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呂不韋が始皇帝の実の父であると言う話は広く流布しており、半分事実のようにも扱われている。この説は、始皇帝生存時から存在していたらしく、『[[史記]]』でも呂不韋列伝に史実として記載されている。しかし、ほぼ同時代の[[楚 (春秋)|楚]]の宰相[[春申君]]にも同様の逸話があることから、それを否定する歴史家もいるし、始皇帝を中傷するために作られた話とする見方もある。どちらにせよ本当は呂不韋と太后だけが知っている事であり、今後も定説が出と思われる
呂不韋が始皇帝の実の父であると言う話は広く流布しており、始皇帝生存時から存在したらしく、『[[史記]]』でも呂不韋列伝に史実として記載されている。しかし、ほぼ同時代の[[楚 (春秋)|楚]]の宰相[[春申君]]にも同様の逸話があることから、それを否定する歴史家もおり、始皇帝を中傷するために作られた話とする見方もある。真実を知っていたのは呂不韋と太后のみであり、定説が出る見込みい。


後裔として、[[劉邦]]の妻[[呂雉]](呂后)は呂不韋の一族だったと[[郭沫若]]・佐竹靖彦らは可能性を示唆している。また、[[三国時代 (中国)|三国時代]]に呂不韋の名に因んだ[[永昌]]郡不韋県出身で[[蜀]](蜀漢)に仕えた豪族の[[呂凱]]は、呂不韋の後裔とされている(『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』蜀書呂凱伝)。
後裔として、[[劉邦]]の妻[[呂雉]](呂后)は呂不韋の一族だったと[[郭沫若]]・佐竹靖彦らは可能性を示唆している。また、[[三国時代 (中国)|三国時代]]に呂不韋の名に因んだ[[永昌]]郡不韋県出身で[[蜀]](蜀漢)に仕えた豪族の[[呂凱]]は、呂不韋の後裔とされている(『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』蜀書呂凱伝)。

2010年8月31日 (火) 14:38時点における版

呂不韋(りょふい、ピン音:Lü Buwei、? - 紀元前235年)は中国戦国時代政治家始皇帝の父・荘襄王を王位につける事に尽力し、秦で権勢を振るった。始皇帝の本当の父親との説もある。

略歴

奇貨居くべし

呂不韋は濮陽の人で、商人の子として生まれた。彼は若い頃から各国を渡り歩いて商売をし、富を築いた。

ある時にの人質となっていて、みすぼらしい身なりをした秦の公子・異人(後に子楚と改称する。秦の荘襄王のこと)をたまたま目に付けて、「これ奇貨なり。居くべし。」(これは珍しい品物だ。これを買って置くべきだ)と言った。こうして陽翟に帰った呂不韋はこのことを自分の父と相談した。度重なる話し合いの結果、呂父子は将来のために異人に投資することで結論がまとまったという。やがて呂不韋は再び趙に赴き、公子の異人と初めて会見した。

当の異人は当時の秦王の昭襄王の太子・安国君(後の孝文王)の庶子であったが、安国君には20人以上の子があり、子楚の母の夏氏は既に安国君からの寵愛を失っており、異人自身が王位を継げる可能性は極めて低かった。当時の秦は隣接する趙と常に対立しており、その関係は日増しに悪化していた。その趙に異人を差し出す事は秦にとっては死んでも惜しくない人質であった。そのために異人は監視され、その待遇は悪く、日々の生活費にも事欠くほどであった。だが呂不韋はこの異人を秦王にし、その功績を以て権力を握り、巨利を得る事を狙ったのである。無論、呂不韋には勝算があった。

世子擁立

呂不韋は異人に金を渡して趙の社交界で名を売る事を指導して、自身は秦に入り、安国君の寵姫で楚の人でもある華陽夫人の所へ行った。呂不韋は華陽夫人に異人は賢明であり、華陽夫人の事を実の母親のように慕って日々思っていると吹き込んだ。さらに華陽夫人の姉にも会って、自分の財宝の一部を彼女に贈って、その姉を通じて異人を華陽夫人の養子とさせ、安国君の世子とするようにと説いた。華陽夫人は安国君に寵愛されていたが、未だ子が無く、このまま年を取ってしまえば自らの地位が危うくなる事を恐れて、この話に乗った。安国君もこの話を承諾して、子楚を自分の世子に立てる事に決めた。

