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'''京極 忠高'''(きょうごく ただたか、[[文禄]]2年([[1593年]]) - [[寛永]]14年[[6月12日 (旧暦)|6月12日]]([[1637年]][[8月2日]]))は、[[江戸時代]]前期の大名。[[若狭国]][[小浜藩]]第2代藩主。[[出雲国|出雲]][[松江藩]]主。[[讃岐国|讃岐]][[丸亀藩]]京極家2代。 |
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初代藩主[[京極高次]]の長男。正室は[[江戸幕府]]第2代将軍[[徳川秀忠]]の四女・[[初姫]](高次正室・[[常高院]]の養女)。子は[[京極伊知子|伊知子]]([[多賀常良]]室)。幼名は熊麿。 |
初代藩主[[京極高次]]の長男。母は側室。正室は[[江戸幕府]]第2代将軍[[徳川秀忠]]の四女・[[初姫]](高次正室・[[常高院]]の養女)。子は[[京極伊知子|伊知子]]([[多賀常良]]室)。幼名は熊麿。 |
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2010年7月19日 (月) 13:15時点における版
京極 忠高(きょうごく ただたか、文禄2年(1593年) - 寛永14年6月12日(1637年8月2日))は、江戸時代前期の大名。若狭国小浜藩第2代藩主。出雲松江藩主。讃岐丸亀藩京極家2代。
初代藩主京極高次の長男。母は側室。正室は江戸幕府第2代将軍徳川秀忠の四女・初姫(高次正室・常高院の養女)。子は伊知子(多賀常良室)。幼名は熊麿。
生涯
高次の庶長子として生まれる。慶長14年(1609年)、父の高次が死去したため、若狭小浜9万2,000石(若狭一国)を相続した。
慶長19年(1614年)の大坂の陣では徳川方として参戦し、冬の陣での講和は、義母の常高院を仲介として京極忠高の陣において行われる。また、講和条件の大阪城の外堀を埋める作業の工事奉行となった。寛永元年(1624年)には越前国敦賀郡が加増された。
寛永11年(1634年)には、毛利家に対する押さえとして、京極氏が室町時代に代々守護をつとめていた出雲国、隠岐国二カ国へ加増転封となり、合計26万石を所有し、さらに石見の石見銀山も当てられる。ちなみに戦国期に毛利氏と石見銀山などをめぐり死闘を繰り広げた尼子氏は、京極氏のもとで出雲の守護代を勤めている。関ヶ原の戦い時にも京極氏と毛利氏は激闘しており、父高次は末次元康の猛攻を大津城で防いでいる。この大幅な加増転封は明らかに毛利家への押さえとしての配置と考えられている。それだけ徳川家の京極家への信頼は厚いものであった。
さらに将軍家姻戚として優遇された京極家だったが、正室・初姫との夫婦仲はよくなかったとみられる。寛永7年(1630年)に初姫が死去した際は、忠高は臨終に立ち会うこともなく相撲見物に興じていたと伝えられる。このため舅である大御所・秀忠の怒りを買い、初姫の葬儀は秀忠により徳川家所縁の小石川の伝通院にてとり行われ、忠高をはじめ京極家関係者は葬儀への臨席を許可されなかった。
寛永14年(1637年)、45歳で死去。嗣子がなかったため、京極氏は改易されかけたが、それまでの徳川家に対する忠義を考慮されて、甥に当たる高和が播磨龍野に6万石の所領を与えられることで大名として存続を許された。正室初姫との間に子供をなさなかったが、側室との間に一女をもうけた。
墓所:滋賀県米原市(旧・坂田郡山東町)清滝の清滝寺。天慶道長玄要寺。
関連項目
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