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2011年1月21日 (金) 17:57時点における版

曹 爽(そう そう、? - 249年)は、昭伯曹操従子(おい)に当たる大司馬曹真の長男であり、宗室の身分である。

略歴

東宮(皇太子)時代から明帝曹叡)の寵愛が厚く、明帝が即位すると散騎常持になり、やがて武衛将軍になるなど、取り分け厚遇されていた。
239年に明帝が病床に伏すと、曹爽は大将軍の位を賜り、司馬懿と共に明帝の猶子である、皇太子曹芳(一説では曹彰の孫)の補佐をすることを命じられた。

明帝が36歳で崩御して、太子の斉王(曹芳)が即位すると、曹爽は侍中の位を与えられ、「剣履上殿」「入朝不趨」「謁讚不名」(剣を帯び、靴を履いたまま昇殿し、小走りに走らずともよく、皇帝に目通りする際は実名を呼ばれない)と言う特権を与えられた。
初めは司馬懿に対して父親に等しい対応で接していたが、何晏ら取り巻きの提言で権力を独占しようと画策し、司馬懿を太傅に祭り上げて、事実上の名誉職に追いやることで彼の権力を押さえ込もうとした。しかし、司馬懿の軍事的実績は重く、その軍権はそのままだった(曹爽も司馬懿の軍権を保証するため、司馬懿の大司馬兼任を推挙したが、不吉な先例があったとして却下されている)。一方曹爽の取り巻きは、名声はあるものの実績が乏しかった。そこで、大功を立てようとして244年正始5年)に蜀漢征伐を試みるが、険しい地形に阻まれて大軍を維持する補給が滞り、蜀の漢中太守であった王平の頑強な抵抗もあって無惨にも失敗している。また何晏達が政治を壟断したため、魏の政治は乱れることになった。司馬懿はこの状況を憂慮し、また自身の身を案じて、「自分は高齢である」という理由で、病気と称して引き籠ってしまう。

魏は文帝(曹丕)以来、皇族などの近親者を政治・軍事両面から遠避ける政策を採っていた。遠縁の曹冏曹騰の従玄孫)はこれを憂慮し、一族を登用して藩塀(国家を守る壁)としての役目を果たさせるべきと意見した。しかし、曹爽はこの意見を採用することはなかった。

248年(正始9年)曹爽の取り巻きの一人である李勝が、荊州に赴任するに当たり司馬懿を見舞った時、司馬懿は重病を装い彼らを欺いた。

249年(正始10年)正月、曹爽・曹羲兄弟が曹芳のお供をして出かけたのを見計らい、司馬懿は兵馬を指揮して洛陽の武器庫を占拠し、クーデターを起こした。側近の桓範は司馬懿との決戦を主張したが、先手を取られた曹爽は、司馬懿から軍籍解任と引き換えに罪を許すと言われると、戦意を失い降伏した。しかし司馬懿は曹爽兄弟を解任したばかりでなく、軟禁して徹底的な監視下に置き、食料の買出しさえも自由にさせなかった。そこで司馬懿に殺意があるのか窺う意味も込めて、食料の差入を申し入れると、すぐ食料が届けられたため、曹爽達は安心した。

しかしその後、同年春3月に何晏らと共に謀反を企てている疑いで投獄され、三族皆殺しの刑に処せられた。

これ以降は皇族曹氏は力が衰退し、司馬懿の一族が事実上魏を支配することになった。