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国内軍への迫害はポーランドの[[スターリン主義]]の大きな目標の1つであった。[[1944年]]から[[1956年]]の期間、およそ200万人<ref name="Rzecz"/>が逮捕され、2万人、[[オシフィエンチム|アウシュヴィッツ]]の英雄である[[ヴィトルド・ピレツキ]]が共産主義の刑務所で処刑・殺害された<ref name="Rzecz"/>。そして、600万人のポーランドの市民(すなわちポーランド人の成人の1/3)は国家組織による調査に対して抵抗し、「反動的もしくは犯罪の要素あり」と分類された<ref name="Rzecz"/>。その後、1956年に、大赦により3万5千人の旧国内軍の兵士が刑務所から釈放されたが、彼らは祖国のために戦うことを犯罪とされて、10年以上も刑務所で過ごしたことになった。
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その一方で、一部のパルチザンは田舎のほう残存し、コミュニティを再する気がないか、もしくはできない状態でいた。彼らは、「[[呪われた兵士]]」として知られるようになった。スタニスワフ・マルチェヴスカ ({{lang|pl|Stanisław Marchewska}}、{{lang|pl|"Ryba"}}) は1957年に、最後の国内軍のパルチザンユゼフ・フランチャク ({{lang|pl|Józef Franczak}}、{{lang|pl|"Lalek"}}) は1963年に殺害された<ref name="Rzecz"/>。このときまで、第二次世界大戦が終了して約20年経過していた。それから4年経過した1967年に、国内軍の兵士でイギリスで訓練を受けた潜伏者 ({{lang|pl|Cichociemny}}) 情報支援グループの一員でエリートであるアダム・ボリチュカ ({{lang|pl|Adam Boryczka}}) が刑務所から釈放された。ポーランド人民共和国の崩壊まで、国内軍のメンバーは秘密警察による監視の対象であった。そして、共産主義崩壊後、1989年にポーランドの裁判所により国内軍の兵士判決が最終的に無効となった<ref name="Rzecz"/>。
その一方で、農村部に残存していた一部のパルチザンにコミュニティを再する気がなく、あるいはできない状態でいた。彼らは、「[[呪われた兵士]]」として知られるようにな。スタニスワフ・マルチェヴスカ ({{lang|pl|Stanisław Marchewska}}、{{lang|pl|"Ryba"}}) は1957年に、最後の国内軍のパルチザンユゼフ・フランチャク ({{lang|pl|Józef Franczak}}、{{lang|pl|"Lalek"}}) は1963年に殺害された<ref name="Rzecz"/>。このときには第二次世界大戦が終了して約20年経過していた。それから4年経過した1967年に、国内軍の兵士でイギリスで訓練を受けた潜伏者 ({{lang|pl|Cichociemny}}) 情報支援グループの一員でエリートであるアダム・ボリチュカ ({{lang|pl|Adam Boryczka}}) が刑務所から釈放された。ポーランド人民共和国の崩壊まで、国内軍のメンバーは秘密警察による監視の対象にされていた。そして、共産主義体制が崩壊した後、1989年にポーランドの裁判所により国内軍の兵士に対する判決が最終的に無効となった<ref name="Rzecz"/>。


== 組織構成と人員 ==
== 組織構成と人員 ==

2010年4月6日 (火) 15:08時点における版

国内軍ポーランド語: Armia Krajowa (アールミヤ・クラヨーヴァ)、略号:AK)は、第二次世界大戦中のナチス・ドイツによるポーランド占領に対する一番の抵抗勢力であった。この組織は、1939年に編成されたポーランド勝利の戦い(Służba Zwycięstwu Polski)を起源とし、1942年2月に武装闘争連合(Związek Walki Zbrojnej)が形成され、続く2年間ポーランドの他の地下組織を併合し、ソビエト連邦赤軍が前進し、ポーランド領内からドイツ軍が一掃された1945年1月に解散した。

国内軍は40万以上の構成員を持ち、ポーランド最大の抵抗組織で、世界で2番目に大きな抵抗組織であった(1番目はユーゴスラビアパルチザンであった)。国内軍はポーランド秘密組織(państwo podziemne)として知られるようになった武装組織を構成した。

国内軍の主な行動としては、東部戦線ソビエト連邦)へのドイツの輸送機関でのサボタージュであり、ドイツ軍に対する武装蜂起も行なっていた。その例として、1943年から1944年テンペスト作戦があり、多数のドイツ軍の師団を足止めした。

国内軍がポーランド亡命政府の指揮下にあったことから、ソビエト連邦に敵対組織として見られたため、一部は対ソビエトパルチザンとして活動を継続し、戦後は、呪われた兵士と呼ばれた。

歴史

第二次世界大戦

国内軍の元は、ポーランド勝利の戦い(Służba Zwycięstwu Polski)であり、ドイツのポーランド侵攻が完了する直前である1939年9月27日に、ミハウ・カラシェヴィチ=トカジェヴィスキ(Michał Karaszewicz-Tokarzewski)将軍により編成された。7週間後の1939年11月17日ヴワディスワフ・シコルスキ将軍(Władysław Sikorski)の命令で、この組織は武装闘争連合(Związek Walki Zbrojnej)に継承され、2年後の1942年2月14日国内軍となった。

