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マクシミリアン1世や後継者たちは[[ドイツ]]・[[ナショナリズム]]に抵抗し、[[プロイセン王国|プロイセン]]や[[オーストリア帝国|オーストリア]]に脅かされる[[ドイツ連邦]]の諸邦の指導者として第三極的立場にあった。[[普墺戦争]]では宗教的な繋がりからオーストリア側に就いて敗れ、[[ルートヴィヒ2世 (バイエルン王)|ルートヴィヒ2世]]はプロイセンと同盟(実質的にはバイエルンの主権の制限)を結んだ。 |
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なお、バイエルン王の称号はしばしば[[カロリング朝]]の君主も用いていた。詳しくは[[バイエルンの君主一覧]]を参照。 |
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2010年7月24日 (土) 19:03時点における版
バイエルン国王(独:König von Bayern)は、1806年から1918年までバイエルン王国(現在のバイエルン州およびプファルツ)を統治したヴィッテルスバッハ家の君主の世襲の称号である。約1000年以上前にカロリング朝下でのバイエルン王国が存在したので、これは2番目の王国ということになる。
概要
1805年12月26日にフランス皇帝ナポレオン1世と神聖ローマ皇帝フランツ2世との間でプレスブルク条約が結ばれ、ナポレオンと同盟していた幾つかの公国、選帝侯国は王国への昇格を認められた。その中の一人であるバイエルン選帝侯マクシミリアン4世は1806年1月1日にバイエルン国王マクシミリアン1世と称した。マクシミリアン1世はプファルツ(ライン宮中伯)系ヴィッテルスバッハ家の支流であるプファルツ=ツヴァイブリュッケン=ビルケンフェルト家の出身であった。
マクシミリアン1世や後継者たちはドイツ・ナショナリズムに抵抗し、プロイセンやオーストリアに脅かされるドイツ連邦の諸邦の指導者として第三極的立場にあった。普墺戦争では宗教的な繋がりからオーストリア側に就いて敗れ、ルートヴィヒ2世はプロイセンと同盟(実質的にはバイエルンの主権の制限)を結んだ。
1870年11月23日の条約でバイエルンは新生ドイツ帝国に統合されたが、比較的自治が認められた。バイエルン国王は独自の称号、外交権、国軍を有していた。第一次世界大戦末期の1918年にドイツ皇帝が廃されると、最後の国王ルートヴィヒ3世は退位した。
なお、バイエルン王の称号はしばしばカロリング朝の君主も用いていた。詳しくはバイエルンの君主一覧を参照。
歴代バイエルン国王
名前 | 肖像 | 称号 | 即位 | 崩御 または 退位 |
公的な君主名 | 備考 |
マクシミリアン1世 | バイエルン国王 | 1806年 | 1825年 | バイエルン国王マクシミリアン・ヨーゼフ陛下 | ツヴァイブリュッケン=ビルケンフェルト宮中伯フリードリヒ・ミヒャエルの息子。1795年から兄カール3世アウグスト・クリスティアンを継いでプファルツ=ツヴァイブリュッケン公、1799年から遠戚かつ義理の伯父カール・テオドールを継いでバイエルン選帝侯となる。ナポレオン1世と同盟を結び、有名無実の選帝侯の称号を捨て、1806年1月1日にバイエルン国王マクシミリアン1世として即位した。 | |
ルートヴィヒ1世 | バイエルン国王 | 1825年 | 1848年 | バイエルン国王、フランケン及びシュヴァーベン公、ライン宮中伯ルートヴィヒ陛下 | マクシミリアン1世の息子。1848年革命で退位。 | |
マクシミリアン2世 | バイエルン国王 | 1848年 | 1864年 | バイエルン国王、フランケン及びシュヴァーベン公、ライン宮中伯マクシミリアン陛下 | ルートヴィヒ1世の息子 | |
ルートヴィヒ2世 | バイエルン国王 | 1864年 | 1886年 | バイエルン国王、フランケン及びシュヴァーベン公、ライン宮中伯ルートヴィヒ陛下 | マクシミリアン2世の息子。“狂王”と呼ばれた。1871年にバイエルンをドイツ帝国の構成国とし、1886年に変死した。[1] | |
オットー1世 | バイエルン国王 | 1886年 | 1913年 | バイエルン国王、フランケン及びシュヴァーベン公、ライン宮中伯オットー陛下 | ルートヴィヒ2世の弟。精神に異常をきたしており、治世は摂政の許で行われた: | |
摂政ルイトポルト | バイエルンの摂政 | 1886年 | 1912年 | バイエルン、フランケン及びシュヴァーベン、ライン宮中伯の摂政ルイトポルト殿下 | ルートヴィヒ1世の息子で、ルートヴィヒ2世とオットー1世の摂政。 | |
ルートヴィヒ3世 | バイエルンの摂政 バイエルン国王 |
1913年 | 1918年 | バイエルン国王、フランケン及びシュヴァーベン公、ライン宮中伯ルートヴィヒ陛下 | 摂政ルイトポルトの息子。1912年から1913年まで摂政を務めた。第一次世界大戦末期のドイツ革命で王位を失った。 | |
ループレヒト | バイエルン王太子 | 1913年 | 1955年 | バイエルン王太子、バイエルン、フランケン及びシュヴァーベン公、ライン宮中伯ループレヒト・マリア・ルイトポルト・フェルディナント殿下 | ルートヴィヒ3世の息子で最後のバイエルン王太子。 |
現在の王位請求者
バイエルン王家系図
