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ウジェーヌは、エジプト遠征中に、いかにナポレオンがイポリット・シャルルの事で悩んでいるか、それにも関わらず自分に愛情を注いでくれ、自分がどれほど感動しているか、直ちにイポリットとの浮気を止める事などを、母に手紙で切々と訴えていたのだった。しかし、このウジェーヌの手紙は、イギリス政府に押収され、ジョゼフィーヌの許には届いていなかった。結局、ウジェーヌとオルタンスの涙の懇願や、まだ残っていたジョゼフィーヌへの愛情から、ナポレオンは離婚を思い止まった。これを境に、ジョゼフィーヌの浮気もなくなり、安定した夫婦生活になったため、ウジェーヌも安堵した。
ウジェーヌは、エジプト遠征中に、いかにナポレオンがイポリット・シャルルの事で悩んでいるか、それにも関わらず自分に愛情を注いでくれ、自分がどれほど感動しているか、直ちにイポリットとの浮気を止める事などを、母に手紙で切々と訴えていたのだった。しかし、このウジェーヌの手紙は、イギリス政府に押収され、ジョゼフィーヌの許には届いていなかった。結局、ウジェーヌとオルタンスの涙の懇願や、まだ残っていたジョゼフィーヌへの愛情から、ナポレオンは離婚を思い止まった。これを境に、ジョゼフィーヌの浮気もなくなり、安定した夫婦生活になったため、ウジェーヌも安堵した。


彼は多くの戦いで、見事な軍功を立て、順調に昇進していった。また、彼は有能なだけでなく、誠実な人柄で、このような点からも、ナポレオンの厚い信頼を寄せられた。[[1806年]]に、ナポレオンはそれまでのウジェーヌの働きを認め、[[イタリア王国 (1805年-1814年)|イタリア]]副王にした。同年に、彼は[[バイエルン国|バイエルン]][[マクシミリアン1世 (バイエルン王)|マクシミリアン1世]]の娘[[アウグステ・フォン・バイエルン|アウグステ]]と結婚した。これは、アウグステの結婚相手がすでに決まっていたのを、ナポレオンが強引に婚約解消させてウジェーヌと結婚させたものだった。しかし夫婦仲はとても良く、7人もの子供に恵まれた。
彼は多くの戦いで、見事な軍功を立て、順調に昇進していった。また、彼は有能なだけでなく、誠実な人柄で、このような点からも、ナポレオンの厚い信頼を寄せられた。[[1806年]]に、ナポレオンはそれまでのウジェーヌの働きを認め、[[イタリア王国 (1805年-1814年)|イタリア]]副王にした。同年に、彼は[[バイエルン国|バイエルン]][[マクシミリアン1世 (バイエルン王)|マクシミリアン1世]]の娘[[アウグステ・フォン・バイエルン|アウグステ]]と結婚した。これは、アウグステの結婚相手がすでに決まっていたのを、ナポレオンが強引に婚約解消させてウジェーヌと結婚させたものだった。しかし夫婦仲はとても良く、7人もの子供に恵まれた。
*[[ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ (スウェーデン王妃)|ジョゼフィーヌ・マクシミリアーネ・ウジェニー・ナポレオーネ]] ([[スウェーデン]]国王[[オスカル1世 (スウェーデン王)|オスカル1世]]妃)
*[[ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ (スウェーデン王妃)|ジョゼフィーヌ・マクシミリアーネ・ウジェニー・ナポレオーネ]] ([[スウェーデン君主一覧|スウェーデン国王]][[オスカル1世 (スウェーデン王)|オスカル1世]]妃)
*[[ウジェニー・ド・ボアルネ|ウジェニー・オルタンス・オギュスト]]
*[[ウジェニー・ド・ボアルネ|ウジェニー・オルタンス・オギュスト]]
*[[アウグスト (ロイヒテンベルク公)|オギュスト・シャルル・ウジェーヌ・ナポレオン]] ([[ポルトガル]]女王[[マリア2世 (ポルトガル女王)|マリア2世]]の最初の夫)
*[[アウグスト (ロイヒテンベルク公)|オギュスト・シャルル・ウジェーヌ・ナポレオン]] ([[ポルトガル君主一覧|ポルトガル女王]][[マリア2世 (ポルトガル女王)|マリア2世]]の最初の夫)
*[[アメリー・ド・ボアルネ|アメリー・オギュスト・ウジェニー・ナポレオーヌ]] ([[ブラジル帝国|ブラジル]]皇帝[[ペドロ1世 (ブラジル皇帝)|ペドロ1世]]の後妻)
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*[[テオドランド・ド・ボアルネ|テオドランド・ルイーズ・ウジェニー・オギュスト・ナポレオーヌ]]
*[[テオドランド・ド・ボアルネ|テオドランド・ルイーズ・ウジェニー・オギュスト・ナポレオーヌ]]
*カロリーヌ・クロティルド
*カロリーヌ・クロティルド
*[[マクシミリアン・ド・ボアルネ|マクシミリアン・ジョゼフ・ウジェーヌ・オギュスト・ナポレオン]] ([[ロシア皇帝]][[ニコライ1世]]の娘ニコラエヴナの夫)
*[[マクシミリアン・ド・ボアルネ|マクシミリアン・ジョゼフ・ウジェーヌ・オギュスト・ナポレオン]] ([[ロシア君主一覧|ロシア皇帝]][[ニコライ1世]]の娘ニコラエヴナの夫)
しかし、野心ばかり強いナポレオンの兄弟達は、ナポレオンに厚遇されている彼の存在を、その母ジョゼフィーヌと同様に敵視していた。[[1809年]]には、ウジェーヌは母にナポレオンとの離婚に同意するよう説得している。
しかし、野心ばかり強いナポレオンの兄弟達は、ナポレオンに厚遇されている彼の存在を、その母ジョゼフィーヌと同様に敵視していた。[[1809年]]には、ウジェーヌは母にナポレオンとの離婚に同意するよう説得している。