この二人の将軍が国内軍の元となったのだが、ポーランド国内には、他のポーランドの抵抗組織も存在したが、最終的に国内軍に合併された。以下羅列すると、国民軍組織(Narodowa Organizacja Wojskowa、1942年秋と1943年夏に部分的に), 人民同盟(Konfederacja Narodu 、1943年秋)、国民武装軍(Narodowe Siły Zbrojne、1944年夏に部分的)、農民戦線(Bataliony Chłopskie、部分的), 人民親衛隊(Gwardia Ludowa、1943年部分的)となる。国内軍と合併しなかった有名な組織としては、人民軍(Armia Ludowa)がある。

タデウシュ・コモロフスキ

ステファン・ロヴェッキStefan Rowecki;暗号名:Grot(洞窟)もしくは"Arrowhead"(矢じり))が最初の国民軍の指揮官となった。1943年に彼が逮捕されると、タデウシュ・コモロフスキ(Tadeusz Bór-Komorowski)が後を継ぎ、1944年9月の逮捕後は、レオポルト・オクリツキLeopold Okulicki;暗号名:Niedzwiadek (熊の子))が終戦まで組織を指揮した。

国内軍は、組織の存続期間、何千もの武装襲撃のような作戦や、鉄道輸送網の破壊等、諜報作戦や、ドイツ警察やドイツ軍部隊へのパルチザン活動を行なった。また、国内軍はポーランド市民に行なわれたナチスの恐怖政治に対しての報復として、ゲシュタポの高官の暗殺計画の指揮も行った。

国内軍は連合国に様々な諜報活動を行った、例えば、V-1V-2爆弾[1]についての情報や、ドイツの強制収容所[2]などを提供した。 そのひとつがビッグ・ベン計画である(モストIII作戦もしくはワイルドホルンIII作戦[3]) )。これは、英国空軍の双発機ダコタを利用し、イタリアのBrindisiからポーランド国内のドイツ軍の放棄された飛行場へ、技術者で航空機設計者であるアントニ・コツィアン(Antoni Kocjan)により準備された情報を回収した。回収した情報は、ペーナミンダペーネミュンデ)(Peenemünde)の発射台からのV-2テストロケットの残骸、特別報告書1/R. の.242、パーツ、図面などを含んでいた[4]

ワルシャワ蜂起における国内軍の兵士

主要な軍事作戦とサボタージュを含む1943年ベルト作戦(Operation Belt)が行われた。これは、総督府(Genereal Government)とドイツに併合された領土の間の境界の護衛を行っている基地(station)に対して攻撃を行うものであった。そして、1944年テンペスト作戦では、ドイツ軍が赤軍に対して防衛を行おうとしている地域や都市の支配権を握るための一連の反乱であり、ポーランド市民による組織がソビエト軍の到着前に力を持っておくことを目的とした。このテンペスト作戦で最も有名な戦闘が、ソビエトの赤軍が到着する前にワルシャワを解放しようとしたワルシャワ蜂起である。ワルシャワ蜂起は1944年8月1日に始まり、ポーランド軍の部隊は都市の主要な地点を占拠、ゲンシャ通り強制収容所(Gęsia Straße、現在のAnielewicza Straße)から数百人の収容者を解放して、ドイツ軍に対して63日間抵抗した。最終的には、ドイツ軍は反乱軍を破り、都市を燃やし、蜂起を1944年10月2日に鎮圧した。同様の蜂起はウィルノ蜂起(Wilno Uprising)、ルヴフ蜂起(Lwów Uprising)の様なものがあった。

ポーランドの地下組織による枢軸国の犠牲者は、約15万(ほとんどが国内軍によるもの)である[5]。(しかし、抵抗勢力による推定犠牲者は大きな誤差があることを記しておく[6])。国内軍の主な行動はドイツ軍の東部戦線(ソビエト連邦)への鉄道輸送や道路輸送に対するサボタージュであった。ドイツ軍の東部戦線への輸送物資の約1/8が国内軍の活動により破壊されるか大きく遅延した.[7]。国内軍は、特に1943年と1944年にドイツ軍と大規模な交戦をおこない、いくつかのドイツ軍の師団を釘付けにした[1]、人数にして約93万人である.[8]

戦後

コトフィッツア、国内軍のシンボルの一つ

国内軍は公式には1945年1月19日ソビエト連邦との武力衝突と内戦を避けるため解散した。しかし、たくさんの部隊は新たな環境における抵抗運動を続けることを決定した。

ソビエト連邦ポーランドの共産主義者は、ポーランド亡命政府へ忠誠を尽くす地下組織を、自分たちがポーランド全体の支配を得る前に除去すべき戦力であるとみなしていた。更に、将来PZPRの書記長となるヴワディスワフ・ゴムウカは、以下のように述べていた。「国内軍の兵士は慈悲をかけずに除去すべき抵抗組織だ。」また、ポーランドの急進的な共産主義者のひとりであるロマン・ザンブロフスキ (Roman Zambrowski) は、AKは「根絶」すべきであるとまで言っていた[9]

ソビエトの脅迫に対抗して最初に作られた国内軍の部署は NIE であり、1943年中ごろに構成された。NIE の目的は、ソビエトの戦力と戦うことではなく、ポーランド亡命政府がソビエトに対応する方法を模索している間に、ソビエトに対するスパイ活動の実行とその指揮を行うことであった。この時点では、亡命政府は話し合いで決着がつくものだと信じていた。

