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| 身長 = 184cm
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| 体重 = 73kg
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| 所属 = チーム・レオパード
| 所属 = チーム・レオパード・トレック
| 分野 = ロードレース
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| 役割 = 選手
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[[2009年]]も12年ぶりの開催となった[[ジロ・ディ・サルデーニャ]]でステージ1勝&総合優勝と好調な滑り出しを見せたが、[[ティレーノ〜アドリアティコ2009|ティレーノ〜アドリアティコ]]で落車して腿を負傷。この負傷が長引いて[[ジロ・デ・イタリア 2009|ジロ・デ・イタリア]]欠場を余儀なくされた。復帰後も以前の強さは鳴りを潜め、[[ツール・ド・フランス2009|ツール・ド・フランス]]ではステージ9位が最高と、ほとんどスプリント争いに絡めず。[[ブエルタ・ア・エスパーニャ2009|ブエルタ・ア・エスパーニャ]]でも度々スプリントには絡むものの、ステージ優勝はあげられなかった。
[[2009年]]も12年ぶりの開催となった[[ジロ・ディ・サルデーニャ]]でステージ1勝&総合優勝と好調な滑り出しを見せたが、[[ティレーノ〜アドリアティコ2009|ティレーノ〜アドリアティコ]]で落車して腿を負傷。この負傷が長引いて[[ジロ・デ・イタリア 2009|ジロ・デ・イタリア]]欠場を余儀なくされた。復帰後も以前の強さは鳴りを潜め、[[ツール・ド・フランス2009|ツール・ド・フランス]]ではステージ9位が最高と、ほとんどスプリント争いに絡めず。[[ブエルタ・ア・エスパーニャ2009|ブエルタ・ア・エスパーニャ]]でも度々スプリントには絡むものの、ステージ優勝はあげられなかった。


[[2011年]]、[[チーム・レオパード]]に移籍。
[[2011年]]、[[チーム・レオパード・トレック]]に移籍。


== タイプ ==
== タイプ ==

2011年2月4日 (金) 03:39時点における版

ダニエーレ・ベンナーティ
Daniele Bennati
ダニエーレ・ベンナーティ
個人情報
本名 ダニエーレ・ベンナーティ
Daniele Bennati
生年月日 (1980-09-24) 1980年9月24日(43歳)
国籍 イタリアの旗 イタリア
身長 184cm
体重 73kg
チーム情報
所属 チーム・レオパード・トレック
分野 ロードレース
役割 選手
特徴 スプリンター
プロ所属チーム
2002
2003
2004
2005–2007
2008–2010
2011–
アクア&サポーネ
ドミーナ・ヴァカンツェ
フォナック
ランプレ・フォンディタル
リクイガス
チーム・レオパード
グランツール最高成績
主要レース勝利
ツール・ド・フランス 区間通算2勝
ジロ・デ・イタリア 区間通算3勝
ブエルタ・ア・エスパーニャ 区間通算3勝
ジロ・デ・イタリア ポイント賞 (2008)
ブエルタ・ア・エスパーニャ ポイント賞(2007)
ツール・ド・スイス ポイント賞(2006-2007)
ドイツ・ツアー ポイント賞(2005)
最終更新日
2010年12月26日

ダニエーレ・ベンナーティ(Daniele Bennati、1980年9月24日- )は、イタリアアレッツォ出身の自転車競技選手。2002年にプロデビュー。現在のロードレース界におけるトップスプリンターの一人。

ステージレースのポイント賞部門では常に上位に食い込む活躍を見せ、ステージ優勝も多数収めている。

経歴

2002年にアクアサポーネ・カンティーナトッロでプロデビュー。翌年のツール・ド・ポローニュ の第3ステージで勝利するなどしてスプリンターとしてのキャリアを積んでいく。2003年はドミーナ・ヴァカンツェで1シーズンだけマリオ・チポリーニといっしょに走った(後年のインタビューでチポリーニはアシストたちがベンナーティをアシストするようになったのを見て、自身の引退の時期を考えるようになったと語っている)。

