「グプタ朝」の版間の差分
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グプタ朝時代に栄えた美術は、これまで[[ギリシア]]文化の影響が色濃かった[[ガンダーラ|ガンダーラ美術]]に代わり、純インド的な仏教美術として知られ、[[グプタ美術]]、または「グプタ様式」と呼ばれる。代表的なものとして、[[アジャンター石窟]]寺院の壁画や「グプタ仏」と呼ばれる多くの[[仏像]]、特に薄い衣がぴったりとはり付いて肉体の起伏を露わにする表現を好んだ[[サールナート派]]の仏像が知られる。 |
グプタ朝時代に栄えた美術は、これまで[[ギリシア]]文化の影響が色濃かった[[ガンダーラ|ガンダーラ美術]]に代わり、純インド的な仏教美術として知られ、[[グプタ美術]]、または「グプタ様式」と呼ばれる。代表的なものとして、[[アジャンター石窟]]寺院の壁画や「グプタ仏」と呼ばれる多くの[[仏像]]、特に薄い衣がぴったりとはり付いて肉体の起伏を露わにする表現を好んだ[[サールナート派]]の仏像が知られる。 |
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[[サンスクリット文学]]は最盛期を迎え、二大叙事詩である『[[マハーバーラタ]]』『[[ラーマーヤナ]]』が今日の形をとるようになった。戯曲『[[シャクンタラー]]』や抒情詩『[[メーガドゥーダ]]』を著した[[カーリダーサ]]のほか、戯曲『[[ムリッチャカティカー]]』の作者[[シュードラカ]]も活躍した。[[ヴァーツヤーヤナ]]による性愛書『[[カーマスートラ]]』は、当時の上流階級の生活をうかがうことができる。説話集『[[パンチャタントラ]]』は、インドのみならず東南アジアや西アジアの説話文学に影響を与えた。言語でも、[[サンスクリット語]]の辞典『[[アマラコーシャ]]』を[[アマラシンハ]]がまとめた。『[[マヌ法典]]』も完成した。 |
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== 歴代君主 == |
== 歴代君主 == |
2010年3月8日 (月) 09:40時点における版
グプタ朝(Gupta Empire)は、古代インドにおいて、西暦320年から550年頃まで、パータリプトラを都として栄えた王朝である。
歴史
政治
チャンドラグプタ1世(位320年 - 335年頃)がパータリプトラを都として建国。マガダ地方から興起し、第2代のサムドラグプタ(位335年頃 - 376年頃)のとき、ガンジス川上流域や中央インドの一部まで勢力を拡大し、領域内の支配体制を固めるとともに、デカンのヴァーカータカ朝と姻戚関係を結んで、南インドにまで政治的影響を及ぼすこととなった。
チャンドラグプタ2世(位376年頃 - 415年頃)のとき、北西インドのマールワとグジャラートに在った西クシャトラパを征服して、ついに北インドを統一し、全盛期を迎えた。この時期、東晋の僧、法顕が訪れている。なお、この頃、ヒンドゥー教が台頭し、仏教文化は衰退を始めた。
第4代クマーラグプタ1世(位415年頃 - 455年)の治世は、玄奘や義浄も学ぶことになるナーランダ僧院が設立されたことで知られるが、遊牧民エフタルの侵入によって衰退、その子、スカンダグプタ(位455年 - 467年)は、皇太子に打ち勝って王位を獲得、インド北西部領域の支配につとめ、かっての栄光を一時的に回復した。
しかし、その後は、小地域の支配者層が独立して北インドは分裂状態となった。6世紀のグプタ朝の版図はベンガルとビハールに限られるようになり、550年頃に滅亡したと考えられている。
経済
商業、金融業、手工業が盛んであった。ローマとの季節風貿易は既に衰退していたが、インド洋における西アジア・東南アジアなどとの交易を通じ、沿岸沿いの港市が繁栄した。金貨が盛んに鋳造されたほか、銀貨・銅貨も発行された。当初はクシャーナ朝の金貨にならったが、スカンダグプタの治世からはスヴァルナと称される独自の金貨が作られた。農村では、バラモンや宗教施設の管轄下に土地がおかれていき、低湿地や森林などの開拓が進められた。王朝の後期になると、フーナ(エフタル)の侵入などによって都市網が衰退し、農業経済へと移行していった。
社会
都市の商人・職人は、互助組織として「ニガマ」、「シュレーニー」といった組合を設けており、彼らが用いた印章が多く出土している。こうした組織は、都市行政にも関わっていたことが推測されている。一部の富裕化した人々は豪奢な生活を送り、文化の発展を支えることになった。農村社会ではバラモンが指導的立場となった。辺境の未開地にまでバラモンの居住地が拡大したことは、地方における農業の発展や政治システムの伝播につながったとされる。
文化
グプタ朝時代に栄えた美術は、これまでギリシア文化の影響が色濃かったガンダーラ美術に代わり、純インド的な仏教美術として知られ、グプタ美術、または「グプタ様式」と呼ばれる。代表的なものとして、アジャンター石窟寺院の壁画や「グプタ仏」と呼ばれる多くの仏像、特に薄い衣がぴったりとはり付いて肉体の起伏を露わにする表現を好んだサールナート派の仏像が知られる。
サンスクリット文学は最盛期を迎え、二大叙事詩である『マハーバーラタ』『ラーマーヤナ』が今日の形をとるようになった。戯曲『シャクンタラー』や抒情詩『メーガドゥーダ』を著したカーリダーサのほか、戯曲『ムリッチャカティカー』の作者シュードラカも活躍した。ヴァーツヤーヤナによる性愛書『カーマスートラ』は、当時の上流階級の生活をうかがうことができる。説話集『パンチャタントラ』は、インドのみならず東南アジアや西アジアの説話文学に影響を与えた。言語でも、サンスクリット語の辞典『アマラコーシャ』をアマラシンハがまとめた。『マヌ法典』も完成した。
歴代君主
- チャンドラグプタ1世(320年頃 - 330年頃)
- サムドラグプタ(330年頃 - 380年頃)
- チャンドラグプタ2世(380年頃 - 414年頃)
- クマーラグプタ1世(414年頃 - 455年頃)
- スカンダグプタ(455年頃 - 470年頃)