1945年5月7日にNIE (NO) は解散し[9]、祖国武装戦力代表団 (Delegatura Sił Zbrojnych na Kraj) となった。この組織は、1945年8月8日までしか続かず、その日に組織は解散し、ポーランド領内での抵抗運動を停止した[9]

国内軍のモニュメント、ポーランド、ソポト
戦後モスクワにおける国内軍指導者の公開裁判

最初のポーランド共産主義政府であるPKWNは、1944年7月に形成され、国内軍の兵士に対しての司法権を放棄し、1年以上もの間、ソビエトのNKVDのような性格を持つものであったが、国内軍の扱いには慎重であった。戦争が終了するまで、6万人の国内軍の兵士が拘束され、そのうちの5万人は、ソビエトのグラグや監獄に投獄された。そのほとんどの兵士は、たくさんの国内軍の部隊が、ソビエトと共同で、国家規模でドイツに対して蜂起を試みた際に[9]、テンペスト作戦の最中もしくはその後に、ソビエトにより捕まったものである。それ以外の者は、大赦の約束を受けた後、政府の役職に就こうとした際に拘束された。その様な信義を破る行為が共産党支配の最初の数年間続き、国内軍の兵士は政府を信用しなくなった[9]

第3の国内軍の組織は、「自由と主権」 (Wolność i Niezawisłość, WiN) であった。この組織の最終的な目的は戦闘ではなく、どちらかと言うと、国内軍の兵士を抵抗運動の生活から市民生活に戻す手助けのために作られた。共産主義の政府による国内軍のベテランへの迫害の増加を考慮すると、秘密と陰謀が必要であった[10]。WiNはたくさんの資金が必要としていた。資金は、虚偽の文章を発行したり、パルチザンや戦争で家や財産を失ったたくさんの人へ資金を提供したりするために使用された。WiNはソビエトとポーランドの共産政権への武装抵抗を主張する派閥と共に、国家の敵と見なされ、資金が断たれると、力を失っていった[9]NKVDと新たに作られたポーランド秘密警察 (Urząd Bezpieczeństwa) の大きな勝利は、1945年の後半に、国内軍のメンバーに大赦を与えると、国内軍とWiNの何人かのリーダーに信じさせることができたことであった。数ヶ月で、NKVDと秘密警察は、国内軍とWiNの資金と構成員の膨大な情報を得ることができた。(拘束されていた)国内軍とWiNのリーダーは数ヵ月後に間違いに気がつき、すでにそのときには数千人のメンバーが逮捕され組織は無力となった[9]。そして、WiNは1952年に解散することになった。

NKVDとポーランド秘密警察は武力行使以上のことは行わなかった。1946年秋、NSZのグループの一団である100人から200人の兵士が罠にはめられ、虐殺された。1947年には、共産主義の軍隊の大佐は次の様な宣言を行った。「地下にもぐったテロリストと政治団体は、まだ人間が残っているが、武力での脅迫をやめた。」[9]

国内軍への迫害はポーランドのスターリン主義の大きな目標の1つであった。1944年から1956年の期間、およそ200万人[9]が逮捕され、2万人、アウシュヴィッツの英雄であるヴィトルド・ピレツキが共産主義の刑務所で処刑・殺害された[9]。そして、600万人のポーランドの市民(すなわちポーランド人の成人の1/3)は国家組織による調査に対して抵抗し、「反動的もしくは犯罪の要素あり」と分類された[9]。その後、1956年に、大赦により3万5千人の旧国内軍の兵士が刑務所から釈放されたが、彼らは祖国のために戦うことを犯罪とされて、10年以上も刑務所で過ごしたことになった。

その一方で、農村部に残存していた一部のパルチザンにはコミュニティを再建する気がなく、あるいはできない状態でいた。彼らは、「呪われた兵士」として知られるようになる。スタニスワフ・マルチェヴスカ (Stanisław Marchewska"Ryba") は1957年に、最後の国内軍のパルチザンユゼフ・フランチャク (Józef Franczak"Lalek") は1963年に殺害された[9]。このときには第二次世界大戦が終了して約20年が経過していた。それから4年経過した1967年に、国内軍の兵士でイギリスで訓練を受けた潜伏者 (Cichociemny) 情報支援グループの一員でエリートであるアダム・ボリチュカ (Adam Boryczka) が刑務所から釈放された。ポーランド人民共和国の崩壊まで、国内軍のメンバーは秘密警察による監視の対象にされていた。そして、共産主義体制が崩壊した後、1989年にポーランドの裁判所により国内軍の兵士に対する判決が最終的に無効となった[9]

組織構成と人員

1943年と1944年の夏には、国内軍は最大の人数、約40万人となった。1944年の前半にAKの構成員の人数は25万人から40万人の間で[1]、1万人以上の基幹部分の指揮官を含め、平均的には30万人程度であった[11]。同調者の数は非常に多かったが、任務を行っていた武装した構成員の数は多くなかった[6]。この様な大量の人員は国内軍を単なるポーランドにおいて最大の抵抗運動とするだけでなく、80万人を越えるユーゴスラビアのパルチザン[1]に次ぐ世界で2番目の抵抗運動とした。戦争中の犠牲者は3万4千[11]から10万人の間で、戦後の犠牲者と投獄者が2万人[11]から5万人いる。