そしてランプレ・カッフィータへ移籍した2005年に春先のヘント〜ウェヴェルヘム で3位に入る。さらに8月のドイツ・ツアーでは第3、第5、第9ステージで優勝してポイント賞を獲得。その後もツール・ド・ポローニュの第2、第4ステージで優勝。秋もGP西フランス・プルエー4位、パリ〜ツール 2位など年間を通して活躍した。翌2006年にもカタルーニャ一周の第7ステージでの優勝やツール・ド・スイスのポイント賞獲得など安定した成績を残した。

そして 2007年は春のデ・パンネ3日間の第1ステージで勝利してポイント賞を獲得。さらにツール・ド・スイスでは2年連続のポイント賞獲得を果たして好調のまま臨んだツール・ド・フランスにおいて、第17ステージで小集団での逃げを決めてスプリント勝利。念願のグランツール初勝利を達成し、最終ステージでもトル・フースホフトエリック・ツァベルらを抑えて2勝目をあげた。

さらにブエルタ・ア・エスパーニャでは、第1ステージを制してマイヨ・オロを1日着用。さらにその後の第17ステージでも勝利。さらに最終ステージでも勝利してデニス・メンショフからポイント賞を奪い取り、メンショフの四賞独占を阻止する大活躍を見せた。

リクイガスに移籍した 2008年ツール・ド・ロマンディでステージ優勝&ポイント賞を獲得。ジロ・デ・イタリアでは、第3、9、12ステージで勝利し、2位のエマヌエーレ・セッラに60ポイントの差をつけてポイント賞のマリア・チクラミーノを獲得した。その後、ジロ期間中に左足を痛めた影響もあってツール・ド・フランスへの出場は見送ったが、エネコ・ツアーでステージ1勝、ブエルタ・ア・エスパーニャでもステージ1勝(これ以外にチームTTでも1勝)、さらに第4・第5ステージにマイヨ・オロを着用した。そしてシーズン終盤のジロ・デル・ピエモンテも制して大活躍のシーズンを締めくくった。

2009年も12年ぶりの開催となったジロ・ディ・サルデーニャでステージ1勝&総合優勝と好調な滑り出しを見せたが、ティレーノ〜アドリアティコで落車して腿を負傷。この負傷が長引いてジロ・デ・イタリア欠場を余儀なくされた。復帰後も以前の強さは鳴りを潜め、ツール・ド・フランスではステージ9位が最高と、ほとんどスプリント争いに絡めず。ブエルタ・ア・エスパーニャでも度々スプリントには絡むものの、ステージ優勝はあげられなかった。

2011年チーム・レオパード・トレックに移籍。

タイプ

全身のバネを生かしたスプリントでステージ優勝を量産するスプリンター。しかし、ある程度の独走力も有しており[1]、しばしば逃げ集団に乗ってステージ優勝を狙う(前述の通り、グランツール初勝利も逃げ集団に乗ってのスプリント勝利である。)。上りもある程度こなし、山岳ステージでは集団の牽引役を担当することもある。

主な戦績

グランツール

  • ブエルタ・ア・エスパーニャ ポイント賞(2007年)
  • ジロ・デ・イタリア ポイント賞(2008年)

ステージレース

  • ドイツ・ツアー ポイント賞(2005年)
  • ツール・ド・スイス ポイント賞 2006年2007年
  • ツール・ド・ロマンディ ポイント賞 (2008年)

ワンデーレース

脚注

  1. ^ 2008年のジロ・デ・イタリア最終ステージの個人TTでは優勝のマルコ・ピノッティから24秒遅れの7位、2009年のブエルタ・ア・エスパーニャ第1ステージで首位カンチェラーラから16秒差で5位、第7ステージの個人TTでは途中パンクのアクシデントがありながらも、カンチェラーラから1分12秒遅れの16位に食い込んでいる。

外部リンク