「南ローデシア」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
MondalorBot (会話 | 投稿記録) m ロボットによる 追加: ar:رودسيا الجنوبية |
m リンク修正 |
||
71行目: | 71行目: | ||
[[ケープ植民地]]の[[首相]]だった[[セシル・ローズ]]が、[[ボーア人]]による植民地国家[[トランスヴァール共和国|トランスヴァール]]や[[オレンジ自由国]]への圧力と北方地域の開拓を目的に[[1889年]]に[[イギリス南アフリカ会社]]を設立。翌年には[[マタベレランド]]や[[マショナランド]]の[[鉱山]]開発権を獲得、両地方を併合して「Rhodesia(ローズの家)」と名づけた。 |
[[ケープ植民地]]の[[首相]]だった[[セシル・ローズ]]が、[[ボーア人]]による植民地国家[[トランスヴァール共和国|トランスヴァール]]や[[オレンジ自由国]]への圧力と北方地域の開拓を目的に[[1889年]]に[[イギリス南アフリカ会社]]を設立。翌年には[[マタベレランド]]や[[マショナランド]]の[[鉱山]]開発権を獲得、両地方を併合して「Rhodesia(ローズの家)」と名づけた。 |
||
しかし当初の目的だった鉱山開発は目論見通り進まず、会社は農業植民へと方針を転換。それでも会社の業績は好転せず、[[1923年]]には[[白人]]のみの住民投票で南ローデシア自治政府が樹立された。[[1958年]]に[[ローデシア・ニヤサランド連邦]]を結成するが、[[1963年]]に解消。その後、[[黒人]]の[[参政権]]を認めたうえでの独立を準備していたが、[[1965年]]に[[自治政府]]の[[イアン・スミス]][[首相]]が[[イギリス]]から派遣されていた[[総督]]を追放。[[ローデシア |
しかし当初の目的だった鉱山開発は目論見通り進まず、会社は農業植民へと方針を転換。それでも会社の業績は好転せず、[[1923年]]には[[白人]]のみの住民投票で南ローデシア自治政府が樹立された。[[1958年]]に[[ローデシア・ニヤサランド連邦]]を結成するが、[[1963年]]に解消。その後、[[黒人]]の[[参政権]]を認めたうえでの独立を準備していたが、[[1965年]]に[[自治政府]]の[[イアン・スミス]][[首相]]が[[イギリス]]から派遣されていた[[総督]]を追放。[[ローデシア|ローデシア共和国]]の独立を一方的に宣言した。 |
||
==外部リンク== |
==外部リンク== |
2010年3月11日 (木) 10:38時点における版
- 南ローデシア植民地
- Colony of Southern Rhodesia
-
←
←
←1923年 - 1953年
1963年 - 1965年
1979年 - 1980年→
→
→(南ローデシアの国旗) - 国歌: 女王陛下万歳
南ローデシア-
公用語 英語 首都 ソールズベリ 通貨 南ローデシア・ポンド
ローデシア・ポンド
ローデシア・ドル
南ローデシア(Southern Rhodesia)はローデシア地方の南半分。ジンバブエの旧称。
歴史
ケープ植民地の首相だったセシル・ローズが、ボーア人による植民地国家トランスヴァールやオレンジ自由国への圧力と北方地域の開拓を目的に1889年にイギリス南アフリカ会社を設立。翌年にはマタベレランドやマショナランドの鉱山開発権を獲得、両地方を併合して「Rhodesia(ローズの家)」と名づけた。
しかし当初の目的だった鉱山開発は目論見通り進まず、会社は農業植民へと方針を転換。それでも会社の業績は好転せず、1923年には白人のみの住民投票で南ローデシア自治政府が樹立された。1958年にローデシア・ニヤサランド連邦を結成するが、1963年に解消。その後、黒人の参政権を認めたうえでの独立を準備していたが、1965年に自治政府のイアン・スミス首相がイギリスから派遣されていた総督を追放。ローデシア共和国の独立を一方的に宣言した。