「バンブトンコート」の版間の差分
m →エピソード |
m編集の要約なし |
||
27行目: | 27行目: | ||
[[1979年]]は[[マイラーズカップ]]から始動し、[[インターグロリア]]に1/2馬身差で勝ち、次走の[[天皇賞|天皇賞・春]]は7着。ここまで手綱を取った伊藤清章が一時降板。オープン戦では栗田伸一で勝ち、6月3日の[[宝塚記念]]では[[神戸新聞杯]]でも手綱を取った若手ホープの[[河内洋]]に任せる形となった。レースではサクラショウリを徹底マークするが、サクラショウリにまたしても完敗した。次走の[[高松宮記念 (競馬)|高松宮杯]](現、高松宮記念。この年は[[阪神競馬場]]で開催)でも河内洋が引き続き手綱を取るが、3歳馬ネーハイジェットに敗退。夏の函館開催では手綱が伊藤清章へと戻り、函館記念連覇を賭けるが、エンペラーエースの3着に敗退。秋は[[中京競馬場]]で行われた[[朝日チャレンジカップ]]を勝つが、[[目黒記念]]、天皇賞・秋、[[有馬記念]]、ともに距離の壁や調子下降で見せ場なく惨敗。 |
[[1979年]]は[[マイラーズカップ]]から始動し、[[インターグロリア]]に1/2馬身差で勝ち、次走の[[天皇賞|天皇賞・春]]は7着。ここまで手綱を取った伊藤清章が一時降板。オープン戦では栗田伸一で勝ち、6月3日の[[宝塚記念]]では[[神戸新聞杯]]でも手綱を取った若手ホープの[[河内洋]]に任せる形となった。レースではサクラショウリを徹底マークするが、サクラショウリにまたしても完敗した。次走の[[高松宮記念 (競馬)|高松宮杯]](現、高松宮記念。この年は[[阪神競馬場]]で開催)でも河内洋が引き続き手綱を取るが、3歳馬ネーハイジェットに敗退。夏の函館開催では手綱が伊藤清章へと戻り、函館記念連覇を賭けるが、エンペラーエースの3着に敗退。秋は[[中京競馬場]]で行われた[[朝日チャレンジカップ]]を勝つが、[[目黒記念]]、天皇賞・秋、[[有馬記念]]、ともに距離の壁や調子下降で見せ場なく惨敗。 |
||
[[1980年]]は3月23日の[[鳴尾記念]]で60キロの斤量を背負い6着。8月3日、最後のレースなった函館競馬場の巴賞では9頭中8番人気ながら[[サーペンプリンス]]を退 |
[[1980年]]は3月23日の[[鳴尾記念]]で60キロの斤量を背負い6着。8月3日、最後のレースとなった函館競馬場の巴賞では9頭中8番人気ながら[[サーペンプリンス]]を退け1着となった。 |
||
== 引退後 == |
== 引退後 == |
2011年1月16日 (日) 03:24時点における版
バンブトンコート | |
---|---|
品種 | サラブレッド |
性別 | 牡 |
毛色 | 鹿毛 |
生誕 | 1975年4月10日 |
死没 | 1995年不明 |
父 | ロードリージ |
母 | イチバンブ |
生国 | 日本(北海道様似町) |
生産者 | 中村義繁 |
馬主 | 樋口正蔵 |
調教師 | 伊藤修司(栗東) |
競走成績 | |
生涯成績 | 26戦13勝 |
獲得賞金 | 2億3309万400円 |
バンブトンコートは、日本の競走馬、種牡馬である。主戦騎手は伊藤清章(現、上野)。
戦績
調教師・伊藤修司の管理馬として、娘婿の伊藤清章が手綱を任された。1977年に6月18日の札幌競馬場のデビュー戦を大差勝ち、5走目の函館競馬場の函館3歳ステークス(現、函館2歳ステークス)を6馬身差、デイリー杯3歳ステークス(現、デイリー杯2歳ステークス)、暮れの阪神競馬場の阪神3歳ステークス(現、阪神ジュベナイルフィリーズ)と3連勝し、7戦6勝。阪神3歳ステークスを実況した杉本清がレース後「これが午年に送る関西の新しい星です」と謳った。勝ち時計も良く、1977年の最優秀3歳以上牡馬に選出された。
1978年を迎えるが、骨折。皐月賞をスキップし、東京優駿(日本ダービー)を照準に絞った。この年初戦となった5月14日に東京競馬場のオープン戦に勝利。5月28日の東京優駿では1番人気に支持された。しかし強行ローテーションが響き、2番人気サクラショウリの4着に終った。枠番連勝馬券はバンブトンコートの同枠に入ったアグネスホープが2着に入るという代用品決着となってしまった。その後夏の函館記念、続く神戸新聞杯を連勝。菊花賞トライアルの京都新聞杯ではサクラショウリとの単枠指定同士の対決だったが、バンブトンコートと同厩舎のメジロイーグルの逃げ切りで、6着敗退。本番の菊花賞もサクラショウリとの単枠指定対決で7着と完全に株を下げる結果となった。
1979年はマイラーズカップから始動し、インターグロリアに1/2馬身差で勝ち、次走の天皇賞・春は7着。ここまで手綱を取った伊藤清章が一時降板。オープン戦では栗田伸一で勝ち、6月3日の宝塚記念では神戸新聞杯でも手綱を取った若手ホープの河内洋に任せる形となった。レースではサクラショウリを徹底マークするが、サクラショウリにまたしても完敗した。次走の高松宮杯(現、高松宮記念。この年は阪神競馬場で開催)でも河内洋が引き続き手綱を取るが、3歳馬ネーハイジェットに敗退。夏の函館開催では手綱が伊藤清章へと戻り、函館記念連覇を賭けるが、エンペラーエースの3着に敗退。秋は中京競馬場で行われた朝日チャレンジカップを勝つが、目黒記念、天皇賞・秋、有馬記念、ともに距離の壁や調子下降で見せ場なく惨敗。
1980年は3月23日の鳴尾記念で60キロの斤量を背負い6着。8月3日、最後のレースとなった函館競馬場の巴賞では9頭中8番人気ながらサーペンプリンスを退け1着となった。
引退後
引退後は、ファンだったサラリーマンの人物が引き取り、故郷の修栄牧場で繋養。宮城県の斉藤牧場で安い種付け料で種牡馬生活を送っていた。種牡馬を引退後は山梨県の信玄牧場で余生を過ごしていたが、1995年に死亡した。
競走成績
1977年(9戦4勝)
- 1着 - 阪神3歳ステークス、デイリー杯3歳ステークス、函館3歳ステークス
1978年(6戦2勝)
- 1着 - 函館記念、神戸新聞杯、
1979年(11戦3勝)
- 1着 - マイラーズカップ、朝日チャレンジカップ
1980年(2戦1勝)
エピソード
バンブトンコートの資質を買っていた大橋巨泉が、再三に渡り、騎手交代を求めていたと言われている。その候補に福永洋一や、河内洋などの名が上がっていた。