「オリバー・ウェンデル・ホームズ・ジュニア」の版間の差分
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2010年12月12日 (日) 13:36時点における版
オリバー・ウェンデル・ホームズ・ジュニア(Oliver Wendell Holmes Jr、1841年3月8日-1935年3月6日)は、アメリカ合衆国の法律家。連邦最高裁判所判事。
人物
1841年にボストンに生まれる。父のオリバー・ウェンデル・ホームズは医者で著名な詩人。
1861年ハーバード大学卒業後に南北戦争では自ら志願してマサチューセッツ軍に入隊し、ボールズブラフの戦いなどで3度も重傷を負う。除隊後ハーバード・ロー・スクールに入学し、優秀な成績で卒業する。
1866年ボストンで弁護士として勤務する傍ら、母校で講義をし、1882年ハーバード・ロー・スクール教授に就任。
1881年、『コモン・ロー』を出版。「法の生命は論理ではなく、経験であった。」との一言は有名。グラント・ギルモア(Grant Gilmore)によれば、クリストファー・コロンブス・ラングデルと共に法形式主義(Legal Formalism)の代表の一人ともされるが、そのような見方に反対するものも多く、社会学的法学の祖ともされる。
1899年マサチューセッツ州最高裁裁判所判事に任命。
1902年セオドア・ルーズベルト大統領に連邦最高裁判所判事に任命される。以後シェンク対アメリカ合衆国事件等数々の著名な判決に関わる。「ジョン・マーシャルに次ぐ偉大な判事」と呼ばれる。
金子堅太郎の家庭教師も勤めた。