「第六次イゾンツォの戦い」の版間の差分

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'''第六次イゾンツォの戦い'''(だいろくじイゾンツォのたたかい)とはゴリツィアの戦いとしても知られる、[[第一次世界大]]中の、イタリアが[[イゾンツォ川]]に沿って勝利を収めた会戦である
'''第六次イゾンツォの戦い'''(だいろくじイゾンツォのたたかい)とはゴリツィアの戦いとしても知られる、イタリアが[[イゾンツォ川]]に沿って勝利を収めた。


==戦闘準備==
オーストリア=ハンガリー帝国の[[フランツ・コンラート・フォン・ヘッツェンドルフ]]は、[[アジアーゴの戦い]]で、イゾンツォ戦線の軍の数を減らしていた。イタリアの最高指揮官[[ルイージ・カドルナ]]は弱くなったオーストリア=ハンガリーの守りを攻めるために、[[トレンティーノ]] (Trentino) から鉄道を上手く利用し、素早く軍を送り込んだ。8月6日、ゴリツィアで衝突があり、攻撃が開始された。[[8月8日]]にゴリツィアがカドルナに落とされ、イゾンツォ川を渡す橋頭堡がつくられた。オーストリア・ハンガリー軍は、防衛線を突破されるのを防ぐために、前線のゴリツィアに軍を送った。だが、橋頭堡を確保することに満足したカドルナは、8月17日に攻撃を終了した
オーストリア=ハンガリー帝国の[[フランツ・コンラート・フォン・ヘッツェンドルフ]]は、[[アジアーゴの戦い]]で、イゾンツォ戦線の軍の数を減らしていた。イタリアの最高指揮官[[ルイージ・カドルナ]]は弱くなったオーストリア=ハンガリーの守りを攻めるために、[[トレンティーノ]] (Trentino) から鉄道を上手く利用し、素早く軍を送り込んだ。


==戦闘==
ゴリツィアへの攻撃は、イゾンツォ戦線に沿って行われたイタリアの攻撃の中で最もうまくいったもので、軍の士気が高まることにつながった。そして、[[8月28日]]、イタリアは[[ドイツ帝国|ドイツ]]に逆らい、宣戦布告をした。
8月6日、ゴリツィアで衝突があり、攻撃が開始された。[[8月8日]]にゴリツィアはイタリア軍によって落とされ、イゾンツォ川を渡す橋頭堡がつくられた。オーストリア・ハンガリー軍は、防衛線を突破されるのを防ぐために、前線のゴリツィアに軍を送った。だが、橋頭堡を確保することに満足したカドルナは、8月17日に攻撃を終了した。ゴリツィアへの攻撃は、イゾンツォ戦線に沿って行われたイタリアの攻撃の中で最もうまくいったもので、軍の士気が高まることにつながった。そして[[8月28日]]、イタリア政府は[[ドイツ帝国|ドイツ]]に対しても宣戦布告した。

後年の歴史家達はこのゴリツィア攻勢がカドルナ体制での唯一の勝利であったと評した上で、戦略的価値は低かったと指摘した。死傷者数に大きな差は無かったものの、死者数の割合がイタリア側で非常に多かった。これはカドルナがイタリア陸軍の装備の劣悪さを歩兵突撃で挽回しようとした事と、同様に性能で上回るオーストリア軍の野戦砲によって生まれた結果だった。またオーストリア軍は戦力を温存して防御体制を維持した。


== 他の戦闘 ==
== 他の戦闘 ==

2009年11月29日 (日) 10:40時点における版

第六次イゾンツォの戦い

ゴリツィアの戦いでのイタリア陸軍
戦争第一次世界大戦
年月日1916年8月6日 - 8月17日
場所:イゾンツォ川、ゴリツィア
結果:イタリアの勝利
交戦勢力
イタリア王国の旗 イタリア王国 オーストリア=ハンガリー帝国の旗 オーストリア=ハンガリー帝国
指導者・指揮官
イタリア王国の旗 ルイージ・カドルナ スヴェトザル・ボロイェヴィッチ 
戦力
イタリア王国の旗 22個師団 9個師団
損害
イタリア王国の旗 死傷者数51000人 死傷者数40000人
イタリア戦線

第六次イゾンツォの戦い(だいろくじイゾンツォのたたかい)とはゴリツィアの戦いとしても知られる会戦で、イタリアがイゾンツォ川に沿って勝利を収めた。

戦闘準備

オーストリア=ハンガリー帝国のフランツ・コンラート・フォン・ヘッツェンドルフは、アジアーゴの戦いで、イゾンツォ戦線の軍の数を減らしていた。イタリアの最高指揮官ルイージ・カドルナは弱くなったオーストリア=ハンガリーの守りを攻めるために、トレンティーノ (Trentino) から鉄道を上手く利用し、素早く軍を送り込んだ。

戦闘

8月6日、ゴリツィアで衝突があり、攻撃が開始された。8月8日にゴリツィアはイタリア軍によって落とされ、イゾンツォ川を渡す橋頭堡がつくられた。オーストリア・ハンガリー軍は、防衛線を突破されるのを防ぐために、前線のゴリツィアに軍を送った。だが、橋頭堡を確保することに満足したカドルナは、8月17日に攻撃を終了した。ゴリツィアへの攻撃は、イゾンツォ戦線に沿って行われたイタリアの攻撃の中で最もうまくいったもので、軍の士気が高まることにつながった。そして8月28日、イタリア政府はドイツに対しても宣戦布告した。

後年の歴史家達はこのゴリツィア攻勢がカドルナ体制での唯一の勝利であったと評した上で、戦略的価値は低かったと指摘した。死傷者数に大きな差は無かったものの、死者数の割合がイタリア側で非常に多かった。これはカドルナがイタリア陸軍の装備の劣悪さを歩兵突撃で挽回しようとした事と、同様に性能で上回るオーストリア軍の野戦砲によって生まれた結果だった。またオーストリア軍は戦力を温存して防御体制を維持した。

他の戦闘

関連項目