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'''永原 一照'''(ながはら かつあき、生没年不詳 - 元和6年([[1620年]])6月30日)は、[[江戸時代]]初期の[[土佐藩]]本山城主で[[家老|家老職]]。家格は知行1300石。[[滝山一揆|瀧山一揆]]を鎮圧し、江戸初期の[[山内家]]の土佐支配に功績のあった[[武士]]。 |
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[[諱]]は初め高照、のち[[山内一豊]]より、偏諱「一(かつ)」を賜い「一照(かつあき)」と改める。字は刑部大輔。また「山内」の称号を許されたため'''山内刑部'''と称した。 |
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*[[近江国]]に生まれる。先祖は[[宇多源氏]][[近江]][[佐々木氏]]の支流山崎氏の分流[[永原氏]]<ref>山崎能長の子、右馬助景長が[[近江国]][[野洲郡]]永原村を領して永原氏を称した。</ref>。 |
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*[[1585年]](天正13年)[[近江国]][[長浜城 (近江国)|長浜城主]]となった山内一豊に仕える。 |
*[[1585年]](天正13年)[[近江国]][[長浜城 (近江国)|長浜城主]]となった山内一豊に仕える。 |
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*[[1590年]](天正18年)山内一豊の[[遠江国]][[掛川]]移封に伴い、遠江国で采地500石を賜う。 |
*[[1590年]](天正18年)山内一豊の[[遠江国]][[掛川]]移封に伴い、遠江国で采地500石を賜う。 |
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**長男:[[永原一長]](山内但馬)( - [[1640年]]) |
**長男:[[永原一長]](山内但馬)( - [[1640年]]) |
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***孫:[[永原勝秀]](山内辰之助) |
***孫:[[永原勝秀]](山内辰之助) |
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**二男:[[乾正行]]、[[乾正信]]の養子となる |
**二男:[[乾正行]](山内平九郎)、[[乾正信]]の養子となる |
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***孫:乾正祐(乾与惣兵衞)( - [[1672年]]) |
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***孫:乾正直(乾市郎兵衛)( - [[1688年]]) |
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***孫:乾友正(乾源五郎)( - [[1689年]]) |
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== 補註 == |
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2010年6月2日 (水) 01:43時点における版
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時代 | 安土桃山時代から江戸時代前期 |
生誕 | 不明 |
死没 | 元和6年(1620年)6月30日 |
別名 | 永原高照、永原刑部、山内刑部 |
墓所 | 土佐国長岡郡本山 |
氏族 | 永原(山内)氏 |
父母 | 父:永原高賢 |
妻 | 不明 |
子 | 永原一長、乾正行 |
永原 一照(ながはら かつあき、生没年不詳 - 元和6年(1620年)6月30日)は、江戸時代初期の土佐藩本山城主で家老職。家格は知行1300石。瀧山一揆を鎮圧し、江戸初期の山内家の土佐支配に功績のあった武士。