趙に帰った呂不韋は子楚(養母の華陽夫人が楚出身のために、それに因んで異人が子楚と改名した)にこの吉報を知らせ、呂不韋は子楚の後見となった。

呂不韋は趙の芸者の女を寵愛していたが、子楚がこの女を気に入り譲って欲しいと言い出した。呂不韋は乗り気ではなかったが、ここで断れば今までの出資が無駄になると思い、子楚に女を渡した。この女性は既に呂不韋の子を身籠っていたが、子楚にはこれを隠し通し、そのまま子楚の子と言う事にしてしまった。これが政(後の始皇帝)であるという。この説が真実かどうか今となっては確かめる事はできないが、当時から広く噂されていたようであり、歴史書によっては事実として書かれている場合もある。

秦の宰相

紀元前252年、秦で高齢の昭襄王が在位55年で死に、その次男の孝文王が立つと、子楚は秦に送り返され太子となり、だが間もなく孝文王が50代で逝去したために太子の子楚が即位して荘襄王となった。呂不韋は丞相となり、文信侯と号して洛陽の10万戸を領地として授けられた。呂不韋の狙いは見事に当たり、秦の丞相として彼の権勢は並ぶものが無かった。

紀元前246年、荘襄王が若くして死に、太子の政が王となった。呂不韋は仲父(ちゅうほ、父に次ぐ尊称あるいはおじという意味)と言う称号を授けられ、呂不韋の権勢はますます上がった。

一字千金

この時期には孟嘗君信陵君などが食客を集めて天下の名声を得ていたが、呂不韋はこれに対抗して3000人の食客を集め、呂不韋家の召使は1万を超えたと言う。この客の中に李斯がおり、その才能を見込んで王に推挙した。更に客の知識を集めて『呂氏春秋』と言う書物を作った。これは当時の諸子百家の書物とは違って思想的には中立で百科事典のような書物である。呂不韋はこの書物の出来栄えを自慢して、市の真ん中にこれを置いて「一字でも減らすか増やすか出来る者には千金を与える。」と触れ回ったという。(一字千金の由来)

以呂氏春秋 布咸陽市門 縣千金其上 延諸侯游士賓客 有能憎損一字者 予千金

— 『史記』巻八五 呂不韋列伝

斜陽

権勢並ぶものが無い呂不韋は元の愛人の太后と密通していた。これは元々太后が荘襄王が死んで、物足りなくなったので呂不韋を誘ったのだが、政が大きくなるにつれて元愛人だったとはいえ自分より身分が高くなった太后との関係を続かせるのは危ないと感じた呂不韋だったが、太后はもともと好色だったため男なしではいられず、未練を断ち切れなかった。そこで代理として、嫪毐(ろうあい)という男を太后に紹介した。しかし、太后の住まいである後宮は宦官以外の男性は入れない。そこで、宦官と偽って後宮に送り込んだ。太后は嫪に夢中になり、子を二人生んだ。

はその後、太后の寵愛を背景に長信侯に封じられて権勢を振るったが、所詮巨根だけで成り上がっただけに脇が甘すぎ、秦王政に太后との密通が発覚し、ならばいっそと謀反を起こすがすぐに鎮圧され、車裂きによる刑で無残にも誅殺された。そして嫪の二人の子も処刑した。さらに秦王政は仲父の呂不韋も連座制に従い処刑する事を望んでいたが、今までの功績を重んじて丞相の罷免と蟄居に留めた。

紀元前236年、呂不韋はその後も客と交流する事を止めず、諸国での名声も高かったので、秦王政は呂不韋が客や諸国と謀って反乱を起こすのではないかと恐れ、呂不韋を詰問する手紙を送りへの流刑とした。この事に呂不韋は自らの末路が見えて絶望し、翌年服毒自殺を遂げた。

評価

呂不韋が始皇帝の実の父であると言う話は広く流布しており、始皇帝生存時から存在したらしく、『史記』でも呂不韋列伝に史実として記載されている。しかし、ほぼ同時代のの宰相春申君にも同様の逸話があることから、それを否定する歴史家もおり、始皇帝を中傷するために作られた話とする見方もある。真実を知っていたのは呂不韋と太后のみであり、定説が出る見込みはない。

後裔として、劉邦の妻呂雉(呂后)は呂不韋の一族だったと郭沫若・佐竹靖彦らは可能性を示唆している。また、三国時代に呂不韋の名に因んだ永昌郡不韋県出身で(蜀漢)に仕えた豪族の呂凱は、呂不韋の後裔とされている(『三国志』蜀書呂凱伝)。

呂不韋を題材にした小説