「古ヴェルフ家」の版間の差分
en:Elder House of Welf、26 February 2010を翻訳。 |
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2010年3月23日 (火) 16:22時点における版
古ヴェルフ家は9世紀から11世紀(1055年)までヨーロッパを支配した王家の一つ。この家系はブルグント系とシュヴァーベン系の二つの集団から成っていた。二家は互いに抗争をしていたが、偶然にも同時期に同じ名前を持った人物が並存していた。
ブルグント系
二つの家系の内の一つがブルグント系である。この家系で知られている最古の人物が初代アルトルフ伯ヴェルフである。ヴェルフは819年に皇后ユーディトの父として言及されている。ヴェルフの息子であるコンラートとルドルフはフランク皇帝ルートヴィヒ1世の夫となったユーディトの付き人となった。彼の地で兄弟の野心的な精神は世襲の地位を維持し、対照的に幸運なユーディトと同じく幸運を分かち合うことになった。ユーディトが継子達に襲われ監禁された時にコンラートとルドルフは修道士として髪を剃ったが、王座側の地位を求めて受理された。
コンラードには自らの後を継いだコンラート2世と教会内で「修道院長」に昇進したユーグの2人の息子がいた。 伝承によるとコンラードはシュヴァーベン系のヴェルフ1世という3番目の息子を得た。
コンラート2世は父から由緒あるパリ伯の地位を継承し、大叔父オトカリウスの所有地であったブルグントを回復した。コンラート2世にはルドルフという唯一の息子がいた。ルドルフは888年にオーガヌウムの修道院にあった王冠を奪い、その独立は皇帝アルヌルフへの2つの勝利で確かなものとなり、アルヌルフ自身も最終的には帝国議会で承認した。ルドルフの息子であるルドルフ2世はフランシュコンテ、サヴォイ、ドーファネー、プロヴァンスと言ったフランスやスイスをも含む新国家を継承し、このラインからアルプスまでの国家はブルグント王国として知られている。ルドルフ2世は2度に渡ってイタリアの征服を試み、3年間の間、王国を統治した。
ルドルフ2世の息子のコンラート3世は937年から993年までの56年間、上記の土地を統治し、ザクセン朝の皇帝達とは友好関係を築き、支援したりもした。神聖ローマ皇帝オットー1世はコンラート3世の姉妹であるアーデルハイトと結婚したが、彼女はオットー2世の母であり、オットー3世の祖母である。コンラード3世の後を「病弱王」と呼ばれた息子のルドルフ3世が継いだが、1032年に嗣子無くして没したことにより、ブルグント王国の統治は1034年に神聖ローマ皇帝となった甥のコンラート2世に封地ないしは遺産として委ねられた。ルドルフ3世の死により、ブルグント系の男系は断絶した。
ブルグント系の最後の王であるルドルフ3世は子供のいないまま1032年に死去した
シュヴァーベン系
シュヴァーベン系の最古の人物として知られるヴェルフ1世は842年にシュヴァーベン伯として初めて言及される。伝説ではヴェルフ1世はブルグント系の祖で、ヴェルフの息子であるコンラートの息子とだと言われている。 この関係は、コンラートとヴェルフ1世が共にリンズガウ及びアルプガウ伯になっていることから事実らしい。ヴェルフ1世と後のシュヴァーベン系の一族(ケルンテン公ヴェルフとアルトドルフ伯となった関係者)は再び伝説間で知られている。
古ヴェルフ家はケルンテン公ヴェルフが1055年に嗣子無くして没したことにより断絶した。ヴェルフ家の家名はエステ家の長子が引き継ぐことになった。この結果、以降は新ヴェルフ家ないしはヴェルフ・エステ家と呼ばれている。
ブルグント系の著名人
- ヴェルフ、アルトドルフ伯
- ユーディト (ヴェルフの娘)、皇后
- ルドルフ1世、ブルグント王
- ルドルフ2世、ブルグント王
- コンラート1世、ブルグント王
- ブルグントのギゼラ
- ブルグントのアーデルハイト
- ルドルフ3世、ブルグント王
シュヴァーベン系の著名人
- ヴェルフ1世
- 聖コンラート・フォン・コンスタンス
- ヴェルフ、ケルンテン公(ヴェルフ3世)
参考文献
- Sir Andrew Halliday Annals of the House of Hannover, v.1, London, 1826. at Google Books