国内軍の実行部隊は、たくさんの部隊により構成される作戦司令部である。他のポーランドの地下組織の軍のほとんどは国内軍に併合されていった[1]。これは以下のものを含む。

  • 人民同盟(Konfederacja Narodu)
  • 農民戦線(Bataliony Chłopskie)
  • 人民党(Stronnictwo Ludowe)の大きな軍事組織
  • ポーランド社会党(Polska Partia Socjalistyczna)により設立された社会主義者戦闘組織(Socjalistyczna Organizacja Bojowa)
  • 国民党(Stronnictwo Narodowe)により設立された、国民軍組織(Narodowa Organizacja Wojskowa)
  • 国民連合キャンプ(Obóz Zjednoczenia Narodowego)により設立された、戦うポーランドのキャンプ(Obóz Polski Walczącej)
  • 1944年3月に、右翼の実行部隊の一部である、国民軍(Narodowe Siły Zbrojne)。

国内軍に参加することを拒否したグループで最大のものが、親ソビエトの共産主義の人民軍(Armia LudowaAL)であった。この組織は1944年に3万人の人数がいた[12].

AKはそれ自体、組織的に16の領域の部門に分けられ、さらに89のinspectoratesに細分された。これは更に278の地域から構成された。総司令部では国内軍の主任務は行動を起こしすための準備と、ドイツの支配が終わった際に、勝利まで武装反乱を起こすことと定めた。その段階ではロンドンにあるポーランドの亡命政府の「代理」によるポーランドにおける統治能力の奪回を考え、亡命政府がポーランドに戻る事を想定した。

地域(Area) 区域(Districts) コードネーム テンペスト作戦
ワルシャワエリア
(Warsaw area)
ワルシャワ
ウワシュチュ大佐(Albin Skroczyński)

ワルシャワ-プラハ
'シュエリガ大佐(Hieronim Suszczyński)
Struga (小川), Krynica (源), Gorzelnia (蒸留所) 第10歩兵師団
西
ワルシャワ
ロマン大佐(Franciszek Jachieć)
Hallerowo (村の集会所),Hajduki, Cukrownia (砂糖工場) 第28歩兵師団

ワルシャワ
カジミェシュ中佐(Zygmunt Marszewski)
Olsztyn, Tuchola, Królewiec, Garbarnia (製革所) 第8歩兵師団
南東部エリア
ルヴフ
イァンカ大佐(Władysław Filipkowski)
ルヴーウ
ルヴフ
ルシーニア大佐(Stefan Czerwiński)
Dukat (切符), Lira (うそつき), Promień (日光) 第5歩兵師団
スタニスワヴフ
スタニスワヴフ
ジュラフ大尉(Władysław Herman)
Karaś (鮒), Struga (小川), Światła (光) 第11歩兵師団
タルノーポリ
タルノポリ
ザヴァツキ少佐(Bronisław Zawadzki)
Komar (蚊), Tarcza (盾), Ton (音) 第12歩兵師団
西部エリア
ポズナン
デンホフ'大佐(Zygmunt Miłkowski)
ポモージェ
グディニャ
ピオルン大佐(Janusz Pałubicki)
Borówki (ベリー), Pomnik (記念碑)
ポズナン
ポズナン
コヴァルフカ大佐(Henryk Kowalówka)
Pałac (宮殿), Parcela (くじ)
独立エリア ヴィルノ
ヴィルノ
ヴィルク'大佐(Aleksander Krzyżanowski)
Miód (蜜), Wiano (資質)("Kaunas Lithuania"の分派隊)
ノヴォグルデク
ノヴォグルデク
ボルスク中佐(Janusz Szlaski)
Cyranka (シマアジ), Nów (新月) Zgrupowanie Okręgu AK Nowogródek
ワルシャワ
ワルシャワ
モンテル大佐(Antoni Chruściel)
Drapacz (摩天楼), Przystań (海岸),
Wydra (カワウソ), Prom (シャトル)
ポレジー
ピンスク
レシニィ大佐(Henryk Krajewski)
Kwadra (1/4), Twierdza (保存), Żuraw (クレーン) 第30歩兵師団
ヴォイン
ルヴネ
ルボン大佐(Kazimierz Bąbiński)
Hreczka (そば), Konopie (麻) 第27歩兵師団
ビャウィストク
ビャウィストク
ムシツィスゥアヴ大佐(Władysław Liniarski)
Lin (壕), Czapla (飾り毛), Pełnia (満月) 第29歩兵師団
ルブリン
ルブリン
マルツィン大佐(Kazimierz Tumidajski)
Len (綿), Salon (サロン), Żyto (ライ麦) 第3レギオン歩兵師団
第9歩兵師団
クラクフ
クラクフ
ルグ(Julian Filipowicz)大佐を含む複数の指揮官
Gobelin, Godło (紋章), Muzeum (博物館) 第6歩兵師団
第106歩兵師団
第21歩兵師団
第22歩兵師団
第24歩兵師団
クラクフ自動車化騎兵旅団
シレジア
カトヴィツェ
ジグムント大佐(Zygmunt Janke)を含む複数の指揮官
Kilof (つるはし), Komin (煙突), Kuźnia (製造所), Serce (心)
キェルツェ=ラドム
キェルツェラドム
ミチィスゥアヴ大佐(Jan Zientarski)
Rolnik (農夫), Jodła (樅) 第2レギオン歩兵師団
第7歩兵師団
ウッチ
ウッチ
グシェゴシュ大佐(Michał Stempkowski)
Arka (櫃), Barka (はしけ), Łania (浴槽) 第25歩兵師団
第26歩兵師団
海外エリア ハンガリー
ブダペスト
コルコゾヴィチュ中佐(Jan Korkozowicz)
リスト
帝国
ベルリン
Blok (ブロック)

