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2010年1月15日 (金) 09:04時点における版
- マラヤ連合
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↓ 1946年 - 1948年 → (国旗) -
公用語 マレー語、英語 首都 クアラルンプール 通貨 Malayan dollar -
先代 次代 イギリス領マラヤ
海峡植民地
ジョホール州
クダ州
プルリス州
クランタン州
トレンガヌ州マラヤ連邦
マラヤ連合(Malayan Union)とは、英領マラヤと海峡植民地(シンガポールは除く)による連合。イギリスの直轄支配下におかれた。 1946年4月1日に発足。1948年よりマラヤ連邦へと移行した。
歴史
マラヤ連合の構想は、第二次世界大戦中の1943年にイギリスが作成していた。この構想では華人中心のシンガポールをムラユ人(マレー人)地域から分離させ、イギリスの海軍拠点とする戦略が示されていた。また、この構想では各州のスルタンの権限を制限し、民族の差異無く市民権を与えることになった。そのため、第二次世界大戦終結後の1945年10月にこの構想が示されると、ムラユ人の反発が引き起こされた。(民族の差異無く市民権を与えることは、将来的に増加する華人にとって有利であり、ムラユ人の権利侵害につながると考えられた。)
1946年4月1日、マラヤ連合は発足した。首都はクアラルンプールにおかれた。マラヤ連合の市民権は民族の区別無く平等に与えられ、市民権付与の条件としては、出生地主義の原則がとられた。スルタンの権限は縮小され、イギリスによる統制が強まった。しかし、ムラユ人の強い反発から、1948年にスルタンの権限を回復させ、マラヤ連邦への移行を余儀なくされた。マラヤ連邦では華人の市民権獲得は困難になった。
関連項目
参考文献
- 池端雪浦編 『新版世界各国史6 東南アジア史Ⅱ』 山川出版社、1999年