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2010年12月16日 (木) 21:07時点における版
ロマノフ朝(ロマノフちょう)は、ロシア帝国の王朝である。16世紀末のフョードル・ニキーチチ・ロマノフの代に台頭してリューリク朝後の動乱期[1]を制し、その息子であるミハイル・フョードロヴィチ・ロマノフが1613年に推戴され初代ツァーリに即位し、第18代ニコライ2世が廃位させられる1917年まで続いた。
専制君主として君臨し、ピョートル1世(ピョートル大帝)の時代に西洋化・近代化を進めてヨーロッパの列強に加わり、その後勢力を拡大してヨーロッパから沿海州までを支配した。その後宮廷革命でドイツ人のエカチェリーナ2世が即位する。この過程でロマノフ家にはドイツ系の血が濃厚となった。19世紀に入ると立憲君主制を求めてデカブリストの乱が起こる。ロシア第一革命で絶対君主制から立憲君主制へ移行し、ロシア革命で君主制そのものが打倒される。
2007年の世論調査でロマノフ朝の復活に賛成の国民が37%、反対が7%と君主制支持が多くなってきている。それはロシアの深刻な格差社会が原因であるともいわれる。
ロマノフ家の男系の嫡流は1730年に断絶している。1762年にホルシュタイン=ゴットルプ家からピョートル3世を皇帝として迎えており、以後はホルシュタイン=ゴットルプ=ロマノフ王朝と呼ぶのが史実的には正しい。
歴代ツァーリ
- ミハイル(1613年 - 1645年)
- アレクセイ(1645年 - 1676年)
- フョードル3世(1676年 - 1682年)
- イヴァン5世(1682年 - 1689年)
- ピョートル1世(1682年 - 1725年) - 1721年「インペラートル(皇帝)」に戴冠。
- エカチェリーナ1世(1725年 - 1727年) - ピョートル1世の皇后
- ピョートル2世(1727年 - 1730年)
- アンナ(1730年 - 1740年)
- イヴァン6世(1740年 - 1741年) - ブラウンシュヴァイク=ベーヴェルン家
- エリザヴェータ(1741年 - 1762年)
- ピョートル3世(1762年1月5日 - 6月28日)- ホルシュタイン=ゴットルプ家
- エカチェリーナ2世(1762年 - 1796年) - ピョートル3世の皇后(アンハルト=ツェルプスト家)
- パーヴェル1世(1796年 - 1801年)
- アレクサンドル1世(1801年 - 1825年)
- ニコライ1世(1825年 - 1855年)
- アレクサンドル2世(1855年 - 1881年)
- アレクサンドル3世(1881年 - 1894年)
- ニコライ2世(1894年 - 1917年)
ロシア革命以後のロマノフ家当主
現当主ゲオルギー・ミハイロヴィチ・ロマノフは、アレクサンドル3世の弟ウラジーミル大公の家系である。
- ウラジーミル・アレクサンドロヴィチ大公(1847年 - 1909年)
- アレクサンドル2世の三男。ロシア革命以前に没しており、帝位を請求したことはない。
- キリル・ウラジーミロヴィチ・ロマノフ(1876年 - 1938年)
- ウラジーミル・キリロヴィチ・ロマノフ(1917年 - 1992年)
- キリルの息子。
- マリア・ウラジーミロヴナ・ロマノヴァ(1953年 - )
- ウラジーミルの娘。夫はミハイル・パヴロヴィチ(ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の曾孫フランツ・ヴィルヘルム・フォン・プロイセン)
- ゲオルギー・ミハイロヴィチ・ロマノフ(1981年 - )
- マリアとフランツの間の息子。ロシア皇帝位継承権第1位であると共に、ドイツ皇帝位およびプロイセン王位継承権第8位である。