他の面から見ると、国内軍は7つの部門に分割される、編成、情報と諜報、作戦と訓練、輸送、通信、情報とプロパガンダ、資金である。

国内軍関連の組織として、以下のものがあった。

  • Kedyw - 第8の部門「特殊作戦」として知られていた
  • Wachlarz - Kedywの一部

武装と装備

ワルシャワ蜂起での国内軍の司令部。左から2番目がタデウシュ・コモロフスキ

どんな友軍の領域からも1000km以上離れた軍によって占領されている国で作戦を行う秘密軍組織であるため、国内軍は武器と器材を得る際の特有の難問に取り組んだ。相当の成果をだしつつ、国内軍はこれらの難問を克服し、何万もの武装した兵士を戦場に送ることができた。それでも、軽火器で武装した歩兵のみでの編成は難しいものがあった。砲兵や戦車部隊や航空支援などはありえるものではなかった(ワルシャワ蜂起でのクブシ(Kubuś)装甲車の様な一部の例外を除く)。これらの軽歩兵部隊は様々なタイプの武器の混成により武装を行っており、通常、部隊の兵士の一部のみを武装させるために十分な量の火器しか保持していなかった。

それとは対照的に、彼らの敵であるドイツ軍の部隊とその同盟軍部隊は、多くの武器と弾薬の補給があり、完全な支援兵力の助けを得ることができた。敵対するドイツ軍は国内軍に対する優勢な情勢下で、破壊の限りを尽くした。この破壊は、実行中の作戦に大きな制限をかけた。

国内軍の武器と装備は主に4つのルートで手に入れていた。1つ目は1939年ポーランド侵攻の戦場から回収したポーランド軍の放棄した武器、2つ目はドイツ軍もしくはその同盟国から購入もしくは捕獲した武器、3つ目は国内軍自体が密造していた武器、4つ目は連合国の航空機から投下され受け取った武器である。

1939年の武器の隠匿から、国内軍は614丁の重機関銃、1193丁の軽機関銃、33052丁のライフル、6732丁の拳銃、28門の軽対戦車野砲、25丁の対戦車ライフル、43,154発の手榴弾があった[13]。しかし、9月の戦闘の混乱の中、即座に整えた維持環境が不十分なものであったため、大部分の武器はひどい状態にあった。これらの武器は地面に隠され、1944年のテンペスト作戦の準備に掘り出されたが、30%のみが利用可能であった。

ドイツ軍兵士から購入した武器は「草の根」レベルの取引であった。購入は個々の部隊により行われ、時には個人レベルで行われた。ドイツの勝利の可能性が減り、ドイツ軍の士気が低下したため、武器を売りたいと言う兵士の数は次第に増加し、この購入源は次第に重要となった。そのような購入は高いリスクもあった。ゲシュタポブラックマーケットにおける武器を気にしており、おとり捜査によりそれらを確認しようとした。これらの取引のほとんどは個人装備に限定されていたが、まれに軽機関銃や重機関銃を手に入れることができた。ポーランドに駐留したイタリアハンガリーの部隊との交渉はもっと簡単であった。彼らがドイツ軍にその取引を隠せる状況であるなら、ポーランドの地下組織に武器を喜んで売っていた。

ワルシャワ蜂起でのナポレオンスクエア。写真のヘッツァー駆逐戦車は国内軍に鹵獲されたもの。

高い成功率でドイツ軍から武器を奪うことができた。前線や警備所(guardhouses)や憲兵所(gendarmerie posts)に輸送される装備を積んだ列車が襲われた。時には、町に立っている個々のドイツ軍の兵士から武器を奪った。ワルシャワ蜂起では、国内軍はドイツ軍の装甲車両を捕獲している。

国内軍による武器の密造は秘密工場で行われ、ドイツの軍需工場で働いている人々により行われた。この方法で、国内軍はサブマシンガン(イギリスのステンガンのコピー、ポーランド製のブリスカヴィカKIS)や拳銃(VIS)、火炎放射器、爆薬、地雷、手榴弾(フィリピンカシドルヴカ)を手に入れた。数百の人がこの密造に関連した。

