「郤缺」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
1行目: 1行目:
'''郤缺'''。[[中国]][[春秋時代]]の[[晋 (春秋)|晋]]の政治家。[[郤芮]]の子。冀を封地としたので'''冀缺'''とも。[[諡]]は成。'''郤成子'''と呼ばれる。
'''郤缺'''。[[中国]][[春秋時代]]の[[晋 (春秋)|晋]]の政治家。[[郤芮]]の子。'''郤欠'''。冀を封地としたので'''冀缺'''とも。[[諡]]は成。'''郤成子'''と呼ばれる。


父の[[郤芮]]は晋[[恵公 (晋)|恵公]]に仕えて重きをなしたが、[[文公 (晋)|文公]]に叛いたために討たれ、郤缺も野に下り、農事に携わった。
父の[[郤芮]]は晋[[恵公 (晋)|恵公]]に仕えて重きをなしたが、[[文公 (晋)|文公]]に叛いたために討たれ、郤缺も野に下り、農事に携わった。

2005年11月15日 (火) 08:55時点における版

郤缺中国春秋時代の政治家。郤芮の子。郤欠。冀を封地としたので冀缺とも。は成。郤成子と呼ばれる。

父の郤芮は晋恵公に仕えて重きをなしたが、文公に叛いたために討たれ、郤缺も野に下り、農事に携わった。

ある時胥臣文公の使いで冀の郊外に宿泊したとき、男が草取りをし、妻が弁当を届けたが、互いに賓客をもてなすように敬い合っているのを見た。

胥臣が不思議に思って近寄ってみるとこれが郤缺であった。

胥臣は郤缺を連れて帰り、文公に推挙したが文公は嫌な顔をした。

文公が「何によって彼が賢人だと分かるのか」と聞くと、胥臣は「わたしは彼が敬を忘れていないことをみました。敬とは徳の慎み深さです。徳を慎んで事を行えば成らぬことはありません」と答えた。

また文公は「その者の父はわたしを殺そうとした罪がある。それでも用いよと申すか」と言った。すると胥臣は「を殺しましたが、その子のを用いました。管敬仲桓公を殺そうとしましたが、桓公はこれを用いて覇業を成し遂げました」と言ったので、文公は遂に郤缺に会って下軍大夫とした。


文公が死に、襄公の代になると、郤缺はを討って功を立て、父の郤芮の封地であった冀を賜ったが、用心されたために兵は与えられなかった。

趙盾が宰相となり襄公が死ぬと、趙盾は霊公を立てたが、に亡命した士会が秦康公に用いられて、を苦しめだすと、趙盾は六卿を集めて諮った。「随会(士会)は秦におり、賈季(狐射姑)はにいて、そのため毎日のように国難がやってくる。どうしたらよいか」

荀林父は「賈季を戻しましょう。かれは国外の事情に通じており、物事を処理する才能があり、そのうえ殊勲者の子です」と言ったが、郤缺は「賈季は謀反人です。その罪は重い。随会を戻しましょう。かれは身分は卑しくとも恥をわきまえており、柔順でありながら人に唆されて不義を為すことが無く、その智謀は国の役に立つ」と言ったので、趙盾は士会を戻すことに決めた。

やがて霊公趙穿に殺されて、成公の時代になると郤缺は成公から信頼されて正卿の地位につく。謀反人の子である郤缺が宰相になったのをみて、人々は郤缺の徳を褒め称えた。

成公が死んで、景公の代になると、赤狄の動きが活発化したので、郤缺はの諸部族に和睦を申し入れた、赤狄に使役されることを嫌い、晋に服従を申し入れる部族がかなりの数に昇ったので、晋の大夫たちは狄の諸族を晋に呼びつけて会合しようとしたが、郤缺は「こちらが勤労しないようでは、人を従えることは到底出来ません」と言ったので景公は自ら赴いての諸族と会合した。の諸族はこの会合に信義をみて以後よくなついた。

子の郤克ものちに正卿となった。