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== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
*[[オットー・フォン・ゲーリケ]] - マクデブルク市長・科学者。惨劇後の復興に尽力した。
*[[オットー・フォン・ゲーリケ]] - マクデブルク市長・科学者。三十年戦争後の復興に尽力した。
*[[正戦論]]
*[[正戦論]]



2010年1月21日 (木) 06:34時点における版

包囲されるマクデブルク
破壊されるマクデブルク

マクデブルクの戦い (: Magdeburgs Opfergang あるいは Magdeburger Hochzeit)は三十年戦争において1630年11月から1631年5月20日にかけて、カトリックである神聖ローマ帝国軍によって行われた、ルター派プロテスタント)のハンザ同盟都市マクデブルクの包囲戦及び戦闘終了後の略奪。略奪についてはマクデブルクの惨劇[1]といった表現も用いられる。

ゴトフリート・ハインリヒ・グラーフ・フォン・パッペンハイム及びティリー伯ヨハン・セルクラエスに率いられた皇帝軍は富裕な都市マクデブルクを包囲した後陥落させた。

都市陥落後には傭兵で構成される兵士たちの制御が利かなくなり、住民の虐殺と略奪、市内への放火(結果同市は三日間燃え続けた)が行われた。この結果30,000人いた市民のうち生き残ったものはわずか5,000人程。そのほとんどが女性であり、皇帝軍の兵士達による強姦の対象となった[1]。その後14日間にわたり伝染病を防ぐため死体がエルベ川のほとりまで運ばれて火葬された。

この事件はプロテスタント陣営に大きな衝撃を与えた。マクデブルクの惨劇を巡ってはプロテスタント、カトリック双方から激しいプロパガンダ合戦が行われたが、事件の性格上、プロテスタント側のプロパガンダが説得力を持った。それまでグスタフ・アドルフ率いるスウェーデン軍に、冷ややかな目で見つつ協力に消極的であった北ドイツのプロテスタント諸侯は、こぞってスウェーデン軍への協力を進めた[1]

その後、プロテスタント側がカトリック側を処刑する際に「マクデブルクの正義」といった言葉が使われた。

壊滅的な打撃を受けたマクデブルクでは、ヴェストファーレン条約発効の時点で、人口が450人しかなかった。

脚注

  1. ^ a b c 菊池良生著『戦うハプスブルク家―近代の序章としての三十年戦争』115頁・116頁、講談社 ISBN 4-06-149282-9

参考文献

  • Firoozi, Edith, and Ira N. Klein. Universal History of the World: The Age of Great Kings. Vol. 9. New York: Golden Press, 1966. pp. 738-739.
  • von Schiller, Johann Christoph Friedrich. The History of the Thirty Years' War. 1791. pp. 177-190.

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