最後の入手方法は、連合国の航空機による投下である。これは、魅力的で役に立つ装備、たとえば、プラスチック爆弾、対戦車兵器(PIAT等)を手に入れる唯一の方法であった。戦争中に国内軍のために485機の航空機が航空機からの物資投下を行ない、600.9トンの物資がわたった。これらの作戦中70機の航空機と62人の人員(そのうち28人がポーランド人)が失われた。戦争中、装備と共に航空機は高い経験のあるインストラクター(the Cichociemni)316人[11]をパラシュートによりポーランドに派遣した[13]。イギリスと地中海の基地から大きく離れており、あまり政治的な支援が熱心に行われなかったため、空輸はフランスやユーゴスラビアの抵抗運動の支援の実行の何分の一かの規模でしか行われなかった。

他の組織との関係

ユダヤ人との関係

1942年2月、国内軍の情報及び宣伝局の作戦指揮官はユダヤ人問題に関する部門を立ち上げ、ヘンリク・ヴォリンスキ(Henryk Woliński)の指揮下においた。[14]。この部門は、ユダヤ人の状況に関するデータを集め、レポートを作成し、ロンドンに情報を送った。また、この部門はポーランドとユダヤ人の軍事組織の間のコンタクトを管理した。また、国内軍はユダヤ人に対する支援組織も創設した(「ジェゴタ」参照)。国内軍は、その指揮官にユダヤ人を少数(約1千人)しか受け入れなかった。これは、ユダヤ人はナチスに簡単に認識されることが原因で、通常ユダヤ人の志願者を断っていたためである。

国内軍の一員だったヴィトルト・ピレツキ(Witold Pilecki)は、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所に投獄されることを志願した唯一の人間であった。彼が集めた情報は、ユダヤ人たちの運命を西側の連合国に知らせる上で非常に重要なものだったことが判明している[2]

国内軍はワルシャワ・ゲットーに60丁の拳銃と、数百個の手榴弾、弾薬や爆薬を提供した。1943年ワルシャワ・ゲットー蜂起では、国内軍の部隊はゲットーの境界の壁を2回破壊することを試み、ゲットーの外の壁近くにおいて、人民親衛隊(Gwardia Ludowa, GL)の部隊と共同で、ドイツ軍の治安部隊に対し散発的な攻撃を行った。国内軍の部隊のひとつである、ヘンリク・イヴァンスキ(Henryk Iwański)指揮下の部隊である国家治安軍団(Kadra Bezpieczeństwa, KB)はユダヤ人軍事連合(Żydowski Związek Walki, ŻZW)とユダヤ人戦闘組織(Żydowska Organizacja Bojowa, ŻOB)のユダヤ人の戦力と共にゲットーの中に入って戦闘を実際に行った[15]

国内軍の集団の司令部(KG AK)の7人のメンバーのうち3人ユダヤ系の人間であった。

一部の歴史家はナチスと共同した国内軍はホロコーストに「大きく汚染されていない」と述べるが[16]、国内軍のメンバーの犯罪の告発や、反ユダヤの暴力がこれらの時代頻繁に生じており[16]、一部の文献は国内軍を反ユダヤ組織として指定し続けている[17][18]。この問題は議論の対象となっており、難しい問題でもある[19]

リトアニアとの関係

アレクサンデル・クリズィジャノヴスキ、ヴィルノ(現在のビリニュス)地区の国内軍の司令官

リトアニアポーランドの間の関係は大戦間の期間に既に緊張しきっていたが、戦争中に、対立が更に激化した。リトアニアとポーランドの抵抗運動は同じ敵、ナチスドイツとソビエト連邦を相手にしていたが、戦争中に同盟することは決してなかった。連合を組む際に一番の問題となったものは、ビリニュスに関連する領土の問題であった[20]1944年から1945年までのソビエト軍の再占領後、リトアニアとポーランドの抵抗組織はソビエトの支配に対して協力して活動を開始した[21]

一部のリトアニア人はドイツによる曖昧な自治権の約束を得ており[22] 、ドイツの占領期間中はポーランドに対してナチスと協力して事にあたっていた。1943年秋、国内軍はリトアニア人のナチスへの協力者、特にリトアニア秘密警察に対する作戦を開始した[23]。そして、1944年の前半のみでリトアニア人の警察官と他の協力者の数百人を殺害した[24] 。その報復に、1941年から数百人のポーランドの市民を殺害してきたリトアニア警察は、ポーランド人への締め付けを強化した。これにより、ドイツの占領下で低レベルの内戦が起こされた[23]。これは、グリティシュケース(Glitiškės)とドゥビンギャイ(Dubingiai)の村におけるポーランド人とリトアニア人の市民の虐殺で幕を閉じた[24]

国内軍のリトアニアにおける活動の戦後における評価は議論を呼んでいる。ソビエトの支配下のリトアニアにおいて、国内軍はテロ組織として扱われた。そのリトアニアでの活動は1993年の特別リトアニア政府委員会(special Lithuanian government commission)により調査された。最近、ポーランドとリトアニアの歴史家は、個々のイベントに対しては異なる見解を持っているが、いくつかの妥協点にたどり着こうとしている[25] [26]