2010年7月24日 (土) 18:54時点における版

ウジェーヌ・ド・ボアルネの肖像。1800年アンドレア・アッピアニ

ウジェーヌ・ド・ボアルネEugène de Beauharnais1781年9月3日 - 1824年2月21日)は、 ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネの息子。妹はオルタンス・ド・ボアルネナポレオン1世の養子でイタリア副王、フランクフルト大公。後にロイヒテンベルク公。

生涯

ウジェーヌは、1781年9月3日にアレクサンドル・ド・ボアルネ子爵とジョゼフィーヌの長男として、パリで生まれた。1783年には、妹のオルタンスが生まれたが、両親の夫婦仲は悪かった。アレクサンドルは、既にジョゼフィーヌと結婚する前から、年上の未亡人だったマダム・ロンプレという女性との間に私生児をもうけるなど、大変な女好きだった。さらに、彼は教養がなく、あかぬけないジョゼフィーヌを見下していた。

間もなくアレクサンドルは、パリの邸宅に妻を置き去りにして、旅行ばかりするようになった。その後は、愛人のロンプレ夫人とマルティニーク島に戻ってしまった。ついに、2人は1785年の春に離婚した。裁判は、ジョゼフィーヌの勝訴となった。息子のウジェーヌはアレクサンドルが、娘のオルタンスはジョゼフィーヌが引き取る事になった。

ジョゼフィーヌは、1788年の夏にオルタンスを連れてマルティニーク島の実家に戻った。しかし、1790年の秋、黒人奴隷が大挙して白人の農園主を襲うなど、不穏な情勢になったため、彼女はパリに戻った。前夫のアレクサンドルは、自由主義者として進んでフランス革命に同調し、議員として三部会にも選出され、議長まで務めた。しかし新憲法により議席を失って再び軍人に戻り、1793年の春にはライン方面軍最高司令官になっていた。ところが、彼はイギリスとの戦いに敗れ、外敵通謀を疑われ、カルム監獄に投獄された。続いてジョゼフィーヌまで、投獄されてしまった。

