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'''ハーフィズ・アル=アサド'''(حافظ الاسد Hāfiz al-Asad, [[1930年]][[10月6日]] - [[2000年]][[6月10日]])は、[[シリア]]の[[政治家]]、[[大統領]](在任[[1971年]] - 2000年)。一般に[[独裁者]]とみなされている。日本語表記ではハーフェズ・アル=アサドとも表記る。
'''ハーフィズ・アル=アサド'''(حافظ الاسد Hāfiz al-Asad, [[1930年]][[10月6日]] - [[2000年]][[6月10日]])は、[[シリア]]の[[政治家]]、[[大統領]](在任[[1971年]] - 2000年)。一般に[[独裁者]]とみなされている。日本語では'''ハーフェズ・アルアサド'''とも表記し、'''アサド'''が姓として認識され場合が多い


== 経歴 ==
== 経歴 ==

2010年9月27日 (月) 11:05時点における版

ハーフィズ・アル=アサド
Hāfiz al-Asad
ファイル:Hafez al-Assad.jpg

任期 1971年2月22日2000年6月10日

出生 1930年10月6日
ラタキア県カルダーハ
死去 2000年6月10日
ダマスカス
政党 アラブ社会主義バアス党
配偶者 アニサー・マフルーフ
第四次中東戦争で兵士を激励するアサド(1973年10月)

ハーフィズ・アル=アサド(حافظ الاسد Hāfiz al-Asad, 1930年10月6日 - 2000年6月10日)は、シリア政治家大統領(在任1971年 - 2000年)。一般に独裁者とみなされている。日本語ではハーフェズ・アル=アサドとも表記し、アサドが姓として認識される場合が多い。

経歴

空軍軍人

シリア北部のアンサーリーヤ山地でアラウィー派の貧しい家庭の子として生まれた。高校在学中、16歳の若さでバアス党に入党するなど早くから積極的な政治活動に取り組んでいた。ラタキヤ高校を首席で卒業した後、経済上の理由から大学進学をあきらめ1952年にアレッポの飛行学校に入校し、ソビエト連邦での訓練を経た1955年の卒業後、シリア空軍に入隊した。

アラブ連合共和国成立後、カイロに派遣され戦闘飛行隊長となるが、エジプトとの連合への懐疑的な見解により軍から解雇された。カイロでは、秘密軍事委員会を組織してバアス党の運動に参加し、シリア帰国後、クーデターに参加した。1963年のバアス党政権が樹立されると国防相を務めた。1966年~1970年まで空軍司令官を兼任。

政権樹立

1967年の第3次中東戦争ゴラン高原を失うと、バアス党内では急進派と穏健・現実主義派が対立するが、アサドがリーダーとなった穏健派が1970年クーデターで実権を握った。アサドは首相と国防相を兼ね、さらにバアス党の書記長に就任し、翌1971年には国民投票により大統領に選出された。以後は対外的にはゴラン高原の奪還を目標として、アラブ諸国間の対イスラエル強硬派としてエジプトのアンワル・アッ=サーダート大統領と組み、第四次中東戦争に参戦。また、ソビエト連邦との結びつきを強め、国内では事実上の一党独裁と軍事力による政治で民心の引き締めを行う一方、バアス党の世俗的民族主義の立場から「シリア・ムスリム同胞団」勢力を抑圧した。

1976年からはレバノン内戦に介入し始め、レバノンを事実上の影響下に置くに至るが、1970年代後半から経済状況が悪化し、またシリアにおいては少数派に過ぎないアラウィー派を優遇したことから国内最大宗派のスンナ派の反発を招き、国内でムスリム同胞団などの台頭がみられるなど、政権基盤の不安定化がみられた。イラン革命に触発された1980年代前半にはイスラム主義の政権に対する反抗が激化し、1982年には中部の都市ハマーなどでイスラム主義勢力による暴動が起こるが、アサド政権はこれを武力鎮圧した。これによってシリアにおけるムスリム同胞団の活動は衰退に向かう。

翌1983年にアサドが心臓病で入院している最中、軍部で実力をもつ弟リファートがクーデターを計画、軍部はアサド派とリファート派に分かれ内戦寸前となった。退院したアサドはいったんリファートを安全保障担当の副大統領に据えて懐柔し、注意深くその勢力を削いだ後フランスおよびスペインに追放した。

長期政権と後継問題

シリアでは各所でアサドの銅像や肖像画を見かける(2001年、アレッポにて)
ファイル:Syria Damascus cult of personality.jpg
アサドの肖像画。シリア国旗パレスチナの旗が描かれている

バアス党の正統性やユーフラテス河の水資源利用をめぐり隣国イラクとは対立関係にあったため、イラン・イラク戦争ではアラブ諸国で唯一イランを支持、イラクとの国境を閉鎖した。1990年湾岸危機ではイラクのクウェート侵攻を受けてイラクと国交を断絶し、アメリカ合衆国や、反イラク側の中心となったサウジアラビアとの関係を改善、サウジアラビアにも派兵した。1990年代には中東和平の機運に乗ってイスラエルとの交渉を開始するが、ゴラン高原全面返還という原則を譲らず、打開が見出せないまま交渉は一度の中断を挟んで停滞した。

1994年には、後継者と目されていた長男バーセル・アル=アサドを事故死で失い、後継者問題が不安定化したことで大きな打撃を蒙ったが、ロンドンで生活している次男バッシャールを急遽呼び寄せ、後継者としての帝王教育を施した。それでも、後継者としてのバッシャールに対する不安感は拭えなかった為、父ハーフィズは、ロンドン留学を通じた高学歴、開かれた国際感覚、といった息子の「博識」さを特徴づける試みとして、情報科学協会の会長にバッシャールを就任させ、若手官僚育成、インターネットの導入など、バッシャールをシリアの近代化や若い世代の旗手として位置付けようとした。

また、バッシャールの政治手腕を疑問視、あるいは後継指名に反発していたアリー・ハイダル前特殊部隊司令官を逮捕、ヒクマト・アル=シハービー国軍参謀総長、ムハンマド・フーリー空軍司令官を退役、ムハンマド・ナースィーフ総合情報部次長兼内務部長、アリー・ドゥーバ軍事情報部長を降格させるなど、今までハーフィズ・アサド体制を支えてきた古参軍幹部や情報将校を粛清する政策を進め、政権の世襲化と息子の軍・治安機関部門における基盤強化を計った。

晩年は心臓病を抱えながらも政務をこなしていたが、2000年6月10日レバノンサリーム・アル=ホッス英語版首相との電話会談中に心臓発作で死去。後継大統領には予定通り次男のバッシャールが就任した。

先代
アフマド・アル=ハティーブ
シリア大統領
1971年 - 2000年
次代
バッシャール・アル=アサド

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