ソビエト連邦との関係

国内軍とソビエトとの関係は完全に悪化の道をたどっていた。ソビエト連邦は1939年のポーランド侵攻においてドイツと一緒にポーランドに侵攻したのみでなく、ドイツのソビエト侵攻後は、ソビエトは亡命政府に忠実なポーランドパルチザンを潜在的な同盟相手ではなく、戦後のポーランド支配の計画における敵としみなしていた[27]1943年6月22日のモスクワからの指令[16]では、ソビエトのパルチザンはポーランドのパルチザン相手に戦闘を起こすように支持され、実際、彼らはドイツ軍に対してより頻繁にポーランド人を攻撃した[27]。同様に赤軍の主力とNKVDは、テンペスト作戦の間もしくはその直後に、国内軍のパルチザンに対する作戦を行なった[1][9]。このテンペスト作戦は、ポーランドがソビエト軍と共同で撤退するドイツ軍に対して計画した武装蜂起で、ポーランドが自分の領土に対して領有権を主張するために起こしたものであった。しかし、テンペスト作戦の考えの様な戦後独立したポーランドが再度登場しないことを確実にすると言うスターリンの目標は、最初から決まったものであった[28]

1943年終わり、国内軍を除去するように指示を受けた[16]ソビエトパルチザンの行動は国内軍とドイツ軍の一部の部隊間の不安定で限定的な協調を作り出した[16]。国内軍はドイツを敵とみなしドイツに対する様々な作戦を行なっていた一方で、ドイツ軍はソビエト軍に対抗するために国内軍に武器と物資を提供することを提案し、ノヴォグルデク(Nowogródek)とヴィルノ(Wilno)の一部のポーランドの部隊はその申し出を受け入れた。しかし、その様な手配は単に戦術的なもので、フランスのヴィシー政権やノルウェーのクヴィスリング政権 や近くにあったウクライナの国家主義組織のようなイデオロギー的な結びつきではなかった[16]。ポーランド人の主な動機は、ドイツ軍の士気や装備の情報を得て、必要な武器を入手することであった[19]。ポーランドとドイツの共同作戦に関しては知られていない。ドイツ軍はポーランド人をソビエトのパルチザンのみを相手に戦わせることに失敗した[16]。そうであるため、その様な局所的なドイツ軍との協調のほとんどは国内軍の総司令部により無効であるとされた[16]

タデウシュ・ピョトロフスキ(Tadeusz Piotrowski)はヨーゼフ・ロードシルト(Joseph Rotschild)の言葉を引用して言った。「ポーランドの国内軍は全体的に協力により汚点は生じていない。」更に加えて「全体としての国内軍の誇りは非難されるものではない。」[16]

1944年東部戦線の前線がポーランド領内に入ると、国内軍はソビエトとの間の確信性の低い約束を果たした。国内軍はソビエト軍部隊の偵察を助け、暴動を組織し、都市の解放に協力した(例えば、オストラ・ブラマ作戦ルヴフ蜂起)。それらの後、国内軍の部隊は拘束され、投獄され、処刑されることになる[7]