ループレヒト プファルツ選帝侯 ドイツ王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ヴォルフガング プファルツ=ツヴァイブリュッケン公 プファルツ=ノイブルク公 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
フィリップ・ルートヴィヒ プファルツ=ノイブルク公 | ヨハン1世 プファルツ=ツヴァイブリュッケン公 | カール1世 プファルツ=ビルケンフェルト公 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
テオドール・オイスタッハ プファルツ=ズルツバッハ公 | カール3世フィリップ プファルツ選帝侯 | カール10世 スウェーデン王 | クリスティアン1世 プファルツ=ビルケンフェルト公 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ヨハン・クリスティアン プファルツ=ズルツバッハ公 | ヨーゼフ・カール | エリーザベト・アウグステ・ゾフィー | クリスティアン3世 プファルツ=ツヴァイブリュッケン公 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
カール・テオドール プファルツ選帝侯 バイエルン選帝侯 | エリーザベト・アウグステ | クリスティアン4世 プファルツ=ツヴァイブリュッケン公 | マリア・フランツィスカ | フリードリヒ・ミヒャエル | ゲオルク・ヴィルヘルム | ルートヴィヒ9世 ヘッセン=ダルムシュタット方伯 | ヘンリエッテ・カロリーネ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
クリスティアン | フィリップ(ヴィルヘルム) | カール3世アウグスト・クリスティアン プファルツ=ツヴァイブリュッケン公 | マリア・アマーリア・フォン・ザクセン | フリードリヒ・アウグスト1世 ザクセン王 | アマーリエ | アウグステ・ヴィルヘルミーネ・フォン・ヘッセン=ダルムシュタット | マクシミリアン1世 バイエルン王[1] | アマーリエ・フォン・ヘッセン=ダルムシュタット | カール・ルートヴィヒ・フォン・バーデン | マリア・アンナ | ヴィルヘルム バイエルン公 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ルートヴィヒ1世 バイエルン王[2] | テレーゼ・フォン・ザクセン=ヒルトブルクハウゼン | ウジェーヌ・ド・ボアルネ ロイヒテンベルク公 イタリア副王 | アウグステ | カール | ヴィルヘルム1世 ヴュルテンベルク王 | カロリーネ | フランツ1世 オーストリア皇帝 | カロリーネ・フォン・バーデン | ピウス・アウグスト バイエルン公 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
エリーザベト・ルドヴィカ | フリードリヒ・ヴィルヘルム4世 プロイセン王 | アマーリエ・アウグステ | ヨハン ザクセン王 | フリードリヒ・アウグスト2世 ザクセン王 | マリア・アンナ | フランツ・カール オーストリア大公 | ゾフィー | ルドヴィカ | マクシミリアン・ヨーゼフ バイエルン公 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
マクシミリアン2世 バイエルン王[3] | マリー・フォン・プロイセン | オソン1世 ギリシャ王 | アマーリエ・フォン・オルデンブルク | ルイトポルト バイエルン摂政 | アウグステ・フェルディナンデ・フォン・エスターライヒ=トスカーナ | アーダルベルト | フランツ・ヨーゼフ1世 オーストリア皇帝 | エリーザベト | カール・テオドール バイエルン公 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ルートヴィヒ2世 バイエルン王[4] | オットー1世 バイエルン王[5] | ルートヴィヒ3世 バイエルン王[6] | マリア・テレジア・フォン・エスターライヒ=エステ | レオポルト | アルヌルフ | ギーゼラ・フォン・エスターライヒ | ルドルフ オーストリア皇太子 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
マリー・ガブリエーレ | ループレヒト バイエルン王太子 | アントニア・フォン・ルクセンブルク | フランツ | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
マリア・ドラスコヴィチ | アルブレヒト | イルムガルト | ルートヴィヒ | ラッソ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
フランツ | マックス・エマヌエル | ルイトポルト | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
脚注
- ^ King, Greg (1996.), The Mad King: The Life and Times of Ludwig II of Bavaria., ISBN 1-55972-362-9