「ウァレリアヌス」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Loveless (会話 | 投稿記録)
m ロボットによる 変更: ru:Валериан I
57行目: 57行目:
[[pt:Valeriano]]
[[pt:Valeriano]]
[[ro:Valerian]]
[[ro:Valerian]]
[[ru:Валериан]]
[[ru:Валериан I]]
[[scn:Valirianu]]
[[scn:Valirianu]]
[[sk:Valerián (cisár)]]
[[sk:Valerián (cisár)]]

2010年2月22日 (月) 13:30時点における版

ウァレリアヌスが描かれた硬貨

プブリウス・リキニウス・ウァレリアヌスラテン語: Publius Licinius Valerianus200年頃 - 260年以降)とは、軍人皇帝時代ローマ帝国皇帝である。

略歴

ウァレリアヌスは軍人皇帝時代に即位した他の皇帝とは違い、由緒ある元老院議員の一族の出自である。ウァレリアヌスの前半生ははっきりとしないが、エグナティア・マリニアナ(en)と結婚して、2人の息子を儲けた。すなわち、後のローマ皇帝プブリウス・リキニウス・エグナティウス・ガッリエヌスとウァレリアヌス・ミノルである。

238年にウァレリアヌスはプリンケプス・セナトゥスに選出され、当時の皇帝ゴルディアヌス1世はウァレリアヌスを通じて、元老院と交渉したと分かっている。

251年、皇帝デキウスの時代にケンソル(監察官)に選出、また、ライン川沿岸のノリクムおよびラエティア両属州の総督に任じられた。デキウスがアブリットゥスの戦いで戦死した後も、引き続いて総督職を維持したが、デキウスの後継皇帝のトレボニアヌス・ガッルスに対してマルクス・アエミリウス・アエミリアヌスが反乱を起こして、トレボニアヌス・ガッルスおよびその共同皇帝ガイウス・ウィビウス・ウォルシアヌスが殺害されると、アエミリウスを追討するため、軍を率いて南下。その後、アエミリウスが自軍内の兵士に殺害されると、253年にウァレリアヌスはローマ皇帝となった。

皇帝となったウァレリアヌスは息子ガッリエヌスを共同皇帝としてローマ帝国の西半分を任せ、自らはペルシア(サーサーン朝)とのリメスに面した帝国の東半分を受け持った。

259年、ウァレリアヌスは軍勢を率いてペルシアへと侵攻したが、エデッサ(現:シャンルウルファ)でシャープール1世率いるペルシア軍との戦いに敗れて、捕虜となった(エデッサの戦い)。その後、ウァレリアヌスはビシャプールen)へ送られ、ペルシア国内で死去したと伝えられる(260年ともそれ以降とも)。


なお、ウァレリアヌスが虜囚となった1年後の260年からガッリエヌスが単独皇帝となったが、19世紀歴史家エドワード・ギボン30人僭帝時代と称する分裂の時代を迎えることとなった。

関連項目

外部リンク


先代
アエミリアヌス
ローマ皇帝
33代
253年 - 260年
次代
ガッリエヌス