ソビエト軍は国内軍の部隊と戦後も長期間戦いを続けた。

関連項目

脚注

  1. ^ a b c d e f Eastern Europe in World War II: October 1939-May 1945(第二次世界大戦東ヨーロッパ、1939年9月 - 1945年5月). Lecture notes of prof Anna M. Cienciala. Last accessed on 21 December 2006.
  2. ^ a b (ポーランド語) Detailed biography of Witold Pilecki on Whatfor(ヴィトルド・ピレツキのヴァトフォーにおける詳細な伝記). (最終確認2006年11月21日)
  3. ^ Ordway, Frederick I., III. "The Rocket Team"(ロケットチーム). Apogee Books Space Series 36 (pgs 158, 173)
  4. ^ McGovern, James. "Crossbow and Overcast"(クロスボウと薄曇). W. Morrow: New York, 1964. (pg 71)
  5. ^ Marjorie Castle, Ray Taras, Democracy in Poland(ポーランドの民主主義), Westview Press, 2002, ISBN 0813339359, Google Print, p.27
  6. ^ a b Walter Laqueur, Guerrilla Warfare: A Historical and Critical Study(ゲリラ戦力:歴史的、批判的研究), Transaction Publishers, 1998, ISBN 0765804069, Google Print, p.202-203
  7. ^ a b R. J. Crampton, Eastern Europe in the Twentieth Century(20世紀の東ヨーロッパ), Routledge, 1994, ISBN 0415053463, Google Print, p.198
  8. ^ Iwo Cyprian Pogonowski, Poland a Historical Atlas(ポーランド歴史地図), Hippocrene Books, 1987, ISBN 0880293942 からポーランド国内軍の戦いの地図 1940年 - 1945年 (p204)
  9. ^ a b c d e f g h i j k l m n Rzeczpospolita, 02.10.04 Nr 232, Wielkie polowanie: Prześladowania akowców w Polsce Ludowej (大捜索:ポーランド人民共和国における国民軍兵士の迫害)、最終確認2006年7月7日。
  10. ^ (英語) Stefan Korboński (1959). Warsaw in Chains (鎖の中のワルシャワ). New York: Macmillan Publishing. pp. 112-123 
  11. ^ a b c d Polish contribution to the Allied victory in World War 2 (1939-1945) (第二次世界大戦の連合国の勝利へのポーランドの貢献(1939年 - 1945年)). Publications of Embassy of the Republic of Poland in Canada. 最終確認2006年12月21日。
  12. ^ (ポーランド語) Armia Ludowa(国内軍). Encyklopedia PWN. 最終確認2006年12月21日
  13. ^ a b Stefan Korboński(ステファン・コルボンスキ), The Polish Underground State(ポーランド地下国家), Columbia University Press, 1978, ISBN 0-914710-32-X
  14. ^ Jewish Virtual Library(ユダヤ人の真実の図書館)
  15. ^ Addendum 2 – Facts about Polish Resistance and Aid to Ghetto Fighters(ポーランド抵抗の事実とゲットーの戦士への支援), Roman Barczynski, Americans of Polish Descent, Inc. 最終確認2006年6月13日
  16. ^ a b c d e f g h i Tadeusz Piotrowski, Poland's Holocaust(ポーランドのホロコースト), McFarland & Company, 1997, ISBN 0-7864-0371-3. Google Print, p.88, p.89, p.90
  17. ^ [1] Death Comes in Yellow: Skarżysko-Kamienna Slave Labor Camp(死がやってくる:Skarżysko-Kamienna Slave労働キャンプ)] Felicja Karay, 1996, Routlege.
  18. ^ Safe Among the Germans: Liberated Jews After World War II(ドイツでの安全:第二次世界大戦後のユダヤ人の解放). Ruth Gay, 2002, Yale University Press.
  19. ^ a b Review by John Radzilowski of Yaffa Eliach's There Once Was a World: A 900-Year Chronicle of the Shtetl of Eishyshok(かつての世界:Shtetl of Eishyshokの900年の歴史), Journal of Genocide Research, vol. 1, no. 2 (June 1999), City University of New York.
  20. ^ Petersen, Roger (2002). Understanding Ethnic Violence: Fear, Hatred, and Resentment in Twentieth-century Eastern Europe(20世紀の東ヨーロッパにおける民族の暴力:恐怖と憎悪と敵意). Cambridge University. pp. p.152. ISBN 0521007747 
  21. ^ (リトアニア語) Arūnas Bubnys. Lietuvių ir lenkų pasipriešinimo judėjimai 1942–1945 m.: sąsajos ir skirtumai (リトアニアとポーランドの抵抗運動 1942年 - 1945年), 最終確認2004年1月30日。
  22. ^ Piotrowski, Tadeusz (1998). "Poland's Holocaust"(ポーランドのホロコースト). pp. p. 163. ISBN 0-7864-0371-3. http://books.google.com/books?id=A4FlatJCro4C&pg=PA163&lpg=PA163&sig=cxngNBK4-zWQJmd7eKuuBnoMbJY 
  23. ^ a b Snyder, Timothy (2003). "The Reconstruction of Nations: Poland, Ukraine, Lithuania, Belarus, 1569-1999"(国家の再編:ポーランド、ウクライナ、リトアニア、ベラルーシ、1569年 - 1999年). Yale University Press. ISBN 030010586X 
  24. ^ a b Piotrowski, Tadeusz (1998). "Poland's Holocaust"(ポーランドのホロコースト). pp. pp. 168, 169. ISBN 0-7864-0371-3. http://books.google.com/books?id=A4FlatJCro4C&pg=PA168&lpg=PA168&sig=Pq-OjHaAP-wfOIIJb_Gqu2GI3aQ 
  25. ^ (ポーランド語) Gazeta Wyborcza, 2004-09-01, W Wilnie pojednają się dziś weterani litewskiej armii i polskiej AK (現在のビルニュスで、リトアニア軍と国内軍の精鋭がお互いを許した)、最終確認2006年6月7日。
  26. ^ Dovile, Budryte (Sep 30, 2005). Taming Nationalism?(管理された国家主義). Ashgate Publishing, Ltd.. ISBN 0-7546-4281-X. http://books.google.com/books?id=UJMzpeUHkQcC&pg=PA187&lpg=PA187&sig=ealL7IU7BZw8wkUq1YuBa9Mkhx0 
  27. ^ a b Review of Sowjetische Partisanen in Weißrußland, by Marek Jan Chodakiewicz, in Sarmatian Review, April 2006
  28. ^ Judith Olsak-Glass, Review of Piotrowski's Poland's Holocaust(ポーランドのホロコースト) in Sarmatian Review, January 1999.

参考文献

  • Norman Davies, Rising '44(1944年の蜂起), Macmillan, 2003.
  • Richard Lukasz, Forgotten Holocaust, The Poles under German Occupation 1939-1944(忘れ去られたホロスコート、ドイツ占領下のポーランド、1939年~1944年) New York, 1997.
  • Marek Ney-Krwawicz, The Polish Home Army, 1939-1945(ポーランド国内軍、1939年~1945年), London, 2001.
  • Roger Moorhouse, Killing Hitler(ヒトラー暗殺), Jonathan Cape, 2006. ISBN 0-224-07121-1
  • Michael Alfred Peszke, Polish Underground Army, the Western Allies, and the Failure of Strategic Unity in World War II(ポーランドの地下組織と西側連合軍、第二次世界大戦での戦略の統一の失敗), McFarland & Company, 2004, ISBN 0-7864-2009-X Google Print
  • Tadeusz Bór-Komorowski. Secret Army(秘密部隊). Macmillan Company, New York 1951. ISBN 0-89839-082-6.
  • Wołkonowski, Jarosław (ポーランド語). "Wileński Okręg AK w świetle nieznanych dokumentów odnalezionych w kościele Bernardynów w Wilnie" 

外部リンク