1794年7月24日にアレクサンドルは処刑された。しかし、その3日後、ロベスピエールも処刑され、ジョゼフィーヌは8月3日に釈放された。それからジョゼフィーヌは離れていたウジェーヌも引き取り、彼には大工の見習いをさせ、オルタンスにはお針子をさせた。その後、ウジェーヌは1795年に起きたヴァンデミエールの反乱を鎮圧した事で、一躍有名になったナポレオン・ボナパルト将軍の許を、父の形見のサーベルを返してもらいに訪れた。アレクサンドルは素行の悪い父だったが、ウジェーヌは父を尊敬し、美化している所もあった。

ナポレオンは少年の訴えに感動し、剣を返してやった。その後、ジョゼフィーヌがこのお礼にナポレオンの家に出向き、この縁で、ナポレオンとジョゼフィーヌは1796年3月9日に結婚した。母の再婚に、オルタンスは賛成した。しかし、思いがけず自分が取り持つ事になった母の再婚について、ウジェーヌは反対だったらしい。だがこれ以降、彼はナポレオンの下で軍人として戦う事になった。1798年5月4日、ウジェーヌはナポレオンのエジプト遠征に同行した。だが遠征の最中にジョゼフィーヌの浮気が発覚し、離婚の危機に発展してしまった。

ウジェーヌは、エジプト遠征中に、いかにナポレオンがイポリット・シャルルの事で悩んでいるか、それにも関わらず自分に愛情を注いでくれ、自分がどれほど感動しているか、直ちにイポリットとの浮気を止める事などを、母に手紙で切々と訴えていたのだった。しかし、このウジェーヌの手紙は、イギリス政府に押収され、ジョゼフィーヌの許には届いていなかった。結局、ウジェーヌとオルタンスの涙の懇願や、まだ残っていたジョゼフィーヌへの愛情から、ナポレオンは離婚を思い止まった。これを境に、ジョゼフィーヌの浮気もなくなり、安定した夫婦生活になったため、ウジェーヌも安堵した。

彼は多くの戦いで、見事な軍功を立て、順調に昇進していった。また、彼は有能なだけでなく、誠実な人柄で、このような点からも、ナポレオンの厚い信頼を寄せられた。1806年に、ナポレオンはそれまでのウジェーヌの働きを認め、イタリア副王にした。同年に、彼はバイエルン王マクシミリアン1世の娘アウグステと結婚した。これは、アウグステの結婚相手がすでに決まっていたのを、ナポレオンが強引に婚約解消させてウジェーヌと結婚させたものだった。しかし夫婦仲はとても良く、7人もの子供に恵まれた。

しかし、野心ばかり強いナポレオンの兄弟達は、ナポレオンに厚遇されている彼の存在を、その母ジョゼフィーヌと同様に敵視していた。1809年には、ウジェーヌは母にナポレオンとの離婚に同意するよう説得している。

1813年ライプツィヒの戦いでは、ジョアシャン・ミュラが保身のため妻のカロリーヌと共に、敵国であるイギリスオーストリアと内通し、ウジェーヌはミュラの軍に阻まれてナポレオンを救援に行けなかった。ウジェーヌは、1814年の4月になって義父のマクシミリアン1世に帰順を勧められても、まだ自分の部隊を死守して戦い続けていたが、4月11日にナポレオンが退位すると降伏し、マクシミリアン1世にもうナポレオンに協力しない事を誓約した。その後、ウジェーヌはマクシミリアン1世によって、ロイヒテンベルク公の爵位を与えられた。1824年に、ウジェーヌはミュンヘンで死去した。

先代
創設
ロイヒテンベルク公
初代:1817年 - 1824年
次代
アウグスト