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== 歴史 ==
== 歴史 ==
 明治10年、明治政府の殖産興業政策の一環として建設された官営工場で、[[富岡製糸場]]のような[[製糸]]工場から出る屑糸や製糸できない屑繭を[[紡績]]して絹糸(紡績絹糸)をつくる工場でした。この種の工場は日本にはなく、ウィーン万博で渡欧した[[佐々木長淳]]の献策により設置が決まり、基本的な設備はスイスとドイツから輸入されました。工場建築は、やはりウィーン万博で渡欧した新潟の大工[[山添喜三郎]]が西欧建築を身につけて帰国しており、設計から施工までを担当しました。
 明治10年、明治政府の殖産興業政策の一環として建設された官営工場で、[[富岡製糸場]]のような[[製糸]]工場から出る屑糸や製糸できない屑繭を[[紡績]]して絹糸(紡績絹糸)をつくる工場でした。この種の工場は日本にはなく、ウィーン万博で渡欧した[[佐々木長淳]]の献策により設置が決まり、基本的な設備はスイスとドイツから輸入されました。工場建築は、やはりウィーン万博で渡欧した新潟の大工[[山添喜三郎]]が西欧建築を身につけて帰国しており、設計から施工までを担当しました。
明治10年(1877)7月開所、10月20日には[[大久保利通]]、[[伊藤博文]]、[[大隈重信]]など当時の政府首脳がほとんど出席して開所式が挙行されました。翌年には[[明治天皇]]が行幸され、自ら紡績機械を運転して確かめたという記録もあります。なお、この時に天皇の宿舎としてつくられた新町行在所も町内に現存します。その後明治17年に三井呉服店に譲渡され、いくつかの会社の手を経て明治40年に鐘ヶ淵紡績株式会社に譲渡されました。
明治10年(1877)7月開所、10月20日には[[大久保利通]]、[[伊藤博文]]、[[大隈重信]]など当時の政府首脳がほとんど出席して開所式が挙行されました。翌年には[[明治天皇]]が行幸され、自ら紡績機械を運転して確かめたという記録もあります。なお、この時に天皇の宿舎としてつくられた新町行在所も町内に現存します。その後明治20年に三井呉服店に譲渡され、いくつかの会社の手を経て明治40年に鐘ヶ淵紡績株式会社(現カネボウ㈱)に譲渡されました。
鐘紡に譲渡された前後から紡績絹糸の評判が高まり、地元伊勢崎の[[伊勢崎銘仙]]の原料などとしてひろく使われました。このため明治40年には工場の大拡張が行われました。
鐘紡に譲渡された前後から紡績絹糸の評判が高まり、地元伊勢崎の[[伊勢崎銘仙]]の原料などとしてひろく使われました。このため明治40年には工場の大拡張が行われました。
 その後、大正~昭和期にも業績を伸ばし、製糸工場なども併設されました。第2次大戦で一時的に生産が落ち込みましたが、戦後は合成繊維の分野にも進出、最盛期には約5万坪の敷地に3千人以上の従業員の働く一大工場となりました。しかし昭和40年頃から繊維産業全体の退潮期を迎え、昭和50年に絹糸紡績は廃止されてしまいました。その後は製糸、合繊も廃止となり、食品工場に転用されたものの工場規模は年々縮小されています。
 その後、大正~昭和期にも業績を伸ばし、製糸工場なども併設されました。第2次大戦で一時的に生産が落ち込みましたが、戦後は合成繊維の分野にも進出、最盛期には約5万坪の敷地に3千人以上の従業員の働く一大工場となりました。しかし昭和40年頃から繊維産業全体の退潮期を迎え、昭和50年に絹糸紡績は廃止されてしまいました。その後は製糸、合繊も廃止となり、食品工場に転用されたものの工場規模は年々縮小されています。

2005年10月23日 (日) 01:27時点における版

新町紡績所(旧内務省勧業寮屑糸紡績所)は、群馬県多野郡新町にあります。現在はカネボウフーズ㈱の所有で、昨年までは工場、倉庫として使用されていました。


歴史

 明治10年、明治政府の殖産興業政策の一環として建設された官営工場で、富岡製糸場のような製糸工場から出る屑糸や製糸できない屑繭を紡績して絹糸(紡績絹糸)をつくる工場でした。この種の工場は日本にはなく、ウィーン万博で渡欧した佐々木長淳の献策により設置が決まり、基本的な設備はスイスとドイツから輸入されました。工場建築は、やはりウィーン万博で渡欧した新潟の大工山添喜三郎が西欧建築を身につけて帰国しており、設計から施工までを担当しました。 明治10年(1877)7月開所、10月20日には大久保利通伊藤博文大隈重信など当時の政府首脳がほとんど出席して開所式が挙行されました。翌年には明治天皇が行幸され、自ら紡績機械を運転して確かめたという記録もあります。なお、この時に天皇の宿舎としてつくられた新町行在所も町内に現存します。その後明治20年に三井呉服店に譲渡され、いくつかの会社の手を経て明治40年に鐘ヶ淵紡績株式会社(現カネボウ㈱)に譲渡されました。 鐘紡に譲渡された前後から紡績絹糸の評判が高まり、地元伊勢崎の伊勢崎銘仙の原料などとしてひろく使われました。このため明治40年には工場の大拡張が行われました。  その後、大正~昭和期にも業績を伸ばし、製糸工場なども併設されました。第2次大戦で一時的に生産が落ち込みましたが、戦後は合成繊維の分野にも進出、最盛期には約5万坪の敷地に3千人以上の従業員の働く一大工場となりました。しかし昭和40年頃から繊維産業全体の退潮期を迎え、昭和50年に絹糸紡績は廃止されてしまいました。その後は製糸、合繊も廃止となり、食品工場に転用されたものの工場規模は年々縮小されています。


建造物の現状

 現在カネボウフーズの所有している約2万坪の敷地内にには、明治10年の工場を始め、明治30年代のレンガ倉庫、40年台の木造のこぎり屋根工場、大正~昭和期と思われる鉄筋コンクリートののこぎり屋根工場、変電室など歴史的な建物が数多く残っています。特に明治10年建設の新町紡績所の工場は木造平屋(約500坪)であり、明治40年の拡張工事でコの字形の建物の中庭に建て増された形で存在し、一部に改造はあるものの、8~9割が現存します。最近の調査では、建設当初の構造がほぼそのまま完全に残り、外壁は中庭部分を除く部分、屋根もほぼ全部が明治10年と推定されるなど、これまでうわさだけであった日本人設計の最古の本格的工場、富岡製糸場に次ぐ官営工場の現存が現実の物となりました。

 しかしながら、親会社のカネボウ㈱は現在産業再生機構の支援下に企業再生中であり、地域住民の保存運動も開始されましたが、せっかく再発見されたこの貴重な近代化遺産の前途も多難なものが予想されます。


外部リンク

山添喜三郎の作品(重文:登米高等尋常小学校) [1]

住民組織「よみがえれ、新町紡績所の会」 [2]