来歴
諱は初め高照、のち山内一豊より、偏諱「一(かつ)」を賜い「一照(かつあき)」と改める。字は刑部大輔。また「山内」の称号を許されたため山内刑部と称した。
- 近江国に生まれる。先祖は宇多源氏近江佐々木氏の支流山崎氏の分流永原氏[1]。
- 1585年(天正13年)近江国長浜城主となった山内一豊に仕える。
- 1590年(天正18年)山内一豊の遠江国掛川移封に伴い、遠江国で采地500石を賜う。
- 1601年(慶長6年)山内一豊の土佐御入国の時、土佐国長岡郡本山(もとやま)に采地1300石を賜い、本山土居の城と代官領の支配を仰せ付けられた。
- 本山の地は山内氏の賜封以前に、旧領主長宗我部氏が、「北山500石」と称せらる本山氏ら一領具足の土豪等の在地支配を認めていた特殊な土地であったため、旧領主長宗我部氏が改易せられたる後も、郷士らは各々の土地の領有を主張して、新領主山内氏の土佐一律支配に対抗して年貢の納入をしなかった。
- 1603年(慶長8年11月)業を煮やした一照は、北山の土豪・百姓らに「早々に年貢を納めるよう」に再三の布告をしたが、長宗我部氏よりかつて北山で80石を給せられていた一領具足の土豪高石左馬助[2]は、「凶作を理由にこれらを拒否するよう」百姓らを扇動したため、これを聞いて激怒した一照は、百姓一軒一軒から一人づつ人質を取り、計33名の人質を浦戸に入牢させた上で再度、「年貢を納めるよう」きつく領内の百姓等に命じた。にも関わらず百姓等は、高石左馬助らの威勢に圧されて年貢の上納に応じないことから、一照は、左馬助を本山土居に呼び出して詰問するも、左馬助は「豊作凶作は天然自然の次第であって、人智の及ぶものにあらず、武力を以て示めされようが、凶作ゆえに、上納致したくとも上納すべきものがござらぬ」と言い逃れて立ち去った。
- 左馬助は北山討伐を予期したため、その日のうちに弟の吉之助や北山の百姓らを呼び寄せて武力決起の準備を進め、「反検地と年貢減免」を掲げて近隣の村々の百姓らをも扇動して、男女約100名の者を集めて北山の瀧山という処に立籠った。翌日になって一照は、与力の井口惣左衛門を左馬助の領内に遣わしたが、惣左衛門は領内の不穏な動きを知って急ぎ帰参し「百姓らが瀧山に防禦陣地を作り、一揆を謀てている」ことを一照に言上した。驚いた一照は配下の武士10名を従えて、急ぎ瀧山に向かったが、百姓らが鉄砲で威嚇して来た為、一旦引き返して、翌日、手勢を30名に増やして中島村方面から瀧山一揆の討伐を開始した。中島・寺家両村の百姓らはすぐに敗走したものの、瀧山は峻険にして天然の要衝であり、瀧山勢からの銃弾が一照の馬の鞍に当たり、膠着状態となったため一照らは思案して、高知に伝令を差し向けた。高知では、この報らせを受けて直ちに評定が開かれ、「近隣豊永郷の郷士豊永五郎衛門を召し出して山道を案内をさせ、野々村因幡と山内掃部を加勢して一揆を鎮圧するよう」藩命が下った。
- 豊永五郎衛門は、当時浪人していた竹崎太郎右衛門、三谷次郎三郎等の長宗我部氏遺臣を呼び寄せて討伐軍に加わることを説き、野々村因幡、山内掃部ら援軍を本山まで先導する事になったが、瀧山を攻略する道は一つしかなく一揆勢は鉄砲5艇を備え、また釣り石などを駆使して反撃したため多くの死傷者を出した。そこで一照らは作戦を変更し、針窪山から大筒で敵陣を砲撃する事にしてようやく効を奏し、百姓ら一揆勢は5日後に退散し、左馬助は霧に紛れて伊予国瓜生野に退却し、讃岐に逃れた。
- 瀧山の百姓らは、殆どが一揆に参加していた為、鎮圧後も懲罰を恐れて山に隠れ、田に戻って来ないため耕地の荒れ果てるのを懸念した豊永五郎衛門は、一照に「百姓らの罪を不問に伏す事」と、「未進分の年貢も赦免する事」を嘆願し、一照は百姓らの帰村を図るためこの意見を容れて、「一揆を扇動した士分の山原左馬丞と息子二人を、一揆の首謀者として断罪にする事」と「百姓らの刀を召し上げにする事」を条件に百姓ら全員の罪を免じた。しかるに、浦戸に捕らえられていた人質の中に大工の彦右衛門という者が居て、「明日人質全員が処刑される」という風聞を信じて、隠し持っていた小さな爪きりで人質10人と無理心中してしまった。
- この一揆が、山内家の土佐支配に対する大規模な最後の抵抗であり、この事件をきっかけに、一領具足の権限が弱体化され、土佐藩での兵農分離が一気に加速した。
- 1620年(元和6年6月30日)卒去。
家族
- 本人:永原一照(山内刑部)