「藤堂高次」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
27行目: 27行目:




{{先代次代|[[藤堂氏|藤堂家当主]]|第10代:1630 - 1669年<br/>藤堂高次|[[藤堂高虎]]|[[藤堂高久]]}}
{{先代次代|[[藤堂氏|藤堂家当主]]|第10代:1630 - 1669年<br/>藤堂高次|[[藤堂高虎]]|[[藤堂高久]]}}
{{津藩主|藤堂氏|2代|1630-1669}}
{{津藩主|藤堂氏|2代|1630-1669}}
{{DEFAULTSORT:とうとう たかつく}}
{{DEFAULTSORT:とうとう たかつく}}

2010年8月30日 (月) 13:40時点における版

 
藤堂高次
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 慶長6年閏11月11日1602年1月4日
死没 延宝4年10月5日1676年12月20日
改名 大助(幼名)、高次
別名 和泉守(通称)
墓所 三重県津市の寒松院
官位 従四位下左近衛権少将和泉守
主君 徳川家光家綱
伊勢津藩
氏族 藤堂氏
父母 父:藤堂高虎、母:松寿院(長連久娘)
兄弟
藤堂高吉高次藤堂高重
妹(蒲生忠郷正室、後に専修寺堯朝室)、
妹(藤堂忠季室)、妹(岡部桂賢室)
妹(生駒正俊室)、妹(小堀政一室)
正室:酒井忠世
高久高通高堅大沢基恒高睦
娘(京極高和正室)、娘(安藤重之正室)
娘(専修寺堯円室)、娘(石川昌能正室)
娘(井伊直武正室)
テンプレートを表示

藤堂 高次(とうどう たかつぐ)は、江戸時代前期の外様大名伊勢国津藩の第2代藩主。藤堂家宗家2代。

高虎にはなかなか実子ができなかったため、藤堂高吉丹羽長秀の子)を養嗣子として迎えていた。高虎が46歳のとき、ようやく実子である高次が生まれ、寛永7年(1630年)、高虎の病死により高次がその後を継ぐこととなった。

寛永9年(1632年)の江戸城二の丸、寛永16年(1639年)の江戸城本丸消失後の復興、慶安5年(1652年)の日光の大猷院霊廟(徳川家光の霊廟)などの数多くの石垣普請の記録を持っている。

津藩はこれらの石垣普請の負担により財政が極度に悪化し、高次は年貢増収による財政再建を図って新田開発を積極的に奨励するなどの改革に努めた。しかしなおも幕府普請費用を積極的に負担したため、財政はさらに悪化の一途をたどっていった。

寛文9年(1669年)隠居し、家督を長男の高久に譲る。延宝4年10月5日1676年12月20日)に死去した。


先代
藤堂高虎
藤堂家当主
第10代:1630年 - 1669年
藤堂高次
次代
藤堂高久