利氏家臣として続いた。

家系

関連項目