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2011年1月28日 (金) 10:01時点における版

ミカエル1世コムネノス・ドゥーカスΜιχαήλ Άγγελος Κομνηνός Δούκας, Michael Angelos Komnenos Doukas, ?-1215年)は、エピロス専制侯国の初代専制公(在位:1204年 - 1215年)。尊厳公(セバストクラトル)・ヨハネス・アンゲロス・ドゥーカスの庶子。父ヨハネスは東ローマ帝国皇帝イサキオス2世アレクシオス3世の父アンドロニコス・アンゲロスの兄弟であり、従ってミカエルは両帝の従兄弟という親族関係となる。

1204年、第4回十字軍の攻撃を受けて東ローマ帝国が滅びると、ミカエル1世は一時、テッサロニキ王国ボニファチオに仕えた。翌年、ギリシャ西岸にあるアルタを本拠地として独立国・エピロス専制侯国を建国した。ミカエルの専制公称号は彼が独自に名乗ったものであり、それまでの専制公のように皇帝から与えられたものではなかった。

その後はラテン帝国からコンスタンティノポリス奪還を目指して、ギリシャ人のラテン帝国への抵抗を指導した。ミカエル1世はラテン帝国との戦いを優勢のうちに進め、1215年にはコリントス湾からアルバニアに至る西北ギリシアを支配し、バルカン半島に一大勢力を築き上げたのである。しかし同年、ミカエル1世は暗殺されてしまった。

先代
エピロス専制公
1204-1215
次代
テオドロス1世ドゥーカス